「建築でたどる日本近代法史」の第7回は、旧枢密院庁舎。戦後は、1970年代まで皇宮警察本部として使われていたらしい。
出典は、読売新聞1979年(昭和54年)11月27日付。
枢密院は、明治21年(1888年)の勅令によって、天皇の諮問機関として創設された。議長(初代議長は伊藤博文)、副議長、顧問官から構成される合議体であるが、大日本帝国憲法(明治憲法)の草案を最初に審議したのが枢密院であった。その明治憲法によって「天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」る権限を与えられた(56条)。
枢密院では、普通選挙法、不戦条約、ロンドン軍縮条約、2・26事件の戒厳令宣告など、まさに近代法史上の重要案件が審議された。その権限は強力で、台湾銀行救済の勅令を枢密院が否決したため若槻内閣が総辞職に追い込まれるというようなこともあった(同記事による)。
枢密院は、この記事によれば「陰謀の府」と呼ばれていた。
ポツダム宣言受諾による敗戦後の新憲法制定に伴い、新憲法施行前日の1947年5月2日に枢密院は廃止となった。新憲法の原案もここで審査したというエピソードを、当時枢密院書記官として勤務した高辻正己最高裁判事(当時)が語っているが、彼がいう「新憲法の原案」とは何か。
マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた幣原内閣が設置した憲法問題調査委員会で、主宰者の松本烝治が中心となって作成した政府原案があまりに保守的だったため、マッカーサーは自ら指示していわゆる「マッカーサー草案」を1週間で起草させ、日本政府に提示した。
古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)によれば、マッカーサー草案に基づいて松本委員会が行なった修正作業は首相官邸内の放送室で行われたという(174頁)。できあがった政府の「草案要綱」は1946年4月17日に枢密院に諮詢され、審査委員会で11回の審査が行われた後、6月3日に枢密院本会議で可決された。反対は美濃部達吉のみであったという(261頁)。
これが高辻のいう「新憲法の原案」だろう。占領軍の指示によって廃止が決まっていた枢密院において、最後に新憲法が「審査」されたというのも、明治憲法上の規定に従ったまでとはいえ、皮肉なことである。しかも圧倒的多数で可決されたとは・・・。
その枢密院の建物は、当初は帝国議会議事堂に隣接して建てられたが、新議事堂建設に伴い大正10年(1921年)に皇居三の丸地区の現在地に移転し、枢密院廃止後は法務省や総理府が使用し、昭和27年(1952年)からは皇宮警察本部として使用され、昭和44年には全面移転したという。
「近世復興様式」の大正時代を代表する建築物で、鉄筋コンクリート造りモルタル塗、窓はステンドグラスで飾られた、2階建て全24室の総面積は1500平方メートル、総工費は46万円だったという。
室内にはシャンデリア、マントルピースをそなえるなど贅を凝らした建物だったが、吹き抜けの室内は夏は暑く、冬は寒く、高辻氏は木炭火鉢を持ち込んで作業したという。
しかし、1979年当時は建設から58年を経て、老朽化が激しく、窓枠は腐り雨漏りもするなどしたため、取り壊して隣接地に移転することが決まったという。最近のサステイナブル社会、しかも近代建築遺産を尊重する時代風潮だったら、改修、保存の道が選択されたのではないだろうか。
2023年6月23日 記