気ままに

大船での気ままな生活日誌

ミュシャ展 パリの夢 /モラヴィアの祈り

2013-04-10 18:48:33 | Weblog
ミュシャ展が、7日に、NHKの日曜美術館で取り上げられていた。それを観て、火曜日に六本木の森アーツセンターギャラリーに出掛け、帰ってきたら、その夜のBS日テレの ”ぶら美”もミュシャ展だった。そのときいくつか映像の写真も撮ったので、それらを交えながら、忘れないうちに振り返ってみたいと思う。回顧展というのは面白い。絵だけではなく、その画家の人生を垣間見ることができるから。

第一章ではチェコ人ミュシャに焦点が当てられる。アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)はオーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチッツェに生まれ、少年時代をチェコ民族運動のさ中で育つ。そのとき芽生えた祖国愛は生涯、消えることはなかった。この章では、ルパシカという民族衣装を身につけた自画像のほか、55歳のときの子供ジリほか家族の肖像画(いずれも油彩)などが並んでいる。遅くできた子で子煩悩だということも紹介されていた。

”自画像”


第二章は”サラ・ベルナールとの出会い”。1894年の年末のことだった。印刷所で(みんな出払って、一人で)働いていたミュシャに、思いがけない仕事が舞い込んだ。パリの人気女優サラ・ベルナールの主演劇の宣伝ポスターの依頼だった。その作品”ジスモンダ”をみたサラが、すっかり気に入り、その後、6年間の契約が結ばれたのであった。もちろん、一般市民の間でも大評判。ミュシャの劇的なデビューとなった。”人間の精神を忠実に肉体に表せる女優はサラのほかにいない”と、ミュシャも気に入り、”相思相愛”のコンビとなった。

サラ・ベルナールというと、ロートレック(1864~1901)のポスターでも観たことがある。同時代のポスター作家として対照的な画風である。女性としては、理想美として描いてくれるミュシャの方を好むかもしれない。ついでながら、この展覧会の観客は若い女性が主流。僕のよく行く展覧会とは対照的(汗)。ここでは舞台美術に関連したミュシャの作品も紹介されている。

”ジスモンダ”一部


第三章は”ミュシャ様式とアールヌーボー”。1895年、パリにアールヌーボーの家がオープンし、ここでミュシャの作品も展示され、ミュシャ様式と呼ばれるようになり、のちにアールヌーボーと同義語となった。花や植物などをモチーフにして、流麗な曲線を組み合わせた、ミュシャ様式は、この頃はじまった会社の宣伝ポスターで一世を風靡するようになる。日曜美術館の解説者は、ビールの会社の、ビールの泡の形を褒めていた。たしかに面白い。

”ランスの香水”


”ビール会社”


第4章は、”美の探究”。ヨーロッパの美術史から俯瞰すると、ミュシャが活躍した時期はめまぐるしくスタイルが変化する「イズム」の時代でした。しかし彼が求めていたものは、「芸術のための芸術」を追求することではなく、普遍的な美を表現することでした。そしてその「美」とは「善」であり、それは内面的な世界(精神)と目に見える外面的な世界の調和にあると考えました。ミュシャにとって芸術家の使命とは、その「美」で大衆を啓蒙し、インスピレーションを与えることによって、彼らの生活の質をより豊かにすることでした。 (ホームページより)

観賞用のポスターとしてデザインされた装飾パネル画がずらり。一点物とは違い、大量生産されたので、当時の一般家庭の居間にも飾られていた。ギフトショップでも人気の作品が目白押し。四枚セットもよく売れる。実はうちでもでもね、「時の流れ」(朝、昼、夕、夜の女性のくつろいだ姿)をもってます。6,7年前、プラハのミュシャ美術館で買ったんでごわす(ワイフがですが)。今回の展示にはなかったですが。その代わり、”四季”、”四芸術”とか”ダンス”など。

”四芸術” (音楽、詩、絵画、ダンス)


”夢想” 花と女性の芸術 ミュシャの典型的作品 


第五章 ”パリ万博と世紀末”。1900年のパリ万国博覧会では、オーストリア政府の依頼により、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の内装を担当する。この準備のため、ミュシャは”ヨーロッパの火薬庫”となりつつあったバルカン諸国を訪れ、自分の属するスラヴ民族のおかれた複雑な政治問題を改めて実感する。ミュシャの言葉が壁に書かれている。私の祖国が(オーストリアの植民地政策により)打ち捨てられて、人々はどぶ水で喉の渇きをいやしているときに、私がこんな仕事をしていて良いのだろうか。ある日の真夜中、自分の作品を見渡しながら、突如、これからの人生は祖国のために捧げようと決心した(一部改変)。さらに、パリでフリーメイソンに入団し、宗教的な思想を深めていく。

”百合の聖母” エルサレムの教会の装飾。聖母とチェコの民族衣装の娘


”ヤロスラヴァの肖像” ミュシャの娘、25歳の頃。油彩画。こちらをみつめる鋭い目。

 
そして、最終章に。”ミュシャの祈り”。1910年、ミュシャは祖国に戻る。そして”スラヴ叙事詩”の構想を実現するために、米国からファンドを得て、余生の殆どをこのプロジェクトに費やす。チェコ人とスラヴの同胞たちの、栄光と悲哀の歴史を描き、長年の植民地政策によって離散していた民族の統一を促そうとした。チェコ独立への悲願は、第一次大戦の終結とともに成就した。そして、1928年、チェコスロヴァキア独立10周年にあわせて完成した《スラヴ叙事詩》はプラハ市に寄贈されたのだった。

スラブ叙事詩の下絵などが展示されている。


スラブ叙事詩は映像でも紹介され、バックミュージックにスメタナの”わが祖国”が流れていた。

キャッチコピーの、あなたが知らない本当のミュシャの人生を辿りながら、作品を楽しめる、素晴らしい展覧会だった。



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