常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

石竹

2020年05月16日 | 日記
待っていた雨が降らない。野菜の苗たちに水をやりに畑に出かける。植え付けて3日目だが、ようやく生き残ったような感じである。途中、石竹が群がって咲いていた。世の中は密集が禁じられているが、石竹が肩を寄せるようにして咲いている様子はほほ笑ましい。石竹といえば、撫子の仲間である。日本原産のものは、河原撫子と呼ばれる。こちらは花びらの間の切り込みが深い。いわゆる大和撫子だ。石竹は中国から来たもので、唐撫子とも言われる。撫子が秋の七草であるのに対して、石竹は6月ごろには花をつける。今年は、さらに早い開花のようだ。

石竹の小さき鉢を裏窓に 富安風生

周囲の田では、田植えの準備が始まった。田に水を張る光景があちこちで見られる。張られた水に、山や付近の光景が、鏡のように映しこまれる。この季節ならではの風景である。カメラを手にする人にとっては、またとないシャッターチャンスでもある。こんな季節を好んだのは良寛である。田に水が張られると、すぐに蛙が鳴きはじめる。

草の庵に足さしのべて小山田の
 山田のかはず聞くがたのしさ 良寛
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スズラン

2020年05月15日 | 日記
スズランの可憐な花を見ると、やはり思い浮かべるのは故郷だ。家の脇に、花を植える庭のようなものがあって、脈絡もなく花が植えてあった。チューリップの傍に、ケシの花があったり、アスパラが頭をもたげ、片隅にぽつんと寂しげに咲いていたのがスズランである。シャクヤクは真ん中で自らを誇示するように咲くので、スズランの控え目な存在が何故か気になった。ダリアは地下のイモが冬を越すことができないので、堀上げて保温して越冬させる。花のなかでは一番手間がかかるので、秋口になって花が咲くと、一入癒された。

私の生家の近くを石狩川が流れている。その川を遡っていくと山地にぶつかる。鉄道が敷設される前は、この川を丸木舟で通るのが唯一の交通手段であった。山が迫る渓谷は神居古潭で、流れのなかに大きな岩が突き出て、ひとつ間違えれば激突して船は沈み、積荷も人も川の藻屑となった。そんな難所を象徴する伝説がある。

この近くに住む魔神がいた。この渓谷を岩でせき止めて、これより川上に魚がいかないようにしようと、山から大きな岩を落して簗を作ろうとした。これを知った文化神サマイクルカムイが駆けつけ、山の神である熊の加勢をえて、岩の簗を打ちこわし、魔神との間に激しい闘いが始まった。次第に優勢になったサマイクルカムイは魔神を追い詰めた。魔神は逃げようとして石狩川岸に飛び降りたが、ここの泥沼にはまり、這いまわっているところを捉えられ首を刎ねられた。さすがの魔神も生きかえることはできず、魔神の足跡、胴体や首は岩となって伝説を証明するように残っている。

この神居古潭には、川に掛けられた吊り橋がある。私の古いアルバムに、小学校のときここまで遠足に行き、吊り橋をバックに撮った集合写真が残されている。もう70年も前の写真である。あの時も、学校から5㌔ほどの道のりを歩いた。帰ってから疲れて翌朝起きるのが大変だったことは今も記憶にある。橋の下の川は狭いが、水深は深く、川の流れも急であったように思う。

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雨を待つ

2020年05月14日 | 農作業

野菜苗を定植したものの、まともな雨が降らない。日照りのために、活着せず、毎日水やりが忙しい。一日一回の水やりでは、元気な様子がみえない。実に5月の園芸家の気分である。畑で会う人との会話は決まっている。
「ひと雨くるといいですねえ」
「そうです、ひと雨降ってくれないと困ります」
「土曜日には降るらしいですよ」
「そうですか三日間ぶっとおしがいいですね」

トマトの苗だけが元気よく活着した。花の咲いたエンドウ豆が、またひと回り大きくなった。コリアンダーも勢いよく育ってもうじき花が咲いてくる。山の近くの道を散歩していると、急に空が曇り、風が強くなった。あっという間に雨が来た。傘もささずに歩いていたので、洋服が少し濡れた。またあっという間に青空が広がって雨は去って行った。これくらい雨では、野菜苗が元気になるにはほど遠い。

近道へ出てうれし野のつつじ哉 蕪村


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万緑

2020年05月13日 | 日記
日ごとに深みを増す樹々の緑。花よりも緑が好きだ、という人がいる。こんな光景を目にするとそう言う人の気持ちがよくわかる。何故、樹々の芽吹きに人は心を揺さぶられるか、といえば、それは命の再生をそこに見るからだ。秋に葉を落とし、仮死のなかで一冬を過ごす。芽吹きは、死からの蘇りのように人は感じる。人は死んで再び再生することはないが、樹々の再生に、ある種宗教的な神秘を感じているのではないだろうか。ここでは作家、幸田文の見た新緑へのまなざしを見てみる。

「人によると、花より新緑が好きだという。新鮮好み、さわやか好みなのだろう。私は両方とも好きだが、細かくいえば、咲きだそうとする花、ひろがろうとする葉に一番心をひかれる。蕾が花に、芽が葉になろうとする時、彼等は決して手早く咲き、また伸びようとはしない。花はきしむようにしてほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。用心深いとも、懸命な努力ともとれる。その手間取りである。(中略)私は花の、葉の、はじまりというか生れというかが好きだ。(幸田文『木』)

万緑の木々を見て「おいしそうだ」と言った人がいる。見てその美しさに感動する一方で、出たばかりの木の芽を、食べるのも人が生命を保つために、続けてきた風習である。新芽の生命力を体内に取り入れることで元気になることもできる。この季節にだけ楽しめる食生活である。山菜のなかにある一種独特の苦みやきどさを、冬の間にたまった体内の毒消しとして利用してきた。牧野博士が云うように、樹々や植物に囲まれて生きることは、幸福なことである。
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田園交響曲

2020年05月12日 | 登山
最近、早朝に目覚めるようになった。つい最近まで、春眠をむさぼっていたので、季節とともに、体内時計も移ろっているのだろうか。以前は、夜明けとともに畑仕事に出かけたが、最近はイヤホーンをつけてクラシック音楽に耳を澄ませる。この季節にぴったりの曲はベートーヴェンの『田園交響曲』だ。森の小道を軽快に歩くようなテンポで始まる曲は、小川のせせらぎや小鳥の鳴き声をが聞こえてくる。

田園には心地よい時間が流れるが、やがて雷がなり、はげしい雨が降ってくる。その恐怖の時間にじっと耐え、やがて再び平穏が訪れる。この曲は、人生の歩みを凝縮して表現したのか、朝の時間を豊かにしてくれる。コロナ禍の行き先を告げているようにも聞こえる。

畑では、激しい風に、野菜の苗がうち震えている。立てたポールにしっかりと紐で支える。渇ききった根元に水を与えると、みるみると萎れた枝葉が生気を取り戻していく。
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