常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

荒城の月

2012年12月15日 | 日記


沈む夕日を見ていると、ふと「荒城の月」が思い出された。昔、学生のころ、酒を酌み交わしながら歌ったものである。ネットで検索してみると、佐藤しのぶの朗誦がいくつもヒットした。久しぶりにきいた曲の調べは、懐かしく胸に響いてくる。学生のころ、寮歌になっていた新体詩は、青年の血潮を揺するような響きがあったが、いまの音楽シーンでは顧みられることも少なくなった。

仙台第二高等学校で教鞭をとっていた土井晩翠が東京音楽学校の求めに応じて作詞したものであるから、荒城は青葉城のイメージが強いが、この作詞の前に晩翠が訪れた会津鶴ヶ城のイメージが重ねられていることに注目しなければならない。

来年のNHKの大河ドラマは新島襄ということだが、この妻になる山本八重子は鶴ヶ城の奥御殿奉仕をしていたが、白虎隊の自刃の姿をみて、矢をもって城の白壁にしるしたという歌が残っている。

明日よりはいづくの誰か眺むらん馴れし大城に残る月影

このエピソードを知った晩翠は、青葉城に加えて、鶴ヶ城のイメージを詩に盛り込んだのであった。

春高楼の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝わけ出でし
昔の光いまいづこ。

秋陣営の霜の色
鳴き行く雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。

いま荒城のよはの月
変わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら
松に歌ふはただあらし。

2番の「植うるつるぎ」にこそ、白虎隊のイメージが込められているのではないか。矢尽き、刀折れた白虎隊の血のついたつるぎは、隊士たちの自刃の庭にうち立てられたであろう。その刀を照らすのは、荒城の上にさしかかる月の光である。

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売炭翁

2012年12月14日 | 日記


白居易は772年、河南省に生まれた。字は楽天である。生家は代々の地方官僚で家柄としてはいいものではなかった。だが、時代が彼を世に出した。16歳で詩壇の長老に詩の才能を認められ、28歳で郷試に合格して都長安に出る。翌年、進士となり、さらに上級試験を突破して、社会正義に燃える高級官僚の道へと進み、親友の元稹と組んで新風を巻き起こした。

わが国には、遣唐使によって楽天生前の「白氏文集」がもたらされ、菅原道真の漢詩文や「源氏物語」「枕草子」に大きな影響を与え、「和漢朗詠集」によって広く流布した。有名な「長恨歌」や「琵琶行」などがもてはやされる反面、彼の真骨頂である諷喩詩は顧みられなかった。「売炭翁」はその諷喩詩の代表格である。

炭(すみ)を売る翁
薪を伐り炭を焼く 南山の中
満面の塵灰 煙火の色
両鬢蒼蒼 十指黒し
炭を売り銭を得て 何の営む所ぞ
身上の衣装 口中の食
憐れむべし 身上衣正に単なり
心に炭の賎きを憂え 天の寒からんことを願う
夜来城外一尺の雪
暁に炭車を駕して氷轍を輾らしむ
牛困れ人飢えて 日巳に高く
市の南門外にて 泥中に歇む
翩翩たる両騎 来たるは是れ誰ぞ
黄衣の使者と白衫の児
手に文書を把って口に勅と称し
車を廻らし牛を叱して牽いて北に向かわしむ
一車の炭の重さ千余斤
宮使駆り将ちて惜しみ得ず
半疋の紅綃一丈の綾
牛頭に撃けて炭の直に充つ

単の衣服しか着れない翁が、炭の値が上がるのを期待して、もっと寒くなれと切ない願いを吐露する。宮廷の使者は、勅命と称して、一車の炭をわずかの絹織で買上げてしまった。これは、概算600文で米4升分の値段に過ぎない。この横暴に異を唱えることも出来ずにいる売炭翁が、一尺の雪の中の寒さにうち震えている。

楽天は、文字を知らない老婆に読んで聞かせ、老婆が分からない部分は書き直したという逸話があるほど、平明で分かり易い詩文を心がけた。詩壇では、楽天を評して俗としたが、いっこうに気に止めなかったという。

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シャボン玉考

2012年12月13日 | 日記


童謡に「シャボン玉」というのがある。誰もが一度は歌った懐かしい歌だ。そもそも、シャボン玉遊びとは、ストローに石鹸水をつけて吹くと、シャボン玉ができてふわりと飛んでいく。おもちゃのなかった時代の、子どもたちに親しまれた遊びであった。この遊びは、江戸時代には既にあったというから、日本の古い遊びではある。

