午前中、鎌倉女子大の公開講座があった。芭蕉、蕪村、が終わり、今期から一茶に入った。生涯つくった句数が、芭蕉が980句、蕪村が2880句で、一茶は、なななんと、2万句をゆうに越えているという。芭蕉は完全主義、一茶は不完全主義、蕪村は中間主義なのだ(笑)。でも、先生がいうには、一茶は句の良しあしは読者にまかせればいいという主義だったらしい。もし、自分で厳選していたら、今は名句と讃えられるものも、世に出なかったかもしれない、という。そういう考え方もいいかもしれない。科学者でも、ちょっとした発見でも、すぐペーパー(論文のこと)にする人もいれば、ねりにねって完成させるまで発表しない人もいる。前者はペーパーメーカーと、軽んじられることがあるが、ねりにねっている間に、他の人に発表され、無価値になるよりは、ずっと良い、とぼくは思う。
それに、価値観は時代によっても変わるわけだから、当時は、なんだこの句はといわれたものが、10年後、50年後、100年後に、逆転評価される場合だってあるわけだ。科学者だって同じだと思う。ペーパーにしてさえあれば、これは今をときめくノーベル賞級研究の源流だと、50年後に評価をされる可能性もあるのだ。
目出度さも中位なりおらが春
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
名月をとってくれろと泣く子哉
やれうつな蝿が手を摺り足を摺る
こぞの五月生まれたる娘(さと)に一人前の雑煮を据えて(文政二年正月)
這え笑え二つになるぞけさからは
さとの死に対しての句(文政二年、疱瘡で亡くなった)
露の世は露の世ながらさりながら
雪ちるやおどけも言えぬ信濃空
ともかくもあなたまかせの年の暮
これらの句は、江戸時代ではどのような評価を受けていたのだろうか。
学内の風景
ほそばたいさんぼくの花