旧来から伝わる小正月は、例年が1月15日。
県内では、1月14日の夕刻から15日の朝方にかけて行われる伝統行事にとんど焼きがある。
カメラマンたちは、そのとんどで燃やされる様相を撮りたくて、あちらこちらに出没する。
私もいっときは、同様な行動をしていたが、とんどに燃やした焼け炭が気になっていた。
取材先に度々耳にする。その焼け炭を持ち帰って、竈の火種に使う。
その火種は、竈に寄せて、準備していたカラカラに乾いた豆木(まめぎ)に火を移す。
火を入れて炊くのは小豆粥だ。
翌朝には、できあがっている小豆粥を口にする。
もちろん、椀によそって食べるのだが、箸は、例えば正月の膳に口にした祝い箸ではなく、自然に生えている、つまり自生しているカヤススキが箸である。
カマで刈ったカヤススキは、家に持ち帰り箸に加工する。
加工って、云ってもそんなたいそうなものでなく、穂付きのカヤススキそのものが箸である。
そう、おわかりになるだろう。
刈った部分の軸が、箸の用途になる。
椀に入れた小豆粥を口にする道具が穂付きのカヤススキ。
食べているとき、耳がこそぼう(※大阪弁のこそぼい。こそばゆいが転じたこそぼい)なる穂先の動き。
丁度の長さが、耳から軸を持つ手の動きが耳をこそばす。
そんな体験話は、少なくない。
カヤススキは、神聖なものとして使われてきた。
その箸で、小豆粥を食べる、ということは邪気を祓う、一種の魔除けのような食べ物。
一年のはじめに健康を、無病息災を願う風習でもある。
また、カヤススキは食べた後は、捨てるのではなく、農家では荒起こしをした苗床に立てる。
そこは、春になれば苗代田。
正月はじめに願う豊作祈願に、食べて邪気を祓ったカヤススキを立てる。
奈良県内でそうしてきた、と語る人もおれば、今尚継承している農家さんもおられる。
貴重な取材してきた苗床に立てるカヤススキ。
一つは天理市豊井の事例。
二つ目は、五條市上之町の事例。
聞き取り事例に、御所市東佐味に鴨神がある。
また、京都府も南山城村北大河原の事例もあるが、いずれも後継者の悩みは尽きない。
さて、本日の民俗テーマは、お家で炊いた小豆粥を枇杷の葉にのせて供える状況の記録取材である。
明日香村に2カ所。
一つは、地域の神社や地蔵堂などに供えていた八釣がある。
二つ目は、神社も地蔵さんどころか、至るところ。
例えば道端にも、もとより。
お家内部に庭とかもされていた上(かむら)の事例は、供える箇所が圧倒的に多い。
ここ、田原本町富本(とみもと)の人たちが、富都神社小正月の枇杷の葉のせ小豆粥御供をされている状態を知りたくて、こうしてやってきた。
同行取材に、明日香村・八釣も取材してきた写真家のKさんにも就いてもらった。
午前9時半ころに着いた田原本町富本(とみもと)に鎮座する富都神社。
参拝者を待つよりも、先に撮っておきたい小豆粥御供。
まずは、鳥居をくぐって参拝した富都神社。
扉が締まっている拝殿に気づいた御供。
遠くからではわからなかった御供が、はっきり確認できる。
知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供ではなく、正真正銘の枇杷の葉のせの小豆粥御供。
正月の餅に小豆粥。
小豆色に染まったお粥さん。
枇杷の葉は裏返し。
舟のような形の枇杷の葉を、お皿に準えて御供をのせていた。
石造りの狛犬にも供えていた小豆粥。
阿像も、吽像も股座(※またぐら)に供えていた。
県内外に見てきた股座や足元に収める御供は、賽銭もおく神社事例は少なくない。
その股座にピンを合わせて撮った小豆粥。
地べたにも供えていた事例は、下から徐々に見上げた石塔。
「遥拝所」とあるが、どの方角に向けているか、でだいたいがわかるものだが・・・
方角から、推定したお伊勢さんがある。
もっと、手前でいえば、奈良・桜井に鎮座する大神神社が考えられるが、当地に伊勢講の存在があれば、伊勢神宮であろう。
右隣にある石塔は大神宮。
火袋がある常夜灯・石塔があるから、伊勢神宮参拝。