この童謡の作詞者は、「赤い靴」や「十五夜お月さん」などの童謡を書いた野口雨情である。

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こはれて消えた
風 風 吹くな
シャボン飛ばそ

二番の歌詞には、雨情の夭折した長女と四女への思いが込められている。

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

雨情は生まれて間もなく死んでいった長女とシャボン玉のはかなさを重ね合わせたのだが、この歌が昭和の飢饉で売られて苦界に沈んでいった遊女たちに歌われていた事実がある。年季が明けて、早く親元へ帰りたい遊女たちは、その思いを込めて、シャボン玉を塀の外へ向けて飛ばした。だがその思いは叶えられることはなく、はかなく消えていく。

小沢昭一の追悼番組で、この「シャボン玉」を唄うシーンが放映された。小沢一流のジョークで今は、童謡ではなく老謡だと言って笑いを取りながら、この歌を唄った。小沢の歌は、その背景へのコメントはなかったが、その素朴な調子は、歌詞の底に深い悲しみがこもっていた。

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白い瀧山

2012年12月12日 | 日記


冬の日は、天候の変化が目まぐるしい。雪雲に覆われて薄暗い日だと思っていたら、雲がとれて、瀧山の白い冠雪に午後の日があたって輝いていた。いずれにしても、周囲を山に囲まれた山形は、いろいろな表情の山並みに見守らて、一日を過ごす。刻々と変わる山並みの表情が、一瞬たりともとどまっていないことに、いまさらのように驚く。

雪の景色を眺めながら、少年のころ過ごした雪景色の印象が自分のなかで希薄になっていることに気づく。景色よりも、吹く風の冷たさや朝の凍てつく空気のようなものばかりが思い出される。そんな記憶を補ってくれるのが、若き日に北海道にわたり、雪の中に北海道の人情を見出した石川啄木の和歌である。

空知川雪に埋れて
鳥も見えず
岸辺の林に人ひとりゐき

寂寞を敵とし友とし
雪のなかに
長き一生を送る人もあり

啄木が北海道に渡るのは、明治40年5月、22歳の時である。函館での代用教員を皮切りに、札幌で新聞記者となり、一年の間に小樽、釧路でペンを持って北海道を渡り歩いた。

雪のなか
処処に屋根見えて
煙突の煙うすくも空にまよえり

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町に歩み入りたり

啄木が北海道に留まったのはわずか一年にも満たないが、ここで詠んだ歌は巧みに北海道の自然と人情を歌い上げている。啄木が北海道の人々から、かくも長く親しまれている所以であろう。

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沢庵漬け

2012年12月11日 | 日記


先月漬け込んだ沢庵漬けがそろそろ食べられそうだ。我が家では、ベランダで干した大根をよく揉んで、渇いた柿の皮と塩で漬け込む。大根も柿も、尾花沢の親戚からいただいたものである。渋柿は皮を剥いて、ベランダに吊るして干し柿にする。先日、出来立てを山に持参して仲間に試食してもらったら大好評であった。剥いた皮はむだにせず、やはり干して沢庵漬けに使う。柿の皮の甘みが大根の沁みこんでおいしい沢庵になる。

1645年(正保2年)12月11日は沢庵和尚の没した日である。紫衣事件に巻き込まれた沢庵和尚が、出羽の国上山に流されたのは、1629年8月のことである。沢庵和尚は上山藩主土岐頼行から草庵を贈られここを住処とし、春雨庵と名づけた。雪深い上山で、沢庵和尚は農家の人々と一緒に工夫を重ね、大根を干して糠と塩で漬け込む「貯え漬け」を考案した。冬の間のビタミンCの補給源として、人々から愛される保存食となった。

沢庵和尚は3年後、罪を許され江戸品川の東海寺の住職となった。ある日、将軍家光が東海寺を訪れた。急な訪問であったので、もてなす食べものもなかったので、「貯え付け」を出して茶を勧めたところ、家光は大いに喜び、「沢庵漬け」と名づけたらよかろうと言った。これが沢庵漬けのはじまりである。はたして本当なのか、確かめようもないが、ものの本にはこんな由来が書いてある。

きょう、小沢昭一の訃報が新聞に出た。この冬、森光子、中村勘三郎に続いての訃報である。ラジオから流れてくる、「小沢昭一の小沢昭一的心」は、車を運転しながら、つい聞き入ってしまう面白さがあった。映画でも、脇役でありながら、魅力を持った存在であった。また、昭和の名優が姿を消した。淋しい限りである。

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