常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

馬見ヶ崎川

2013年08月26日 | 日記


新聞の惜別の欄に日本寮歌振興会前会長神津康雄さんの「お別れの会」の様子が報じられた。2010年まで続いた「日本寮歌祭」で神津さんは旧制山形高校の寮歌「嗚呼乾坤」を熱唱したことが書かれている。この寮歌祭で神津さんが着用した羽織は毎年使うので、袖はボロボロ、色は羊羹色に変色していたと言う。

戦後、学制が変わったが、学生寮は旧制のものがそのまま使われた。木造2階建ての寮は6棟が並んで建てられ、一棟に二つの2人部屋と四つの6人部屋があった。夏は暑く、冬は寒い寮であったが、寝食を共にした寮生には他の学生にはない絆があった。寮歌も旧制の寮歌をそのまま引き継いだ。春の観桜会で馬見ヶ崎川原に繰り出し、酒を酌み歌うのはやはり「嗚呼乾坤(ああけんこん)」であった。

 1、嗚呼乾坤の春の色
   花永劫に悩ましく
   水村雨に煙るとき
   健児の胸に涙あり

 2、手走り飛べよ我が血潮
   夏野の花と散らば散れ
   夕の火雲仰ぎつつ
   駿馬を立つる馬見ヶ崎

馬見ヶ崎川原へ久しぶりに行って見た。盃山は対岸に小さく佇み、川原には夏草が生い茂っていた。神津さんも寮生同士で肩を組んだであろう風景は、当時とそれほど変わらないのではないか。ただ川は伏流水で常には水がなく、川底の石が露出しているのだが、今日は水が流れていた。先日の雨で水量が多いせいであろうか。

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秋思

2013年08月25日 | 漢詩


小三問題に揺れる中国の裁判の模様がテレビに放映された。被告人や参考人が検事からの質問に受けて答えるのだが、その言葉のやりとりに少しの知性も感じられず、実にいやな気がした。かつての豊饒な詩の国がどうしてしまったのか、暗澹たる思いである。確かに裁判のやりとりは事実の確認であるので、語彙は少ないかも知れないが、そこには人間の感情とか心のうちが読めるような言葉はなかった。

中唐の張籍に「秋思」という詩があるが、そこには家族を思う心が纏綿と吐露されている。

洛陽城裏 秋風を見る

家書を作らんと欲して 意(こころ)万重

復た恐る 忽忽説いて尽くさざるを

行人発するに臨んで又封を開く

家書とは、旅先へ家で留守をあづかる妻子への手紙である。旅先で郷里に帰る人に会って、手紙をしたためて届けるのを頼むのだが、短い時間で書いたので、言ってやることが抜けていないか心配になり、その手紙の封を切ってまた確かめているのだ。

この詩は詩吟の吟題にもなっていて、好きな詩である。何よりも、家族を思いやる心のありようが美しい。秋風の吹き始める季節には口をついて、この詩が出てくる。

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八ヶ岳 神さまのご褒美

2013年08月24日 | 登山


8月21日、12時半ころ美濃戸山荘から南沢のコースをとって行者小屋に向かう。山荘付近で見る八ヶ岳はガスにまかれて全体像が見えない。小屋の泊り客の情報で、明朝は9時から晴れ、午後3時ころから崩れるという話が聞え、期待感が高まるなか寝に就く。

8月22日午前5時、かなり深い霧、小屋の前で柔軟体操。別グループのツァーコンダクターが、「皆さん元気に体操しましょう。皆さんの元気で霧を吹き払いましょう」と声をかけて、全員で体操。行者小屋からは、中岳から阿弥陀岳に向かうコースをとる。登り始めて1時間も経たないうちに霧が払われて、時おり赤岳の頂上がその美しい姿を現す。登山中の人たちから喚声があがる。霧のなかから山容が見えるときは登山中の最も感動的な場面だ。このとき、山に入っている登山者の一体感が生まれる。

