マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/後編

2024年11月15日 07時38分21秒 | 田原本町へ
旧来から伝わる小正月は、例年が1月15日。

県内では、1月14日の夕刻から15日の朝方にかけて行われる伝統行事にとんど焼きがある。

カメラマンたちは、そのとんどで燃やされる様相を撮りたくて、あちらこちらに出没する。

私もいっときは、同様な行動をしていたが、とんどに燃やした焼け炭が気になっていた。

取材先に度々耳にする。その焼け炭を持ち帰って、竈の火種に使う。

その火種は、竈に寄せて、準備していたカラカラに乾いた豆木(まめぎ)に火を移す。

火を入れて炊くのは小豆粥だ。

翌朝には、できあがっている小豆粥を口にする。

もちろん、椀によそって食べるのだが、箸は、例えば正月の膳に口にした祝い箸ではなく、自然に生えている、つまり自生しているカヤススキが箸である。

カマで刈ったカヤススキは、家に持ち帰り箸に加工する。

加工って、云ってもそんなたいそうなものでなく、穂付きのカヤススキそのものが箸である。

そう、おわかりになるだろう。

刈った部分の軸が、箸の用途になる。

椀に入れた小豆粥を口にする道具が穂付きのカヤススキ。

食べているとき、耳がこそぼう(※大阪弁のこそぼい。こそばゆいが転じたこそぼい)なる穂先の動き。

丁度の長さが、耳から軸を持つ手の動きが耳をこそばす。

そんな体験話は、少なくない。

カヤススキは、神聖なものとして使われてきた。

その箸で、小豆粥を食べる、ということは邪気を祓う、一種の魔除けのような食べ物

一年のはじめに健康を、無病息災を願う風習でもある。

また、カヤススキは食べた後は、捨てるのではなく、農家では荒起こしをした苗床に立てる。

そこは、春になれば苗代田。

正月はじめに願う豊作祈願に、食べて邪気を祓ったカヤススキを立てる。

奈良県内でそうしてきた、と語る人もおれば、今尚継承している農家さんもおられる。

貴重な取材してきた苗床に立てるカヤススキ。

一つは天理市豊井の事例

二つ目は、五條市上之町の事例

聞き取り事例に、御所市東佐味鴨神がある。

また、京都府も南山城村北大河原の事例もあるが、いずれも後継者の悩みは尽きない。

さて、本日の民俗テーマは、お家で炊いた小豆粥を枇杷の葉にのせて供える状況の記録取材である。

明日香村に2カ所。

一つは、地域の神社や地蔵堂などに供えていた八釣がある。

二つ目は、神社も地蔵さんどころか、至るところ。

例えば道端にも、もとより。

お家内部に庭とかもされていた上(かむら)の事例は、供える箇所が圧倒的に多い。

ここ、田原本町富本(とみもと)の人たちが、富都神社小正月の枇杷の葉のせ小豆粥御供をされている状態を知りたくて、こうしてやってきた。

同行取材に、明日香村・八釣も取材してきた写真家のKさんにも就いてもらった。

午前9時半ころに着いた田原本町富本(とみもと)に鎮座する富都神社。

参拝者を待つよりも、先に撮っておきたい小豆粥御供。



まずは、鳥居をくぐって参拝した富都神社。

扉が締まっている拝殿に気づいた御供。



遠くからではわからなかった御供が、はっきり確認できる。

知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供ではなく、正真正銘の枇杷の葉のせの小豆粥御供

正月の餅に小豆粥。

小豆色に染まったお粥さん。

枇杷の葉は裏返し。

舟のような形の枇杷の葉を、お皿に準えて御供をのせていた。



石造りの狛犬にも供えていた小豆粥。



阿像も、吽像も股座(※またぐら)に供えていた。



県内外に見てきた股座や足元に収める御供は、賽銭もおく神社事例は少なくない。



その股座にピンを合わせて撮った小豆粥。



地べたにも供えていた事例は、下から徐々に見上げた石塔。



「遥拝所」とあるが、どの方角に向けているか、でだいたいがわかるものだが・・・



方角から、推定したお伊勢さんがある。

もっと、手前でいえば、奈良・桜井に鎮座する大神神社が考えられるが、当地に伊勢講の存在があれば、伊勢神宮であろう。

右隣にある石塔は大神宮。



火袋がある常夜灯・石塔があるから、伊勢神宮参拝。

つまりおかげ参りの際に拝んで出発、また帰着に拝礼していたであろう大神宮石塔。

田原本町観光協会資料によれば「天明四歳辰年(1784)九月吉日」の刻印があるようだ。



そのことは、ともかく火袋の前に供えた小豆粥。

乾燥していない瑞々しい小豆粥の状態から、私たちが来る前に供えていたのだろう。

落ちている葉っぱが見られない実に美しい境内。



当番の方なのか、崇敬会かわからないが、境内清掃に欠かせない掃く竹箒や、落葉を掻き集める熊手もある。

よくよく見れば花立て当番であるが、富本忠宮塔当番月表に男性の名はなく、女性ばかり。

富都神社の小豆粥御供状況を拝見し終えて宮前に構築した石橋を渡ろうとした。

そのときである。

まさかの、えっ、である。



ここ田原本町富本の富都神社の宮前橋に見たソレは、盃状穴(※はいじょうけつ)であろう。

宮前橋は、五つの橋柱で構成されており、見た目でもわかる中央の2柱は、石質が異なる。

どちらが旧いかは、わからないが両端に見られた盃状穴。

特長は、それほどではないが、見るからに盃状穴にように思える痕跡。

これまで私が見てきた盃状穴は、奈良市石木町に鎮座する登弥神社(とみじんじゃ)。

鳥居前に建つ大燈籠の台座あたり。

総代の話によれば、訪問された三重大学の教授が、これは「盃状穴」だと、教えてくれた
ようだ。

もう一つは、奈良市の旧五ケ谷村の一カ村。

中畑に鎮座する春日神社。

えっ、ここにあるんだ、と声を揚げてしまった手水鉢。

手水に作法する手前にみる手水鉢の縁
にある。

富都神社の宮前橋の痕跡も、まさしくそう思うのだが・・・

手前に三つ。

深い痕跡の丸い穴。

ネット情報によれば、東大寺・転害門の石階段大神神社・若宮社の石階段山添村中峯山・神波多神社の石段

奈良県外にも多く見られているが、今もなお、「盃状穴」の謎は解けていない



一応、というか念のために確認しておきたい庚申石塔の他、地蔵尊には小豆粥を供えているのか、その有無を確認した結果は、無であった。

さて、冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供を紹介してくださった前県立民俗博物館館長東秀好(あずまひでたか)家にお礼と報告を兼ねて伺った。