つまりおかげ参りの際に拝んで出発、また帰着に拝礼していたであろう大神宮石塔。
田原本町観光協会資料によれば「天明四歳辰年(1784)九月吉日」の刻印があるようだ。
そのことは、ともかく火袋の前に供えた小豆粥。
乾燥していない瑞々しい小豆粥の状態から、私たちが来る前に供えていたのだろう。
落ちている葉っぱが見られない実に美しい境内。
当番の方なのか、崇敬会かわからないが、境内清掃に欠かせない掃く竹箒や、落葉を掻き集める熊手もある。
よくよく見れば花立て当番であるが、富本忠宮塔当番月表に男性の名はなく、女性ばかり。
富都神社の小豆粥御供状況を拝見し終えて宮前に構築した石橋を渡ろうとした。
そのときである。
まさかの、えっ、である。
ここ田原本町富本の富都神社の宮前橋に見たソレは、盃状穴(※はいじょうけつ)であろう。
宮前橋は、五つの橋柱で構成されており、見た目でもわかる中央の2柱は、石質が異なる。
どちらが旧いかは、わからないが両端に見られた盃状穴。
特長は、それほどではないが、見るからに盃状穴にように思える痕跡。
これまで私が見てきた盃状穴は、奈良市石木町に鎮座する登弥神社(とみじんじゃ)。
鳥居前に建つ大燈籠の台座あたり。
総代の話によれば、訪問された三重大学の教授が、これは「盃状穴」だと、教えてくれたようだ。
もう一つは、奈良市の旧五ケ谷村の一カ村。
中畑に鎮座する春日神社。
えっ、ここにあるんだ、と声を揚げてしまった手水鉢。
手水に作法する手前にみる手水鉢の縁にある。
富都神社の宮前橋の痕跡も、まさしくそう思うのだが・・・
手前に三つ。
深い痕跡の丸い穴。
ネット情報によれば、東大寺・転害門の石階段、大神神社・若宮社の石階段、山添村中峯山・神波多神社の石段。
奈良県外にも多く見られているが、今もなお、「盃状穴」の謎は解けていない。
一応、というか念のために確認しておきたい庚申石塔の他、地蔵尊には小豆粥を供えているのか、その有無を確認した結果は、無であった。
さて、冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供を紹介してくださった前県立民俗博物館館長東秀好(あずまひでたか)家にお礼と報告を兼ねて伺った。
ここであろう、とわかった印しがあるお家。
思わず近寄り撮っていた枇杷の葉のせ小豆粥。
先ほどまで滞在していた冨都神社の在り方と同じである。
シャッターを締めているガレージにも供えている。
呼び鈴を押す門屋にも供えていた。
上がって、と伝えられてお家に・・
県立民俗博物館館長を辞し、現在は帝塚山大学に勤務している、という。
御供を拝見してきた場所の報告に、昭和11年生まれのおばあさん時代は、知る人ぞ、知る小豆粥御供であるが、供えていても周りは気づかなかった。
ここ富本は、かつて31軒の集落であったが、今は21軒。
ずいぶん減った、という。
朝に支度を調えて、出かけた神社も、お家にも供えていたのは86歳のおばあさん。
出里は千代の地。
はっちょう、と呼んでいた北八条の農家だった。
農業に忙しい時季には、伊勢の海女さんは、出稼ぎにきてくれた。
住み込みのための住まいも用意したようだ。
お正月の門松を立てるための砂を採取し、一輪車に載せてここまで運んだ。
有機農法の田んぼに畑。
すべてはおばあさんが、先祖と同じように仕事をしてきた。
その先祖は、明日香村の細川、今は5代目になる、と。
分家は、大阪に出て米屋を営んでいたことから、嫁入りにもらった木臼。
正月の餅搗きは杵にその木臼で搗いていた。
9(※苦)がつく29日は避けて、翌日の30日が餅搗き。
正月餅は三臼も搗く。
鏡餅は宮さんに供える餅。
床の間に三方を据え、一升枡にごまめを盛った米に挿す。
話の様子から、正月の三宝飾りでは、と思った次第。
ずいぶん前になるが、平成25年の12月31日の大晦日に訪れた大和郡山市に住まいする元藩医家。
おばあさんが、飾りつけしていた三宝飾りを拝見していた。
若干の相違点が見られるが、京都府山城町の上狛のM家で拝見した三宝飾り。
