マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

下山田の植え初め

2012年07月31日 09時39分51秒 | 天理市へ
先週に見かけた中山田の植え初めはオコナイのウルシ棒に、3枚の幣と三つのフキダワラをぶら下げたクリの木であった。

下山田もそれがあるのだろうかと思って、付近の田んぼを巡ってみた。

前週にされたと思われる田植え初めの儀式の「植え初め」がそこにあった。

閏年であるゆえ、田んぼに挿したカヤは13本である。

田の角には地蔵寺で行われた正月オコナイのウルシ棒とごーさん札が挿されていた。

中山田と同じようにクリの木もある。

幣は風雨で飛ばされていた。

フクダワラは落ちてはいるものの3個である。

一つはカヤが13本、地蔵寺オコナイのウルシ棒とごーさん、クリの木、地面に3個のフキダワラ。

二つ目はカヤが13本、地蔵寺オコナイのウルシ棒とごーさん、水引したクリの木に3個のフキダワラ。

三つ目は地蔵寺オコナイのウルシ棒とごーさん、クリの木に半紙で包んだゴク(コメとダイズ)であった。

これらのことを清水と東村に住む婦人たちは「植え初め」と呼んでいた。

例年のカヤは12本。

一年間の月の数だ。

閏年の場合はこれが13本になる。

その年の月数を現す月の数というから閏年は閏月を入れて13カ月となるのだ。

東村のS家では正月のモチに月の数のモチを家に供えるという。

それも閏年は13個となる。

月の数の民俗はそれに限らずカラスノモチとか勧請掛けにも見られるので興味つきない。

その場から川を下っていけば堤に挿してあるお札があった。



上流は福住。

そこから下っていく川は布目川。

上山田、中山田、下山田を経由して奈良市の都祁馬場、荻。

そして的野、大君、津越の大字がある山添村へと流れる渓流だ。

その布目川沿いで田の虫送りがされているのは山田だけである。

下流へと虫を送った際に祈祷されたお札は昨年のものであろう。

(H24. 5.20 EOS40D撮影)