ここであろう、とわかった印しがあるお家。

思わず近寄り撮っていた枇杷の葉のせ小豆粥。

先ほどまで滞在していた冨都神社の在り方と同じである。



シャッターを締めているガレージにも供えている。

呼び鈴を押す門屋にも供えていた。

上がって、と伝えられてお家に・・

県立民俗博物館館長を辞し、現在は帝塚山大学に勤務している、という。

御供を拝見してきた場所の報告に、昭和11年生まれのおばあさん時代は、知る人ぞ、知る小豆粥御供であるが、供えていても周りは気づかなかった。

ここ富本は、かつて31軒の集落であったが、今は21軒。

ずいぶん減った、という。

朝に支度を調えて、出かけた神社も、お家にも供えていたのは86歳のおばあさん。

出里は千代の地。

はっちょう、と呼んでいた北八条の農家だった。

農業に忙しい時季には、伊勢の海女さんは、出稼ぎにきてくれた。

住み込みのための住まいも用意したようだ。

お正月の門松を立てるための砂を採取し、一輪車に載せてここまで運んだ。

有機農法の田んぼに畑。

すべてはおばあさんが、先祖と同じように仕事をしてきた。

その先祖は、明日香村の細川、今は5代目になる、と。

分家は、大阪に出て米屋を営んでいたことから、嫁入りにもらった木臼。

正月の餅搗きは杵にその木臼で搗いていた。

9(※苦)がつく29日は避けて、翌日の30日が餅搗き。

正月餅は三臼も搗く。

鏡餅は宮さんに供える餅。

床の間に三方を据え、一升枡にごまめを盛った米に挿す。

話の様子から、正月の三宝飾りでは、と思った次第。

ずいぶん前になるが、平成25年の12月31日の大晦日に訪れた大和郡山市に住まいする元藩医家。

おばあさんが、飾りつけしていた三宝飾りを拝見
していた。

若干の相違点が見られるが、京都府山城町の上狛のM家で拝見した三宝飾り。

その日は、平成28年の12月31日の大晦日。

木津川の川砂を採取し、お家のカドニワに撒いていた砂撒き風習。

その作業を終えてから見せてくださった三宝飾り


また、守屋宮司が教えてくださった村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。

おばさんがしていた三宝飾りと比較するものではないが、豪華な飾りにうっとりしていた神社の三宝飾り


大きな一升枡に盛るのは、米屋の名残かも。

規模はともかく、気になる点は、正月お節のごまめを米盛りに挿していたとは・・

他にも餅二段の鏡餅を供える箇所は、神棚はもとより、屋外倉庫にガレージにも。

正月準備を調え、時間ともなれば紅白歌合戦を見て、雑煮をいただく。

零時過ぎ、神棚に仏壇、床の間に参ってから、神社にむかう初詣。

戻ってからは、お節を広げて、みなでいただく。

きのこ雑煮を食べて、ゆっくりする。



井戸から汲んだ初水から、調理する雑煮。

先に子芋、大根、豆腐などの下ごしらえをするのは、嫁さんやけど、合わせ味噌を調合するのも、雑煮の味つけなどの調理、膳を並べるのも、みなおとこしの役。

正月の話題に会話が弾む一年にいっぺんの、雑煮つくり。

梅の木を植えて、梅干しつくり。



大豆も直栽培。



草履もつくっていたお家の暮らし。

元旦の一日から三日間は、普通に電話をかけた姉さんが戻ってくる。

逆に、嫁さんの実家に出かける。

1月4日は、鏡餅をさげる。

7日は七草粥。

食べるばかりの正月期間。

1月15日は、朝に炊く小豆粥。

10年前までは、トンドをしていた。

若草山の山焼きの夕べに火を点けたトンド。

かつては、子どもたちが役につく。

竹藪に出かけて竹を伐る。「竹、ちょうだいなぁー」と、囃子立て。

正月に飾ったしめ縄をもってきて、燃やしたトンド。

火の勢いが緩くなったときに燃やす書初めの書。

焚火程度になれば、家から持ってきた餅を焼く。

柔らかくなれば、餅を食べていた。

翌月の2月3日は、年越し。

イワシの頭を、柊の木に挿すのは魔除け。

正月行事に風習などの民俗話題は尽きない。

ちなみに、隣接する宮古はおよそ百軒の集落。

大勢の人たちが集まり、トンドをしている、と・・



さて、私が知りたい2件の民俗。

お盆の習俗だが、ここ富本にサシサバは、聞いたことがない、と・・

また、一昨日と今日にも拝見した藁積み。



お家の東側に、かんでん川の西寄りに、据えた藁積みは屋根の形がある家型藁積みに名前は・・

ここらは、本来、心棒を立て、その周りに藁を重ねて、高く、高く積み揚げた藁積みをススキと呼んでいた。



では、その屋根付き家型の藁積みは、と聞けば、なんと「全体をススキと呼び、屋根の部分は“チョッポ”」と、話してくれた。

そのチョッポ呼び名は、私が住む大和郡山市の農村田園地。

知り合いの農家さんも同様の“チョッポ”だった。

ようやく見えてきた屋根の形がある家型藁積みの呼び名に、ここ富本に出逢った。

おおかた、2時間余り。

午前10時から2時間。

長居してしまった。

腰をあげようとした、そのときに伝えてくれた県立民俗博物館に勤務する学芸員をよろしく、と頼まれた。

そりゃぁ、もちろんです。

彼ら二人は、よく尽くしてくれました。

Mさんも、Tさんも、真面目な仕事ぶり。

はたで見ていてよくわかる素晴らしき学芸員。

この時は、まだ動きはなかったが、それからは・・まさか、まさかの事態が待っていたとは・・。



お世話になった前館長に御礼を申し上げ、再び立ち寄った富都神社。



あれぇ、2時間前にあった火袋前に供えた小豆粥も枇杷の葉もない。

ふと、目を落とした境内の一角に見つかった枇杷の葉。



念のために探してみた小豆粥は、どこにもない。

考えられるのは、野鳥の餌になった小豆粥。

吹いた風によって飛ばされたワケではなく、カラスなどの野鳥の餌食の痕跡も記録する。



2時間後の天候はやや晴れ。







再撮影したい狛犬の股座。

美味しい光が当たってくれた。

(R4. 1.15 EOS7D/SB805SH 撮影)

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/中編

2024年11月13日 07時42分49秒 | 田原本町へ
1月13日、下見に訪れた田原本町富本(とんもと)。

遡ること10カ月前の令和3年3月3日のひなまつり。

その日は、予め送ってくれた招待券を持参し、出かけた「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の日。

館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長。

テレビ局や新聞記者に伝える「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の話題提供。

奈良テレビの収録(※その放送は、今もユーチューブ公開されており、大和郡山の金魚養殖の道具も視聴できる)、朝日新聞に産経新聞記者への説明などを終えて、ちょっとした時間にお逢いした。

民俗に造詣が深い館長との会話。広がる民俗の話題。

東館長からのお願いは、是非ともSNS発信、拡散も・・。

その際、本館リニューアルオープンに古民家工事など、大いに宣伝してください、とお願いされた

本館リニューアル工事中に開催した、9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展

古民家開催は、大評判だった

やむを得ない対応に、会場が民俗に相応しい環境とわかり、正解でした。ありがとうございました、とお礼をこの場で伝えた。

民俗の話題、写真の提供などで度々訪れては、取材した貴重な暮らしの民俗を学芸課に報せること、多し。緊急電話の呼び出しに、急遽かけつけ、インタビューを求めていたテレビ取材に応じたこともある。

それは、県内行事の取材の際に、現地の人たちからいただいた、行事に使った祭具や用具の入手。

その数、多くなり60点の用具を寄贈した。

新収蔵品として登録され、一部をコーナー展に展示された。

それらは、二度と入手できない貴重な「祭りの用具」


だからこそ、新収蔵品として扱い、関連する祭りの用具を語ることになった。

そのような話題から、ふと思い出した。

9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展

写真テーマは大きな括りに「つくり」。

私は、それから発想した「かんぴょう」つくり。

図録に記した思いなど。

出展者全員が提出した内容文を読まれた館長。

その際に指摘された件を、学芸員のMさんが、私に伝えてくれて修正した文章。

当初、提出したテーマ及び主旨説明文は、

「カンピョウの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)の国内シェアは、ダントツトップの栃木県。その量は315トンにもおよぶ。
2位は3トンの茨城県。3位に2トンの滋賀県に続いて1トンの埼玉県が並ぶ。
一般市場に出ない0トン生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)は奈良県。(平成26年度のランキングデータより)
悲しいくらいの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)であるが、県内の場合は、ほそぼそと個人的に作られているのが現状とわかったのは、つい数年前のことだ。
カンピョウといえば、三つ葉とともに巻いた巻き寿司を思い出す。スーパーなどで売っている巻き寿司にカンピョウは見られない。回転寿司店に見るカンピョウ巻きは、おそらく中国産のカンピョウ。そのことを残念がる93歳のおふくろ。昔はよう食べた、というが・・。
取材した人たちは、間違いなく高齢者だった。後を継いでくれる者もいなくて途絶えたところは多々ある。数年も経たないうちに、奈良県のカンピョウ干しは消えるだろう。
2年前までは地産地消で販売していた道の駅。地産が消えて栃木産に・・」だった。

