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TRI0'のレザールでのライヴ

2012-12-16 07:13:00 | ノンジャンル
 先週の木曜日、代官山のレザールで市原康さん率いるTRIO'のライブに行ってきました。市原さんはもう10年以上前に木住野佳子さんのライブで知ってから、メールで活動を教えていただいていましたが、TRIO'のライブを聞きに行くのは、今回が初めてでした。
 代官山の駅を降りて、渋谷方向に歩くこと10分。めざすレザールはなかなか見つからず、行ったり来たりしているうちに、店頭にいた近所のお店の人に聞こうと近づくと、目の前に“レザール”の看板が。看板には灯も灯されていず、気づかないはずでした。ビルの2階の狭いドアを開けると、そこが“レザールで”、店は鰻の寝床のような縦に細く長く伸びる作りとなっていて、中央のカウンターの前にピアノとドラムセットと横たわったベースが置かれていて、私の席はその真ん前のカウンター席。カウンターには5人しか座れず、ベースのスペースはカウンターに密着していて、それより奥の席は楽器のスペースによって入り口方面の席と隔てられ、演奏が始まったら、奥の席の人はトイレにも行けないという構造になっていました。打ちつけの壁には、これまでここで演奏したアーティストたちのサインとメッセージが書かれていて、わが市原さんのTRIO'のサインもしっかり見つけました。
 ジントニックを頼み、カウンターの上に乗ったお菓子やチーズや苺を隣の席の方に勧められ、カウンターの上に飾られていた、中平穂積さんからレザールのオーナーであるカズコさんに送られたビル・エヴァンスの絵葉書を見ているうちに8時が過ぎ、いよいよ市原さんらがお店に登場。ライブが始まりました。ドラムは市原さん、ピアノは福田重男さん、ベースは森泰人さん。福田さんは胸板が厚く、鼻の下と顎にヒゲを蓄えていらっしゃり、どっしりと落ち着いた感じの方、森さんは背が高く、知的な感じで背広姿が似合う方でした。
 いきなり始まった1曲目は5拍子にアレンジされた“Paper Moon”、以後、“BItter Sweet”、“真珠飾りのタンゴ”、“Wayne Plays Alone”、“Here,There and Everywhere”、“On The Things You Are”と続き、第一部は終了。途中の市原さんによるMCでは、今日で最終日を迎える今年のツアーではノロウイルスの攻撃を受けたことなどが語られ、また今日、今まで発売されたTRIO'のアルバム5枚を本来なら1枚の定価が3000円であるところを2500円で、もし5枚まとめて購入したなら1万円で売ると言われ、福田さんが“しのぶえ”奏者とともに作ったアルバムの即売会も今から行うことが告げられました。その際、今日初めてTRIO'の演奏を聞きに来た人の挙手を求められ、私は素直に手を上げたのですが、他にも数人おられたようで、ほとんどの方が常連さんのようでした。(ツアーの最終日ということもあってか、プレイヤーの方も多く来られている様子でした。)
 40分ほどの休憩をはさんで第二部の開始。“~、Come Ten”という曲を皮切りに、市原さんの娘さんの市原光さん作曲の“始まり”、福田さん作曲の“Just Be Happy To Have Love”、森さん作曲の“Momo”が披露され、最後は“What A Difference I Made”が演奏されました。アンコールでは、福岡県の市役所に勤めれておられ、トゥーツ・シールマンズに直接の指導を受け、彼の愛用のハーモニカをも贈られたという、私の隣のスツールに座っておられた、ヤツキヤスコさんを加えての演奏があり、最後には福田さんがご自分の車がダメになった時のことをイメージして作ったという(おそらく冗談でしょうが)悲し気な無題の曲(アンコールで最後に演奏される恒例の曲とのことでした)が5拍子で演奏され、大団円を迎えるのでした。
 市原さんは、10年以上前に木住野さんのメーリングリストに私が投稿していた通り名“ごっち”を覚えてらっしゃり、私とのツーショット写真まで携帯で撮っていただけるなどしてくれ、大感激でした。当時の私は社会問題を積極的に投稿し、それが元でメーリングリストの常連さんたちから排除された苦い経験を持っていたのですが(そして今回、その常連さんのうちの1人がレザールの常連さん、というかスタッフの1人であることを知ったのですが)、その後、市原さんは自らのメールで社会問題を積極的に書かれていて、私としては市原さんに連帯意識を持っていただけに、今回の再会はこの上なく嬉しいものでありました。TRIO'は森さんの関係で、来年は活動を中止するそうですが、活動を再開した折りにはまた足を運びたいと思った次第です。