その日は、平成28年の12月31日の大晦日。
木津川の川砂を採取し、お家のカドニワに撒いていた砂撒き風習。
その作業を終えてから見せてくださった三宝飾り。
また、守屋宮司が教えてくださった村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。
おばさんがしていた三宝飾りと比較するものではないが、豪華な飾りにうっとりしていた神社の三宝飾り。
大きな一升枡に盛るのは、米屋の名残かも。
規模はともかく、気になる点は、正月お節のごまめを米盛りに挿していたとは・・
他にも餅二段の鏡餅を供える箇所は、神棚はもとより、屋外倉庫にガレージにも。
正月準備を調え、時間ともなれば紅白歌合戦を見て、雑煮をいただく。
零時過ぎ、神棚に仏壇、床の間に参ってから、神社にむかう初詣。
戻ってからは、お節を広げて、みなでいただく。
きのこ雑煮を食べて、ゆっくりする。
井戸から汲んだ初水から、調理する雑煮。
先に子芋、大根、豆腐などの下ごしらえをするのは、嫁さんやけど、合わせ味噌を調合するのも、雑煮の味つけなどの調理、膳を並べるのも、みなおとこしの役。
正月の話題に会話が弾む一年にいっぺんの、雑煮つくり。
梅の木を植えて、梅干しつくり。
大豆も直栽培。
草履もつくっていたお家の暮らし。
元旦の一日から三日間は、普通に電話をかけた姉さんが戻ってくる。
逆に、嫁さんの実家に出かける。
1月4日は、鏡餅をさげる。
7日は七草粥。
食べるばかりの正月期間。
1月15日は、朝に炊く小豆粥。
10年前までは、トンドをしていた。
若草山の山焼きの夕べに火を点けたトンド。
かつては、子どもたちが役につく。
竹藪に出かけて竹を伐る。「竹、ちょうだいなぁー」と、囃子立て。
正月に飾ったしめ縄をもってきて、燃やしたトンド。
火の勢いが緩くなったときに燃やす書初めの書。
焚火程度になれば、家から持ってきた餅を焼く。
柔らかくなれば、餅を食べていた。
翌月の2月3日は、年越し。
イワシの頭を、柊の木に挿すのは魔除け。
正月行事に風習などの民俗話題は尽きない。
ちなみに、隣接する宮古はおよそ百軒の集落。
大勢の人たちが集まり、トンドをしている、と・・
さて、私が知りたい2件の民俗。
お盆の習俗だが、ここ富本にサシサバは、聞いたことがない、と・・
また、一昨日と今日にも拝見した藁積み。
お家の東側に、かんでん川の西寄りに、据えた藁積みは屋根の形がある家型藁積みに名前は・・
ここらは、本来、心棒を立て、その周りに藁を重ねて、高く、高く積み揚げた藁積みをススキと呼んでいた。
では、その屋根付き家型の藁積みは、と聞けば、なんと「全体をススキと呼び、屋根の部分は“チョッポ”」と、話してくれた。
そのチョッポ呼び名は、私が住む大和郡山市の農村田園地。
知り合いの農家さんも同様の“チョッポ”だった。
ようやく見えてきた屋根の形がある家型藁積みの呼び名に、ここ富本に出逢った。
おおかた、2時間余り。
午前10時から2時間。
長居してしまった。
腰をあげようとした、そのときに伝えてくれた県立民俗博物館に勤務する学芸員をよろしく、と頼まれた。
そりゃぁ、もちろんです。
彼ら二人は、よく尽くしてくれました。
Mさんも、Tさんも、真面目な仕事ぶり。
はたで見ていてよくわかる素晴らしき学芸員。
この時は、まだ動きはなかったが、それからは・・まさか、まさかの事態が待っていたとは・・。
お世話になった前館長に御礼を申し上げ、再び立ち寄った富都神社。
あれぇ、2時間前にあった火袋前に供えた小豆粥も枇杷の葉もない。
ふと、目を落とした境内の一角に見つかった枇杷の葉。
念のために探してみた小豆粥は、どこにもない。
考えられるのは、野鳥の餌になった小豆粥。
吹いた風によって飛ばされたワケではなく、カラスなどの野鳥の餌食の痕跡も記録する。
2時間後の天候はやや晴れ。
再撮影したい狛犬の股座。
美味しい光が当たってくれた。
(R4. 1.15 EOS7D/SB805SH 撮影)