私は、参照した国のデータ「カンピョウの生産量(heisei2nen出荷量)の国内シェア」からみても、生産量であると判断。

館長が指摘された理由は、住まいしていた田原本町・富本の暮らしにあった。

在所の富本。

ご自宅にご近所もカンピョウ作りしている関係で、生産量というよりも、現実的に村・自宅では出荷量ととらえているから“出荷量”にしてはどうか、という指摘であった。

特に反論することはない、地元民が、とらえていた“出荷量”・

こうした現実的な対応をした「かんぴょう」のテーマ及び主旨説明文は、「生産量」を「収穫量」。

そして、「出荷量」に言い換え、再提出。

それで、佳し、と承諾されたのであった。

館長との「カンピョウ」話題のつながりは、その年の令和2年2月8日に行われた9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展の座談会に・・・

展示の初日。

旧萩原家にて開催した出展された写真家たちが、作品トークをする写真家座談会が行われた。

竈がある旧萩原家に設けたプロジェクターが映し出すスライドショーをもって解説トークの場。

用意していた椅子の数が足らなくなるほど集まってくださった一般聴衆の方たち。

中には、存じているカメラマン仲間たちに、それぞれの知り合いも。

集まりの後方にずっと聞いておられた館長。

歴代の館長は、そのような姿は、一切見なかったが、東館長は、私たちが語る大和の民俗を終わるまで清聴に聴いておられた。

その立ち姿は、今も脳裏に残っている、印象的なシーン。

実は、写真家座談会を展示初日に実施するのははじめてだ。

のちにわかるが、初日実施は正解だった。

と、いうのも、盛況に終えた座談会の日から20日後の2月27日。

県立民俗博物館から伝えられた突然の発表は、他府県が発表した「イベントや集会は、原則中止。若しくは延期」

大阪事例であるが、奈良県も同調し、8日から開催していた9回目の「私がとらえた大和の民俗」も、突然の中止に・・・

座談会を開催していたころのコロナは、第6波の拡大化は確実性を帯びてきた、とニュースを報じていた。

いつかは、そうなるかも?と、感じていたコロナ禍時代


コロナ禍に仕方のないことであるが、初日に座談会を終えていたので、不幸中の幸いだった。

さて、本題は田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の取材である。

前述に記した「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープンの日」に、館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長との会話にご縁をいただいた行事が、田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供だった。

実家の富本でされていた枇杷の葉のせ小豆粥御供である。

家でつくって小豆粥を枇杷の葉にのせ、最寄りの冨都神社に供える。

館長が、云った言葉。

“今もおばあが、供えている”、と・・・。

ご実家におられる、館長がおばあと呼ぶ母親がされていたのであった。

実家を離れて長年暮らした大阪から生まれ故郷の田原本町・富本(とんもと)に、館長夫妻ともども戻った。

何十年も離れていたが、今ではすっかり富本人、だとおっしゃる。

おばあは、毎年の正月に氏神社の富都(ふつ)神社に鏡餅を供える。

また、小正月には知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供をしていた。

とらえた映像の葉っぱはアオキ
だが、多くは枇杷の葉である。

昔はもっと多く村人が小豆粥御供をしていたが、今はもう1軒のお家と我が家の2軒がしている、という。

葉っぱのせ小豆粥御供習俗の取材を願ったら、どうぞ来てください、だった。

ご自宅は神社より少し離れている。

今は水路のように見える「かんでん川」に架かった橋を渡る。

元は川だったという水路沿いにある民家が暮らしの住処。

なんでも安堵町の富本憲吉先祖は、ここ富本から出たという。

また、もっと南のある十六面。

呼び名はジュウロクセンであるが、かつては富本から分かれの出垣内。

ずいぶん前のことらしく、富本(とんもと;とむもと)村は人も戸数も増え、ひとつの村に。

そして、富本から分離した“別れ(※わかれ)”だから、名称を“とむおもて”に、した。

そこが、水路上流の地。

現在の十六面(※じゅうろくせん)に辺りの地である。

それにしても、その地を「とむおもて」に読むなら、本村(※ほんむら)の富本に同じであったら、まずいとされたのか、充てる漢字を十六面(※じゅうろくというめんが天から落ちてきたという由来から)とした、と教えてくださった。

地名の変遷は、地元で生まれ育った方が「桃おやじの歴史散歩」ブログに書き留めている。

その経緯というか、読みの転化であるが、以下のように綴っている。

「十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)」、「※十三下(とみもと)→とんもと→とむおもて(※十六面)→じゅうろくめん→じゅうろくせんになったのが、史実のよう・・」、と。

なお、「十三」に、ついては、ブログ「エナガ先生の講義メモ」が詳しい。

特に記事中にあった重要と思える「鎮座地の富本(とんもと)は飛鳥川の堤防に接する集落です。富本のトミは、十三(トミ)とも、十三(つつみ)とも読み飛鳥川の堤のことです。堤を十三と、書く事例は大阪市内の淀川堤べりの十三(じゅうそう)にもみられ、同地に富神社が鎮座していました。また、御所市内にも葛城川の堤防沿いに南十三、北十三の大字が現在もあります」と、・・・

この2件のキーワードが「十三(トミ)」。調べれば、さらに深まる経緯に、多くの事例を求めなければならない可能性もありそうだ。

富本話題に惹かれて下見にでかけた13日。

現地の状態を見ておきたい富都(ふつ)神社。



足を運んで歩いた集落内の地蔵尊の場や、屋根付き藁積みも確認できた。

その足で伺った民家に表敬訪問するも不在。

その日は、平日だけにお仕事の関係だろう。

自宅に戻ってからの夕刻であれば、と思って館長に電話をかけたら繋がった。

小正月は、今も例年通りの1月15日。

「土曜日の15日は、父親命日。月参りに広陵町広瀬・常念寺のおっさん(※お住さん/住職)が来てくれるから、お念仏が終る午前10時ころに訪問してほしい」。

それまでに「小豆粥・枇杷の葉の支度を調えている」と、伝えてくださった。

その日の取材に、県立民俗博物館事業の「私がとらえた大和の民俗」写真展に参加している写真家のKさんともども伺っていですか、に快く了承してくださった。

「母親が供える場は、神社に2カ所。地蔵さんに、またほかにも供えるだろう」、と・・・

なお、西の地蔵盆は7月23日。

旧浄土寺前の地蔵盆は8月24日。

「かつて集落に子どもが大勢いたころは、広瀬・常念寺のおっさんが来て念仏を唱えていたが、今は1人になったためわからないが、おっさんは来ないで、地区の年寄りたちが清掃してお供え。調えたら念仏をしている」ことも話してくださった。

お昼は、すぐ近くにある食事処。

台湾料理を提供してくれる台湾料理・美食城竹田店の美味いラーメン丼セットにするつもりが、急展開。

温、温のうどんが食べたくなってハンドルを握った先の食事処は、ここから、それほど遠くない丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・

(R4. 1.13 SB805SH 撮影)

