みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

「新聞は地球の今が見える窓」/新聞週間:現場を歩き、全国に情報発信 声なき声に耳を傾け。

2009-10-21 16:03:08 | ほん/新聞/ニュース
10月15日から始まった新聞週間は、今日21日までの1週間。

「新聞週間」は、全国の新聞社・通信社・テレビ局が加盟する日本新聞協会によるもので、
毎年各地でさまざまなイベントが開催されるが、
今年の新聞週間標語は、17歳の高校生の「新聞は地球の今が見える窓」が選ばれた。

「新聞週間」の一週間というもの、わたしは文字通り、毎日、新聞を隅々まで読んでいた。
もうすぐオープンする「市民と政治をつなぐ P-WAN」にヘッドラインをアップするために、
わが家に届く5紙の朝夕刊を読んで、関心のある記事②付箋をつけて、
関連の記事までwebで検索するという毎日だった。

それで思ったことは、紙媒体はもういらない、という声もあるが、
webにアップされているのは、膨大な新聞の情報のほんの一部ということ。

つまらない記事も多いけれど、全国の新聞記者が、現場を歩いて、市民の目線で書いた力作の記事もけっこう多い。

スタートの15日、社説で取り上げていた新聞社も多いけれど、
その中で、中日新聞は「記者クラブ」の問題を自省的に取り上げて、
「国民のための新聞を」と論じていた。
この姿勢には、実現を期待して、拍手を送りたい。

 【社説】新聞週間 国民のため検証が任務
2009年10月15日 中日新聞

 鳩山政権発足から一カ月、あらゆる分野での見直しが進められるなかで、きょう十五日からは新聞週間。メディアも例外ではありえない。新聞は何のために存在するのか、原点から考えたい。
 先の政権選択選挙で鳩山政権の歴史的勝利は「政治主導への転換」の訴えにあったといえよう。「政と官の関係を抜本的に見直し政治主導を確立する」の政権公約は、国家の隠れた主体である霞が関の官僚が独占する情報と権限を奪い返し、国民のための政治を実現するという民主党の改革と革新の核心部分。それゆえに情報公開と開かれた政治は鳩山政権の生命線、国民の政治参加と支持こそが政権の基盤でもあるからだ。
 メディアとの関係で前政権との大きな違いは、各省事務次官の記者会見禁止とこれとは裏腹の首相会見や大臣会見の「完全オープン化」の原則だ。首相就任会見では完全開放の約束は守られなかったものの、岡田克也外相主催の外務省会見ではフリーランスやネットメディアまで会見はすべてのメディアに開放され、完全自由化は今後、各省庁の大臣会見に広がっていく可能性がある。
 これは各省の大臣、副大臣、政務官がメディアに積極対応し、政策の立案・決定過程を国民に公開して理解を得ることを理想とする民主党の政治手法からは、当然の流れといえ会見のオープン化は既存メディアにとっても肯定できる性質のものだろう。
 記者クラブについての日本新聞協会の見解も、会見を権力側に利用されないよう記者クラブが主催することの重要性を強調しつつ、クラブ構成員以外も会見に参加できるよう追求することを求めている。むしろ多数の専門記者の参加こそ、質疑応答の多様化と充実をはかり、国民の注視に堪えられる会見にさせるとさえいえる。
 言うまでもなく、新聞は国民のために存在する。鳩山政権の政権運営の眼目が政策決定過程の透明化にあり国民のための政治を標榜(ひょうぼう)している以上、新聞の重大任務が記者クラブに安住することでなく、国民のための政策が遂行されているかの分析と検証にあるのは明らかだ。その任務が遂行できてこそ国民の新聞への信頼が生まれると自覚したい。
 新聞週間の代表標語は東京都武蔵野市の高校三年本田しおんさん(17)の「新聞は地球の今が見える窓」。日々の社説も、地球と今の問題がわかるものでありたい。