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山田詠美『ジェントルマン』

2012-12-15 06:27:00 | ノンジャンル
 山田詠美さんの'11年作品『ジェントルマン』を読みました。
 夢生が、坂井漱太郎と関わりを持つ破目になったのは、今から20年近くも前、高校2年のことでした。彼の存在感は際立っていて、成績は上位を保ち、運動能力も抜きん出て、姿かたちも良く、中学時代、全国大会を勝ち進んだという彼が、高校入学と同時に弓道部に籍を置くと、たちまち女子マネージャーだらけになるほどでした。普通、そのような男は、同性から敬遠されるものですが、漱太郎は、馬鹿もやれる話せる奴として親しまれていて、そのことが、ますます女たちの好感度を上げました。漱太郎は優しさという点でも熟練者と言え、電車やバスの中では、老人や体の不自由な人、おなかの大きい妊婦のみならず、“ただ”の女にも席を譲りました。誰もが心魅ひかれる漱太郎に夢生は興味を持ちながらも、好意を抱くまでには至らないのは、彼が自分の苦手とする清廉なイメージに完璧なまでに覆われているからでした。少々ひねくれた傍観者でいる自分自身を夢生はいつしか楽しんでいましたが、ある時、漱太郎に自分と同じ種類の視線を送っている女生徒の存在に気付きました。彼女は夢生と目が合うと、やっぱり、あなたも? と瞳で語りかけてきて、こうして、それまで、ただのクラスメートに過ぎなかった藤崎圭子は、夢生の親友になりました。彼らは、同じ高校の連中が来ない珈琲店の片隅のスタンドで、長い時間、語り合い、出会う以前の自分に関する事柄をを語り尽くして現在に行き着いた時、友情の下地は出来上がっていました。「ユメ、漱太郎って、どうしてああなの?」「ジェントルマンだからだろ?」「ユメ、私たち、あのジェントルマンの生き様をこれからも見守って行こうね」「あ、ぼく、生き様って言葉、大嫌い」「オッケー、じゃ、死に様だ」「いいね、それ」「乾杯」それが何のための乾杯だったのか、と20年近く経った今でも夢生は首を傾げます。高2になり、漱太郎とクラスの分かれた彼らは、あのジェントルマンについて語ることに、すっかり飽きてしまっていたのでした。
 ところがある日、北上している台風の影響で激しい雨が降り始めた夕方のことです。ほとんどの部活動が早目に切り上げられ、夢生も自分が所属している華道部の部員たちといったん学校の外へ出たのですが、忘れ物に気付いて、慌てて、ひとり茶室に戻ると、暗い茶室には人の気配がしていました。音を立てずに少しだけ障子を開けて見ると、そこには畳に押し倒されてもがいている茶道部の担任の村山先生、そしてその体に覆いかぶさる漱太郎の姿が見てとれました。犯されようとしている村山先生の、じりじりと移動する指の先には、花鋏が転がっていて、夢生は、ためらうことなく、茶室の中に駆け込み、先生が鋏を握り締める前に、思いきり、それを蹴飛ばしました。しばらくの静寂の後、漱太郎はくすりと笑い、「なんだ、おまえか」と言って、あの誰の心をも優しく溶かすような調子で、「悪いけど、手伝ってくれない?」と言うと、夢生はまるで操られた人形のようになってしまい、漱太郎の命じるままに、先生の余力を奪うべく、さらなる重しとなるのでした。漱太郎が先生を犯した後、学校を出た2人でしたが、突風に煽られた漱太郎は台風到来に対して子供のようにはしゃぎ、夢生は、この男は、本当に、女を犯したばかりなのか、と思います。やがて漱太郎が夢生の視界から消えると、夢生は自分のズボンのポケットに花鋏が入れたままになっているのに気付くのでした‥‥。

 この本を図書館で借りた日の新聞の朝刊で、この本が今年の野間文学賞を受賞したことが報道されていました。そういった点で、読む前から、何か因縁めいたものを感じた本ではあります。実際に、私はこの本を1日で読み切ってしまいましたが、途中から谷崎を読んでいる錯覚に陥りました。岡田茉莉子さんの著書『女優 岡田茉莉子』を読んでから、マイブームとなっている「聖=死」と「俗=生」の対立という文脈で読むと、前者が夢生であり漱太郎、後者が圭子であるように感じられ、また、読み終わった段階では、圭子に一番感情移入ができると思いました。かなりショッキングなラストなので、そうした描写に耐えられる方にはお勧めです。なお、本の詳細に関しましては、私のサイト(Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto))の「Favorite Novels」の「山田詠美」の場所にアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