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/前編

2024年11月11日 07時15分08秒 | 田原本町へ
知人のFさんが、運営しているFBに公開された記事に目が開いた。

発信日は、前年の令和3年1月27日

初めて訪れた田原本町富本・冨都(※ふつ)神社のレポートである。

実際の参拝日は、記されていないから、その日がいつだったか、わからないFBの記事。

ただ、数枚あるうちの一枚に、また大きく目が開いた。

まさに、その様相は、小正月行事のひとコマ。

県内各地、多く聞きおよんでいる小正月行事の在り方。

そのことは、ともかく、Fさんがアップされた記事の主体は、神々である。

富都(ふつ)神社の「御祭神は、登美屋彦命(トミヤヒコ)しかし式内社調査報告(1982)によれば武雷神(タケイカヅチ)・登美屋彦命・登美屋比売命とあり、他にも富都大神・建布都神(タケフツ)とも、言われている」、と報せていた。
また、明細帳では、「登美屋彦・登美屋比売は一対の神と思われており・・・」、

「大日本神名辞書(1972)に、“登美屋毘売、登美は地名、大和国城上郡に在り。夜の義明かならず。登美屋彦の御妹にして、邇藝速日命(ニギハヤヒ)に嫁して宇麻志摩遅命(ウマシマヂ)を生み給う。御別名御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)という”」

さらに、「登美屋比売は饒速日命の妃、御炊屋姫の別名で、この両神は兄妹という(※式内社調査報告)」
と、いうことは、もしかとすれば、神社名『富都』から本当の御祭神は石上神宮と同じ“布都御霊”だったのかもしれません」、と解いていた。

「神話には、天の磐舟で斑鳩の峰、白庭山に降臨した饒速日命を迎え入れた族長・登美長髄彦(※登美屋彦)は、自らの妹三炊屋媛(※登美夜毘売)を饒速日命の妻とし、仕えるようになります」

「その後、神武天皇の大和入りで抵抗した長髄彦は、饒速日命に殺されてしまう、という哀しい運命を辿る事になった」

「それ以前、平和にこの地を治めていたその一場面が、この神社に表現されているような気がしました(※要約しました)」と、伝えていた。

神話の話ではなく、参拝された田原本町富本・冨都(※ふつ)神社に見つけられた御供である。

搭載された中の一枚の映像。

場所は、神社拝殿の扉前。

敷居下に置いていたソレは、どことなくわかる小豆粥のような・・・

その付近に賽銭が4枚。

一人で奉った4枚の賽銭か、若しくは、4人が参拝され、それぞれが一枚ずつ奉った賽銭か。

不明であるが、小豆粥らしい御供をおましていた木の葉っぱである。

葉っぱの曼陀羅模様から、推定した木は、アオキ。

お供えに、このような事例は、初見である。

後述に紹介するが、さまざまな代用の葉にする事例は、ままある、とわかった。

まさか、と思うが、枇杷の葉っぱが近くになく、代用に使用した小豆粥を盛る皿の葉っぱはアオキ。

私は、これまでさまざまな小正月事例を拝見、取材してきた。

小正月、といえば1月15日。

その前夜に行われるとんど焼き。

火が消えそうなころに、持ち帰るとんどの火種。

その火種は、今にも消えてしまいそうな炭。

炭化まではしていない、いわば炭火である。

持ち帰る方法は、さまざま。

昔によく使われた火のし。

或いは燃えない金属製のバケツやスコップ。

提灯や行灯などに火種を移したローソクで持ち帰る人たちもおられる。

その火種は、お家の竈に移す火。

竈にいれておいたシバ(※芝とか雑木、或いはパチパチ燃える豆木)に種火を移す。

その火で炊いたのが、小豆粥である。

炊いた小豆粥は、朝いちばんにいただき、口にする。

それだけでなく、小豆粥を食べる箸を自然に生えているカヤススキ。

朝食に食べる小豆粥を、一口、二口・・・

穂付きのカヤススキで食べたら、カヤススキの茎を折って捨てる、という民俗事例もある。

一方、県内事例に多くみられるのが、とんどの火種で炊いた小豆粥を、屋外に供えるあり方。

その小豆粥を供える平皿が要るのだが、その平皿は、どこの地域に聞いても、みなは枇杷の葉っぱだ、という。

陶器の平皿でなく、枇杷の葉を裏向けにした、その凹みに小豆粥をのせるのだ。

神社やお堂などの施設、それぞれに供える田原本町・蔵堂に鎮座する村屋坐冨都比売神社(※むらやにますみふつひめじんじゃ)の事例

奇遇なことに、田原本町富本の冨都神社も(※ふつじんじゃ)。

一方、小豆粥を枇杷の葉にのせて供えるのは、神社に限っているわけではなく、民家の習俗として、今もされている事例もある。

明日香村の上(※かむら)の地に住むF家は、神棚・家の入口・離れ・庭の神さん・床の間の神さん・(田んぼ)・庚申さん・神社・地蔵、新墓・(古い墓)など云十カ所(ビワの葉は50枚ほどにもなる、と案内してくれた。

下見に話してくれた「枇杷の葉」がないとき。

その場合は、柿の葉を代用するそうだ。

また、同村の上居(※じょうご)に住む前総代のFさんもしていたが、枇杷の葉にのせる御供は、小豆粥に、カイバシラと呼ぶキリコモチ

供える場は、玄関、納屋、車庫から直撒きの苗代や田んぼ・草むら、さらには杉山の頂上にも・・。

それだけでなく、おじいさんが建之した三体の地蔵さんにもおましていた。

さらに、話してくれたFさん。

かつて小豆粥は、供える前に食べていた。粥を口に持っていくのは、スジノコと呼ぶカヤススキの茎を用いた箸であった。

それぞれ、供え方は区々であったが、小豆粥に枇杷の葉は、どこもそうしていたのである。

同じく明日香村の八釣(※やつり)の小正月の小豆粥御供は、氏神社の弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社から庚申石・地蔵立像、妙法寺、稲荷社、弁天さん