下山田のうる十九夜講

2012年07月30日 02時18分13秒 | 天理市へ
天理市の下山田には広出、清水、東村のそれぞれの垣内ごとに十九夜講がある。

如意輪菩薩を祀って和讃を唱える婦人の集まりの講中だ。

正月、5月、9月の三回に営んでいる清水、東村垣内。

十五夜の満月の四日後が十九夜だったというから、旧暦の九月にしていたのだろうか。

それはともかく、十九夜講を営む日は新暦の19日であったが、平日はなにかと忙しい主婦だけに夜に集まることが難しくなり、現在は19日に近い日曜日としている。

この日は旧暦の閏年。

三つの講中が揃って広出の地蔵寺に集まってくる。

清水、東村垣内は寄りあう前の昼食にイロゴハン(若しくはアジゴハン)をよばれてやってきた。

東村でもかつてはアブラゲゴハンをよばれていたが、現在はお茶菓子で済ませている。

ちなみに広出は正月の十九夜にイロゴハンを作って食べたと話す。

東村の人たちは会食をすることなく集会所に集まった。

会所の前には既に作った葉付き杉の木の塔婆と竹の花立てが準備されている。

先週に行われたうる庚申講のときに作られたという。

上がらせてもらった会所には上棟祭で授かった槌が置かれていた。

それには左右にごーさん(牛玉宝印)の文様があった。

こういう形態はあちこちで見られる代物だ。

今年は東村に鎮座する春日神社の造宮。

同じように祭典されるのであろう。

そろそろ参りましょうと云って当番の人が塔婆と花立てを持つ。

一行はお渡りのように広出の地蔵寺に向けて歩いていく。

およそ10分で到着する高台にある地蔵寺。

そこには既に広出の婦人たちがお堂に上がっていた。

待ちうける二人の婦人は広出講中のドウゲ。

年番にあたる当番の二人をそう呼ぶが、充てる漢字は「當家」だという。

そのころには清水垣内の講中もやってきた。

ドウゲは塔婆と花立てを受け取る。

花立ては如意輪菩薩の石仏の祠に立て掛ける。

塔婆と云えばトーバツキ。

うる庚申講と同じように中山田の蔵輪寺の住職に願文を書いていただく。

梵字は五文字。「地、水、火、風、空」であるが判読できない梵字。

「キャ、カ、ラ、バ、ア」と詠んでいる文字は「すべて万物から成り立っている」と住職が話す。

願文は「奉高顕供養者為 如意輪観音十九夜講中 家内安全五穀成就祈攸」である。

三つの講中とも同じ願文である。

ちなみに塔婆の裏側に書かれた矢印のような文字。

文字といえないような記号に見える。

それは「バン」というもので、大日如来の種字。

すべては根本の大日如来であるという。

すべてが揃って塔婆も如意輪観音に立て掛ける。



ローソクに火を灯して始まった住職の法要。

およそ40人の婦人たちが並んで手を合わせる10分間であった。

法要を終えれば一同は地蔵寺に座る。

これから始まるのが三講揃っての十九夜和讃だ。

この日唱えるのは広出の和讃本だと話す講中。

本堂の座敷いっぱいに広がって席に着く。



手元にはそれぞれの垣内の和讃本や先代から継承してきた本などを席前に広げる。

本尊の地蔵仏に向かって和讃を唱和する。

一曲は短くて数分で終えた。

下山田のうる十九夜講はこうして終えて、再び集まるのは数年後になる旧暦閏年である。

一行はそれぞれの垣内に戻っていくが、広出垣内はその場で解散となった。

<平成10年の清水の十九夜和讃本>
「きみよう ちょうらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たずぬれば
にょいりん ぼさつの ごせいがん
あめのふる夜も ふらぬよも
いかなるしんの くらき夜も
いとはづ たがはず けだいなし
十九夜おどうへ まいるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの 二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらため しょうじんせ
おうじょう しゅうしの ふだをうけ
なむあみだぶつ なむあみだ
死して じょうどへ ゆく人は
みょうほうれんげの 花さげて
ふきくるかぜも おだやかに
しょうほうはるかに しづまりて
天より にょいりん かんぜおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじょうの ちのいけも
かるさのいけと 見てとおる
六がんおんの そのうちに
にょいりんぼさつの おしびしん
あまねく しゅじょうをすくわんと
六どうのしじょうに おたちあり
かなしき 女人の あわれさは
けさまですみしも はやにごる
ばんしの したの いけのみず
すすいでこぼす たつときは
てんもじしんも すいじんも
ゆるさせたまえや かんぜおん
十九夜おどうへ まいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじょうどへ いちらいす
まんだがいけの ななしゅうご
いつかは こころ うつりけり
きょう十九夜も しきとくに
にわのめいども ありがたや
じしんの親たち ありありと
すくわせたまえや かんぜおん
そくしんじょうぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

<昭和54年の広出の十九夜和讃本>
「きみよう ちよらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たづぬれバ
によいりんぼさつの ごせいがん
あめのふる夜も ふらぬよも
いかなるしんの くらき夜も
いとはづ たがはず けだいなし
十九夜おとうへ まへるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
寅の 二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらため しょうじん也
おうじやう 志ゆふしの ふだをうけ
なむあみだぶつ なむあみだ
死して 志ようどへ ゆく人は
みやうほうれんげの 花さげて
ふきくるかぜも おだやかに
志ゆほうはるかに しずまりて
てんより によいりん くわんぜおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじうの ちのいけも
かるきのいけと 見てとうる
六ぐわんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おしびしん
あまねく しゆじゆうをすくわんと
六とうの志じゆうに おたちあり
かなしき 女人の あはれさを
けさまですみしも はやにごる
ばんしのしたの いけのみず
すすいでこぼす たつときは
天もぢしんも すいじんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜おどうへ まいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじようどへ いちらいす
まんだかいけの ななしゆご
いつかは こころ うつりけり
きようこの十九夜も 志きとくに
にはのめいども ありがたや
志しんの親たち ありありと
すくはせたまへや くわんぜおん
そくしん志ようぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

戻ってきた東村の講中が話すには、どうやら和讃の文言が異なるそうだ。

唱えていたときに、おやっと思ったという。

和讃本は先代から継承したものであるとか、書き写された本である。

三つの垣内の講中の和讃本を見る限り大きな違いはみられない。

ただ、一部においては言い回しが少しずつ異なっている部分がある。

おそらく書き写された際に言い回しが替ったように思えるのであった。

<昭和33年の東村の十九夜和讃本>
「きみょう ちょうらい 十九夜乃
由来を くわしく たづぬれば
如意輪 ぼさつの ごせいがん
雨め乃降る夜も ふらぬよも
如何なる 真の くらき夜も
いとわぞ たがはず けだいなし
十九夜 おどうへ まいるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
寅の 二月十九日
十九夜念佛 はじまりて
十九やねんぶつ 申すなら
ずいぶんあらため しょうじんせ
往生 しゅじょうの 札を受け
なむあみだぶつ なむあみだ
死して浄土へ 行く人も
妙法蓮げの 花さげて
吹きくる かぜも おだやかに
十方 はるかに しづまりて
天より 如意りん くわんぜおん
玉乃てんがい さしあげて
八まんよじようの ちのいけも
かるさの池と 見て通る
六ぐわん音の そのうちに
如意輪ぼさつの おしびしん
あまねく衆生を すくわんと
六ど乃しゅじょうに おたちあり
かなしき 女人の あはれさを
けさまですみしも はやにごる
ばんし乃下の 池のみづ
すすいでこぼす たつときは
天も地神も 水神も
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜 お堂へ まいるなら
長くさんずの くをのがれ
ごくらくじょうどへ いちらいす
まんだがいけの ななしゅうご
何時かが心 うつりけり
きゅう十九夜も しきとくに
にわか めいども ありがたや
自身乃親たち ありありと
すくわせ給へや くわんぜおん
即身成佛 なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

東村垣内で継承されてきた和讃本を格納する「十九夜」箱がある。

箱の蓋裏には「命日 正月十九日、五月十九日、九月十九日」が記されていた。

(H24. 5.20 EOS40D撮影)