県内では、1月14日の夕刻から15日の朝方にかけて行われる伝統行事にとんど焼きがある。
カメラマンたちは、そのとんどで燃やされる様相を撮りたくて、あちらこちらに出没する。
私もいっときは、同様な行動をしていたが、とんどに燃やした焼け炭が気になっていた。
取材先に度々耳にする。その焼け炭を持ち帰って、竈の火種に使う。
その火種は、竈に寄せて、準備していたカラカラに乾いた豆木(まめぎ)に火を移す。
火を入れて炊くのは小豆粥だ。
翌朝には、できあがっている小豆粥を口にする。
もちろん、椀によそって食べるのだが、箸は、例えば正月の膳に口にした祝い箸ではなく、自然に生えている、つまり自生しているカヤススキが箸である。
カマで刈ったカヤススキは、家に持ち帰り箸に加工する。
加工って、云ってもそんなたいそうなものでなく、穂付きのカヤススキそのものが箸である。
そう、おわかりになるだろう。
刈った部分の軸が、箸の用途になる。
椀に入れた小豆粥を口にする道具が穂付きのカヤススキ。
食べているとき、耳がこそぼう(※大阪弁のこそぼい。こそばゆいが転じたこそぼい)なる穂先の動き。
丁度の長さが、耳から軸を持つ手の動きが耳をこそばす。
そんな体験話は、少なくない。
カヤススキは、神聖なものとして使われてきた。
その箸で、小豆粥を食べる、ということは邪気を祓う、一種の魔除けのような食べ物。
一年のはじめに健康を、無病息災を願う風習でもある。
また、カヤススキは食べた後は、捨てるのではなく、農家では荒起こしをした苗床に立てる。
そこは、春になれば苗代田。
正月はじめに願う豊作祈願に、食べて邪気を祓ったカヤススキを立てる。
奈良県内でそうしてきた、と語る人もおれば、今尚継承している農家さんもおられる。
貴重な取材してきた苗床に立てるカヤススキ。
一つは天理市豊井の事例。
二つ目は、五條市上之町の事例。
聞き取り事例に、御所市東佐味に鴨神がある。
また、京都府も南山城村北大河原の事例もあるが、いずれも後継者の悩みは尽きない。
さて、本日の民俗テーマは、お家で炊いた小豆粥を枇杷の葉にのせて供える状況の記録取材である。
明日香村に2カ所。
一つは、地域の神社や地蔵堂などに供えていた八釣がある。
二つ目は、神社も地蔵さんどころか、至るところ。
例えば道端にも、もとより。
お家内部に庭とかもされていた上(かむら)の事例は、供える箇所が圧倒的に多い。
ここ、田原本町富本(とみもと)の人たちが、富都神社小正月の枇杷の葉のせ小豆粥御供をされている状態を知りたくて、こうしてやってきた。
同行取材に、明日香村・八釣も取材してきた写真家のKさんにも就いてもらった。
午前9時半ころに着いた田原本町富本(とみもと)に鎮座する富都神社。
参拝者を待つよりも、先に撮っておきたい小豆粥御供。
まずは、鳥居をくぐって参拝した富都神社。
扉が締まっている拝殿に気づいた御供。
遠くからではわからなかった御供が、はっきり確認できる。
知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供ではなく、正真正銘の枇杷の葉のせの小豆粥御供。
正月の餅に小豆粥。
小豆色に染まったお粥さん。
枇杷の葉は裏返し。
舟のような形の枇杷の葉を、お皿に準えて御供をのせていた。
石造りの狛犬にも供えていた小豆粥。
阿像も、吽像も股座(※またぐら)に供えていた。
県内外に見てきた股座や足元に収める御供は、賽銭もおく神社事例は少なくない。
その股座にピンを合わせて撮った小豆粥。
地べたにも供えていた事例は、下から徐々に見上げた石塔。
「遥拝所」とあるが、どの方角に向けているか、でだいたいがわかるものだが・・・
方角から、推定したお伊勢さんがある。
もっと、手前でいえば、奈良・桜井に鎮座する大神神社が考えられるが、当地に伊勢講の存在があれば、伊勢神宮であろう。
右隣にある石塔は大神宮。
火袋がある常夜灯・石塔があるから、伊勢神宮参拝。
