法典調査会編『法典調査会議事速記録・民法親族相続編筆記』を復刻版で読んでいる。復刻版は舟橋諄一(当時)九州大学教授の編集で、厳松堂書店古典部というところから、昭和7年(1932年)に刊行されたものである。法典調査会における民法親族編、相続編の原案審議の速記録原本から謄写版印刷で複製した貴重な資料である(広中俊雄「民法史研究余滴3」法律時報71巻7号110頁)。
そのなかから近親婚の禁止に関する条文を審議した個所を読んでいるのだが、テープレコーダーもなかった時代に、かなり細かい条文の解釈をめぐる議論を速記にとって、それを原稿に起こした速記者の努力にまず感嘆する。復刻版は謄写版だが、速記録の原本もタイプ印刷ではなく、謄写版だったのだろうか。
舟橋教授の指揮下で複製版の原稿を筆写した人たちにも頭が下がる。謄写版の文字からは往時の作成者たちの息遣いが感じられる。資料をコピーし、ワープロで原稿を書き、判例や先行研究もコピペで引用できるというのは、はたして進歩といえるのだろうか。必要なものはすべて図書館などで筆写していた父親たちの世代のほうが、ものを考えるのにふさわしい態度だったのではないかと思えてくる。
加えて、この複製版には丁寧な索引が付いていて、これも条文を探すのに大変便利である。増渕俊一という九大法学部助手の手になるという舟橋教授の紹介とねぎらいの言葉がある。
そして明治民法の草案の内容に関する委員たちの議論も興味深いのだが、起草者である梅謙次郎の原案説明や、それに対する委員たちの賛否の意見、その根拠だけでなく、各委員の間の人間関係をうかがわせる発言も記録されていて、読んでいて面白い。相手方を「君づけ」で呼んだり、「さんづけ」だったり、時には呼び捨てのこともある。議長の箕作麟祥が長谷川喬を「長谷川」と呼んでいたりするのだが、師弟関係でもあったのだろうか。
内容面では、例えば、穂積陳重が「名義」を重んじ、「名義」を正すためには、(婿)養子をひとまず他家へ(再)養子に出し、その後実娘と結婚させるのでなければならない、そうしないと兄妹相婚になってしまうと意見したのに対して、横田國臣が、「名義」を正すなどという「支那流儀」に従う必要はない、彼の地では葬式の際の「泣き男」の泣き方まで流儀があるが詰らないことであると揶揄する。そうすると、高木豊三が、いま議論している傍系血族間の結婚の問題は中国の葬式の「泣き方」とは違うだろう、「名義」が重要なことはわかるけれど、婿養子と実娘とは直接結婚させて差し支えなかろうなどと発言して、両者をとりなしたりする。
もう一つ感心したのは、審議会メンバーたちの議事進行の態度である。
議長が開会を宣言し、起草委員が原案を提示して説明する。各委員が賛否の意見を述べる。修正意見に対して議長は、それは原案変更の動議ですかと尋ねる。然りと答えれば、動議に賛成する者があるかを確認する。動議を支持する者があれば、動議について議論し、最終的には起立で採決をする。賛成多数であれば修正案が採用され、少数であれば原案通りとなる。
こうした議事運営の手続きについて、委員の間では共通の理解があるようで、不規則発言だとか、蒸し返しの議論などは見当たらない。ぼくは会議における議事運営のルールは民主主義の出発点だと思っている。とくに「動議」は重要で、動議こそ会議における少数意見の正当な抵抗手段であると考える。
前にも書いたが、1964年ころ、ぼくの中学校の生徒会の役員会では、最初の会合の際に議長(生徒会長の女子生徒)が、本会はこの「手引き」に従って進行しますと宣言して、国会だったか衆議院だったかの事務局が発行した「議事運営の手引き」を示した。戦後民主主義は、東京の区立中学校でもこのような形で息づいていたのである。
明治20年代の後半に、このような審議会運営が行われていたことに感動を覚える。イギリス議会あたりを参考にして、帝国議会や法典調査会などで試行されたのが始まりなのではないか。わが国における議事運営の歴史を研究した書物はあるのだろうか。
それに引きかえ、最近のわが国の政府や議会は何と劣化してしまったのか。不祥事や疑惑が起きるたびに、「議事録はすでに廃棄した」、「もともと議事録は作成していない」、「議事運営規則など作っていない」、「発言者は匿名にする」などと平然と答える議員、大臣、官僚たちには、明治の先人たちの議事運営を今一度見直してもらいたいものである。
箕作、梅、穂積、横田といった人たちの議事運営と、速記録を作成した速記者など裏方の努力によって、21世紀のぼくは120年以上前の民法起草の過程をそれこそ手に取るように知ることができるのである。土方寧が草案を誤読して発言したのに対して、起草委員の梅謙次郎が「それは誤解です」と訂正し、土方が「判りました」と答える場面なども残っていて、微笑ましさすら感じさせる。
文化の日を前に。
2022年11月2日 記