野遊び②in大和民俗公園

2012年07月29日 08時58分07秒 | 自然観察会
本年度一回目は行事取材と重なってやくなく欠席した。

昨年もそうだが優先すべき取材を先行せざるを得ない。

今回は午後からの取材であったことから午前の部は自然観察会に身を置いた。

本日のコースは大和民俗公園を経由して矢田丘陵を巡る。

集合場所は大和郡山市立少年自然の家。

たびたび利用させていただいている。

この日も多くの団体が施設を利用されている。

まずは公園に入って木々や花々などなど。

少し歩いては観察していく。

この日に集まったのは保護者会の親子たち十数名。

スタッフ9人が支援にあたる。

前回からは奈良教育大学付属小学校の先生方も加わった。

頼もしい限りだ。

前夜は雨が降っていたが、カラリと晴れた。

雨天であれば体育館となるが、利用団体が多く、それは不可だ。

それはともかく明日の金環日食観測用にといただいたペーパー製の日食グラス。

ドイツ製の優れものだと伝えられた。

そうして動き出した野遊び自然観察会。

萱葺き民家の近辺で対象物を観察する。



民家の前に白く大きな花が咲いていた。

ニオイバイカウツギだそうだ。

民家は動態保存されている。



竃に火をくべて煙で燻す。

そうすることで長年に亘って民家が存続できるというのだ。

そこへ突然の電話が架かった。

緊急な対応を要する事案である。

大急ぎで自宅に戻り処理をする。

再び戻ってはみるものの、観察会に参加している場合ではなくなった。







そのような状況であったが、5月の植物や生き物を撮り残しておこう。

(H24. 5.20 EOS40D撮影)

三条町不動堂夏祭りの護摩焚き

2012年07月28日 08時17分28秒 | 奈良市へ
6月1日にノガミサンをされている三条添川町の農家組合の人たち。

この日は夏祭りといって三条町にある三条会館前の不動堂に集まってくる。

お堂の前には「天保三年(1832)六月吉日」の刻印が見られる石柱がある。

「不動明王 西組大護摩講中」が寄進された石柱だ。

不動堂は昭和57年に落成した建物。

老朽化が甚だしくより堅固な建造物と願って竣工したという。

普段の不動堂は三条の尼講の人たちの営みの場である。

毎月の1日と15日はお花を飾って般若心経と高野真言を唱えている。

70歳になれば入ることができる尼講は現在8人。

三条不動講とも呼ぶ講中だ。

本尊はかつて三条通りの弥勒堂に安置されていた。

ヤカタに納められた不動明王の石造仏。

高さは50cmぐらいだ。

この日は三条の農休みの日。

三条の農家・水利組合の男性たちとともに夏祭りが行われる。

この日はまだ5月時期。

初夏の雰囲気はまだまだだが、行事の名称は夏祭りだという。

狭いお堂に上がった人たちでいっぱいになる。

この日に行われるのは護摩焚きだ。

興福寺の僧侶が訪れて護摩焚きをする。

外は本降りの大雨。

びしょ濡れにもならずにお勤めが始まった。

ローソクのオヒカリから移された火を護摩に投入する。

扇で煽いで風を起こす。

奉された護摩木は燃えていく。

護摩木が多いことから、一度でなく四度に分けて焚かれた。



もうもうと立ち上る護摩の煙。

お堂に充満する。

窓を開放しなければならない状況になる。

そうしなくては火災報知機が鳴りだすというわけだ。

「家内安全なーり 身体堅固なーり 交通安全なーり」と祈祷する僧侶。

1時間以上もかけて行われる護摩焚きのお勤めである。

「いつも、であればもっと燃え盛る。熱くてかなわんぐらい」のお堂になるという。

この日の雨の影響であろうか、湿気てなかなか燃えなかった。

特に一回目はそうであったと話した僧侶。

そうして終えた護摩焚きはこれでおしまいというわけではない。

めいめいが持参した数珠を集めて、僧侶は護摩焚きの煙にあてる。

家内安全、身体堅固、交通安全のご加持を授かるありがたい数珠なのである。

夏病みをしないという願いも込められているのだろう。

こうして夏祭りの護摩焚きを終えた一同は、男性たちは会館に。

女性たちは不動堂で、それぞれに分かれてパック詰め料理で会食をされる。

(H24. 5.15 EOS40D撮影)

