大泉学園の、鰻の“ ふな与 ”さんが昨日3月31日で店じまいしてしまった。
この町の古い住人なら、“ ふな与 ”が大泉学園で随一の食べ処であることに異論はないだろう。その“ ふな与 ”が閉店してしまうというのだ。
息子さんも継いで、蒲焼を焼いていたから、よもや閉店などあろうはずもない、大泉の“ ふな与 ”は不滅だと勝手に思い込んでいたので、閉店の記事に接してびっくりした。
毎日新聞3月1日付の「還暦記者鈴木琢磨の、ああコロナブルー」という連載欄に、「うなぎ屋の煙が目にしみる」と題して、“ ふな与 ”の閉店が記事になっていた。
どうも、前に書き込んだ大泉学園の古書店<ポラン書房>の閉店とつながっているらしい。
この記事を書いた鈴木記者が、閉店する<ポラン書房>を取材した折に、“ ふな与 ”のご主人が「先を越されてしまったか・・・」と呟いたのを耳にしたのが、 “ ふな与 ”閉店の記事のきっかけだそうだ。
うちは以前から東京新聞しか取ってないので知らなかったのだが、家内の知り合いが教えてくれた。
慌てて記事が載った翌日、3月2日の昼前に出かけたが満席だったので、近所を小一時間散歩して1時過ぎになってようやく鰻にありついた。後日改めて、家内および、まずは長男夫婦と、その後でもう一回、二男夫婦と食べに行った。
亡くなった父は小食で、食の趣味はまったくなかったが、鰻だけは大好物で、時おり“ ふな与 ”さんへ出かけたり、出前を取ったりしていた。大泉でお客さんをもてなして恥ずかしくない店はここくらいしかない。生前元気な父と最後に出かけたのも“ ふな与 ”さんだった。
父が亡くなってからは、せいぜい年に2、3回といったところで、コロナ禍の去年は、持ち帰りを1回頼んだだけだったが、申し訳ないことをした。
“ ふな与 ”のご主人、竹島善一氏は、毎日新聞の記事にもあるように、写真が玄人はだしで、写真集も数冊出版している。とくに会津を撮った写真が多いが(『会津・農の風景』新泉社、『谿声山色--奥会津に見る正法眼蔵の世界』奥会津書房など)、世界中を旅していて、文革時代(だったか)の人民中国から、内戦前のアフガニスタン、ヨーロッパ最西端のイギリスの島(名前は忘れた)まで旅行したと伺ったことがある。
アフガニスタンの人々を撮った写真集もある。カメラの向うの子どもや老人たちの穏やかな表情が印象的である。本当のイスラム社会の穏やかさを見ることができる。
従来は、ひるは11時半の開店、よるは午後5時の開店だったが、記事が出て以降は、開店時間の前から店の前に行列ができ、開店時間と同時に、並んでいた客だけで品切れとなってしまい、「本日は売り切れました」の貼り札が貼られ、暖簾がかかることもなくなってしまった。列の後ろの方に並んだ人は入れなかったこともあった
最後のときは、午後4時に偵察に行ったらすでに先客が一人並んでいたので、ぼくも慌てて列に並び、5時に入店してようやく鰻重にありつけた。
上の写真は、そこまで混雑する前に撮った“ ふな与 ”の暖簾。新聞記事には片岡千恵蔵から贈られた暖簾のエピソードが紹介されていたが、その暖簾ではなさそうだった。
「暖簾をおろす」というというのは、店じまいの紋切り型の表現だが、今回は実感がある。
上の写真は、店じまいしてしまった後の4月のある日の“ふな与”さんの佇まい。
2021年4月1日 記