おはようございます。今日も朝から雨。梅雨だから、これが常態、仕方ないですね。さて、今朝の話題は、また過去を振り返り、山形旅行日誌のつづきと参りましょうか。
山形市に二泊して、朝食後、すぐに、新幹線に乗り、ひとつ先の、かみのやま(上山)温泉駅で降りた。荷物を預け、タクシーで斉藤茂吉記念館に向かった。鈍行の奥羽本線(山形線)の茂吉記念館前駅でも良かったのだが、小さな駅でたぶんロッカーもないのではと思ったのだ。帰りはここから乗ったが、思った通りの無人駅でロッカーはもちろんない。茂吉記念館の専用駅みたいだった。
茂吉記念館は緑豊かで、東に蔵王連峰を望める景勝地、みゆき公園内にある。茂吉は、明治15年(1882年)に、この近くの金瓶(かなかめ)に住む守谷家の三男として生まれているのだ。
ついでながら、記念館でも紹介されていた、茂吉の略歴をここで述べておこう。明治29年に地元の高等小学校卒業したものの、上の学校に進める余裕が家庭にはなく、絵が上手だったので(小学生時代描いた凧絵も展示されているがほんとに上手、書も上手)、絵描きになろうかと思っていた。でも、学校の先生の勧めもあって、浅草で開業していた親戚の医師、斉藤紀一家に寄寓し、そこの援助で進学する。開成中、一高、東大医学部へと進む。大正3年(1914)、斉藤家の長女、輝子(19歳)と結婚、婿養子となり、斉藤茂吉になるのである。輝子さんは、89歳で亡くなる前まで、世界旅行約100回、エベレスト登山、南極上陸など、旅行家としても名高い。ご夫婦の子供が、ドクトルマンボーで名高い北杜夫で、孫がエッセイスト、斎藤由香である。
その公園に入ると、片隅に古い小さな家。たぶんと思って近づいたら、やっぱり、箱根強羅に建てられていた茂吉の勉強部屋”童馬山房書屋”だった。ここに移築されていたのである。ぼくは、よく、箱根に行くので、強羅公園の大きな茂吉の歌碑を行くたんびに見る。その説明に、茂吉が強羅に別邸をもっていたことが記されていた。だから、親しみをもって、その勉強部屋をみた。北杜夫も訪ねてきている写真もあった。
童馬山房書屋。保存のため、家屋自体が透明な”大箱”の中に入っているので、全体像がよく撮れない。
公園は高台にあり、蔵王連峰を眺めることができる。
斉藤茂吉胸像のうしろに立派な記念館がある。
展示室入口に”写生道”という文字のモニュメントがある。短歌を作る上での自身の姿勢を示したもの。子規の影響か。そして、かれの、歌人として、医師としての波乱の一生が紹介され、関連の資料が展示されている。柿本人麿の研究紹介なども。父の精神病院をモデルにした北杜夫の”楡家の人々”関係も。特別展として、”茂吉の肖像とその背景を見る”が開催されており、最晩年の、疎開で故郷へ戻ってきた姿もみることができる。最後に浅草に行きたい、と北杜夫兄弟に連れられていく姿の写真もあった。翌、昭和28年2月に70歳で亡くなっている。
外に出ると、茂吉、師匠の伊藤左千夫、共にアララギの編集に携わった島木赤彦の歌碑が公園に佇んでいた。
茂吉 あしびきのやまこがらしのゆく寒さ 鴉のこゑはいよよ遠しも
伊藤左千夫 わかやとの軒の高葦霜かれて くもりにたてり葉のおともせず
島木赤彦 わが庭の柿の葉硬くなりにけり 土用の風の吹く音聞けば
小道を少し歩くと、山形線の茂吉記念館前駅に到着する。
駅を山形新幹線つばさ号が通り過ぎてゆく。
駅前の果樹園では、山形名産の西洋ナシ、ラ・フランスが実っていた。
このあと、ぼくらは、かみのやま温泉駅へ出て、お城をみたあと、温泉旅館へ向かった。(つづく)