お礼に伺った称名寺の珠光忌

2012年07月27日 08時25分03秒 | 奈良市へ
この年の珠光忌に訪れたのは、平成15年から数えること実に9年ぶりだ。

その節はたいへんお世話になった。

後日にお会いした住職と奈良の行事などについてお話をしたことを覚えている。

当時はまだ駆け出しの一年生だった。

奈良の伝統行事の撮影に目覚めて幾度となく訪れた祭礼先。

その一つになるのが茶禮租村田珠光で名高い称名寺の珠光忌だった。

未熟な腕であるにも関わらず快諾してくださり、許可を得て撮影させていただいた。

その一か月に訪れた称名寺で住職と会話を交わしたときのお言葉。

「ぜひ頑張って奈良の行事を納めてください」と云われた。

「精進して」とも云われたと思うのだが、そこまでは思い出せない。

住職の一言が私を背中から押してくれた。

その年から一挙に膨れ上がった行事撮影。

いつしか数百行事も訪れるようになっていた。

そうして平成21年10月に京都の出版社である淡交社から初の著書である『奈良大和路の年中行事』を発刊した。

それには称名寺の珠光忌は掲載されていない。

いないが、いつかはお寺さんに提出しようと思っていた。

「提出」の表現をするには理由がある。

住職の言葉がなければ、到達しなかった領域だと思っていたのである。

この日訪れたのは、そのお礼を申し述べるのが目的である。

営みが始まる直前になってしまったこの日。

住職に頭を下げて「長年ご無沙汰しております。背中を押していただいたおかげでこの本ができあがりました。報告と感謝を込めて納めさせていただきます」と、献本した。

そうこうしている間もなく珠光忌の営みが本堂内で始まった。

何人もの人たちが参拝に訪れる。

この年はお堂に上がることもなく、境内に整然と並ぶ地蔵石仏に魅入る。



なかでも「北市春日講」の文字が記された北市地蔵尊が気になった。

「春日講」はおそらく「しゅんにちこう」と呼ぶのではないだろうか。

称名寺にはかつて鎮守社の春日社があったようだ。

その証しかどうか判らないが、春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が収められているそうだ。

北市の春日講との関係があるのかどうか・・・。

奈良の町々には、春日信仰する春日講(しゅんにちこう)が講社が多くあると聞きおよぶ。

多くの場合、いずれも「春日曼荼羅」の掛軸を掲げるようだ。

曼荼羅には「宮曼荼羅」、「鹿曼荼羅」、「社寺鹿曼荼羅」、「春日赤童子鹿曼荼羅」があるそうだ。

平成23年、それらは展示された奈良国立博物館の「おん祭と春日信仰の美術」特別展。

大和郡山市のとある村や斑鳩町でも「春日講」があると聞いたことがある。

それはともかく、地蔵尊が安置されていることから地蔵盆の営みもあるのでは・・・。

いずれにしても、あらためてお聞きしたいと思うのである。

この称名寺は山門に幕が張られている。

平成16年11月に山門改修を記念して作られた幕である。

ということは9年前に訪れた時はまだなかったのだ。

この日に訪れた参拝者は茶席込みの拝観料を支払ってお堂にあがる。

ありがたくご本尊などを拝観できたと喜ぶ人が多い。

営みを終えた住職から庫裡の茶席にあがってくださいとお声がかかった。



声を震わせながら応諾してあがった茶席。

一度に入室できる人数は限られている。

茶席は入れ替え制である。目の前でお点前を拝見する。

その茶は最初に並んだ人に差し出される。

大きな茶碗に描かれた絵はたしか・・・奈良絵模様。

二人目は別室でお点前された茶だ。

一人ずつおうすを差し出されて受け取る。

緊張感が走った瞬間だ。

お茶にはお菓子がつきもの。

萬々堂製の「もっとの」はキナコが塗してある。

盛った赤膚焼のお皿はお持ち帰りくださいという。

なんとも懐が広い称名寺である。

住職のご厚情に感謝する一日となった次第である。

(H24. 5.15 SB932SH撮影)

天理市中山田の植え初めから

2012年07月26日 06時40分04秒 | 天理市へ
正月のオコナイで祈祷された牛玉宝印。

先を三つに割いてウルシ棒に挿してある。

それは天理市下山田の地蔵寺に置かれてあった。

たくさん作っておいたからと持ち帰る人のために置いておく。



お寺の境内にはお堂がある。

その内部には如意輪観音菩薩像石仏が収められている。

来週にはここで「うる十九夜」の法要が営まれるという話を聞いて中山田に向かった。

山田にあったとされる元社がどこにあるのか探してみることにした。

結果的に言えば見つからなかったわけだが、付近を歩けば数々の花が咲いている庭園があった。

そこでこまめに作業をされている婦人がおられた。

美しい花に誘われて足が自然と向いた地だ。

年から年中が花作りだという婦人は十津川育ち。

嫁入りしてからは山田のほうが年数が多くなったという。



夕日が射し込み光り輝く時間帯になった。

よくよく見れば赤い花はクリンソウだ。

種が零れてあっちこちに芽が出たという。

そんな話をしていたところ、向こう側に気になるものがあった。

白い紙片はおそらくお札。

木の棒に挿してある。

近くへ寄ってみれば、それはオコナイで行われたときにたばったウルシ棒であった。

田植えを始める際にそこへ挿したというのはご婦人ではなかった。

付近に住む高齢者だった。

婦人の話によればこの日の朝に田植えをされたという。

ウルシ棒を挿したのは昼頃だったという。



その場には3枚の幣と三つのフキダワラをぶらくったクリの木である。

まさに田植え初めの作法である。

その場で話していたときだ。

通りかかる軽トラ。

運転されていたのは、なんと中山田の蔵輪寺の住職だった。

先ほど下山田でうる庚申講の法要をされたお方だ。

オコナイもされているお方だけに見つけたウルシ棒のことを伺った。

住職の話によれば、それは蔵輪寺で行われたオコナイの棒であるという。

かつては正月四日に行っていたが、今はその日に近い日曜日。

半鐘を鳴らして、ウルシ棒で板を叩くランジョーの作法。

まさにオコナイの作法である。

ランジョーは縁叩きと呼ばれている。

その日はネコヤナギのモチバナを供えるという。

また、ススンボの竹で作った矢を射る鬼的打ちもしているという。

(H24. 5.13 EOS40D撮影)