以前は、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇にも供えていたそうだ。

こうした事例は、なにも明日香村に限った民俗ではなく県内の何か所かで行われていた。

大和郡山市の南部。

2月1日にとんど行事をしている柏木町にも小豆粥事例がある。

とんど行事に参集されていた役員のO氏。

実は、とんどに行く前に、既にしていた、という。

その件に急ぎの拝見。

先に、カラスや猫などのエサになっているかも・・・そう、思った小走り。

枇杷の葉に小豆粥を供えていた場は、お家の門屋前。

千切ったモチも一緒に供えた


枇杷の葉は、薬になるから皿代わりに盛った。

その年の穢れを祓う意味がある小豆粥御供。

「町内では何軒かがしてはった」と話してくれた。

また、五條市の上之町金光寺の檀家総代家もビワの葉にアズキガユを供える、と話していた。

天理市豊井町も小正月に小豆粥。

しかも、供えるその場は苗代の田。

荒起こしをしたばかりの苗代の田である。

尤も、苗代つくりは、先の先になる5月はじめになるが・・・

小正月に五穀豊穣を願う農耕の予祝行事。

O家では小正月の15日の朝食に小豆粥を炊き、苗代の田に出かけ、正月のモチと小豆粥に煎った米も供える。

半紙に包んで供える御供に、正月のモチと同様にツルシガキ、トコロイモ、ミカンにモチも供えるO家の事例。

供えた場に立てていた穂付きのカヤススキ。

実物を拝見したのは、ここ豊井が初見だった


15日の朝食後に供えたと田んぼの主が話す小正月の風習話題。

極めて珍しい貴重な暮らしの民俗にわくわくするほど感動したものだ。

他の地域でもされていた小正月のとんどの火で翌朝に小豆粥を炊いて食べる風習。

明日香の越(こし)や高取の佐田でも聞いたことがある。

その佐田ではツバキの葉。

越ではカシの葉を皿替わりに盛ると話していた事例もある。

いずれも実態を見たことがなかっただけに、それぞれの地域、民家に拝見した枇杷の葉のせ小豆粥には感動したものだ。

小正月の枇杷の葉のせ小豆粥の在り方をつらつら書いてきたが、長くなってしまった。

さて、富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の民俗調査である。

たまたまであるが、神社の所在地は、存じていた。

遡ること9年前の平成26年9月14日。

田原本町・佐味の八王子講の聞き取り調査


お昼に摂った食事処は、西竹田の地にある台湾食堂・美食城

食後に、ふらりと立ち寄った田原本町・富本(とんもと)に鎮座する冨都(※ふつ)神社

集落までは行けなかったが、村の風景、佇まいにどこか感じるものがあった。

1月13日に立ち寄り、富本(とんもと)の集落景観や雰囲気を感じておこう。

ぶらりと散歩する気分に、車が停められる場も探しておこう。

着いた時間は、午前11時過ぎ。

1時間ほどの散策に、結局はどなたとも遭遇しなかった。

神社や、寺院、石仏など、気になる場にお供えはあるのか。

正月明けの13日に、暮らしの民俗を探してみる。

まずは、冨都(※ふつ)神社

鳥居の傍に建てた神社の由来などを解説した田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」・・(平成21年度 No4 田観)を頭に入れ、それから参拝する。

境内入口辺りに建てていた常夜燈。



氏子中が寄進、「明和六己丑(1769)年九月吉日」に建之した塔に「牛頭天皇」と、ある。

歴史から見れば、ここは神社であるから「牛頭天皇」ではなく「牛頭天王」が相応しい。



本殿前の拝殿。



その前に阿吽の獅子像がある。



台座に「願主 少庄抄(※若しくは小ノ庄村とも読める) 庄兵衛 天井村 庄吉」、「天保十二辛丑□年吉日 」の刻印が見える。



気になる「天井村」。

大和郡山市内に天井町の地名がある。

もしか・・“天井村“の”庄吉が” 小ノ庄村(※十市郡の下ノ庄村が考えられる)の“庄兵衛”の二人が、寄進した願主ではないだろうか。

あらためて拝見した手水鉢の蛇口。



取材当時は、龍の口では、と思っていたが、よくよく見れば、まるでシンガポールにある「マーライオン」に、さも似たり。

そう、見えただけだが、獅子の顔に見えるこのような意匠ははじめて、だ。

田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」には、この件に関して記載がないから、文字数の関係から触れないことにしたのだろう。

神社から離れて西の集落をめぐる。

西へ直進したそこは集会所。



すぐ横に整備された場に、2体の石仏地蔵尊。

地蔵堂に安置していた。

左にあるのは庚申塔。



石仏地蔵にはしめ縄は見られないが、庚申塔にはある。

おそらく庚申講の存在が考えられよう。



大字富本の集落については、地元富本自治会が記載、大和磯城ライオンズクラブが、寄贈した「町・村の歴」・・(平成23年度 )LNo.37を参照、としよう。



さらに、奥へ奥へとめぐったが、それらしきものはなく、ここにも地蔵石仏が見つかったが、ここにもしめ縄は見られない。

この向こうは、集落の端。



多分に考えられる環濠集落ではないだろうか。

帰宅して、ネットをぐぐったら、やはり、であった

戻りに拝見した民家それぞれが飾ったしめ縄のカタチ。



市販製品も見られたが、少なくとも旧家は、新米で結った稲藁。



これこそ、日本の文化歴史を感じる暮らしの民俗。

中央にウラジロ、ユズリハ。

みかんをあしらったしめ縄。



きちん、と七・五・三の房を垂らした手つくり感がいい。

一部しか、調査ができなかったが、全戸調査するには、もっと多くの時間、体力を要する。

午前11時からの下見は、集落の人たちとお会いできなかったが、有意義だった。

もう少し時間がある。

見ておきたい富本の田園。

割合、川幅が広い水路(※かんでん川と呼ばれているようだ)は、田園を潤す栽培の命水。

向こう岸に見えた藁積み。

この時期にも使いたい農の道具。

野菜畑に敷く藁もあれば、支柱に茎とか蔓を結わえ固定する道具でもある。

昨今は、地産地消の店とか道の駅に売っている。

家庭菜園をされている方たちのお買い物。

その藁積みは、もう一か所見つかった。

岸の向こう集落地の東側の藁積みは細かい状態を見たいが、橋に戻る距離が遠い。

諦めて歩きだした水路の東。数軒並びの民家の東側にあった藁積みの形状。

私は、この形状を探していた。

やや崩れてはいるが、屋根付きの家型藁積み。

大和郡山市の小南町に住む元一老のUさんが、いうには「ちょっぽ」。

親父さんからは「ちょっぽせぇー」と、云われて、藁を積んでいたそうだ。

もっと、もっと歩いてみたいが、時間帯は正午。

それほど遠くないが、丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・

(R4. 1.13 SB805SH 撮影)

