気ままに

大船での気ままな生活日誌

酔芙蓉の一日

2009-08-18 21:50:30 | Weblog
ぼくの朝の散歩道に、一株の大きなスイフヨウ(酔芙蓉)があって、最近、咲き始めました。この花は、朝は純白ですが、次第に紅く色づいてきて、その様がまるで、お酒をいただいた美女に酔いがまわってゆくようなので、こんな粋な、名前がついたのです。

ここ2,3日、朝の白い花の酔芙蓉を観ていて、どうしても、ほろ酔いから、本格的に酔って、さらには、ぐてんぐてんに酔いつぶれる、美女の姿を時間を追って、観たくなりました。

それで、昨日、朝の散歩時と、午前中に、そして、午後の鎌倉ハイカイ(今日は八幡宮の国宝館と鏑木清方記念館等)前と帰宅時の、計4回、酒飲み美女の様子をそっと覗き見してきました。うふふ、見事な酔いぷりでしたよ。
。。。

朝6時半の、酔芙蓉。まだ、しらふの色白の美女。清純そのもの。大酒飲みと聞いていましたので、茅ヶ崎の名酒、天青と湘南ビール、それにつまみに井上蒲鉾の梅花はんぺんと鎌倉ハムのローストビーフを持っていきました。うれしいどす、また来ておくれやす、と喜んでくれました


午前10時半頃、また訪ねました。ほんのり、頬に赤みがさして、ほろ酔いの美女になっていました。おいしいどす、とご機嫌でした。ビールが半ダースほど開いていました。


お昼の冷やし中華を食べてから、また午後1時半頃、訪ねました。ピンク色に染まって、もうすっかりできあがったお顔になっていました。こんなに酔わしてどうするつもり、とどこかで聞いたセリフで色っぽく微笑んでくれました。よくみると、天青の一升瓶が開いていましたので、すぐ家に戻り、ワイフの里の名酒、美少年とつまみに辛子連根をもってきました。美少年好きどす、と言って、またぐいぐいやり始めました。相当な酒豪です。


かまくら散歩から帰り、午後5時半に訪ねました。もう顔は真っ赤に。酔いつぶれて、美顔もくしゃくしゃになっていました。美少年を飲みほしたようです。もっとお酒いただきマンモス、ああ、でももうだめぴー、どうでもしてぴーと支離滅裂になっていました。あの清純なふよぴーはどこに行ってしまったのか。

。。。
翌朝、6時に様子をみにいきました。朝になっても、昨晩と同じ赤い顔して、ぐっすり寝ていました。もう起きてきません。
たった、1日の命だもんね、楽しい1日で良かったね。”花の命は短くて”だね。でもぼくらの一生だって、地球の年齢に比べれば、一日どころか、1秒にもならないよ。みんな同じだね。さあ、今日も飲むぞ。



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松井稼頭央選手と柴田勲さんと甲子園と

2009-08-18 10:11:57 | Weblog


昨晩の甲子園、神奈川代表の、横浜隼人、花巻東に敗け2回戦で敗退、残念でした。剛腕、菊池雄星投手を打ち崩せるのは、薩摩隼人くらいでしょう(笑)。

さて、今日も、あとで、ぼくらの時代の高校野球にふれてみたいと思いますが、まずは、2000本安打を達成した、米大リーグ、アストロズの松井稼頭央内野手、おめでとうございます。球場に来ておられた、恩師、東尾元監督から名球会入りのブレザーを贈られ、どんなにうれしかったことでしょう。

松井稼頭央選手のすごいところは、少し前に、400盗塁も達成したことです。2000本安打、400盗塁の選手は、日本球界で、彼を含め、わずか5人しかいないのです。いずれも、名選手です。現役では、イチロー選手と松井稼頭央選手だけ、あとは福本、広瀬、そして柴田さんです。

ぼくは松井稼頭央選手というと、いつも柴田勲さんを思い出します。共通点がいっぱいあるからです。2000本安打、400盗塁のほかに、守備がまた超一流で、お二人とも、ゴールデングラブ賞を何度も採っています。走攻守、三拍子そろったすごい選手なのです。(イチロー選手は、さらにその上をいっていますが)

加えて、高校時代はいずれもピッチャーをやっていて、プロに入ってからは、右、左、どちらでもOKという、スィッチヒッターとして活躍しました。ですから、ぼくは、松井稼頭央選手というと、いつも柴田勲さんを思い出すのです。

それに柴田さんには特別の思い入れがあるのです。ぼくは、柴田さんと同世代であり、柴田投手を擁し、1960年の夏と翌年の春、全国優勝を成し遂げた、川崎の法政二高は、ぼくの自宅にほど近い場所にあったからです。

あの頃は、神奈川の強豪高校というと、これもまた自宅近くの、のちに南海(だったと思う)に入団した、渡辺投手を擁した慶応高校(日吉)でした。県大会の決勝戦は、大抵、この二高で争っていたように思います。でも法政二高にはとても、かないませんでした。

なぜって、あのときの法政二高は、おそらく空前絶後といっても良い、のちの清原、桑田のいた頃のPL学園を上回る、強力打線でした。4番は幡野(彼は、ぼくの中学校の出身、えへん、のちに阪神入団)、5番は柴田(巨人)で、あとは是久(東映)、的場(大洋)、高井(近鉄)と5人のプロ野球入団者を含む、すごーいメンバーだったのです。

そうそう、その時代、怪童と呼ばれた、尾崎行雄投手擁する、大阪の浪商も強かったです。法政二高の3連覇がかかった1961年の夏の甲子園では準決勝で対戦し、残念ながらこの浪商に負けてしまいました。たぶん浪商が、その大会に優勝したはずです。

あの頃の高校野球が一番、面白かったなあ、といつも思います。やっぱり、地元の高校が活躍するといつまでも心に残るんですね。

。。。

こちらは、走攻守、そろって苦手なウミガメさん。スローな生活もいいよね


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