天理市下山田のうる庚申講

2012年07月25日 06時42分23秒 | 天理市へ
「奉供養庚申 ○○○○ 八月二十六日」の銘が見られる庚申石塔。

年代が現認できなかった天理市下山田の庚申塔は祠の中に納められている。

傍らには前回に参られた杉の木の塔婆や竹の花立てが寄せられている。

年月が経過し朽ちてはいるが、「奉高顕供養者 青面金剛 庚申講中 五穀成就 家内安全祈攸」の文字が判読できる塔婆。

五つの梵字なども墨書されている。

下山田には五つの庚申講中があるという。清水、東村、広出垣内における5講中である。

5月の中旬の日曜日に「うる庚申」が行われると聞いてやってきた。

旧暦暦には閏月があり、それを新暦に充てれば今年は4月21日から5月20日まで。

その間であれば何時でも構わないと云う下山田の「うる庚申」。

相談の上に決めた日程で三つの垣内が揃って庚申塚に参る。

講中はかつて9組あったそうだが、前回は6組だった。

その名残の塔婆は庚申石塔の傍らにあったのだ。

この年は5組の講中。

世代交代等、年々解散する講中が増えていると話す。

それぞれのヤドで作った葉付きの杉の木の塔婆と竹で作った花立てを薬師寺に持参する5組の講中。

持ち寄った塔婆に一つずつ中山田の蔵輪寺の住職が、梵字、願文を墨書されるトーバツキをする。

トーバツキとは塔婆に願文文字を書いてもらうことである。

五つの塔婆はすべてにおいて同文の祈願文だ。

それなりの長さと幅が要る。

ある講中は削り取った部分が短かった、それでは書き込めないと削る長さを改められた。

ちなみに薬師寺の本尊には竹の花立てが置かれてあった。

そこにはコウヤマキが添えられている。

高野山に参ったときに買ってきたコウヤマキ。

それが育って使われることになったという行事は4月に営まれた「お大師さん」だ。

本来は21日であるが、その日に近い日曜日に行われるお大師さんは左端の石仏に向かって般若心経を唱えたという。

右側には木の棒とお札がある。

正月初めに行われた薬師寺のオコナイ。

版木で摺ったごーさんのお札だ。

木はウルシの棒。

先を三つに割ってお札を挿している。

そうこうしているうちに五つ講中のトーバツキを終えた。



杉の木の塔婆や竹の花立てを持って庚申石塔に参られる。

行列の順は特に決められたものではなく、それぞれの講中が列をなして歩いていく。

畑を抜けて坂道を登る。

その辺りには子どもたちが居る。

法要を終えたときに配られるゴクサンが目当てなのだ。

そのゴクサンは重箱に詰められて風呂敷に包んだ。

それぞれの講中のゴクサンだ。

講中のヤドの家が搗いたモチはそれぞれ三升と決まっている。



庚申石塔の前に並べられた。

石塔は屋形に納められている。

その屋根に立て掛ける花立て。

塔婆はそこに置くことなく後方の樹木にもたれ掛けさせた。



そうして始まったうる庚申講の法要。

蔵輪寺の住職が祈祷される。

回りを囲む講中たちは30人ほど。

静かに読経を見守る。

およそ15分の法要を終えれば供えたモチの重箱を抱えた。

一列に並んで子どもたちを呼んでゴクサン配り。



一人につき一個ずつ手渡される。

子守のおばあちゃんがおればもう一つ渡されるというが、この日の子どもは5人。

かつては子供が多くて順番待ちの行列ができたというが、少子化でしょうか、あっという間に終わってしまった。

ゴクサン配りを終えた講中はそれぞれのヤドに戻っていく。

東村にある一つのヤドでは古い掛軸があるという。

拝見の了承を受けてヤドにあがった。



ヤドの家の床の間には青面金剛童子の庚申さんが掲げられていた。

それには「和州小泉庚申堂」の文字がある。

以前に掲げていた掛軸は傷みが激しく掛けるに耐えられない状況になった。

そういうことから新しく買った掛軸は、昭和十四年一月二十四日の初庚申に大和郡山市の小泉金輪院で購入したそうだ。

その掛軸も拝見したが、期日は記されていなかった。

(H24. 5.13 EOS40D撮影)

白土町の興正菩薩叡尊生誕祭

2012年07月24日 12時02分39秒 | 大和郡山市へ
叡尊さんは西大寺中興の祖として広く知られる。

生誕地は大和郡山市の白土町だったとされる。

かつて添上(そうのかみ)郡箕田(みた)ノ里と呼ばれていた地だ。

生まれて800年目。

それを祈念して行われた生誕祭は平成13年だった。

それより以前から行われていた生誕祭は村の住民たちだけで営まれていたようだがはっきりとしない。

804年祭を営まれた平成17年に訪れたことがある。

そのときに聞いた話では15回目だと云っていたことを思い出した。

その年代を数えてみれば平成2年辺りが初回ではなかったろうか。

昨年は叡尊さんが生まれて810年目にあたる。

西大寺執事長の佐伯快勝氏らを招いて盛大に記念祭が行われたそうだ。

叡尊さんは鎌倉時代の1201年~1290年を生きてきた。

享年が90歳だったというから当時としてはそうとうな長命であった。

地元では保存会を立ち上げ、この日も811年目を迎えた22回目の生誕祭を営まれる。

800年祭を迎える前年の平成12年。

西大寺は祈念の2体の叡尊像を造立された。

1体は同寺で、もう1体を生まれ故郷である白土(村)に置くこととなった。

当時は集落南の幹道沿い辺りにしてはどうかと意見もあったが、「それでは雨風に打たれてしまう。地域集落のお寺さんは浄福寺だが、宗派が異なる。同寺には観音堂や薬師堂があるが納めるには狭すぎる。空いていた観音堂の傍にお堂を建てて安置してはどうか」という案がでて収める場が決まった。