田原本町道の駅・レスティ唐古・鍵に求めた美味しい地産地消の品

2023年03月21日 06時49分52秒 | 田原本町へ
帰り道にある施設、田原本町道の駅の「レスティ唐古・鍵」。

稀にトイレ利用もさせてもらう施設。

求める美味しい地産地消の品々。

野菜などもあるが、これはっ、という品物もあるから、たんまに寄せてもらう。

ここ「レスティ唐古・鍵」のお気に入りはクレジットカード払いが可能。

この点が嬉しい。

さて、今日はどんな美味しいものが見つかるかな。

まずは、野菜売り場。あった、あった。

ここレスティ唐古・鍵にもあった葉玉ねぎ。

柔らかい葉も美味しく食べられる。

煮るほどに甘くなる葉玉ねぎ。

葉っぱはもちろん、白い肌を魅せる玉ねぎの玉が旨いんだなぁ。

かつては葉なんぞ要らんわというお客さんもおられたが、その美味しさに市民権が与えられたように思う。

なんせ捨てる部分がない葉玉ねぎ。

呼び名は短く「葉たま」で伝わるほどに認知されてきた。

野菜は大好き。

葉玉ねぎ以外に、あれも食べたい、これも食べたいと籠に入れて買ってきたら、家人から大目玉を喰う。

屋外に、冷蔵庫にあるのに、なんで買ってきたのか・・と、言われるのもなんだから携帯電話を掛けて有無確認。

必要な野菜、必要な分量の確認をとってから購入している。

加工商品の棚も目を通しておく。

最近は特に目がいく黒酢にんにく。

特に、熟成黒にんにくは、まるで柔かい、和菓子ような食感に、こってりコテコテのねっとり味。

何度か買てきって扱い方に手こずらせるので、熟成黒酢から醤油漬けに切り替えた。

なぜに食べていたのか。

便通にいい、とわかって買っていたが、私にとって高額商品。

負担が大きくてやめた。

代わりに、安く提供されている醤油漬けにんにく。



1袋を380円で売っていた「鎌田ファームのにんにく醤油漬け」。

個数が多く入っているにんにく醤油漬けも買った。



もう一品は、540円売りの「古都の香り奈良漬けきくらげしぐれ」。

奈交サービス㈱が直営する店舗販売の「奈良銘品館」のほか、通販のアマゾンや楽天市場にヨドバシカメラも販売している美味しい奈良でつくった逸品。

現在は、吉野町楢井から移転し、新社屋を建てた大淀町下渕が所在地の亀久堂本舗・灘商事㈱が販売・提供している商品。

また、ここレスティ唐古・鍵にも見つけた我が家で大好評の吉野山林豆とうふ店のタレ付き揚げ出し豆腐は、冷蔵ショーケース内に売っている。

これまで買ってきた売り場はみな我が家から遠い道の駅など。

宇陀路・大宇陀道の駅は、宇陀市。

吉野路・大淀Iセンターは、大淀町。

地域振興施設・御所の郷は御所市。

みな奈良県南部地域に所在する。

南部地域に民俗取材があれば、丁度いいが、目的がなければ足は遠のく。

それがなんと、レスティ唐古・鍵なら片道30分もかからないから、時間も燃費も助かる距離。

いずれも270円売り。

家族人数が多いご家庭はたぶんもの足りないから大きめの400円売りをお奨めしたい。

そして晩食のおかず。



食卓にあがった林豆とうふ店のタレ付き揚げ出し豆腐を家族3人に分け合って食べる。

毎度、いつ食べても美味しくいただくタレ付き揚げ出し豆腐、揚げ出し豆腐も旨いが、タレはもっと美味い。

そして、初めて口にした古都の香り、奈良漬けきくらげしぐれが、また旨い。

奈良漬は、食べやすい形にしている。



丸々一切れでれば、結局奈良漬けなんて、一口で食べることはない。

こま切れだからこそ、味もしむ。

口の中でうまみが拡がる奈良漬けに、シャキシャキ、コリコリの歯ごたえがあるきくらげが、食感を深める。

ししゃものつぶつぶも、えー効果を出してくれる。

たまごも入れて炊き上げた、コレが旨いのも、佃煮したのが正解。

家人はお茶漬けがいい、と、いうが私は酒の肴。

ぐびぐびいってしまう。

なお、「鎌田ファームのにんにく醤油漬け」は、袋からタッパーウェアに移して、これからの毎日に1個ずつ口にするのだが、熟成と違って、醤油漬けはどことなく手が伸びない。



旨味がまったく異なる熟成商品と醤油漬けの違い。思い知らされた。

(R3. 3.16 SB805SH撮影)

田原本町西代・八坂神社の砂モチ

2022年11月24日 07時37分49秒 | 田原本町へ
2日は予定していなかった田原本町西代(※にしんだい)行き。

八坂神社の砂モチを拝見したく、急行した。

橿考研所属の発掘調査専門のYさんが発見した、という砂モチ。

Yさんがとらえた映像と同じ状態の砂モチが、今まさに目の前に現る。

なるほどの形態は、大和郡山市に鎮座する小泉神社の砂モチと同じ。

多少の高低差はあるが、形態は同じ。

それが、第一印象である。

辺りを見渡しても誰もお見えにならない。

西から吹く風が冷たい。

鳥居までの参道道。



両脇に背の高い樹木が並ぶ八坂神社の参道。

その光景もまた、大和郡山市丹後庄町の八雲神社に、さも似たり。

ただし、丹後庄町の場合は、樹木外の両脇は池であるが・・。

その鳥居横に立てていた八坂神社の史跡案内。



田原本町観光協会が立てた解説文の編集は、親交のあるNさん。

地域行事の法貴寺の川西川東のゴウシンサン取材にご支援いただいた元県の文化財保護指導委員。

担当する田原本町に行われる民俗行事、文化財、遺跡などが詳しい。

ゴウシンサン取材を終え、当時県立民俗博物館所属・鹿谷勲さんとともにお家に上がらせてもらったことがある。

西代・八坂神社の解説文に興味深い記事があった。

下記に、要約し、文中より一部補正し、解説する。

「年代・由緒は明らかでないが、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。云々・・」他地域にも多くみられる元牛頭天王社。

西代と同じ八坂神社、或は八阪神社。

他にも杵築神社などがあり、古くは祇園社と呼ばれていた時代もあった京都・八坂神社もまた牛頭天王社。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)を、往古は牛頭天王と称していたわけである。

詳しくは、ここでは述べないが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた全国の神社は、神仏分離・廃仏毀釈の波を受け、素戔嗚尊を祀るすべての神社が、明治時代に神社名を替えられた

「旧城下郡(※旧城下郡(しきのしものこおり)は中世までの郡名、後世に式下郡(しきげぐん))西代の八坂神社は、素佐男命の神威により、西代村民を疫病から守るために勧請された・・・」。

「明治3年(1870)、神社名を健速須佐男命社『城下城上神社御神体取調目録(蔵堂・守屋広尚文書)』と、呼ばれていたが、明治11年(1877)に、八坂神社名に改号された。(村史『西代区有文書』)」

蔵堂・守屋広尚氏は、蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社宮司。

なにかと民俗行事取材に教わった宮司が、若いころに記された『城下城上神社御神体取調目録』であろう。

「八坂神社・本殿は、一間社春日造、銅板葺(かつては檜皮葺)」。



県内各地に春日大社から造営の度に古社になった建て替え前の社を、所縁に地に移された春日造を調べている写真家Kさんは、先に調査していたらしく、西代の砂モチに興味を示された。

