雨模様の6月にイキイキと咲きます。
めずらしい花野鉢を格安で買ってきて、
紫陽花の種類を増やしてきました。
なかでも好きなのは、赤花の「ミカコ」。
なばなの里で出会って、一目ぼれ。
鉢で植え替えず、すぐに地面におろしてやりました。
花は大きく、一株に咲く花を少なくすれば、
30センチほどの超大輪になるそうです。
ほぼ放任で育てているのですが、
20センチほどの大輪花が10輪ほど咲いています。
白花で好きなのは「アナベル」。
厳密にいうと、あじさいではないのですが、
ボール状に咲く純白の花がよいですね。
咲きはじめは黄緑、徐々に色が抜けて白くなります。
けっこう長い間咲いていて、
花が終わっても、汚くならないのもよいですね。
切り花にして花瓶に活けておくと、
自然に味わいのあるドライフラワーになります。
アナベルのお隣に、ピンクアナベルも植えてやりました。
カシワバアジサイは地植えにすると背が高くなって、
ボリュームがあります。、
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ところで、
きょうの中日新聞と朝日新聞の社説。
どちらも政治家と官僚の関係
「公務員とはなにか」を問うものです。
社説:憲法70年 公務員はだれのために 2017年6月25日 朝日新聞 公務員はだれのために働いているのか。そう嘆かざるをえないできごとが相次いでいる。 安倍首相の妻昭恵氏が名誉校長としてかかわった森友学園への国有地売却で、財務省が異例の対応をしていた実態を示す資料が次々と明らかになった。 首相の友人が理事長を務める加計学園の獣医学部新設計画では、内閣府が「総理のご意向」だとして文部科学省に手続きを促していたとする内部文書が判明した。 公平、中立であるべき公務員の姿が大きく揺らいでいる。 ■「全体の奉仕者」に 明治憲法下における「天皇の官吏」は、新憲法のもとで、主権者である国民のために働く公務員へと大きく転換した。 憲法15条が「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めるのは、その宣言である。 戦後70年余、多くの官僚の働きが日本を支えてきたことは確かだ。だが、官僚機構が総体として「全体の奉仕者」の使命を果たしてきたかといえば、必ずしもそうとは言えない。 戦前の官僚主導の行政機構は戦後も温存された。占領当局が日本統治にあたり、国内事情を熟知する官僚に依存したこと、多くの政治家が公職追放を受けたことなどが背景にある。 官僚が族議員の力を借り、省益や業界益の実現を図る。そんな政官のもちつもたれつの関係が成立した時代もあった。 しかし政官の癒着やタテ割り行政のひずみが広がり、経済成長の鈍化も加わって、政治主導によるトップダウンの政策決定がめざされるようになった。安倍政権が2014年に内閣人事局を設置したのも、1980年代末からの一連の政治改革の延長線上にある。 ■内閣人事局の副作用 内閣人事局の設置で、中央官庁で働く約4万人の国家公務員のうち、事務次官や局長ら約600人の人事に首相や官房長官が直接かかわるようになった。 それにより首相官邸が官僚機構の人事権を掌握したが、現状は副作用も大きい。 多くの官僚が、官邸の不興を買うことを恐れ萎縮している。「官邸の意向」を過度に忖度(そんたく)し、「時の権力への奉仕者」と化してしまってはいないか。 元自治省課長で総務相もつとめた片山善博・早稲田大教授は「今の霞が関は『物言えば唇寒し』の状況。内閣人事局発足以降、この風潮が強まっている」と朝日新聞に語っている。 もちろんすべての官僚をひとくくりにはできない。加計問題で、「怪文書」と断じた政権に追従せず、「総理のご意向」文書の存在を証言した文科省職員らを忘れるわけにはいかない。 とはいえ、衆参で与党が圧倒的多数の議席を占める「安倍1強」のもとで、国会による政権の監視が弱まり、立法府と行政府の均衡と抑制が機能不全に陥っている。そのうえに官僚が中立性を失い、政権と官僚の相互チェックが損なわれていることの弊害は極めて大きい。 では政と官のあるべき関係とはどういうものか。 政策決定に当たっては、選挙で国民に選ばれた政治家が方向性を示す。官僚は具体化するための選択肢を示し、政治家が最終判断する。それが望ましい政官関係のあり方だろう。 同時に、官僚は政治家にただ従えばいいわけではない。政治家の過ちには異議を唱え、説得に努めることも欠かせない。 「変化」に敏感で、状況に応じて方向を決める政治家。「継続」を重んじ、中立性を旨に行政を安定させる官僚――。両者の役割分担によって適切な緊張関係が生まれれば、惰性を排することにも、過度な振幅を抑えることにもつながる。 ■「政と官」再構想を 日本と同じ議院内閣制で、一連の政治改革のモデルとされた英国の事情はどうだろう。 「英国では政策決定はトップダウンの政治主導だが、人事は必ずしも政治主導ではない」 内山融・東大教授(政治学)はこう解説する。 「省庁の次官や局長級人事については、政治の干渉を受けない国家公務員人事委員会が選考委員会をつくって候補者1人を首相に推薦する。首相はその人事を拒否できるが、その場合はもう一度、委員会で選考し直すことになる。そうすることで中立性が保たれる仕組みだ」 日本の官僚機構に中立性を育むために何が必要か。 まず政権が人事権を乱用し、官僚に過度の圧力をかけるようなことはあってはならない。 そして、官僚は「全体の奉仕者」としての仕事ぶりを主権者である国民に十分に開示し、チェックを受ける必要がある。 そのためにも、政策形成にかかわる公文書をより厳格に管理し、積極的に情報公開することから始めなければならない。 そのうえで人事制度の見直しを含め、政と官のあるべき関係を構想し直す時ではないか。 |