つまりおかげ参りの際に拝んで出発、また帰着に拝礼していたであろう大神宮石塔。
田原本町観光協会資料によれば「天明四歳辰年(1784)九月吉日」の刻印があるようだ。
そのことは、ともかく火袋の前に供えた小豆粥。
乾燥していない瑞々しい小豆粥の状態から、私たちが来る前に供えていたのだろう。
落ちている葉っぱが見られない実に美しい境内。
当番の方なのか、崇敬会かわからないが、境内清掃に欠かせない掃く竹箒や、落葉を掻き集める熊手もある。
よくよく見れば花立て当番であるが、富本忠宮塔当番月表に男性の名はなく、女性ばかり。
富都神社の小豆粥御供状況を拝見し終えて宮前に構築した石橋を渡ろうとした。
そのときである。
まさかの、えっ、である。
ここ田原本町富本の富都神社の宮前橋に見たソレは、盃状穴(※はいじょうけつ)であろう。
宮前橋は、五つの橋柱で構成されており、見た目でもわかる中央の2柱は、石質が異なる。
どちらが旧いかは、わからないが両端に見られた盃状穴。
特長は、それほどではないが、見るからに盃状穴にように思える痕跡。
これまで私が見てきた盃状穴は、奈良市石木町に鎮座する登弥神社(とみじんじゃ)。
鳥居前に建つ大燈籠の台座あたり。
総代の話によれば、訪問された三重大学の教授が、これは「盃状穴」だと、教えてくれたようだ。
もう一つは、奈良市の旧五ケ谷村の一カ村。
中畑に鎮座する春日神社。
えっ、ここにあるんだ、と声を揚げてしまった手水鉢。
手水に作法する手前にみる手水鉢の縁にある。
富都神社の宮前橋の痕跡も、まさしくそう思うのだが・・・
手前に三つ。
深い痕跡の丸い穴。
ネット情報によれば、東大寺・転害門の石階段、大神神社・若宮社の石階段、山添村中峯山・神波多神社の石段。
奈良県外にも多く見られているが、今もなお、「盃状穴」の謎は解けていない。
一応、というか念のために確認しておきたい庚申石塔の他、地蔵尊には小豆粥を供えているのか、その有無を確認した結果は、無であった。
さて、冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供を紹介してくださった前県立民俗博物館館長東秀好(あずまひでたか)家にお礼と報告を兼ねて伺った。
ここであろう、とわかった印しがあるお家。
思わず近寄り撮っていた枇杷の葉のせ小豆粥。
先ほどまで滞在していた冨都神社の在り方と同じである。
シャッターを締めているガレージにも供えている。
呼び鈴を押す門屋にも供えていた。
上がって、と伝えられてお家に・・
県立民俗博物館館長を辞し、現在は帝塚山大学に勤務している、という。
御供を拝見してきた場所の報告に、昭和11年生まれのおばあさん時代は、知る人ぞ、知る小豆粥御供であるが、供えていても周りは気づかなかった。
ここ富本は、かつて31軒の集落であったが、今は21軒。
ずいぶん減った、という。
朝に支度を調えて、出かけた神社も、お家にも供えていたのは86歳のおばあさん。
出里は千代の地。
はっちょう、と呼んでいた北八条の農家だった。
農業に忙しい時季には、伊勢の海女さんは、出稼ぎにきてくれた。
住み込みのための住まいも用意したようだ。
お正月の門松を立てるための砂を採取し、一輪車に載せてここまで運んだ。
有機農法の田んぼに畑。
すべてはおばあさんが、先祖と同じように仕事をしてきた。
その先祖は、明日香村の細川、今は5代目になる、と。
分家は、大阪に出て米屋を営んでいたことから、嫁入りにもらった木臼。
正月の餅搗きは杵にその木臼で搗いていた。
9(※苦)がつく29日は避けて、翌日の30日が餅搗き。
正月餅は三臼も搗く。
鏡餅は宮さんに供える餅。
床の間に三方を据え、一升枡にごまめを盛った米に挿す。
話の様子から、正月の三宝飾りでは、と思った次第。
ずいぶん前になるが、平成25年の12月31日の大晦日に訪れた大和郡山市に住まいする元藩医家。
おばあさんが、飾りつけしていた三宝飾りを拝見していた。
若干の相違点が見られるが、京都府山城町の上狛のM家で拝見した三宝飾り。