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「新聞週間」で、いちばん記事が充実していたのは、毎日新聞。
「開かれた新聞」委員会座談会は、読み応えがあった。

記事が大きすぎ手字数オーバーでブログには入らないので、
是非webで読んでほしい。

特集:新聞週間 「開かれた新聞」委員会座談会(その1) 裁判員制度(毎日新聞 2009年10月16日)

特集:新聞週間 「開かれた新聞」委員会座談会(その2止) 政権交代(毎日新聞 2009年10月16日)

特集記事も力作で、通常の記事も署名記事によいものが多いし、
「5紙読み比べ」のみどりからの新聞週間賞は、「毎日新聞」に授与したい(笑)。

特集: きょうから新聞週間 現場を歩き、全国に情報発信 声なき声に耳を傾け
毎日新聞 2009年10月15日 

 15日から新聞週間が始まった。行政機関の無策に憤りを覚えながら、立場が弱いために当事者が大きな声を上げられず、放置され続けた問題は数知れない。こうした「声なき声」に耳を傾け、社会に問題提起するのも新聞ジャーナリズムの責務だ。「薬害」「貧困」「無戸籍」「山村住民」。記者が現場を歩き全国に届けた記事は、世論を動かし、解決の糸口の役割を担った。当事者らの目に「新聞」はどう映ったのか。

 ◆離婚後300日問題
 ◇「すがる思い」母の訴え
 「離婚後300日以内に生まれた子は、前夫の子」と推定する民法772条。東京都墨田区の川村美奈さん(41)は、この規定を会社の上司に指摘されながら「時代錯誤の規定で、自分とは無関係だと思っていた」と話す。出産予定は離婚後343日目だった。
 06年12月24日付毎日新聞朝刊社会面トップ(東京版)は、772条が原因で戸籍がない2歳女児の存在を報じていた。その4日後、川村さんの胎児に異常が見つかり、切迫早産で男児を産んだ。292日目だった。
 川村さんは「300日を超えるため医師に何とか10日間、出産を延ばしてほしいとお願いしたが『赤ちゃんの命とどっちが大切なんだ』としかられました」と振り返る。
 子供の出生届の父親欄を「前夫」とすることを拒めば子供は無戸籍となる。以前から専門家の間で問題を指摘されながら、多くの子供が無戸籍状態のまま放置されてきた。
 川村さんは、病院のベッドから携帯電話のメールで、記事を執筆した工藤哲記者に連絡した。「子供が国から見捨てられたような気がした。記事の意見募集の呼びかけにすがる思いだった」と明かす。川村さん自身の問題も記事になった。工藤記者を中心とした毎日新聞の一連の「300日問題」キャンペーンは、読者の共感を広く呼び07年、国会、行政、司法は重い腰をようやく上げた。法務省は同5月、離婚後妊娠については医師の証明があれば、前夫の子でないことを認める通達を出し、川村さんの男児も戸籍に記載された。裁判所もホームページで前夫の関与を不要とする「認知調停」の周知を始めた。
 川村さんは、新聞のキャンペーン報道についてこう言う。「短期間で一気に社会問題化したのには驚いた。活字媒体の新聞は、映像メディアと比べてプライバシー保護の面でも心配が少ない。新聞は救いを求める小さな声に常に光を当てる灯台のような存在であってほしい」【臺宏士】

