みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

フィリピン女性を支援する石原バージさん/エリちゃんとアリシアさん~個人的なわたしの、市民「論」

2009-11-23 15:44:22 | ジェンダー/上野千鶴子
庭のベニシダレモミジやハナミズキの紅葉もすすんできました。
    

ベニシダレモミジは、春の新芽と秋の落葉の二度紅葉します。


WAN(ウイメンズ アクション ネットワーク)のヘッドラインニュースを見ていたら、
なつかしい名前を見つけました。

「石原バージさん」

長年、名古屋でフィリピン女性や在日外国人の女性たちを支援している女性です。

毎日新聞ということなので、さっそく朝刊を探したけれど、記事は出ていませんでした。
きっと愛知県版だけなのでしょう。

外国人女性の問題は地域を超えるので、こういう記事はぜひ、全国版にしてほしいです。

とはいえ、
毎日記事のリンクは、早く切れてしまうので、全文を紹介します。

この人に聞きたい:フィリピン女性ら在日外国人支援団体代表・石原バージさん/愛知 
 ◇外国人に門戸開いて--フィリピン女性ら在日外国人支援団体「FMC」代表・石原バージさん(49)
 フィリピン人女性ら外国人を支援する団体「FMC」(フィリピン人移住者センター)の代表が、フィリピン国籍の石原バージさん(49)=名古屋市瑞穂区=だ。外国人の相談に日々応じている石原さんに、FMCの活動内容や外国人の受け入れに対する思いなどを聞いた。【山口知】

 --来日したきっかけを教えてください。
 私が名古屋の飲食店で働いていた際に夫と知り合い、結婚してからは日本にずっと住んでいます。

 --FMCを設立したのはなぜですか。
 日本に来てから、フィリピン人がさまざまな問題で悩んでいることが分かりました。彼らに日本のルールを教え、少しでも助けたいという思いから設立しました。名古屋市には約7000人のフィリピン人が住んでおり、1日に5人ほどから相談があります。

 --どのような相談が多いのでしょうか。
 まずは家庭内暴力の問題です。夫から暴力を受けたフィリピン人女性はどこに逃げればよいのか分からないことが多く、避難用シェルターを紹介したりしています。

 --他にはどんな問題がありますか。
 在留資格の問題があります。法的問題の相談にのる弁護士を紹介したり、不法滞在者らが入国管理局に行く際に同行もします。

 --労働問題も深刻です。
 労働災害や給料支払いの問題が多く、連携している労働組合で相談にのってもらいます。

 --日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた子どもについての相談もあるそうですね。
 結婚していなくても、父親から認知された子どもは届け出だけで日本国籍を取得できます。しかし、認知してもらえない子どもが日本にもフィリピンにもたくさんいます。日本にいる子どもは在留資格を得られないこともあります。

 --日本の外国人受け入れ態勢についてどう思いますか。
 フィリピンは、国民の約1割が米国、香港、シンガポールなど海外で働く「出稼ぎ大国」で、看護や介護の仕事に就く人も多くいます。一方、日本では看護などの就労条件が厳しく、夜に飲食店で働くフィリピン人女性が多い。日本はもう少し外国人に門戸を開いてもよいのではないかと思います。

 --FMCでは「外国人移住者」という表現を使っていますね。
 私もそうですが、日本では移住者、移民が増えていると思います。今後労働力不足で日本ではますます移住者が増えていくでしょう。日本は外国人を受け入れる準備がもっと必要になるのではないでしょうか。

 --日本人を対象にした活動もしているのでしょうか。
 外国人を巡る問題について講演したり、大学生が問題を学びに来たりしています。日本人側の理解を深めることも大事です。

 --理想の社会像を教えてください。
 日本人も外国人も差別がなく互いに理解して助け合える社会です。理想に向けて頑張っていきたい。FMCが活動をやめたら、外国人の相談先がなくなってしまいますので。
==============
 ■人物略歴
 ◇いしはら・ばーじ
 フィリピン北部のイサベラ州出身。94年に来日した。夫と2人暮らしで、日本では永住権を持つ。兄弟はフィリピンのほか、米国やシンガポールなどにも住んでいる。FMCの常任スタッフは日本人、フィリピン人各3人。活動費用は寄付で賄っている。
(2009.11.23 毎日新聞)


