豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ダニエル・ゲラン『エロスの革命』

2021年04月22日 | 本と雑誌
 
 森本和夫編『婚姻の原理』で紹介された本から、興味がわいたものをいくつか読んでいる。
 最初は、ダニエル・ゲラン『エロスの革命』(太平出版社、1969年)。amazonで送料込みで427円。コンディションは「良い。箱に傷みあり」だったが、小口が汚れていて本文にも食べ物か何かの汚れが何か所もあり、せいぜい「可」だろうと思う。
 原題は「性の自由についてのエッセイ」(フランス語)で、「エロスの革命」は大げさだろう。ただし、著者は全編を通じて一貫して、「性革命」だけでは不十分で、「社会経済的革命」をともなった全面的な人間解放が実現しなければならないと主張しているから、「革命」という言葉を使いたい気持ちは分からなくはない。

 内容の半分は、いわゆる「キンゼイ・レポート」(1953年)とキンゼイの紹介と評価にあてられており、残り半分が、プルードン、フーリエ、シェークスピア、ジイド、ライヒに関する小論によって構成されている。ゲランは、キンゼイに対して厳しい批判を述べているが、何と言われようとも、キンゼイが20世紀の「性革命」の先導者の一人であったことは間違いない。
 後半の主題は「性革命」というよりは同性愛をめぐる各論者自身の苦悩と、同性愛を肯定するための各論者の苦労に焦点があてられている。
 ゲランのフーリエ論は森本編著『婚姻の原理』に抄録されていたものだが、今回全篇を読んでも、フーリエが同性愛を(婉曲に)論じているとは読み取れなかった。鈍いのだろうか。プルードンのフーリエ批判や同性愛批判などは痛々しい。ライヒについては改めて書きたいと思う。

                
 ジイドの『狭き門』は、当時ぼくが購読していた学研の「高1コース」8月夏季特別号(昭和40年)第2付録「読書感想文に役立つ世界日本名作への招待」、および「高2コース」4月進級お祝い号(昭和41年4月1日発行)第3付録「高2生の必読書100選」のいずれにも推薦図書として載っている。「ジャン・クリストフ」や「戦争と平和」などはこの手の読書案内で概要を知って読まずに済ませたが、「狭き門」は読んだ。
 主人公(ジイド自身)の辛気臭い性格と面白みのないストーリーだったことしか記憶にない。それが、「鈍感で狂信的なプロテスタントであった」母親によって厳しく性的禁欲を課されたことも理由の一つとしてジイドに芽生えた同性愛の仄めかしと読むことができるなど、当時は知る由もなかった。当時読んだ文庫本の解説では、そのような作品の背景も触れていたのだろうか。

 上にも書いたように、ゲランの各論者に対する批判は、大体が「性革命は社会革命を伴わなくては、真の人間解放にならない」、「性欲や同性愛に対する抑圧の根底に家父長制的家族があることを論者は見落としている」ということに収れんする。
 この本でぼくが一番「我が意を得たり」と思ったのは、性別の相対性を主張した個所だった。
 ゲランが紹介するヴァイニンガーなる人物の<両性欲>仮説というのに従えば、「いかなる個人も絶対的な男性であるわけではなく、また絶対的に女性であるわけでもない・・・。各男性の中にいく分かの女性があり、各女性の中にいく分かの男性がある。ある個人と他の人との間には無数の中間的な性的な姿勢が見受けられる」という。(48頁)。したがって、異性愛の中には必ず一定割合で同性愛的な要素が含まれていると言いたいようである。
 さらにゲランは、「人間の胎児は最初は無性であり、初期は成長の要素として男性的なものも女性的なものもともに含んでいる。・・・その曖昧さは2か月間続く。ひとたび性的な区別が生まれても、すべての人間は異性の萌芽的な名残り、解剖学的な、ホルモンの、心理的な痕跡をとどめている。・・・それぞれの人間は、ことなった段階ごとに、・・・さまざまの割合で男性的および女性的特徴を持つ雌雄同体動物なのである」と敷衍する(49頁)。

                 
 人間を「雌雄同体動物である」と断定することには同意できないが、ぼくも、基本的に男女の区別は社会的な必要に基づいて、社会の側が決めたものであり、生物学的には男女はカテゴリー(範疇)ではなく、スペクトラム(連続体)であると考えている。基本的に麻生一枝『科学でわかる男と女になるしくみ』(サイエンス・アイ新書、2011年)に依拠しているのだが、ヒトの性別は、性染色体、性決定(Y)遺伝子、外性器、内性器、脳の性中枢の器質、性ホルモンの分泌、養育環境その他さまざまな要素によってきまるのだが、確定的に男女に二分することはできない連続的な状態なのである。
 ーー納得できない人は、試しに“男”を定義してみて下さい、あるいは、“女”を定義してみて下さい。恐らく不可能だと思います。ーー

                  
 金田一京助監修『明解国語辞典』(最近人気の『新明解国語辞典』の旧版だろう)によると、“女”とは「ひとの中で妊娠する(能)力のあるもの」、“男”とは「ひとの内で、妊娠させる力をもつもの」と定義されているそうである(郡司利男『カッパ特製 国語笑字典』光文社カッパブックス、昭和38年、35頁)。郡司氏は、これでは世界の人口の大部分は男でも女でもないことになってしまうと茶化している。
 『広辞苑(第5版)』でも、“男”とは、「人間の性別の一つで、女でない方」とあり、“女”とは「人間の性別の一つで、子を産み得る器官をそなえている方」とある。この定義でも、人間のかなり多くは「男」でも「女」でもないことになってしまうだろう。

 このような生物学における性別のスペクトラム=連続的な性質に適合するように、法の世界でも、人間を強制的に男女のいずれかに画一的に二分するべきではない、すべての人間を男女いずれかに二分しなければ社会が立ち行かないという場面はそれほど多くはないと考える。
 男女の区別は、子どもの成長に応じて段階的に、かつ区別が必要な事項ごとに個別的、相対的に決定すれば足りるだろう。例えば、スポーツの「女子」種目への出場の可否は、対象者のテストステロン(男性ホルモン)産出量によって決定するが、そのことは対象者がスポーツ以外の社会生活において「女」であるか否かとは関係ない。
 神奈川県立高校の入試願書や、日本規格協会の就職用履歴書から「性別欄」が削除されたことが報じられるなど、世の中は少しずつそのような方向に向かっているが、家族法の世界でも、同性婚が採用された暁には、婚姻法、親子法、相続法の領域で当事者を男女のいずれかに振り分ける必要はなくなるであろう。

 この議論に有力な援軍を得たこと、しかも1960年代にすでにそのような見解が示されていたことを知ったことが、本書の最大の収穫であった。

 2021年4月22日 記


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