 ◆薬害C型肝炎訴訟
 ◇司法・ペンの協力得て
 元薬害肝炎九州原告団代表で、先の衆院選で初当選した福田衣里子さん(28)=長崎2区=には「自分の出発点」として取ってある新聞記事がある。04年4月29日付の各紙で、毎日新聞は「『未来を返して』--23歳原告が実名公表し、訴える」と社会面で報じている。
 感染を告知されたのは01年3月、翌年全国で始まった裁判に当初参加しなかったのは「国と闘って勝てるわけがない」と思ったからだ。だが原告団から、何万もの人が感染の事実さえ知らず、知ってもカルテがなく原告になれない被害者がいることを聞かされ、実名で訴えることを決めた。
 04年3月、福岡地裁に提訴。翌月28日、実名を明かして意見陳述した。実名公表は提訴した72人中6人目で最年少だった。新聞各紙は、声を詰まらせながら毅然(きぜん)と国と製薬会社の責任を訴える福田さんの姿を写真入りで報じた。
 訴訟の詳報、支援集会、座り込み……。記者たちは、将来への不安におびえ、治療の副作用に苦しむ福田さんら患者の姿を連日のように報じた。毎日新聞は各地の原告を訪ね、「薬害のない未来を」との連載企画(06年2~9月)をまとめ、薬害をめぐる厚生行政の問題点を指摘し続けた。
 治療を続ける福田さんに、連日の取材はつらかった。「でも、どこかで誰かが報道に気付き、命が救われるかもしれないと思った」と振り返る。いくら声をからして訴えても、受け取ってさえもらえなかったビラを受け取ってもらえるようになり、活動が認知されてきたことを実感した。
 永田町に場所を移し、次は350万人と推定される医療行為が原因のB型、C型肝炎ウイルス感染被害者全員を救済する肝炎患者支援法の成立を目指す。「自分の声なんて届かないと思っていた。でも、そうじゃなかった。私たち原告の武器は被害にあった体しかないが、弁護士は司法を武器に、新聞記者はペンを武器に一緒に闘ってくれた。だから世論が、国が動いた」。薬害根絶へ向けた福田さんの闘いは続く。【合田月美】

 ◆年越し派遣村
 ◇「貧困問題」社会に提起
 「年越し派遣村の報道は、日本のお正月の風景を変えたと思う。日本は豊かで、正月は自宅でおせちと思っていた人が大半で、貧困は遠いアジアやアフリカの問題だと受け止めていた。お茶の間の隅々にまで問題を浸透させたのは、マスメディアによる報道がなければ、あり得なかった」。「反貧困ネットワーク」の湯浅誠事務局長(40)は、振り返る。
 反貧困ネットの設立は07年10月。翌年3月の主催のイベント「反貧困フェスタ」に合わせて設けたのが「反貧困ジャーナリズム大賞」だ。
 貧困問題の取材に当たる記者らから、記事や番組にするまでのさまざまな苦労話を聞いた。「読者は(暗い労働現場の話でなく)明るい記事を読みたがっている」「派遣切りされたとか同じ切り口ばかりではないか」。関心の低いデスクやプロデューサーを説得するのも大変だということを知った。
 湯浅さんは賞の狙いについて「貧困問題の取材に頑張っている記者らの応援のために作った」と語る。だから、授賞対象は会社ではなく、取材に当たった記者個人やチームなどにした。反貧困ネット関係者や記者らで選考するという。
 第2回の今年は▽大賞▽調査報道賞▽功労賞など5部門で、14の個人、団体が受賞した。湯浅さんは「貧困ジャーナリズム大賞を受賞した記者だと世間から評価されればうれしい」と話す。
 湯浅さんにとって、記者はどのような存在に映るのか。湯浅さんは「世論との接点であり、貧困問題の深刻さを世の中に広げ、解決に向けて動かそうという思いを共有している同志だ」と語る。記者らに世論に対する問題提起の方法などについて、相談することもあるという。
 湯浅さんは「思いの1割も現実は動かないがゼロでもない。私たちの組織はとても小さい。貧困の社会的な広がりの中で、良くも悪くも報道を通じて訴えるやりかたしかない」と話す。【臺宏士】

