待ちに待った歌舞伎座のこけら落とし公演が始まった。四月公演はぜひ、と思っていたのに、もたもたしていて、チケット購入のため松竹のホームページを開いたのは、4月の上旬もおわる頃。新開場にふさわしい”お祭り”の第一部か、弁天小僧と玉三郎の第二部が希望だったが、なんと、月末まですべて完売。わずかに夜の第三部が、2、3日だけ残っているのみ。これを逃したら、新歌舞伎座の初演をみないことになってしまうと、即決で購入。2010年4月の旧歌舞伎座最終月の”御名残四月大歌舞伎”を観ているから、おわりとはじめをみたことになる。これで、あとあとまで悔やむことはなくなった(汗)
お名残では勘三郎をみたが、今はもういない
。こけら落としでは、近江源氏先陣館/盛綱陣屋で、仁左衛門(佐々木盛綱役)と吉右衛門(和田兵衛秀盛役)を観て、そして歌舞伎十八番の内 勧進帳。勧進帳の弁慶は幸四郎、そして富樫が菊五郎と、こけら落としならでの豪華メンバー。勧進帳は、新春浅草歌舞伎で海老蔵の弁慶をみたばかり。比較ができて面白かった。花道での飛び六方は海老蔵の方が印象に残った。今度は二階席で花道が半分しかみえなかったこともあるかもしれない(笑)。
30分の休憩の間に緞帳の紹介があった。富士山から始まり、四つの日本画を基にした緞帳ですばらしかった。

中島千波の絵画から

上村松篁から


ついでに幕も

日本画といえば。館内にいくつも飾られていた。ぼくの好きな画家ばかり、歌舞伎と日本画は、切っても切れない仲。
おどろいたのは速水御舟の”花の傍”があったこと。この絵は茅ヶ崎美術館でみた。モデルの花子さんは、御舟の親戚のお嬢さんで、のちに茅ヶ崎の氷室家に嫁入りした。ぼくがたびたび紹介している、”氷室椿庭園”の奥さん。

東山魁夷

鏑木清方

上村松園

伊東深水

そして、市川團十郎九代目の胸像。
別邸が茅ヶ崎にあった。跡地に”團十郎山の碑”がある。これを見学に行ったときのぼくのブログから。
明治28年、川上音二郎一座が歌舞伎座で日清戦争劇を上演したが、これは歌舞伎がはじめて歌舞伎座を追われた歴史的瞬間だった。九代目団十郎は同じような戦争劇を、なんと明治座で上演するはめになったのである。それを堺に、九代目はこれまでの改良カブキから歌舞伎の古典化へと一気に傾斜した。それが 功を奏して、明治20年代の借金地獄から、30年代に入ると一変、大金持ちとなった。団十郎にとっても、彼の人生における音二郎の存在は決して小さくなかったのである。

明治、大正、昭和、平成と120年、さまざまなことをのみこんで、歌舞伎座は今、また大きく羽ばたこうとしている。
お名残では勘三郎をみたが、今はもういない

30分の休憩の間に緞帳の紹介があった。富士山から始まり、四つの日本画を基にした緞帳ですばらしかった。

中島千波の絵画から

上村松篁から


ついでに幕も

日本画といえば。館内にいくつも飾られていた。ぼくの好きな画家ばかり、歌舞伎と日本画は、切っても切れない仲。
おどろいたのは速水御舟の”花の傍”があったこと。この絵は茅ヶ崎美術館でみた。モデルの花子さんは、御舟の親戚のお嬢さんで、のちに茅ヶ崎の氷室家に嫁入りした。ぼくがたびたび紹介している、”氷室椿庭園”の奥さん。

東山魁夷

鏑木清方

上村松園

伊東深水

そして、市川團十郎九代目の胸像。
別邸が茅ヶ崎にあった。跡地に”團十郎山の碑”がある。これを見学に行ったときのぼくのブログから。
明治28年、川上音二郎一座が歌舞伎座で日清戦争劇を上演したが、これは歌舞伎がはじめて歌舞伎座を追われた歴史的瞬間だった。九代目団十郎は同じような戦争劇を、なんと明治座で上演するはめになったのである。それを堺に、九代目はこれまでの改良カブキから歌舞伎の古典化へと一気に傾斜した。それが 功を奏して、明治20年代の借金地獄から、30年代に入ると一変、大金持ちとなった。団十郎にとっても、彼の人生における音二郎の存在は決して小さくなかったのである。

明治、大正、昭和、平成と120年、さまざまなことをのみこんで、歌舞伎座は今、また大きく羽ばたこうとしている。