常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

漱石、最後の言葉

2014年12月09日 | 


夏目漱石が帰らぬ人となったのは、大正5年(1916)12月9日のことである。つい、20日ほど前、11月21日には、朝日新聞に連載中の『明暗』188回を書き終え、胃の痛みがあったものの辰野隆の結婚式に出席した。その無理が祟ったのか、その翌日から病の床に着き、ついに『明暗』の原稿を書くことができないような病状を呈した。病状が悪化していくなか、主治医の真鍋嘉一郎が連日漱石宅へ往診した。

症状が好転しないまま11月28日を迎える。夜半12時近くなって、漱石は突然起き上がり、妻の鏡子を呼んだ。「頭がどうかしている、水をかけてくれ」と言う。驚く鏡子に「うん」と言ったまま、意識を無くした。看護婦を呼び、夢中で薬缶の水を頭にかけた。やっと息を吹き返した漱石は身ぶるいしながら、「あヽ、いい気持ちだ。ほんとにいヽ気持ちだ」と言った。

12月2日には小康を得た。気分がよく、食欲も出た。午後3時になって便意を催し、便器を使った。だがここで力んだために、再び内臓出血をを起こし、またしても意識不明となる。医師の必死の加療で意識を取り戻した。しかし、胃壁の出血があるため、食事を控える。そのため体力が日に日に衰弱していく。12月8日は朝から脈拍が速くなっている。重湯、牛乳などをほんの少量とるが、体力の衰弱は進む一方である。言葉を発することも少なく、昏睡を続ける。

12月9日、この日は土曜日であった。学校へ通っている子どもたちを通学させるべきか迷った鏡子は医師に聞く。「今日は半日だからかまわないでしょう。」午前中には、危篤の知らせを受けて、近親者、友人、知己、門下生ら30人あまりが、漱石の病室に集まっていた。正午を過ぎると、小学4年生になっていたアイが帰ってきて、ただならぬ病室の様子に泣き出してしまった。妻の鏡子が「泣くんじゃない」と叱ると、いままで昏睡していた漱石が目を開き、「泣いてもいいよ」と言った。これが、漱石が発した最後の言葉であった。鏡子は純一と伸六を迎えに行き、二人が枕元に坐ると、漱石は再びパッと目を開いてにこっと笑った。

午後6時30分、引きつるような荒い息のあと、突然息を引き取った。主治医の真鍋嘉一郎は「お気の毒でございます」と言って、静かに頭を下げた。

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ひと安心

2014年12月08日 | 日記


知人から頼まれて年賀状を作っていた。無料のデザインをダウンロードしていているとき、多分よく見ないで間違ったと思うが、しつこい広告サイトがネットを乗っ取るように出始めた。xで消しても、ネットのページにアクセスするたびにこの広告が現れる。「パソコンの速度を早くしませんか」とか「このPCはクラッシュ寸前です」などの広告が踊り、挙句ににはポルノサイトが登場する始末。

パソコンを使っている娘に電話してみるとパソコンへの埋め込み式の広告サイトで悪質とのこと。削除の方法や「詐欺的広告サイトアドウェアの削除」を勧められる。話の通りにアンチマルウェアをダウンロードして、この広告サイトからの攻撃をブロックした。やっとしつこい攻撃から逃れてひと安心。義母の家に南天の実を撮影に行く。実は折からの雪と寒さで、いっそう赤みを増し、枝いっぱいに実がついていた。今年も正月の飾りに、南天の実を採る予定である。


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瀧山

2014年12月07日 | 登山


午後の陽射しで千歳山の雪ははやくも半減し、その後ろにある瀧山が白く輝いた。こんなに美しく見える瀧山は年に何度もない。この山は蔵王の外輪山で、標高1362m。この山の後ろ側には蔵王スキージャンプ場がある。このスキージャンプ場ではワールドカップも行われ、高梨沙羅選手が何度も優勝したジャン場だ。

毎年、冬に登山をする。ほとんど里山が中心だが、唯一この瀧山だけは頂上から冬のアルペンの気分を味わえる山である。細い尾根は一ヶ所だけ、ロープを張って安全を確保する。誤って滑落すると、ぶなの木に激突して大怪我をする危険がある。この冬も来年2月に登る計画がある。

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大雪

2014年12月07日 | 日記


今日は二十四節気の大雪である。大雪の降る節気という意味であるが、暦と現実では大抵暦先行となっているが、今年はこの節気に先駆けて大雪となった。きのうまでの雪が止んで、日がさした。朝の日光のもとの雪景色は美しい。雪の被害で苦しんでいる人のことを思えば、その美しさに見とれているのは心苦しいが、人間の悩みを一瞬忘れさせる瞬間だ。

雪ふれば 冬ごもりせる草も木も 春に知られぬ花ぞさきける 紀貫之

古今和歌集を編纂した紀貫之の歌である。その巻頭にある仮名序は、編者紀貫之の筆になるものである。「春の朝に花のちるを見、秋の夕ぐれに木の葉の落つるをきヽ、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波とを嘆き、草の露、水の泡を見て、我が身をおどろき、あるは昨日は栄えおごりて、時を失ひ、世にわび、親しかしもうとくなり」と歌の心の真髄を書きつくしている。

紀貫之の晩年に書いた『土佐日記』は、男の手になる初めての仮名日記の試みであった。旅日記という虚構を借りて、明るいユーモアと沈痛な心情をたくみに表現している。国司として赴任した土地、土佐を船の旅で京都へ帰る紀行を日を追って書いたものであるが、海に出没する海賊への言及も見られる。

舟君なる人波を見て、「国よりはじめて、海賊むくいせむといふいふなることをおもふ上に、海のまた恐ろしければ、かしらもみな白けぬ。七十路八十路は海にあるものなり」

日記の主題は土佐で亡くした娘への追悼である。

都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり


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寒波

2014年12月06日 | 日記


北極にある冷たい空気は、寒波となってヨーロッパ、アメリカそして日本を含むアジアへと吹き出す。季節はずれの台風22号が、この寒波を日本の方へ引き寄せている。そのため、真冬なみの寒波が今週いっぱい居座って、日本列島に大雪をもたらしている。四国で積雪のため、トラックが立往生せている映像を見たが、本来暖かい四国で、雪の被害が出るのは珍しいことである。今日予定していた山行も、悪天候を嫌って中止となった。

寒波兆す雀屋根より地にはずみ 山崎ひさを

厳しい寒波が来ると、冬将軍と表現されることがある。これはナポレオンがロシアに攻め込んだときのことから生まれた言葉だ。ナポレポンはロシア軍の徹底した抵抗に加え、厳しい寒さに禍いされて、ついにモスクワを攻め取ることができなかった。冬将軍はロシアにとってもう一つの戦力であった。日本の神風に似た表現である。

ロシアにはマロースと呼ばれる雪の服を着て、氷の靴を履いた白髭のじいさんが、この寒波を持ってくると信じられていた。農民たちは春の作物に寒害がないのを願って、このじいさんをもてなす風習があった。いわばサンタクロースの原型である。


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