気ままに

大船での気ままな生活日誌

終戦の日

2009-08-15 10:42:37 | Weblog
終戦の日、昭和20年8月15日は、どんな空だったのだろうか、ふと今朝の空をみて、そんなことを思った。昭和20年3月生まれのボクはまだ、生後、5か月の赤ん坊だったから、憶えているはずがない。

今朝のような夜明けだったかもしれない。雲がいっぱいだけど、何か希望の光がさしこんでくるような。


この春に、母を亡くして、家の中を整理しているとき、父が還暦のときに書いた、自伝風の30枚ばかりの原稿をみつけた。父は、生前、ぼくには戦争時代のことを一言も話してくれなかったが、そこにはかなり詳しい記述があった。戦友の死のこと、父の所属する部隊がさらに中国の奥地に進軍すると思われていたのが、急きょ帰還することに決定し、みんなで万歳をしたこと、等々が切せつと書かれていた。

父が帰国して、昭和16年以降太平洋戦争に拡大してゆくが、父は軍需産業に勤務していた関係上、後方支援ということで徴兵は免れたようだ。そしてその頃、結婚話が出て、昭和19年に同郷の19歳の母と結ばれ、太田区田園調布に住む(うそどす)、太田区蒲田に住む。

昭和20年に入ると、米軍による大空襲が始まり、3月10日の浅草等の下町地区の大空襲、4月15日には、父母の住む、大森・蒲田地区が大空襲受け、多数の死傷者と約22万戸もの家屋が焼失した。

父の原稿用紙の文章から、そのときのすさまじさがひしひしと伝わってくる。父は布団1枚もって家を飛び出し、六郷の土手に穴を掘り、そこにもぐり布団を被り、明け方まで、間断なく続く焼夷弾の攻撃から必死に身を守っていた。

この大空襲が始まる約1と月前、すなわち、ボクが誕生する1、2週間前に、父の気丈な母が山梨からやってきて、こんなところで子供を生ませるわけにはゆかないと、強引に連れて帰ってくれたのだ。家は焼かれてしまったが、おふくろのおかげで、ふたりの命が助かった、と感謝の気持ちを述べている。

戦後すぐに、運よく三鷹に住宅が見つかり、父の会社も復活し、父と母と赤ん坊のぼくとの、3人の新生活が始まったのだった。

こんな戦争は二度とやってはいけないと思う。でも、先の戦争で、お国のために犠牲になられた方々には、心より追悼の意を表したい。靖国神社でお祈りしたい人もおれば、慰霊碑の前で頭を下げたい人もいてもいい。人それぞれである。どこかがいけない、どうのこうの、へりくつをいう人は、もともと宗教心のかけらもない人だろう。

コメント
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