中岳から見上げる阿弥陀岳は、急峻で登れるかどうか、危ぶまれる感じである。阿弥陀岳を目指すメンバーは5名、リーダーと自分を除いて3名が女性である。ルートは危険な箇所には鎖やハシゴが設けられ、一歩一歩慎重に登ると意外に恐怖心もなく登頂できた。頂上でベテランの登山者が、付近に見える山の説明をしてくれる。ここからは遠く富士山が、少し大きめに見えている。

中山のコルで朝食(山小屋の弁当)。五目おこわがおいしい。ここでかわいい女子中学生と若い父の親子連れに会う。この日、山中でかなりの組の親子に会う。夏休み中の体験なのか、微笑ましい光景だ。この親子には、最後の小屋につく手前まで、抜きつ抜かれつ何度も会うことになる。少しづつ話かけているうち次第に打ち解けて、なんか家族のような雰囲気が出来上がっていった。



もうひとつうれしいことは、終わりかけのコマクサの花が、夏の終わりの岩稜を彩っていたことだ。保護をしている斜面には、見渡すかぎり一面にコマクサが風に揺れていた。

あどけない童女のくちびるほどにひそやかに
その赤禿げの焼石原に
駒草の花が咲いている     真壁 仁

蔵王のコマクサを謳った真壁仁の詩の一節が脳裏をよぎる。だが、その言葉を正確に辿るには書棚の詩集を開かなければならない。記憶を呼び起こすには、その詩集のどのページにその詩はあったか。なぜこの一節がこころに引っかかっているのか、詩集を開いて再確認する。こんな再確認をこり返すこと、それが老いを生きることの正体である。



山登りのもう一つの楽しみは、歩いてきた道を振りかえることである。あのががたる稜線に沿っている長くて細い道。よくもこの年老いた自分の足で歩きぬいてきたことか。それは人生の道に例えることも可能だ。キツい登りの後には開ける頂上があり、やがて疲れを癒してくれる小屋への下り道がある。

足元には色とりどりの花が咲き、アゲハチョウが羽を休めている。名の知れぬ小鳥が人を恐れる風もなく岩角に遊んでいる。見たことのない小さな鼠が岩かげから姿を現す。長く細い尾を垂らしている。

頂上を目前にした岩陰に休息をとっていると、先刻の親子が追いついてきた。二人とも満面の笑顔で我々のグループの近くで休み水分を補給している。中学生は素直で、父親の言葉をニコニコとして聞いている。そんな様子を見て昔、娘や孫と山登りしたことを思い出す。聞けば二人は年一度山登りをすることにしているという。この山に来て、若者の姿がとても多い。山は中高年ばかりという話はここでは通用しない。



頂上で記念撮影を終えて横岳へ向かう。赤岳の頂上を振り返ると、上は絵に描いたような青空だ。風も凪いで登山日和とはこういうのをさすのだろうと思った。苦労して登った老人に山の神さまがくれたご褒美だ。長く山登りをしているが、こんなにも恵まれた山登りは久しぶりのことだ。一緒に登った仲間たちも感激しているのがその笑顔でわかる。

横岳の砂礫の道を過ぎると硫黄岳とその裾に爆裂火口壁が巨大な口をあけている。ここは噴火して高い頂上が吹き飛んだところとの伝説もある。あたりにはコマクサが咲き、咲き残ったチシマギキョウがわずかに見つけることができたのみである。ツクモグサやオヤマノエンドウも期待していたがほとんど見つけることができない。



疲労した足を引きづりながら、二泊目の根石小屋に着く。屋根を風に飛ばされないように積んだ石と太陽光発電のパネルが不思議なコントラストだ。既に到着した先発隊が窓のなかから手を振っている。向こうの西日を受ける天狗岳が見えている。ここは風の通り道ですでに強い風が吹いていた。

この日夕日が赤く萌えた。夜中に風が小屋に吹きつける音が終夜聞えた。夕飯はハンバーグライス。心づくしのズッキーニのソテーがついていた。八ヶ岳の山小屋はどこの小屋も出来立ての夕飯を出してくれる。遠距離を歩いてきた身体にはおいしさが沁みるようだ。