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清水宏監督『しいのみ学園』その2

2012-12-14 01:04:00 | ノンジャンル
 先日渋谷に『カリフォルニア・ドールズ』を見に行った時、映画の開始時間まで少しあったので、目の前の本屋にぶらりと入って、時間つぶしをしていたら、ギターの8分の1スケールのモデルが1000円で売っていて、思わず買ってしまいました。家に帰って説明文を読むと、フェンダーのテレキャスターのモデルとのことで、何とローリング・ストーンズのキース・リチャードの愛用するギターとのことでした。彼はステージ上で数本のテレキャスターを使い分けていて、1952年製(1953年製という説も)の通称“ミカウバー”は、そのトレードマークともなっている1本なのだそうです。

 さて、昨日の続きです。
 家族同伴で行なったピクニックでしたが、昼食時に1人になってしまっていた鉄夫に気づいたカヨコは、彼の元へ行って一緒に昼食を食べ、“しいのみ学園の歌”を一緒に歌おうと促します。歌おうとしない鉄夫。やがて他の子が皆歌い始め、ついに鉄夫も悲し気な表情のままながらも歌い始めます。喜びを爆発させるカヨコと、その報告を聞いて喜ぶユウドウの両親。
 鉄夫はユウドウに代筆を頼み、自分が歌えるようになったことを父への手紙として書いてもらいます。それを知って喜び、鉄夫を抱きしめたカヨコは、他の子たちにも親への手紙を書かせます。字を書けない子は絵を描き、絵を描けない子は図形を描きます。一心に書く子どもたちの表情と、それぞれの手紙のアップ。
 やがて親からの返事が来ますが、返事の来なかった卓郎が他の子がもらった返事を取り、破り捨てると、カヨコは思わずその子の頬をはたいてしまいます。教師としての自信をなくし、学園を辞めると言うカヨコに、ユウドウの母は疲れているのだと慰めますが、カヨコは妹を連れて学園を去ろうとします。彼女らの前を歩く鉄夫に、どこに行くのとカヨコが聞くと、鉄夫は返事を郵便局まで探しに行くと言います。鉄夫の家は遠いから返事が着くのが遅れているだけだと言って、鉄夫を学園に連れて帰ろうとカヨコはしますが、そこへ卓郎が謝りにやって来、また他の生徒らからも「せんせ~い」と呼ばれ、カヨコは自分が間違っていたことに気づき、学園に戻ります。
 汽車ごっこに加わらず、郵便屋を待つ鉄夫は、仲間に無理矢理汽車ごっこに誘われ、やがて転倒します。いつまでも起き上がらない鉄夫に気づいたカヨコは、彼が高熱を発しているのを発見します。女医が呼んだ院長は、鉄夫が先天性の心臓奇形を持っていて、急性肺炎も起こしていると言い、親にすぐ連絡を取るように言います。うわ言で「返事はまだ?」と言う鉄夫に、カヨコは自分が親代わりに返事を書き、郵便局へ行って、鉄夫宛に手紙を出します。届いた返事をカヨコが読んでやると、鉄夫は返事が来たことを知った直後、死んでしまいます。泣く子供たち。無人の遊具。
 ユウドウが鐘を鳴らすと、子供たちが教室に集まってきます。今日は鉄夫の初七日なので、鉄夫の眠るお寺に向けて手紙を書きましょうと言うカヨコ。子供たちが自分の書いた手紙を朗読すると、カヨコはその思い遣りあふれる内容に泣き出してしまいます。両親に書いた手紙の返事を久男がねだると、父も母もすぐに返事を書いてあげると言い、他の子たちは鉄夫に向けて書いた手紙を出すために、カヨコとともに“しいのみ学園の歌”を歌いながら、ポストへと歩いていき、やがて彼らの姿は道の彼方へと消えていくのでした。

