チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

46年前の今日

2024年06月17日 | 節分

曇、22度、91%

 46年前、私はお腹に子供がいました。そろそろ8ヶ月でした。腹痛と暑さで眠られずに迎えたのが六月十七日の朝でした。夜半からお腹が痛みます。横で寝ている主人を憚りながら痛みの間隔を計ります。間隔は長いのですが周期的に襲って来ます。トイレに立つとうっすら出血がありました。目覚めた主人に「今日病院に行っってくる。」その日は土曜日、定期検査は週明けの月曜日に予約していました。主人は仕事でしたが「一緒に行くよ。」と言ってくれました。

 現在のように完全予約や日時を決めての出産なんてありません。土曜日のせいもあり痛みを訴えているのですが、待合室で待たされます。だんだん痛みの間隔が短くなっています。脈をとりにみえた看護婦さんに「痛いのですが。」と言いましたが、順番通りに待つように言われました。

 診察台に乗ると医師が「出産が始まっている。」と言います。それでも悠長に当時都内の医院で初めてというスキャナーで胎児を見せてくれました。動いていました。医師に「女の子だね。」と言われ、ストレッチャーに乗せられ2階の分娩室に入りました。12時少し過ぎでした。看護師さんたちの会話が耳に入ります。どうもお産婆さんが帰宅したので、呼び出しの電話をかけているようでした。冷たい分娩室で私の横にあるモニターには私の脈の動きが出て来ます。痛みが来ると山が高くなります。誰も来ません。ただ間違いなく、お腹の痛みは間隔が短くなり、痛みが強くなっています。

 我慢して我慢して、ナースコールを押しました。看護婦さんが私の様子を見て「もうすぐ生まれるわよ。」と言います。でもお産婆さんが戻ってこないので医師を呼ぶことにした様子です。「母親教室」で習った通りの呼吸法を繰り返しました。痛みが強いときはゲンコツを作り背中に入れて堪えました。2時を回った頃、破水と共に出産が終わりました。一気に終わった感じでした。後産の痛みがある中で産声が聞こえました。詰まっていたものを吐き出すように産声は大きく分娩室に響きました。時計は2時4分。「1900グラム、男の子ですよ。」と同時に麻酔を打たれました。

 目が覚めた時は病室でした。救急車のサイレンの音で目覚めました。主人の気配や私にかけてくれた言葉はかすかに頭にありました。「未熟児だから広尾の日赤に連れて行くことになったよ。」サイレンは私の子供を乗せた救急車のものに違いありません。心配で麻酔が完全に覚めました。

 私の一度きりの出産の思い出です。その日から東京は熱帯夜に入りました。息子が46歳を迎えます。初めて会ったのは数日後、六月二十日でした。無理を言って奥沢から広尾まで連れて行ってもらいました。酸素なしの未熟児ベットに見た息子の姿、身体の割に大きな足の裏、忘れることなく毎年この日には蘇ってくる思い出です。


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