豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

「軽井沢」を名乗るな ! ?

2021年04月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 3月31日の朝、「羽鳥慎一のモーニング・ショー」で、軽井沢ネタをやっていた。その内容に驚いた。
 軽井沢町の町長が記者会見を開いて、周辺の安中市、長野原町、嬬恋村、御代田町、佐久市などに対して、その地の観光施設、不動産や商品に「軽井沢」という名をつけないでほしいと要望したというのである。

 軽井沢町側の言い分では、これらの地域にあるペンションなどの施設が「軽井沢」を名乗ることで、誤解した観光客が「タクシー代が1万円以上かかった」などというクレームを町役場に言ってくるので迷惑しているということのようだ。移住ブームで軽井沢の地価が上昇していることとも関係があるらしい(お前たちは軽井沢移住ブームに便乗するな、ということか)。
    

 たしかに、軽井沢駅からタクシーで行ったら1万円はするような、鬼押し出しのさらに北にある施設で「軽井沢」を名乗っているところはある。
 しかし、テレビでもコメンテーターが言っていたように、昔から「北軽井沢」は行政上は軽井沢町ではないが(群馬県!長野原町)、北軽井沢を名乗り、独自の文化をもっていたし(法政大学村)、かつての草軽電鉄の駅名だって「北軽井沢」駅だった。軽井沢の北側にあるのだから北軽井沢でいいだろう。下の写真は「カルメン、故郷に帰る」に出てくる北軽井沢駅。
             

 これが駄目だとしたら、東横線沿線を「城南」地区と呼ぶこともできなくなってしまう。江戸城の南側ではあるが、江戸城内ではない。将軍が鷹狩りをするただの田舎だった場所である。

 番組の中でコメンテーターも言っていたが、詐欺的な「軽井沢」の表示でだまされたと思う人は、当該施設や不動産屋に対してクレームをつけるべきで、軽井沢町の問題ではないと思う。町にクレームが来たら、「そんなことはあなたが利用した施設、業者、あるいは国民生活センターに言って下さい」と答えれば済む話ではないか。
 同じくコメンテーターが(NGトークで)言っていたように、「東京」ディズニーランドが千葉県の浦安にあったから怪しからんといって、東京都にクレームをつけるようなものである。
    

 それにしても、どうして軽井沢の一部の(多数か?)住人たちはこうも狭量なのか。軽井沢の西側の地区が「西軽井沢」と自称するなら、むしろ軽井沢が道標になったことを誇ればよいではないか。さすがに、安中、佐久市となると、どうかとは思うけれど。

 柳田國男によれば、もともと「軽井沢」は碓氷峠あたりの地名だった。「かろふ」(=背負う)「さわ」というのが語源で、馬にひかせて運んできた荷物を、人間が背負って渡らなければならないほどに急峻な峠を流れる沢という意味だと何かの本に書いてあった。
 だとすると、碓氷峠の沢側ではなく頂の側にある旧軽井沢だって僭称といえば僭称である。厳密に地理的にいえば、「軽井沢」と称することが許されるのは、せいぜい熊ノ平か見晴台までだろう。現在の軽井沢駅だって、以前の草軽電鉄では「新軽井沢」駅と称していた。
 前にも書いたが、旧軽井沢の住人の中には、中軽井沢が「軽井沢」を称することさえ不愉快に感じている人がいるらしい。
 今回の軽井沢町長の記者会見の真意は那辺にあったのだろうか。
      

 そもそも、現在の「軽井沢」にどれほどのブランド力があるか、ぼくには疑問である。
 ショッピング・モールや大衆的なゴルフ場を訪れる人たちにとって、現在の軽井沢は、コストコのある入間や三郷程度の記号性しかないのではないか。かつてはあったかもしれない「軽井沢」のブランド価値は、この20~30年間で費消されつくしてしまったように思われる。
 ぼくは、三浦展に着想を得て、現在の軽井沢という地域の性格を、東京の「第三郊外」と考えている(『郊外はこれからどうなる?』中公新書クラレによれば、田園調布、成城学園、吉祥寺が「第一郊外」、多摩ニュータウンが「第二郊外」とされる)。ツルヤの食品売り場を行きかう中高年夫婦を眺めるたびにそう思う(ぼくも当事者の一人である)。
 軽井沢町は、長野原町や御代田町にいちゃもんをつける時間があったら、軽井沢の「多摩ニュータウン化」をどのように防ぐかを考えた方がよいのではないか。

 すでに何度も書き込んだけれど、ぼくにとっての「軽井沢」は、とっくの昔に「幻の軽井沢」となってしまっていて、現在の俗化して高齢化した軽井沢は「ぼくの軽井沢」ではない。
 しかも、ぼくにとっての「軽井沢」は、むしろ「千ヶ滝」の思い出であって、旧軽族が中軽井沢を「軽井沢」と呼ぶなというなら、あえて「軽井沢」と呼ばなくても構わない。
 ただ、ぼくがはじめて千ヶ滝を訪れた昭和31年には、下車した信越本線の最寄駅は「沓掛」駅と名乗っていたのだが、その翌年には「中軽井沢」駅に改称されてしまったし、行政上の地番は初めから軽井沢町長倉だし、郵便局がつけたハウスナンバーも軽井沢町千ヶ滝だったので、「軽井沢」と言い習わしてきただけである。
               

 ぼくの思い出の中にある「軽井沢」は「千ヶ滝文化村」の周辺の木々や山道や山荘であり、そこを行き来していた人々の姿である。
 こけもも山荘、培風館山本山荘(上の写真)、東京女学館軽井沢寮、観翠楼、グリーン・ホテルなどの建物の佇まい、そして、テラスでタイプライターを打っていたドナルド・キーンさん、散歩する中村草田男さん、与謝野馨さん、波多野勤子さん、叔父叔母、従弟、祖父母たち、「小松さん」や「島村さん」の娘さん・・・。
 西武プロパティの広報誌が「千ヶ滝通信」と銘うっているのを、ぼくは見識だと思っている。

 ただ、正直に言えば、同時にぼくは千ヶ滝にあった「軽井沢スケートセンター」にも、「西武百貨店軽井沢店」にも多くの思い出があり、今でも懐かしく思っている。考えてみれば、これらの施設は、ひょっとするとぼくが忌み嫌う、その後の軽井沢の俗化の出発点になってしまったかもしれない。
 いずれにしても、変わらないのは浅間山だけである。「カルメン、故郷に帰る」で浅間山に向かって「変わらないのは浅間山だけである」と吟じた中学校長(笠智衆、下の写真の中央)の気持ちがよく分かる。
              

 
 2021年3月31日 記


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« “ ふな与 ” 閉店!(2021年3... | トップ | ディドロ 『ブーガンヴィル航... »

軽井沢・千ヶ滝」カテゴリの最新記事