社説:政治家と官僚と国民と 週のはじめに考える 2017年6月25日 中日新聞 国会は閉じても加計(かけ)学園問題の幕引きは許されません。事の本質は、政治家と官僚が敵対する傍らで真に国民のための行政が蔑ろ(ないがし)にされていることです。 「森友」「加計」問題と続いた一連の“忖度(そんたく)行政”ではっきりしたのは、安倍政権による霞が関支配の極端な強さでした。 「総理のご意向」などを後ろ盾に、官僚を忖度の糸で操り、政権に歯向かう者には人格攻撃まで仕掛けて抵抗を封じる。ここまで強権の支配力は一体、どこからくるのでしょうか。二つの断面から切り取ってみます。 補い合う関係だった 一つは歴史的な背景です。 戦後日本の政治家と官僚は補い合う関係でした。復興期、官僚たちもまだ貧しい社会の一員に身を置いて、いつか豊かな時代を切り開こうと気概に燃えていたはずです。安定政権の高度成長戦略に呼応し、官僚は成長成果の公平な配分政策で支える。こうした関係が繁栄の礎にもなりました。 けれど、成長が行き詰まるにつれ、この関係も崩れていきます。かれこれ四半世紀前の一時期。まず主導権を握ったのは官僚側でした。ヤマ場は、一九九四年二月三日、未明の記者会見です。 非自民の八党派連立政権を率いる細川護熙(もりひろ)首相は突如「消費税を福祉目的税に改め、税率を3%から7%に引き上げる」国民福祉税の構想をぶち上げたのでした。 消費税の増税を軸とする財政改革は大蔵省(現財務省)の悲願。対する連立の政権基盤はまだ薄い。細川氏や側近の回顧録によればこの当時、大蔵省の“豪腕”事務次官らが、新政権の中枢にしきりに接触してくる様子がうかがえます。 細川氏の日記には、あまりに強硬な官僚主導に対し、首相が気色ばむ場面も出てきます。 敵対関係に駄目押し 「大蔵省のみ残りて政権が潰(つぶ)れかねぬような決断は不可と強く叱正(しっせい)す」。民主主義の基本に沿えば官僚は、選挙を経た政治家の下に立って支えるのが、本来あるべき姿です。首相の叱正は、政治側の意地でもあったでしょう。 結局、最後は官僚側に押し切られた末の未明の会見でしたが、強引さが批判され、細川政権はこの二カ月後崩壊。大蔵省もその後、政治側の“意趣返し”で本省から金融部局を分離され、権威はみるみる失墜していきました。 こうして政治との敵対関係から始まった官僚の弱体化は、歯止めなく一方的でした。極め付きは二〇〇九年九月、官僚が事実上、閣議を振り付けていた「事務次官会議」の廃止です。歴史の振り子は勢いを増して、政治主導の極端へと振り切れていきました。 そして、もう一つの断面。その振り子に駄目を押したのが、内閣人事局の存在です。縦割り行政打破の名の下に、国家公務員の人事を首相官邸で一元管理するため一四年に設置されました。加計問題で渦中の萩生田(はぎうだ)光一・内閣官房副長官が今の局長です。 問題は、官僚側の命脈である省庁の幹部人事が一括、ここに握られていることです。それがために官僚たちは、省庁の行政判断よりも、政権の意向を忖度して動くことで組織を守ろうと考えるようになる。その結果が都合悪くなれば政権は「勝手に忖度した」官僚側の責任にもできる。となれば、これが加計問題に浮かんだ「官邸一強」のやはり正体でしょう。 しかし、内閣人事局の仕事は何も幹部人事だけではない。本旨はむしろ、国の将来も見据えて行政基盤をしっかりと支えうる官僚集団を育成し、未来に引き継いでいくことです。次に続く人材を確保するためにも、官僚たちが士気高く働けるような環境作りが重要でしょう。 その士気を高めるためにこそ、求められるのは政治側から官僚側への歩み寄りです。共に国民生活の向上へ。政治家は政策決定力を今以上に磨き、官僚も共感して情報力や知識力で支える。たとえばあの戦後のような補い合う関係に再び歩み寄れないものか。 今と将来に共同責任 いま私たちが立ち返ってみるべきは、国民主権を謳(うた)う憲法上、政治家は「全国民の代表」であり、官僚は「全体の奉仕者」ということです。行政に携わる政治家と官僚には、今と将来の国民に負うべき共同の責任があるはずです。両者が敵対する関係では、到底その責任は果たしえないでしょう。 歩み寄りなどとは対極の加計問題で、現政権が見せた一方的な官僚支配は、官僚たちの士気を高めるはずもなく、官僚を志す次代の若者たちをも遠ざけかねない。それは現代のみならず、未来の国民に対しても、国の行政基盤を築く政治の責任放棄として、禍根を残すのかもしれません。 |
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