YさんとKさんがたまたま居合わせた年末晦日の日。

奈良市山陵町・山上八幡神社の砂モチ行事

西代の砂モチを報せてくれたYさん。

Kさんもまた砂モチ調査をしている。

三者がそろったときには、さまざまな地域習俗情報を伝え合う。

今日に拝見したあり方も、また伝えておいた。

さて、鳥居から眺める参道を撮っていたときだ。

東側の地に建つ集落から歩いてきた人の姿が見える。

もしか、とすれば氏子さん。

そう思って、お声をかけた女性は西代住まい。

天理市中之庄町が出里の女性が嫁いだ50年前。

出里になかった情景に、行事や風習も異なる環境だったが、苗代にイロバナをしていた、と話され、思わず、えっ。

中之庄町といえば、ひょんなことから出逢った苗代の習俗がある。

取材したT家の他にも、数か所でしていると知った中之庄町の農村のあり方。

氏神社の天神社の行事に御田祭は見られない。

それゆえ祈祷する護符はないが、イロバナ立てはある。

蕗の葉に載せるハゼゴメ習俗には感動したものだ。

ちなみに、ここ西代にも苗代にイロバナを立てる、と話してくれた。

しかも松苗も立てる、となればここ八坂神社に御田祭があるのか・・。

実は、そうではなく、隣村の八尾にある神社の田植え祭りに・・。

その神社は、かつて取材したこともある通称鏡作神社の名で呼ぶ鏡作坐天照御魂神社。

当地のお田植祭は、群がるカメラマンが撮る牛面を被る牛使いがある。

女児が舞う豊年舞に、ラストに天空高く投げる雨降らしの松苗投げも。

その松苗を西代の総代がもらってきて住民に配る、と・・・

イロバナを添えてキリコモチも供える、というからその時期になれば、また伺いたくなる西代。

かつてはカンピョウつくりから干す竿もあった、と昭和23年生まれのTさんが話してくれた。

そういえば、すぐそこのH家、は今でもしているような気がする、と・・・

さて、西代の砂モチである。

73歳のTさんは、“砂は神さんが通る道”だ、という。

川砂が綺麗だったころ。寺川に出かけて、掬った川砂を一輪車に載せて家に持ち帰った。

門から家の玄関までに一本の道を描くように砂を撒いていた。

玄関だけでなく、トイレやお風呂に稲屋にも繋げるように砂を撒いた。

それぞれを繋げる砂の道。

その形態は大和郡山市内見聞きした砂の道と同じ。

で、あるが境内の砂モチとは関係なくしていたようでもある。

嫁入りした義父や義母から教わったのだろう。

当地に住んでわかったことを話してくれる。

お話しされているとき、散歩中だったTさんが、ばったり出会った87歳の高齢女性。



老人カーを押しながらやってきた女性は、手を振って合図していた。

一緒に、参拝しましょう、と寄り添って歩いた参道。



「大阪から嫁入りした私もびっくり」、ここ西代の習俗に、当時は驚きながらも家人たちとともに砂を撒いていたそうだ。

うちもしていた、と、いうが、たぶんに今はしていないような雰囲気・・・

八坂神社の砂モチ。

かつては、西に流れる寺川にあった綺麗な川砂。

護岸工事の関係であろう。

川砂が採れなくなってからは、心ある村の人たちが砂を寄せてくれるようになったそうだ。



その一言でわかった砂モチの色合い、風合い。砂の盛り様の違いもわかる。

お家によって入手する砂質は違う。

黒い砂もあれば白い砂も。

茶っぽい砂もあれば、グレー色も。

一人一山とは限らず、二山、三山の場合も・・見られる。

いずれにしても左右対称に一対、一山ずつ。

12月31日の大みそかに砂モチをしているようだ。

ちなみに八坂神社の宮守さんは3人。

1番の年長者、2番手のミナライ。

3番手もまた見習い。

一年経験して繰り上がる。

3年間を経験して退く繰り上がり。西代のトーヤ制度であろう。

毎月の1日、15日は掃除。



風雨にさらされ、もっときれいに、と手を揚げた老人会も毎月の8日と23日が清掃日。

ちなみに西代の砂モチは、中田太造著の『大和村落共同体と伝承文化』に載っている、と写真家Kさんが教えてくれた。

“田原本町・平野村の一年“の章に「スナモチ オオミソカに飛鳥川から砂を一荷ずつあげてきて、お地蔵さん、お宮さん、墓、家の門口に“砂モチ”をした。これは普段に詣で、足につっかけて帰るので、お返しするためだ、という。お宮さんや、お地蔵さんには砂が山のようになった。佐味では正月が済むと、この砂を道の悪いところに置いた。満田では、大晦日に門口に砂を撒いたが、それを“ハツミチ”といった」とある。

砂モチ状態撮って、それで終わり。

次に向かいたい天理市の長滝。

昼までに帰ってこれる。そう思って西代の調査に来たが、なんなのなんの。出逢ったTさんの情報は大きく、昼めしを摂る時間がなくなってしまうくらいの質・量に感謝申し上げる次第だ。

また、余談であるが、FB知人のFさんからも砂モチ情報を伝えてくれた。

多神社の境外社と思われる姫皇子命神社に一山の立砂(たてずな)若しくは盛砂(もりすな)があった、という。

私にとっては初の取材地になる西代。

「にしんだい」の読みさえ知しらなかった初入りした西代。



この日に出会った住民のTさんに、老人カーを押して参拝された婦人からただいた貴重な民俗話題。

西代に出会えるキッカケとなった砂モ情報を報せてくれたYさん。

春日造りを記録してる写真家Kさんからは、民俗文化を記録された、先駆者の中田太造氏が執筆された『大和村落共同体と伝承文化』に記載があると報せてくれた。

西代・八坂神社の解説文を通じて学ばせてくれたNさん。

村屋坐弥冨都比売神社宮司の守屋広尚氏からの情報もある。

私が民俗調査をできたのも、すべて先駆者のおかげである。

これまでも先駆者から受けた、或は見聞きした数々の多様な情報提供によって、私が現時点の取材ができるのである。

ありがたく感謝し、敬服するとともに、また敬意を払わなければはならない、と念頭におき、今後も活動していきたい。

(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)

社家の杵搗き小餅

2022年10月29日 07時59分04秒 | 田原本町へ
朝から餅つきをする、とFBに伝えていた。

この日を逃せば、一年送りになる。

気持ちが覚めないうちに、と思って、今から伺います、と伝言を入れ、自宅を出た。

行先は、これまで何度もお伺いしたことがある、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社。

平成14年10月10日、初めて立ち寄った村屋坐弥冨都比売神社。

その日の撮影行事は、秋の例祭に行われる太々神楽だった。

当時、神職の禰宜を務めていた現守屋宮司。

歴史が深い村屋坐弥冨都比売神社の67代目になる、と云ってた。

次の年の平成15年の取材訪問は、2月11日に行われている御田植祭。

同年の6月30日は、夏越し大祓式。

その後、しばらく空白期間を経て、再訪取材に平成25年10月9日は宵宮祭

同年の12月29日。

その日は、先代宮司から聞いていた簾型のしめ縄を撮っていた

そのしめ縄の呼び名は“ゾウガイ“。

県内の一部地域、民家で継承されてきた簾型しめ縄。ある地域は”ドウガイ“と呼んでいた。

今年は、引退された先代宮司から引き継ぎ、守屋宮司一人でつくったそうだ。

なにかと忙しくなった守屋宮司。

翌年の平成26年1月。元日に撮らせてもらった”三宝飾り“

同年同月の1月15日は、小正月の小豆粥御供

また、御田植祭については、平成25年に森講の行事の詳細調査

夏越し大祓式も、また再訪問した平成25年28年

また、末社・恵比須寿の三夜待ち行事も取材していた。

その他、社家守屋宮司が、近隣の旧村で行われている兼務社の年中行事の一部も取材したことがある。

そして、今日の取材は、守屋社家の家族が杵搗く餅搗き。

大きくなった息子さんにお友達。

宮司のお姉さんも手伝いに来られる正月の餅搗き。

お姉さんの息子さんに、その友達も力仕事に加わる。

社家自ら搗かれる餅搗き。

かつては2軒で8臼も搗いていたそうだ。

今日の餅搗きは、3升5臼の小餅搗き。

昔ながらの石臼に杵搗き姿を収めたい、と急いでやってきた。

挨拶もそこそこに、最後の一臼は、今から始めます、と云われて、慌てて構える。



眩しい昼光が差し込む時間帯。

陰と光の差が厳しい条件になんとか収めたが・・・。



力強く餅を搗くが、重たい杵を扱う形は、もう少しの鍛錬を要するようだ。



それでも振り上げた杵の重みによってモチモチの餅ができた。

熱くなった餅を取り出し、移す。



とり粉を手に、丸める小餅。

みなさん、揃って手が動く。



そんな情景を拝見していると、およそ60年前の我が家を思い出す。

隣近所とともに餅を搗く。



とり粉に塗して小餅を丸めていた体感の記憶が残っている。

杵を搗くことはなかった子どものころ。

近所のにいちゃんらは、みな逞しかったんだ。

そんな古い記憶に浸っているうちに餅搗きのすべてを終えた。

休憩する用意もしていた宮司の奥さん。



幼き子どもとともに小餅を丸めるようになるのは、もうすぐ。

来年には、可愛いお手手が動いていることだろう。

手伝っていた友人。

午後には用事があるから先に失礼します、というので、お住まいは、と尋ねたら地元大和郡山市内。

城下町の一角にある野垣内町。

新興住宅地が増えつつある新旧混ざった地域であるが、住民が出かける正月参拝は、野垣内の春日若宮社。

ここは、今もなお、正月の神さんが通る砂の道を敷いていますよ、と伝えた。

最後の一臼は、家族がいただく小餅。



すべて搗き終えてほっとしたお昼の時間。

搗いた餅を味わうひととき。

来年も穏やかな日々になることを願い、よいお年をお迎えくださいと伝えて退座した。

この日は、もう一件の師走の民俗行事も取材する。

時間的な余裕もなく、お昼も摂らずに次の取材地に向かった。

(R2.12.29 SB805SH撮影)
(R2.12.29 EOS7D撮影)