その日は、平成28年の12月31日の大晦日。
木津川の川砂を採取し、お家のカドニワに撒いていた砂撒き風習。
その作業を終えてから見せてくださった三宝飾り。
また、守屋宮司が教えてくださった村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。
おばさんがしていた三宝飾りと比較するものではないが、豪華な飾りにうっとりしていた神社の三宝飾り。
大きな一升枡に盛るのは、米屋の名残かも。
規模はともかく、気になる点は、正月お節のごまめを米盛りに挿していたとは・・
他にも餅二段の鏡餅を供える箇所は、神棚はもとより、屋外倉庫にガレージにも。
正月準備を調え、時間ともなれば紅白歌合戦を見て、雑煮をいただく。
零時過ぎ、神棚に仏壇、床の間に参ってから、神社にむかう初詣。
戻ってからは、お節を広げて、みなでいただく。
きのこ雑煮を食べて、ゆっくりする。
井戸から汲んだ初水から、調理する雑煮。
先に子芋、大根、豆腐などの下ごしらえをするのは、嫁さんやけど、合わせ味噌を調合するのも、雑煮の味つけなどの調理、膳を並べるのも、みなおとこしの役。
正月の話題に会話が弾む一年にいっぺんの、雑煮つくり。
梅の木を植えて、梅干しつくり。
大豆も直栽培。
草履もつくっていたお家の暮らし。
元旦の一日から三日間は、普通に電話をかけた姉さんが戻ってくる。
逆に、嫁さんの実家に出かける。
1月4日は、鏡餅をさげる。
7日は七草粥。
食べるばかりの正月期間。
1月15日は、朝に炊く小豆粥。
10年前までは、トンドをしていた。
若草山の山焼きの夕べに火を点けたトンド。
かつては、子どもたちが役につく。
竹藪に出かけて竹を伐る。「竹、ちょうだいなぁー」と、囃子立て。
正月に飾ったしめ縄をもってきて、燃やしたトンド。
火の勢いが緩くなったときに燃やす書初めの書。
焚火程度になれば、家から持ってきた餅を焼く。
柔らかくなれば、餅を食べていた。
翌月の2月3日は、年越し。
イワシの頭を、柊の木に挿すのは魔除け。
正月行事に風習などの民俗話題は尽きない。
ちなみに、隣接する宮古はおよそ百軒の集落。
大勢の人たちが集まり、トンドをしている、と・・
さて、私が知りたい2件の民俗。
お盆の習俗だが、ここ富本にサシサバは、聞いたことがない、と・・
また、一昨日と今日にも拝見した藁積み。
お家の東側に、かんでん川の西寄りに、据えた藁積みは屋根の形がある家型藁積みに名前は・・
ここらは、本来、心棒を立て、その周りに藁を重ねて、高く、高く積み揚げた藁積みをススキと呼んでいた。
では、その屋根付き家型の藁積みは、と聞けば、なんと「全体をススキと呼び、屋根の部分は“チョッポ”」と、話してくれた。
そのチョッポ呼び名は、私が住む大和郡山市の農村田園地。
知り合いの農家さんも同様の“チョッポ”だった。
ようやく見えてきた屋根の形がある家型藁積みの呼び名に、ここ富本に出逢った。
おおかた、2時間余り。
午前10時から2時間。
長居してしまった。
腰をあげようとした、そのときに伝えてくれた県立民俗博物館に勤務する学芸員をよろしく、と頼まれた。
そりゃぁ、もちろんです。
彼ら二人は、よく尽くしてくれました。
Mさんも、Tさんも、真面目な仕事ぶり。
はたで見ていてよくわかる素晴らしき学芸員。
この時は、まだ動きはなかったが、それからは・・まさか、まさかの事態が待っていたとは・・。
お世話になった前館長に御礼を申し上げ、再び立ち寄った富都神社。
あれぇ、2時間前にあった火袋前に供えた小豆粥も枇杷の葉もない。
ふと、目を落とした境内の一角に見つかった枇杷の葉。
念のために探してみた小豆粥は、どこにもない。
考えられるのは、野鳥の餌になった小豆粥。
吹いた風によって飛ばされたワケではなく、カラスなどの野鳥の餌食の痕跡も記録する。
2時間後の天候はやや晴れ。
再撮影したい狛犬の股座。
美味しい光が当たってくれた。
(R4. 1.15 EOS7D/SB805SH 撮影)