 見事な構図の“ショット”が随所に見られ、ゆるやかに横移動して部屋から部屋へと移動する撮影や、シーンとシーンを結ぶフェイド・イン、フェイド・アウトなど、静かに淡々と物語が語られていく印象を持ちました。構図という意味での“ショット”がある一方、“演出”としての“ショット”も見るべきものが多くあったと思います。これまで清水監督の作品はいくつか見てきましたが、その中ではこの作品が私の中ではベストワンであるように思いました。香川京子さんの代表作でもあると思います。

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清水宏監督『しいのみ学園』その1

2012-12-13 06:09:00 | ノンジャンル
 清水宏監督・脚本、助監督が石井輝男さんの'55年作品『しいのみ学園』をスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。
 校庭でキャッチボールする子らを見ていた少年(河原崎建三)は、自分も仲間に入れてくれと言いますが、ミットもグローブも持ってない奴は入れないと言われます。少年は上着を着、ランドセルを背負って歩き出しますが、松葉杖を使い、右足を引きずります。並木道で父(宇野重吉)に会った少年・ユウドウは、野球部に入ったと言い、ミットとグローブを買ってもらえることになります。寝た息子の足をマッサージする母(花井蘭子)は、健康に生まれながらも、1歳過ぎに小児まひを患い、治療が遅れたことで、後は親の愛情と訓練しか治療する方法はないと医者から言われたことを回想します。アメリカのスケート選手も元は小児まひだったことを話し、妻を元気づける夫は、これまでありとあらゆる方法を息子の治療のために試してきたことを回想します。足の悪い子のために学校を作ることが自分の夢だとユウドウが語っていたと妻に教える夫。
 翌日、父が校庭に行くと、息子は相変わらず野球に参加させてもらえていず、息子に訳を聞くと、ミットとグローブを取られただけで、仲間には入れてもらえなかったと聞かされます。自分がアンパイヤをするから息子を仲間に入れてやってくれと父が言うと、子供たちは相談した後、皆ビッコの真似をして校庭を後にし、沈み込む息子に父は「一緒にキャッチボールをしよう」と言って、自分がピッチャーをし、ユウドウにキャッチャーをさせ、ユウドウの弟・久男にバッターをさせます。久男が打った球がブランコのところへ飛ぶと、そこには大学教授である父の教え子・カヨコ(香川京子)が妹といて、妹がやはり小児まひで、学校で虐められるため、自宅で妹を教え、学校の雰囲気を味あわせてあげるために、放課後に学校へ妹を連れに来ていることをユウドウの父に伝えます。
 翌日、ユウドウは同級生の定期を盗んだ罪を着せられ、帰宅して怒りを爆発させます。訳を聞いた父は抗議するため学校に向かおうとしますが、そんなことをしたら却ってユウドウが虐められることになると妻に止められます。すると、そこへ帰宅した弟は、ユウドウの無実の罪が晴れたことを報告します。
 大学で教育について講義する父。妻から電話を受けた父は、久男も高熱を出したことを伝えられ、すぐに帰宅しますが、結局久男も小児まひに罹り、兄と同じく足が不自由になるのでした。しかし兄弟は女医に励まされて歩く訓練をし始め、ユウドウは寺の階段を女医に励まされながら、登っていきます。その姿に勇気を得て、父におんぶされてきた弟も這いずりながら階段を登っていきます。
 ユウドウの両親は、全財産を注ぎ込んだ上、借金もして、小児まひの子供たちのための学校を作る決意をすると、それを聞いたカヨコもその仕事を手伝わせてほしいと申し出ます。小さな実ながら、美しい花は咲かずとも大木になることから“しいのみ学園”と名付けたその学校の開校式で、皆が君が代を歌うのを聞いて、ユウドウの母は涙し、夫は親からもらった財産を注ぎ込んでくれた妻に感謝します。
 彼らは不具者の劣等感を除くため、運動場を教室とし、まず運動機能の向上を目指し、自立心を育て、皆で励まし合う精神を持たせます。教室では丸を描く練習から始め、絵画療法、“しいのみ学園の歌”の合唱を行ない、汽車ごっこによる社会行動性の訓練も行ないます。母親の手を借りずに初めて歩いた少女は、汽車ごっこの中でやがて走り始めます。それを見て感激する母親。空に響くトンビの声。
 ある日、金持ちのママ母が子を預けにやって来て、ママ母のやっかい払いしたいという意向に対し、ユウドウの父は一旦は預かるのを断りますが、子供に罪はないと考え直し、その子・鉄夫を預かることにします。寝つかれない鉄夫にカヨコが優しく声をかけると、泣き出す鉄夫。カヨコは鉄夫が寝つくまで、そばにいてやります。歌うことも笑うことも知らない鉄夫を、きっと歌い、笑わせてみせると誓うカヨコ。(明日へ続きます‥‥)