お堂の中にはトウ(燈)がある。

村の人たちが寄進したトウである。

その数は100基。

すべてをお堂に並べるには入りきらない。

およそ40(実際は39)基のトウを叡尊像両脇に納めた。

寄進したトウに加えて寄付も募った。

そのお金で叡尊堂を建てたのであった。

そういうことだと話す住民たち。



叡尊像が収められたお堂に入った浄福寺住職が法要をされる生誕祭。

その前にはテントを立てた。

来賓や村の人たちはそこで手を合わせる。

村の行事はこうして始まった。

読経のさなか、次々と参拝者は焼香をされる。

叡尊さんは地域の誇りの人物。

遺徳を偲んで永く守られていくことだろう。

(H24. 5.13 EOS40D撮影)

第23回天理考古学・民俗学談話会聴講

2012年07月23日 07時36分57秒 | 民俗を聴く
ふとしたことから「天理大学考古学・民俗学研究室の日常」ブログの愛読者になっていた。

それにはときおり学生たちが民俗学の探求のために行事を見学している内容もある。

詳細な報告ではないが参照している。

奈良県内では東吉野村木津川の祈祷念仏や奈良市南庄町の腰いた地蔵尊の地蔵盆、同市月ケ瀬桃香野の能楽、同市古市町の御前原石立命神社のマツリ、同市南之庄町のカンジョウカケ、同市西九条の倭文神社の蛇祭り、天理市福住のさる祭り、同市上仁興の元座講・ケイチン、同市荒蒔町のケイチン・アカラガシラ・秋祭り、同市藤井町のオニウチ、同市石上神宮のでんでん祭り・ふる祭り、同市新泉町の大和神社の御田植祭などだ。

他にも数々の地域民俗調査もされている。

或いは、ときおりではあるが調査報告の例会もある。

また、年に一度は天理考古学・民俗学談話会をされている。

その講演内容を見るたびに一度は聴講してみたいと思っていた。

これだと思ったのが第23回の談話会

土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム学芸員の小林善也氏が語られる「土井ヶ浜遺跡研究の現在と展望」に飛びついた。

平成12年9月のことだ。

その年から遡ること5年前から始めた長距離サイクリング。

平成8年は琵琶湖一周、9年は嵯峨野嵐山周回、10年は淡路島一周、11年がしまなみ海道へと続く山口県半周していたときのことだった。

当時はまだ40歳代。

身体も若かった。

山口県半周のコースは新門司→関門トンネル→長府→秋芳洞→秋吉台→萩→長門→油谷→土井ケ浜→レトロ門司→新門司だった。それだけの距離を二日がかりで走り回った。



(H12. 9.27 OLYMPUS TRIP PANORAMA2撮影)

海岸沿いに巡った伊上、粟野、阿川、特牛港、土井ケ浜。考古遺跡も見たくて訪れた土井ケ浜弥生オパーク。

ここには国指定遺跡の土井ケ浜ドームや人類学ミュージアムがあった。

平成5年に開館された施設だ。

出土人骨約80体の発掘状況を忠実に再現した土井ケ浜ドーム。

かつての弥生人類がどう思って生きていたのか、実に感慨深い構成であった。

弥生人はどういう生活をしていたのだろうか。

その後の発掘調査を待つしかなかった。

山口県にはその後訪れることはなかったが、今回の講演で明らかにしてくれる。

その願いが叶えられると思ったのである。

ブログの案内では関係者限りとはアナウンスされていない。

一般の者でも聴講できるのだろうか。

不安な気持ちで天理大学にやってきた。

ところがその講演場所が判らない。

天理のよろず病院は長男、次男もお世話になった施設だが、大学の位置が判らないのだ。

何人かの道行く人に尋ねてようやく辿りついた講演会場は天理大学9号棟のふるさと会館だった。

この日の談話会のプログラムは、天理大学考古学・民俗学研究室の桑原久男氏が語る「天理の考古学、その伝統と新たな展開」からだったが既に終わっていた。

会場は受付がある。

一般の者だが受け付けてくれるのだろうか。

不安な気持ちで尋ねてみた結果は・・・OKだった。

資料代500円を支払って聴講席についた。

2番目のプログラムは同室の安井眞奈美氏が語る「天理大学の民俗学20年」。

前述した民俗行事の祭礼見学や巡見の旅・実習、民具調査、聞き取り調査など歴史を振り返る。

得た資料、情報、研究成果は地元地域への還元が課題だと話される。

三つ目は天理大学附属天理参考館の山内紀嗣氏が語る「イスラエルにおける発掘調査の20年」である。

1987以前のテルゼロール遺跡の発掘はシャロン平原にある中期青銅器時代から紀元前八世紀~十世紀にかけての弥生時代。

弥生時代は日本のことだ。

旧約聖書には現れない地名であるが、青銅のヤリ先が出土したそうだ。

「列王記」、エンゲブは「アフィク」の可能性が高く、そこが河床の意味を持つと話されても行ったこともない遠く離れた地。

映し出された映像を見るだけだ。

シリヤ時代のゴラン高原は、第三次中東戦争(1967年)以降はイスラエルとシリアが領有権を争っている。

停戦以降は国連平和維持部隊が平和維持に従事している高原だ。

前期青銅器時代からローマ時代に至る盛衰を物語る遺跡。

オリーブ油の搾油施設が見つかったという。

四つ目が土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム学芸員の小林善也氏が語る「土井ヶ浜遺跡研究の現在と展望」。

