横浜のそごう美術館で”蕗谷虹児展”が開かれている。戦前戦後の女学生たちを熱狂させた、挿絵画家、蕗谷虹児(ふきやこうじ)の名はもちろん知っていたが、これだけの作品を一堂に集めた展覧会は初めてだ。
1898年、新潟は新発田の生まれである。不幸な少年時代をおくっている。12歳で母親をなくし、丁稚奉公に出る。尾竹竹坡のもとで日本画を約5年学び、1920年、竹久夢二を訪ねる。彼の仲介で挿絵の仕事をはじめるようになる。
少年のころから夢二が好きだったようで、夢二の絵を透かし描きしていたらしい。初めの頃の挿絵の女性はどことなく夢二風だ。少女画報、令女界、少女倶楽部の表紙絵、挿絵を次々と描き、評判を呼び、夢二と並び称されるようになった。
1923・9・1関東大震災が起こる。少女雑誌も大震災特集号を出す。そのときの虹児の、貴重な作品が展示されている。崩壊した町の中で一升瓶の水を口飲する少女を描いた”水”。また、震災画集も数多く、出版され、虹児も4集出している。4集目にはじめて復興編が出て、新聞売りの少年や、片づけをする人々の姿が描かれた。今回の大震災でも、画家や詩人たちがみつめていることだろう。
1925年、絶頂期にいたにも関わらず、飽き足らず、パリへ行く。パリでの裸婦デッサンがずらりと並ぶ。そして完成画として、自分でも気に入り、晩年まで手元に置いていたという”混血児とその父母”や、ちらし絵に採用された”柘榴をもつ女”(この絵は98年にパリの画商の倉庫からみつかったもので、オリジナル絵画スタイルを確立した絵として評価されているそうだ)。パリ時代の作品がいろいろ展示されている。たとえば、パリの少女は大人顔負けのおしゃれで、彼女らをスケッチした。その後、最新のパリファッションを身につけた少女が、日本の少女雑誌の表紙を飾るようになる。”パリの散歩”、”ノートルダム四景”などパリ風景も。美術展のあと、友人の娘さんのアコーディオン演奏があったが、第一部はシャンソン。おおシャンデリーゼやパリのお嬢さん等。パリに行きたくなってしまったよ(汗)。
装幀も吉屋信子の花物語、野口雨情の青い目の人形など多数。物語絵本や世界の名作童話や日本の昔話し。さらに、詩作も。有名な花嫁人形 ♪きんらんどんすの帯しめながら花嫁ごりょうはなぜ泣くのだろう♪ さらに東映アニメの短編初作品”夢見童子”。これは上映されていました。な、なんという多才。七つの顔をもつ男、夢二のようです。
ぼくが楽しみにしていたのは、晩年の虹児の美人画はどうゆうふうな美人になるかだった。”浮世絵美人画”とも称される絵になっていた。”花嫁人形”、きっと母の面影が。1979年、まさに”母の面影”を描きながら、亡くなった。その絵が最後に飾ってある。うつくしい女性だった。