田原本町・黒田の神輿と桃太郎巡行

2020年03月30日 09時40分40秒 | 田原本町へ
御所に向けて車を走らせる。

途中の道中に遭遇した神輿と桃太郎。

桃太郎でわかるここ大字は田原本町の黒田。

法被を着た子どもたちや関係者。

通りすがりに見た神輿はたぶんに曳行型の子供神輿。

赤くて大きな団扇で扇いでワッショイ、ワッショイの掛け声をしながら曳いていたのだろう。

眩しい逆光の向こう。



後続に就いていた大きな桃太郎、いやそうでなくて桃である。

幟旗にある文字は「桃太郎生誕の地 田原本 桃太郎会」とあった。

台車を引く彼らはたぶんに「桃太郎会」の人たち。

法被姿でなく黄色いユニホーム姿でわかる「田原本町桃太郎会」のみなさんらにご苦労さまです、と助手席から声を掛けて通り抜けた。

(H30.10. 7 SB932SH撮影)

新地・行者堂の地蔵盆

2018年09月12日 09時36分56秒 | 田原本町へ
かろうじて地蔵盆の状況がわかった南町材木町を拝見して車を走らせる。

旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。

走らせるといっても時速は遅い。

メーターは20km以下。

両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。

諦めて旧町を離れようとしたときである。

時間帯は午後2時半。

場所は旧町の南の端にある新町である。

南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。

そこで緊急停車。

通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。

午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。

急なお願いであったが承諾してくださった。

取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。



子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。

白色が男の子で赤い色は女の子。

奉納してから一年経てば笹に括り付ける。

旗に奉納された年号がある。

平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。

一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。

見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。

「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。

随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。

南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。

婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。

いないか、いるのかもわからないケースもある。

不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。

地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。

新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。

地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。

その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。

狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。

雨が降っては祭り難い場所。

そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。

前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。



史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。

ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。

毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。

寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。

そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。

本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。



いっこうに、やってくる気配がない。

自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。

現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。

その次は大門中。

そして大門東などなど。

新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。

町内の人たちと話していた男性と目があった。

思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。

お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。

届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。

その場に慌てて駆け込む男性がおられた。

何故にここにおられるのか・・。

男性が住まいする地は田原本町の佐味。

7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。

たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。

何という奇遇であろうか。

ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。

みなさん、ほんまにお世話になっている。

この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。

例年通りの時間帯に始められた。

蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。



町内の人たちも手を合わせて拝む。

その時間はほぼ2分間。

待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。

参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。

そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。

住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。

お供えはばらして分ける。

笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。

かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。

子どもたちには握ったおにぎりも。

盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。

そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。

いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。

回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。

そのときに住民の存在を確認する。

昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。

紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。

ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。

いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。

自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。

終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。



開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。

新地は22軒。

昔は遊郭もあった町。

北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。

室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町

寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。

寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。

奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。

田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。

水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。

陸は古代の幹道である下ツ道。

中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。

江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。

平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。

陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。

長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。

平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。

本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。

いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。

当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。

三輪町の他に味間町、堺町がある。

三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。

中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。

大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。

濠で防御した城下町もまた門がある。

ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。

外堀の北にあった大門である。

その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。

4つの大門があった。

田原本町に話しを戻す。

本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。

その橋に門があった。

いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。

その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。

浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。

他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。

津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。

明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。

津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

材木町・濠水路にある地蔵盆

2018年09月11日 09時52分32秒 | 田原本町へ
田原本町の中心部。

三輪町・南組の地蔵盆を拝見して北組に向かったが、跡形もなかった。

ぐるりと方角を替えて西の筋道に入っても同様。

地蔵尊の祠は多数見られるが、どこもかしこも店仕舞い。

住職の法要をしてもらったら、直ちに仕舞うようだ。

若干は残っているものの撮るとこまではいかない。

車窓から眺める次の筋道に提灯が見えたが、一方通行の道ではハンドルを切れない。

仕方なくそっち方面に行ける道を探して迂回。

ようやく見られた地蔵尊は材木町のようだ。

濠水路にあった地蔵盆は終わっていない。

用意している蝋燭も線香も火点け前。

住職がいつやってくるのかわからない。

訪ねたい家もあるが、車を停車したら人も通れない幅しかない道に置くわけにもいかないからさっさと撮って車を移動する。



後日、撮った画像を、じっくり眺めて見れば仏飯は山盛りだった。

ニンジン、ピーマン、ナスビの盛り椀に乾物のシイタケ、カンピョウ、コーヤドーフにマメをのせたのは愛嬌のようにも見える。

右上の椀は大葉にのせた茹でのコエビ。

左下の椀はキュウリの漬物に黄色いコウコが良い。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

三輪町・南組の地蔵盆

2018年09月10日 09時27分04秒 | 田原本町へ
何年も前から気になっていた地蔵盆地域がある。

田原本町の中心部。

近鉄電車駅でいえば、田原本駅。

人は云う。田原本町は奈良盆地平坦部の中心地である。

とは云っても奈良県のヘソとまでは言い切る人はいない・・・と、思う。

田原本町の民俗行事は昭和59年3月に田原本町教育委員会が発行した『田原本町の年中行事』が詳しい。

ほぼ、であるが、「ゴウシンサン」若しくは「ダイジングサン」と呼ばれている行事と地蔵盆の行事場が近似する地区である。

かつては、というか、平成20年ころまであった立山は祇園さん行事のときだった。

今では見ることもできない造り物の立山であるが、田原本町の旧町にある地蔵盆にも興味がある。

『田原本町の年中行事』によれば、大門西南組の御膳は二つ切りジャガイモに、串で挿したトマトや太目の曲がりキュウリにコーヤドーフの串挿しが。ピーマン、ナスビの串挿しもあると書いてあった。

串挿しトマトはまるで二見が浦の日の出の情景。

ナスビの串挿しは帆かけ船の様相であると記している。

その地はどこになるのか、一見の価値がありそうだと思って、車を走らせる。

旧町は広い。

ただ、車路は狭いうえに、一方通行道が多く、走行どころか停車に難儀すると思われた。

実際、その通りのところもあるが、ここからと思って入ったところに地蔵盆の飾り付けが目に入った。

地蔵さんに赤白。

目立つ景観に飛びついた。

子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立てが壮観である。



御膳にソーメンも供えているここはどこであるのか。

向かいのお家の方に話しを聞けば、三輪町(みわまち)だという。

飾り付けした地蔵さんは南組。

朝の8時に飾り付けをしてお寺さんを待つ。

それから4時間後の12時ころに旧町にある本誓寺住職が法要に来られた。

ほんの数分で終えた住職は次の場に向かっていったという。

ちなみに北に浄照寺もあるようだが、この日に探す時間は持ち合わせていないので、後日としよう。

ここら辺りは南組の他、北組にもあるし、西のところには、ほんま、多いくらいにあちこちでしていると話してくれたので車を移動した。

ちなみに南組の地蔵盆に何をお供えされていたのか。



御膳の椀を覗かせてもらえば、一つは仏飯である。

ご飯粒が立っているように見える仏飯である。

手前左はコーヤドーフの煮たもの。

中央は黄色いコウコ。

その右上はトーフと青菜の汁椀であろうか。

左上の椀はオクラと豆の煮もののようだ。

そしてもう一つのお供えがソーメン束。

カボチャにナスビと昆布であった。

昔はもっと多くの子どもが居た。

笹の飾り付けはこん盛りするぐらいに多かった。

飾り付けにある子どもの名前を手掛かりに、現在は不在していると断定された飾り付けは除外したそうだ。

某学芸員のYさんがお勧めする昭和60年刊の『田原本町の歴史』のある号にゴウシンサンや大神宮燈籠を調査した特集を載せているようだから、一度、田原本町図書館で探ってみたい。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)