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山上憶良

2013年08月20日 | 万葉集


万葉の歌人、山上憶良は数奇な生涯を送った。生まれは朝鮮半島百済、660年のころに生まれた。当時の朝鮮半島は、新羅と百済が覇を競っていた。663年、唐と結んだ新羅は百済の征服に成功する。憶良は祖国を失う。百済と日本は同盟を結んでいたから、その支配階級であった人々の多くは日本へ亡命した。憶良の父であった憶仁は近江に住んだ。医者であったので、その医術で一家の生業としたのであった。憶仁は686年に死亡した。憶良が27歳のときである。

父を亡くしてから、憶良はどうして生きのびたか定かではない。赤貧の暮らしであったであろう。万葉集に収められている憶良の歌を見ても、その赤貧の暮らしが時おり顔を見せる。憶良に転機が訪れるのは、遣唐使の書記官に任命されたことだ。当時の航海技術では、船がその役割を果たして戻ってくる確率は低い。成功すれば唐の文物を持ち帰ることができるが、失敗すれば海の藻屑だ。だが、どうやら無事戻ることができた憶良はようやく日の目を見る。

その漢字の知識により、役人として出世していった。伯耆の国や筑前の国で長官を務め、62歳のときには皇太子の教授の地位にさへ就いた。百済から渡ってきて、当時の知識階級のなかで勉学に勤めたことがこの幸運をもたらしたのであろう。だが筑前から帰ってから、病が憶良の身体を蝕んでいった。

親友の藤原八束が、手紙を書いて病床の憶良を見舞った。憶良は見舞いの口上にお礼を述べた。だが、憶良の目からぼろぼろと涙が溢れた。静かな口調で歌を詠んでその時の思いを吐露した。

士(おのこ)やも空しくあるべき万代に 語りつぐべき名は立てずして 山上憶良

男子たるもの空しく朽ち果ててはならない。後の万代まで語り継がれるような名を立てないで」。病を得た憶良が流した涙は、自分の名は語り継がれるようなものではないことへの悔しさを秘めていた。だが、憶良の名は1400年の後のいまに至る世まで、語り継がれ、読み継がれている。
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憧れの八ヶ岳

2013年08月19日 | 登山


今週の登山は八ヶ岳だ。もう15年も前だが、赤岳鉱泉から見た、夕日に照らされて赤く輝く赤岳の姿が忘れられない。このときの登山は台風一過で、登山者はいなく、あたかも我がグループが赤岳を独占したような感があった。そのときからみれば、体力の衰えは隠しようがない。いま一度八ヶ岳に、それは悲願であり、人生の最終期に光をあてる憧れでもある。

岩崩えの赤岳山に今ぞ照る 光は粗し目に沁みにけり 島木 赤彦

今回のルートは行者小屋に泊って、文三郎道を通って赤岳に至りここから北を目指す。横岳三叉峰から奥の院、硫黄岳にいたる稜線は2800m級の岩峰を連ねるアルペンだ。その先の根石山荘で泊る。翌日の北八つは、打って変わってコメツガやシラビソの深々と樹林帯のなかを日ざしを避けて通る。陰陽ふたつの山を楽しむ計画になっている。

いまのところ八ヶ岳を中心にした山岳の気候は、△マークだ。登山にはあまり適さないとの表示である。大雨や暴風というほどでもないが、霧雨もありで、風は7mである。20日からの山行を一日ずらすか、中止にするか決断を迫られている。

八ヶ岳は長野県から山梨県にまたがる広域な山域である。火山活動のため山頂部が吹き飛んだという伝説もある。もし本当なら、富士山と肩を並べる山であったかも知れない。その昔、富士山と八ヶ岳が背比べをした。八ヶ岳の方が高かったので、怒った富士山が頭を蹴飛ばしたという昔話も伝わっている。


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