興味津津、耳を傾けた。

1950年代、土井ヶ浜の発掘は天理大学名誉教授の金関恕(かなせきひろし)氏の父、金関丈夫氏(当時九州大学医学部教授)が団長として発掘した遺跡である。

「縄文人が進化」という日本人ツーツ定説を覆して「渡来・混血」説を提唱するに至った画期的な発見だった土井ヶ浜遺跡。その発掘の歩みを述べられる。

五つ目は小林善也氏と同じく天理大学を卒業して陸前高田市立博物館学芸員に就いた鈴木綾氏が報告される「陸前高田市立博物館の復興にむけて」だ。

平成23年3月11日に地震、津波によって被災した博物館は岩手県にある。

職員は亡くなり行方不明に。

残された収蔵品はガレキと化し水浸し状況となった。

そのレスキューにあたった博物館は全国で25施設。

被災後13ヶ月に亘る復興過程を報告される。



休憩時間中は天理大学附属天理図書館の特別展の見学。

所蔵された数々の蔵書に目が垂涎する。

永徳元年(1381)道果筆の古事記(重文)、乾元二年(1303)卜部兼夏筆の日本書紀神代巻(国宝複製)、大永元年(1521)卜部兼永筆の先代旧事本紀(重文)、寛元二年(1244)中臣祐定筆の万葉集巻第二十断簡春日懐紙切、元治元年(1864)大坂中沢八兵衛調刻木版色刷の和州奈良之絵図、安永七年(1788)の和州南都之図、天保八年(1837)春日若宮御祭礼松下図、寛政三年(1791)大和名所図絵などなど多数の展示は芸亭院開創1250年顕彰・図書館振興研究集会を記念した展示だそうだ。

サブタイトルに史料でたどる記紀・万葉の世界と大和めぐりだった。

ありがたい展示にもっと時間がほしかった。

プログラムの第2部は「天理大学考古学・民俗学研究室20周年特別企画」と題して天理大学名誉教授・前大阪府立弥生文化博物館館長の金関恕(かなせきひろし)先生による「研究室設立20周年、回顧と展望」。

私的な思い出を語る金関恕先生。

第1部を含めて豊富な内容の談話会に来てよかったと思う。

先生方とは直接お会いし話しを伺うときはなかったが、時間を持て余すことなく過ごすことができた。

この場を借りて厚く御礼申しあげる次第だ。

最後にふるさと会館に集まった方たちの集合写真を記念に撮られたが私は部外者。

近寄ることもしなかった。

第3部は懇親会。

待ち時間にお話ししてくださった大学関係者。

お一人は関西学院大学のK氏で、もうお一人は地域文化財研究所のF氏だ。

他所では味わえない私的な話題をしてくださった魅力的なお二人。

ありがたいことに名刺交換させていただいた。

アドレスを見て驚いたのはF氏の名刺の住所。

お聞きすれば驚くなかれ、地元自治会であったのだ。

お住まいは数百メートルも離れていない。

7月初めに行われた集会所の写真展に来てくださった。

この場を借りて感謝申し上げる。

そうして始まった懇親会は学生食堂。

一期生から次々と挨拶される。

私は学生を経験したことがないが、大いに盛り上がる雰囲気の一端を知ったが、やはり部外者。

時間を持て余す。

そして私に近寄ってきた男子学生。

すぐに思い出した誓多林の行事取材中でのこと。

オコナイマツリでお会いした学生さんだ。

私のことを覚えていて話しかけてくれた。

現地ではそれほどお話はしていなくとも覚えていてくれたことが嬉しい。

誓多林の役員も感謝していた大学生。

なんでもオコナイを論文にしたいと話す。

難しいテーマを選んだものだと思った。

私が知りえた情報も遣って構わないと伝えた。

それを利用するかは別として、今後の活躍に期待する。

(H24. 5.12 SB932SH撮影)

能勢町長谷八阪神社の御田植え祭り

2012年07月22日 08時17分06秒 | もっと遠くへ(大阪編)
棚田が広がる大阪府能勢(のせ)町の長谷(ながたに)地区。

高いところでは標高が560mにもおよぶという。

棚田は室町時代初期に築造されてから今なお現状を維持しているという。

田んぼの下には水路がある。

その水はガマと呼ばれる石組みから流れでる。

およそ四百年前に築かれたとされる地下水路だ。

なぜにガマと呼ぶのか。

「ガマ」は岩石や地層の中にできた空洞。

鉱物の結晶体に空洞がある。

それを「ガマ(晶洞)」と呼ぶようだが、長谷の地で呼ぶガマと一致するのか、村人がその名を知っていたのか、それとも外部からの人間がその名を伝えたのか、断定するには難しい・・・。