わたしの願いも、
「日本人も外国のひとも差別なく互いに理解して助け合える社会」をつくることです。

読売新聞にも、在日外国人(在日コリアン)の連載記事がアップされています。
こちらも大阪本社版なので、岐阜では読むことができません。

わたしは、80年代に「定住外国人の諮問押捺拒否運動」にかかわっていたので、
在日外国人の問題には、とても関心があります。


 【特集】脱北~帰国事業の果てに
 在日コリアンや、その日本人妻が北朝鮮に渡った「帰国事業」が来月14日、
開始から50年を迎える。帰国者がたどった運命と脱北を巡る現状を関係者の証言で探る。
家族が危険「国を出る」<脱北1>(2009年11月20日 読売新聞)

在日の仲間に守られた<脱北2>(2009年11月21日 読売新聞)

「楽園信じ・・・」悔悟の日々<脱北3>(2009年11月22日 読売新聞)

「くるべからず」兄へ手紙<脱北4>(2009年11月23日 読売新聞)
 


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石原バージさんとは、2004年にフィリピン女性のアリシアさんと、
日本人男性との子どものハルちゃんを受け入れたときに知り合い、ずいぶんお世話になりました。

アリシアさんとハルちゃんと生まれた子どもは、フィリピンに帰りましたが、
その後もときどき手紙が届いていました。

いまごろ、3人は元気にどこでどうしているのだろうか、
しあわせに暮らしているだろうか、とときどき思い出します。

このときのことは、『Volo(ウォロ)』(大阪ボランティア協会)に書いて、
その文章を、上野千鶴子さんが『ことばは届くか』(岩波書店)の往復書簡のなかで、
引用してくださっています。

その出展になっている【私の市民論】は、この欄に書かれた上野さんからご指名を受けて、
なにを書くか苦しんだ末に、ことばにしたものです。

以前にもブログに書いたことがあるのですが、改めて紹介します。


【私の市民論 第10回】
個人的なわたしの、市民「論」 
 寺町みどり(女性を議会に 無党派・市民派ネットワーク
 

 アリシアさんとハルちゃんのこと 

「妊娠8カ月の外国人女性と3歳の男の子が路頭に迷っている。岐阜県に住んでいた人だけど、受け入れ先を探してもらえないだろうか?」
 3年前の7月、アジア女性を支援する活動をしている友人から電話があった。
 「ほんとにどこにも行く所はないの?」
アリシアさんとハルちゃんという名の母子は、パスポートもビザもお金もなく、もう何日もロクに食べていないという。ハルちゃんは日本人を父とする無国児だった。わたしは迷わず母子を受け入れることに決めた。
 翌日、わが家にやってきたふたりは疲れはて、ハルちゃんはやせておびえた目をしていた。8カ月と開いていたが、知人の肋産婦さんに診てもらうと「もういつ産まれてもおかしくない」という。紹介してもらった公立病院の女医さんは、アリシアさんの事情を了解した上で、「この状態で断ったらどこにも行くところがないでしょう。ここで産んでください」と言われた。
 平行してメールやファクスで友人や知人にカンパや生活用品の支援を頼んだ。ハルちゃんは、日一日と元気になった。笑顔のかわいい男の子だった。ハルちゃんは、県女性相談センターに頼み込んで「緊急保護」ということで、出産がすむまで預かってもらえることになった。「超法規的」な唯一の措置。最初に相談した県庁の責任者は「どんなケースにも対応します」と言っていたけれど、けっきょく公的援助、扶助、措置も含めて、救済する制度が何もないと回答を受けていた。町役場や警察にも相談したが、法律も条例も皆無。法の谷間にいる彼女たちはそもそも、いまここに、いないはずの布在だった。
 どこへ相談に行っても「母子はきわめて幸運なケース」と言われた。じょうだんじゃない。他の無権利状態の人たちは、どこでどのように暮らしているのか。外国人を生かさず殺さずはたらかせ、法的に存在しない人たちに支えられて成り立っているわたしたちの社会。あまりに冷たい法制度やシステムの不備こそ、大きな問題だと、わたしは憤りを感じていた。
 8月、赤ちゃんはぶじ産まれた。解決できない問題は山積していて先は見えなかったが、一人ひとりが少しずつできる力を出しあって、彼女たちを「いまここで」支えた。9月、たくさんの人の善意に支えられて三人は国に帰って行った。家に友人が迎えに来るまで、彼女とわたしは抱きあってすごした。「ずっとここにいたい」という彼女を「またいつか会おうね」と送った。ハルちゃんの笑顔がまぶしかった。わたしは彼女を救おうと思ったけれど、救われていたのは、わたしだった。    