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アーサー・ビナードさんの講演会・その2

2012-12-12 07:11:00 | ノンジャンル
 今日は小津安二郎監督の50回忌です。改めてご冥福を申し上げます。

 さて、昨日の続きです。
 ではプルトニウムはどうやって作るのかというと、放射能を出さないウラン238に、中性子を当てて作ります。中性子を当てられたウラン238はその中性子を受け止めてウラン239になりますが、それはすぐにベータ線を2度放出してプルトニウム239になり、ウラン235よりも不安定で、より強力な放射性物質となります。プルトニウムはウラン235の固まりが爆発する時に生産されますが、爆発で拡散してしまい、フェルミはそれがじりじりと生産されるように研究を重ね、1942年12月2日にそれに成功したのでした。
 東京電力が'97年に発行した“未来へのパスポート”と題されたパンフレットは、原子力発電を無条件で賞賛する内容となっていますが、その中に、レントゲンがX線を発見したところから、現在31ヶ国で原子力発電が行われるようになるまでの歴史を、9行で表したページが存在します。そこでは、フェルミによる原子炉での初のプルトニウム抽出を賞賛し、そこから一気に原子力発電へと歴史が飛んでいます。つまり、そこではフェルミのプルトニウムの抽出を賞賛することによって、そのプルトニウムによって作られたプルトニウム型原子爆弾が長崎で行なった虐殺も、これまた無条件で賞賛していることになる訳です。
 そもそも原子炉というのは、プルトニウムを作るための装置、つまり原爆の原料を作るための装置のことを言い、フェルミの時は英語で“Chicago Pile”(Pile は“山”の意)と呼ばれていました。それが'50年代には“Nuclear Reactor”(=“核分裂反応装置”)と改称されるのですが、日本語では“核分裂反応装置”という名称は現在に至るまで一遍も使われたことがありません。日本では、英語で“Nuclear Reactor”と呼ばれるようになる以前に、既に“原子炉”という呼称が使われていて、これは、戦後の復興を象徴していた鉄鋼の生産高からイメージされる“溶鉱炉”の“炉”、そして田舎の風景としての“炉端”の“炉”という字が、市民に親しまれやすいものとして使われた訳です。(ちなみに、核兵器のことを“Nuclear Weapon”と呼ぶのはペンタゴン(ビナードさんによると“ペテンタゴン”なのだそうです)であって、“Atomic Bomb”と呼ぶのは爆弾を落とす側(例えばエノラ・ゲイの乗組員)、使われた側からの呼称というのは“ピカドン”である、とのことでした。)
 原子炉を止めても、冷却水を必要とすることには変わりがないため、逆に電気を食うようになります。したがって、原子炉は止めるのではなく、廃炉にしてしまわなければなりません。
 福井の“もんじゅ”、つまり高速増殖炉は、原理的にはプルトニウムを作り出す点で通常の原子炉(軽水炉)と同じですが、より上質のプルトニウム(しかも固まりの状態)を作ることができます。そこには毎年100億円単位の金が投下され、大量の電気を消費しています。'94年から運転されていますが、現在までにそれが発電のために運転された時間は通算たったの1時間だけです。“もんじゅ”はこれまでの運転によって、既に長崎型のプルトニウム爆弾を何発も作れるだけのプルトニウムを作っているはずで、政府は来年からまた“もんじゅ”の“研究のための”試験運転の再開を宣言しています。
 青森の六ヶ所村にある“核兵器製造施設”とともに、“もんじゅ”は政府が核兵器を作るために必要不可欠な施設であり、したがって逆に、それの運転を止めることができれば、政府の核兵器製造システムにくさびを打てることにもなるのです。
 日本は他の原子力発電施設を持つ国とともに、れっきとした“核保有国”であり、“核兵器保有国”です。ビナードさんは、このことに気付かないほど、日本人は“馬鹿”なのか? とあえて、おっしゃっていました。今回の総選挙、こうしたことをきちんと考えに入れれば、自ずと投票すべき党の名前がはっきりしてくるのではないでしょうか? それにしても聴講者が皆中高年であったのには驚きました。ということで、今回は、自戒の意味も込めて、あえて“政治的”な文章を書いてみましたが、いかがだったでしょうか?

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