豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

西田知己『血の日本思想史』

2022年07月01日 | 本と雑誌
 
 西田知己『血の日本思想史--穢れから生命力の象徴へ』(ちくま新書、2021年)を読んだ。

 法律の世界では、法律上の親子関係(父子関係)の存否の判断基準として、(父)親の意思を重視するか、父子間の生物的な血縁関係を重視するかの対立がある。意思重視派(の究極)は「結婚の意思には、妻の産んだ子を自分の子として引き受ける意思が含まれる」といい、血縁重視派は「生物的な親子間の血縁関係を証明する知見が確立した以上、法的親子関係もそれと合致すべきであり、それが子の利益にもかなう」という。
 この生物的(=遺伝的)親子関係を重視する立場は「血縁主義」といわれているが、この「血縁」とは何なのか。生物学的に言えば、親子の間には「血」のつながりなどないし、「縁」は生物的な親子関係の存否にかかわりなく赤の他人の間にも生じうる(「袖振れ合うも多生の縁」)。
 得体のしれないまま使ってきた「血縁」について、本書から何か知識を得られることを期待して読み始めた。

 古代の日本は血を忌み嫌う、血の穢れ思想が強かった(26頁~)。「血」という語が嫌忌されていたので「血筋」という言葉も「すじ」と訓読され、その意味も今日的な「血縁」関係を表すものではなかった。血縁関係を表すためにはむしろ「筋」という語が使われた(30~1頁)。
 「血筋」「血縁」「血統」など「血」が使われるようになるのは近世の江戸以降になってからであった。それほど「血」の不浄感が強かった(34頁)。近世に至るまでの間、近親の血縁関係を表すには、「骨肉同胞」(「義経記」)などが使われた(56頁)。
 他方で、「血縁」の「縁」は仏教用語で、こちらも「血縁」として「血」と結合するには長い年月を要した(66頁~)。

 近世になって、親子間のつながりを示すのに「血」という言葉が使われた最初は、中江藤樹の「父母の子における、一体分形、身体髪膚、血脈貫通して、(隔たるところなし)」だった。「骨肉」「身体髪膚」の類語として「血脈」が使われるようになった起点には「孝」の教えがあった(97~8頁)。
 山鹿素行にも「骨肉血脈の親」「人倫血脈相続の父子」「父子は一体にして・・・血脈の相通ずる」といった表現が見られる(103頁)。なお素行は「皇統」については「血脈」で説明していない。血脈で表すと子孫すべてをカバーすることになってしまい、一子相伝の皇位継承の正統性が抜け落ちることを懸念したのかもしれないという(105頁)。
 貝原益軒は、アマテラスと神功皇后の「御子孫」のうち「御嫡流」が代々皇位を継承し、「御庶流」は将軍家となったのであり、それぞれ「御血脈」を受け継いだ「神孫」だとした(135~6頁)。益軒の「御血脈」は天皇家の血統のことであり、一子相伝の天皇個人に限定されなかったので(189頁)、従来の一子相伝型の「血脈」との識別が必要になった(136頁)。
 その後、儒家神道に属する一派から、皇統の一子相伝を「血脈」で説明する者も現われ(189頁)、血脈は続いていても有能でない者、道理にかなわない者も「正統」か否かといった議論もなされたという(193頁)。

 「武家諸法度」や「公事方御定書」には、血筋を表す「血」は使われていないが、「律令要略」(1741年)は臨終遺言を禁止し、「血筋重き方」に相続させるとして「血」の語を用いている(176頁)。法令における「血」の初登場だけでなく、末期遺言の真意性を疑問視し、相続人を法令で指定した点にぼくは興味を覚えた。
 文学の世界で、近親関係を「血」で表した初めは近松門左衛門だった。彼には「血筋」「血脈」「血を分けた」(兄弟)といった言葉がふんだんに使われている(117頁)。歌舞伎の台本には「血筋の縁」が登場したが、「血」よりも「縁」が重視されていた(186頁)。これが次第に「血縁」となり、その場合の「縁」も前世の因果よりも現世寄りのものに変化していったという(188頁)。

 そして近代。大槻文彦「言海」(1891年)の「血筋」には、1.チノミチ。脈、2.ウカラ、ヤカラ。身内、血縁。血脈。3. 祖、父、子、孫ら代々相続する事。血統、血系。といった語義があてられている(244頁)。
 英語から「血は争えない」“Blood will tell” や、「血は水よりも濃い」“Blood is thicker than water ” などの成句が輸入され定着した(241頁)。「骨肉の争い」が肉親間の争いの意味に転化したのは昭和に入ってからというのは驚きである(240頁)。
 かなり現代的な「血」の語感、語義に近づいているが、近代に至ってなお(というか至ればこそ)ハンセン病などの疾患や人種と「血」との関係について誤った解釈が広がったこともあった(259頁ほか)
 
 大日本帝国憲法とともに制定された皇室典範(1889年)第1条は「大日本国皇位は、祖宗の皇統にして、男系の男子之を継承す」と規定した(原文は片仮名)。
 「皇統」の語を用いるが「血統」の語は使用しない(281頁)。ただし英吉利法学校が発行した典範「義解」はこれを「血統」の語で説明しており(283~4頁)、他の注釈書でも「神武天皇の血統」と説明し、また「皇統」とは「一系」の正統を承くる皇胤の意と説明した(284頁)。
 旧民法には「血属」の語が登場し(ほぼ血族と同義)、明治民法(1898年)には「6親等内の血族」を親族とするという規定が設けられて、「血族」は法令上の用語となった。
 なお明治民法は(現在の民法でも維持されているが)養子を血族とみなす旨の規定を設けた。これを講学上「法定血族」と呼んでいるが、血縁のない養子でも「血」が繋がっているものとして扱ってほしいという世人の願いに配慮した規定と教えられた。

 本書によって「血」をめぐる日本史を概観することができた。さて、現代の法的親子関係の存否の問題において「血縁」を重視するか、当事者の意思(かつては父の意思、最近では子の意思)を重視すべきかに直接答えてくれることはなかったが、「血縁」という用語、「血縁」が親族関係を表すという考え方がそれほど古い時代からわが国にあったわけではないことを確認できた。
 古来の様々な親子鑑定方法(滴骨法、鮮血滲り、合血法など)は出てきたが(109、168、202頁など)、20世紀以降(血液型の発見は1900年!)の血液型による親子鑑定の普及はぜひ扱ってほしいところだった。民法起草者は親子関係の存否は「造化の秘符」だと言ったが、血液型はこの「秘符」を暴くことを可能にした。これは親子関係と「血」との関係にとって革命的なことだったと思うのだが。
 「万世一系」という言葉は「日本書紀」にも出てくると知り合いの歴史家から聞いた。天皇が「万世一系」だから日本人は血縁、血統を重視するようになったのか、逆に、日本人の間に血縁、血統を重視する考え(血縁信仰)があったから「日本書紀」が天皇の正統性として「万世一系」を唱えるようになったのか、どちらが先かという疑問を抱いてきた。本書からは、「万世一系」は「日本書紀」から一気に「大日本帝国憲法」に導入されたように読めたのだが、どうだろうか。

 2022年7月1日 記

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今津勝紀『戸籍が語る古代の... | トップ | ローナン・ファロー『キャッ... »

本と雑誌」カテゴリの最新記事