「無党派・市民派とはなにか?」--上野さんへの手紙 

同じ夏、上野千鶴子さんがひょんなことからわが家にあらわれた。その夜、上野さんに「無党派・市民派とはなあに? わたしにわかるよう伝えて」と問われたが答えられなかった。数日後、とりあえずお返事を書いた。
 「わたしは5歳のとき、社宅でエリちゃんという友人と遊んでいて、日本人の友に取りかこまれ『ちょ-せんかえれ!』と石をぶつけられた。男の子も女の子もいて、悲しいことにみんなわたしの友だちだった。わたしはエリちゃんをとっさにかばい、あちこちから飛んできた石はわたしの背中に当たった。もろともに差別され、怒りにふるえ、でもわたしたちから投げ返す石も、投げ返すどんな言葉もなかった。わたしたちはただ抱きあってじっと耐えていた。
 ・・・・そのときわたしは石を投げる側にはけっして立たないと思ったにちがいありません。なぜなら、わたしはこの記憶を忘れてしまったけれど、強い側、差別する側にはけっして立たないという一念だけは、なぜか忘れませんでした。今日までのわたしの生きかたや、市民運動は、弱者の側から強者の側に発する問いでり、投げかけであり、異議申し立てでした。わたしは力を持たない弱者のまま、十全に生きようとすることにより、強者の論理を突き返してきました。
 ・・・・『無党派・市民派』は、女たちが暮らすそれぞれの場でかたちをかえ、拡散し、とてもひとつにはくくりきれません。しいていえば、力を持たない 『弱者の論理でする政治』でしょうか。
 わたしたちの、政治のかかわり方が新しいのは、利権や既得権を持つことを望まず、ただ弱い立場の人に共感し、当事者として、その思いを実現したいと働いていることです。わたしたちは、議会で地域で、強者の論理をまず突き崩し弱者の論理を、ゆずらず主張します。わたし自身は、〈権力・権成>にかわる、新たなどんな<ちから>もほしくありません。とりあえずいまある権力を、強者の論理を、生きているあらゆる場面で〈無化>していきたい。その先にあるものは、少なくともいまよりはフラットな、いまよりはましなものではないでしょうか。
・・・・わたしは人生をかけて、ぶつけられた石に対して石を投げ返すのではない、やられたらやり返すのではない、弱者が投げかえすことのできる言葉を探しています。わたしはいまの政治の、すべての強者の既得権を疑い異議を申し立て、支配され差別される側からの 『弱者の政治』をつくりたい」と。

「わたしのことは私が決めたい」すべての人が市民 

 わたしは、家族から「いらない子」と言われ、存在を否定されて育った。たったひとりのの友人だったエリちゃんとは幼いころに引き裂かれるように別れた。アリシアさんとハルちゃんは、たしかに存在し、わたしといっしょに暮らした。
 3年前の夏、わたしは、自分の子ども時代を思い、在日のエリちゃんを思い、アリシアさんと子どもたちのことを思い、市民ってなんだろうと考えつづけた。
 その年の12月、わたしは一冊の本を書いた。上野千鶴子さんプロデュースの 『市民派議員になるための本』(学陽書房・2002)。この本のなかで「市民とはだれか?」という問いに、わたしはこう答えている。
 「自治体の当事者は、すべてのわたし。この本では 『わたしのことはわたしが決めたい』すべてのひとびとを『市民』と呼ぶことにします」
 幼かったわたしも、エリちゃんも、アリシアさんもハルちゃんも、みんな「市民」だ。彼女とわたしをわけたものはなんだったんだろう。彼らとわたしをわけたものは、なんだったんだろう。
 わたしはいま、2冊目の本を書いている。『市民派政治を実現するための本-わたしのことはわたしが決める』(発行‥コモンズ)。この4月刊行予定で、上野千鶴子さんとごとう尚子さんとの共編著である。「市民派政治」は、わたしが問いつづけたものへの、ひとつの答えのような気がする。
 ひとの唯一のお仕事は、ただ「生きる」ことだと思う。人を人として生きさせない政治があるなら、変えるべきは、人ではなく政治である。
Volo(ウォロ)2004年4月号(No.394 大阪ボランティア協会)


30年ぶりに再会したエリちゃんは諮問押捺を拒否し、
わたしは彼女に寄り添って、わたしにできる支援運動をしました。

その後、岐阜を離れたエリちゃんと、
『市民派議員になるための本』を書いたあと、ふたたび再会しました。
彼女の願いは、
「死ぬまでに、わたしが生まれたこの国で、一度でよいから投票したい」。

彼女たちのかなしみと怒りをこころに刻んで、
わたしは「政治」にかかわり続けています。




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