 ◆細川内ダム問題
 ◇「闘う村」世論が後押し
 2000年11月、国は徳島県木頭村(現・那賀町)に建設予定だった細川内(ほそごうち)ダム計画の中止を発表した。山深い剣山のふもとで2000人が暮らす村が30年余、建設反対を貫いた。その背景には、山村に熱心に足を運んだ記者たちの姿もあった。
 展望が見えない反対運動の転機となったのは、93年の村長選で藤田恵さん(70)が初当選したことだ。ダム計画で村民の人間関係はむしばまれ、国だけでなく県も推進し、村は孤立を余儀なくされた。藤田さんは「ダムは清流や自然を破壊し、過疎化は一層進んで村は確実に崩壊する。国が主張する100年に1度の洪水対策や工業用水確保に根拠はなく、税金の無駄遣いだ」と一貫して訴えた。
 藤田さんが特に頼りにしたのが新聞など報道機関の力だという。「計画中止には世論の後押しが不可欠。まず問題を全国に知ってもらう必要があった。新聞は何度も読み返せ、信頼性も高い。地方では新聞が物事を知るきっかけになることが多い」。率先して取材に応じた。国や県による圧力といった計画の背後にある暗部も報道され、注目度は上昇した。全国から取材が相次ぎ、藤田さんは「記者たちからは何とかしたいという熱意を感じた」と話す。
 村の孤軍奮闘は報道を通じて共感を呼び、連携と支援の輪は、全国に広がった。ダム計画を知った政治家、研究者、各地で大型公共事業に反対する人たちが次々と訪れた。それも報道され、各地の運動に力を与える相乗効果を生んだ、と藤田さんはみる。住民はダム抜きの振興策を練りながら悪戦苦闘を続けるが、今も中止になってよかったと感じているという。
 前原誠司・国土交通相が全国143のダム事業の見直しを表明した。村長を2期務めた後も公共事業見直しに取り組んできた藤田さんは「見直しは当然だ。記者は現場に何度も足を運び、自分の目で見て生の声を聞くのが一番重要だということは忘れないでほしい」と語った。【横田信行】
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 ◇離婚後300日問題
 民法772条により一律に「前夫の子」と推定され、子供の出生届の父親欄を「前夫」とすることを拒めば子供が無戸籍となる問題。年間約2800人が対象となったが、毎日新聞の報道をきっかけに行政側は運用を見直した。条件を満たせば、住民票記載や旅券発給などが可能となった。離婚後の妊娠を医師が証明すれば300日以内に生まれても「現夫の子」と認められる通達で、920人(8月31日現在)の子供が戸籍に記載された。
 ◇薬害C型肝炎訴訟
 出産や手術の際に血液製剤「フィブリノゲン」などを投与されてC型肝炎ウイルスに感染したとして02年、患者らが国と製薬会社3社を相手に5地裁で集団提訴。国の賠償責任を認める判決が相次いだ。5高裁で係争中の07年、国は一転して責任を認め当時の福田康夫首相が一律救済の方針を表明した。08年1月、薬害C型肝炎被害者全員の一律救済を目指す特別措置法が成立した。厚生労働省によると、9月末までに提訴した1532人中1241人が和解に応じた。
 ◇年越し派遣村
 仕事と住居を失った非正規社員らを支援するために昨年末から今年1月5日まで、東京・日比谷公園に開設された。湯浅さんが村長を務めた。労働相談に応じ、食事や寝場所などを提供した。昨秋以降の急速な景気悪化を背景に、予想を超える延べ500人が集まった。若者ら1680人のボランティアも参加した派遣村の現状は連日、大きく報道され、日本における貧困問題の深刻さを見せつけた。政治家や行政も重い腰を上げ、厚労省などは庁舎を開放した。
 ◇細川内ダム問題
 徳島県木頭村の那賀川上流に計画された総貯水量6800万トンの多目的ダム。旧建設省が68年に調査に着手し、72年に本格的な計画が表面化した。村議会は76年に反対を決議。歴代村長も「村是」にしてきた。94年に具体的規制を含む全国初のダム建設阻止条例を制定。95年、同省は各地でダム反対の声が広がる中で、見直すための審議委員会を発足。同ダムも対象になったが、推進派主導に村が反発し、設置できないまま建設中止となった。
(毎日新聞 2009年10月15日)



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