常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

雪の降る街を

2014年12月26日 | 日記


きのうから雪が降り続いている。今日は、少し陽射しが出ているが、なお雪は止まない。この冬は暖冬という長期予報もあったようだが、どうやら外れたようだ。雪が降るのを見ていると、昔歌われた「雪の降る街を」を思い出す。NHKの「みんなの歌」で放送されて、歌手は立川澄人であった。この歌を作詞したのは、内村直也で山形県の鶴岡に住む友人の家に滞在したとき降る雪を見て作詞したという。

雪の降るまちを 雪のふるまちを
思い出だけが通りすぎてゆく
雪の降るまちを 遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日かつつまん
あたたかき幸福のほほえみ

昭和51年、敗戦の記憶がまだまだ生々しいころ、この歌はヒットして、多くの人に口ずさまれた。思い出といっても、辛く悲しいものばかりである。やがて来る春の陽射しが、悲しい心を包んでくれるのを待ちわびる歌だ。この歌に癒される、冷たい雪のなかに震えながら、縮こまった心があった。


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空知川

2014年12月25日 | 日記


空知川雪に埋もれて

鳥も見えず

岸辺の林に人ひとりゐき

この12月は、爆弾低気圧をはじめ、北海道に大雪を降らせている。親戚が深川に住んでいるので
ついニュースで北海道の情報に気をとられる。石川啄木も、北海道の暴風雪の洗礼を受けている。啄木が北海道へ渡り、小樽で新聞記者になったのは、明治40年(1904)9月のことであった。だが、12月になって新聞社の事務長と意見があわず、殴り合い事件を起こし、退社。小樽を離れ、こんどは釧路の新聞社になった。

冒頭の歌は、釧路へ向かう汽車のなかで、車窓から見える風景を詠んだものである。旭川を過ぎて下富良野からは、汽車は空知川に沿って東へ走る。

ごおと鳴る凩のあと

乾きたる雪舞ひたちて

林を包めり

北海道の自然の厳しさを17文字のなかに切り取ることができるのは、その才能が並みのものでない証左であろう。


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クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記


クリスマスイブを老妻とローストチキン、赤ワイン、ケーキで祝ってみた。思い出すのは、40年以上前の、子どもたちと過ごしたクリスマスだ。無水鍋で、近所の養鶏家から廃鳥を安く譲ってもらい、一羽ごと蒸し焼きにして、大騒ぎしながら食べたことだ。クリスチャンでもない身で、なぜクリスマスを祝うのか、深く考えないで、食べ楽しむイブである。

子へ贈る本が箪笥に聖夜待つ 大島 民部

こんな記憶も遠い時間のかなたである。餅や焼肉用の肉、心づくしを詰め合わせて子どもたちへ贈る。クリスマスの次は、お正月である。


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与謝蕪村

2014年12月24日 | 


与謝蕪村は俳諧で名をなしていたが、宗匠の道に進まず、清貧に甘んじた。一汁一菜、シンプルな食卓であった。歳の瀬になると門口に、狂歌を下げて掛取りを驚かした。

首くくる縄切れもなし年の暮

この歌を見て、掛取りは声もかけず去って行った。どこか憎めないところが蕪村にはあったのであろう。摂津国東成郡天王寺村が蕪村が育った村である。大阪と神戸との間の地域で、天王寺蕪の産地として有名である。蕪村は、この蕪に因んだ名である。蕪村の母はこの村にほど近い毛馬村の貧農の娘で、大阪の大店に奉公に出た。店の主人が、田舎娘のけなげですくよかな姿に惹かれるところがあって、手をつけてしまった。生まれたのが、蕪村である。生まれた所を回想して作られた「春風馬堤曲」にある馬堤とは、郷里の毛馬の堤のことだ。

春風や堤長うして家遠し

蕪村もやはり母のもとを離れて大阪に奉公に出た。商家での奉公は、蕪村には向いていないようであった。薮入りで、母のもとに帰るのが唯一の楽しみであった。絵描きとしても認められ、画と俳諧で名をなしたが、ほかの宗匠たちのように銭かせぎに頓着しない性格であった。

一人娘がいたが、名をくの、とつけ可愛がった。蕪村が60歳を迎えたころ、くのに良縁があり嫁入りをさせて喜んだ。知人への手紙に、「良縁在之宜所に片付け、老心をやすんじ候」と書いている。ところが、嫁いでみると、舅がひどく貪欲で、嫁を働きづめにした。手を傷めても、休みももらえないので、蕪村のもてへ里帰りした。くのの話を聞いた蕪村は怒って、そのまま離縁させてしまった。

案外と世間知らずの蕪村は娘の縁談だけではなく、門人たちへも信用しすぎて、裏切られるということもしばしばあった。天明3年12月24日、病床にあった蕪村は、小康をとりもどしていた。明け方、門弟に硯の用意をさせて筆をとった。

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村

この句が、蕪村が残した最後の句であった。

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いざ鎌倉

2014年12月23日 | 日記


危急存亡のとき、「いざ鎌倉」とばかりに一族郎党がはせ参じる。これは、謡曲「鉢の木」によって広まった話である。僧の姿をして諸国を視察していた先の執権北条時頼が、佐野の郷で大雪に降られて、万やむを得ず貧家に一夜の宿をとった。主人の常世は、訴訟に敗れ落ちぶれていたが、客を栗飯を炊いてもてなし、夜更けに寒さが厳しくなると、大切にしていた梅、松、桜の鉢上の銘木を伐り、暖をとってもてなした。

その客が北条時頼であることも知らず、「このように落ちぶれた身ではありますが、鎌倉に大事があれば、はせ参じる所存です」と忠誠心を吐露した。時頼が鎌倉にもどり軍勢を召集すると、痩せ馬に乗って、常代が駆けつけてきた。ここで時頼と常世は再会するが、あの僧が北条時頼であることを知って驚く。

時頼は常世の忠誠を愛で、梅・桜・松にちなんで加賀国の梅田庄、越中国の桜井庄、上野国の松井田庄の三つの庄園を 恩賞として与えた。


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