また沖縄では石灰岩でできた自然洞窟をガマと呼ぶことからあながち間違いではないのだが・・・。

鍾乳洞の洞窟、或いは岩の窪みもそういうらしい。

もしかとすればだが、カマ(釜)が転じてガマとなったのだろうか。

大きな口穴を空けた部分はガマグチ。

お財布もそうだが、それは通称ガマガエル(蝦蟇)と呼ばれるニホンヒキガエルやアズマヒキガエル(ナガレヒキガエルもあるが・・・)のガマの口に似ているからそう呼ばれた。

話はかなり横道にそれてしまった。

戻そう。

この日は棚田をさらに登った処に鎮座する八阪神社で御田植え祭りが行われる。

神社へ向かう道はとても急坂。

境内には車を停める場所もない。

氏子たちは軽トラでその付近に停められるが一般の車を停める余裕はない。

H家のご厚意で愛車を置かせてもらった。

そこからてくてくと登ること30分。

快晴に包まれた美しい能勢の山々を見ながら登っていった。

能勢長谷の景観は素晴らしい、のひと言につきる。

その景観を描いている男性がおられた。

写真では表せないのどかな棚田の田園を映し出す。

空は快晴。

田んぼは水が張ってある。

一部では田植えも始まっている。

田植えが終わっての快晴は田泣かせ。

雨もときおり欲しくなる。

その雨も降らなければ田んぼは乾く。

長谷の棚田を見ていけば石組みしている場が目につく。

あちらこちらにあるのだ。

その石組は「ガマ」と呼ばれる構築物だ。

棚田に溜まった水を抜く役目にある。

抜けるということは田の一部に穴が空く。

棚田の地下には空間が発生して穴が開くのだ。

それを「ウト」と呼んでいる。

長谷のミクサヤマ(三草山)に神社(雨山であろうか)があるという。

そこへ登って雨乞いをしたことがあると氏子が話す。

昼間だった雨乞い。

昭和28年が最後だったという。

帰宅後に調べた資料によれば、1955年に水の神さんと呼ばれる三草山(標高564m)などに登って雨乞いを祈願したとある。

氏子の話は続く。

太鼓や鉦をジャンジャン打っていた。

琵琶湖の竹生島から授かった火。

それをもらって帰って山に登った。

神社の神主もお寺の僧侶も山に登った。

そこで祈祷をしてもらったという雨乞いであったという。

龍神信仰、水の神さんとされる龍王山はミクサヤマから登ったというから雨乞いの山は龍王山(標高570m)でもされていたかも知れない。

ミクサヤマは火山活動でできたそうだ。

山中には空洞があって豊富な伏流水が流れているという。

それが清らかな水があるから美味しいお米が採れる。

自然の恵みがそこにある。

八阪神社は龍王山から下って宮峠に出る。

さらに峠道をゆけば神社に辿りつくそうだ。

そういうコースは山歩きの人たちはよく知っているのだろう。

今回はそれを確かめる時間的余裕はない。

鬱蒼とした樹林に囲まれる宮山に鎮座する八阪神社はかつて牛頭天王と呼ばれていた。

宮峠から西へひと山越えれば猪名川町になる。

境内には御田植え祭りの脇役を演じる子どもたちが勢ぞろい。

脇役といっても田植えに欠かせない早乙女役だ。

彼らは例年であるなら12人だが、今年は閏年。

その場合は13人が勤めることになる。

4年に一度がそうなるようだ。

主役を勤めるのは田主。

当地では馬子(まご)と呼んでいる。

もう一人の演者は牛役だ。

二人は大人の男性が勤める。

馬子、牛役は毎年交替する。

長谷地区は1班から10班を大きく分けて1区から4区。

区ごとに交替する演者でこの年の区は1区があたった。

ちなみにお田植えに用いられるサカキ切りは10班が担ったそうだ。

馬子の衣装は決まっている。

紺の法被にパッチ姿である。

タバコ入れを腰に付けて鉢巻き姿に箕の笠を身に付ける。

牛は黒の上衣にパッチ姿で牛の面を被る。

演者の二人は共に素足である。

御田植え祭りに集まった氏子らはおよそ20数名。

先に集まっていた子どもたちは神事が始まる前から行動を起こした。

何をしているかといえば、境内で穴掘りだ。木の棒でつっついて穴を開ける。

これは後ほど作法される重要な穴だ。

人によってはこれをモグラ穴だというが、さてさて・・・。



箕を身に付けた馬子役に牛面を被った牛役は神社の前に立つ。

併せて子どもたちも並んだ。

氏子たちはその際に並んだ。

参拝者といえば境内である。

「テントバナを立てた。アミガサダンゴを食べて今日はお田植え。これから始まる儀式は神事であるゆえ携帯電話はマナーモードに」と伝える区長と神職。



厳かな神事が始まった。

そうこうしているうちに二人の神職が神社から降りてきて祓えの儀式を行う。

一人はサカキ(榊)を持っている。

後方の神職はキリヌサ(切麻)を撒いていく。

祝詞を奏上しながら大きく境内を回りながら祓っていく。

境内の四方を祓っているのだ。

御田植え祭りが行われる場を祓い清めていく。

その作法を見れば判る重要な儀式である。

そこには一般の人が入ってはならない神聖な場なのである。

そんなことを知らずに立ち入るカメラマン。

奈良県のお田植え祭では四方竹を立てることが多い。

その内部は同じように神聖な場となるのである。

祓われた以上はその場に入ってはならないのだ。

この日は教育委員会、それとも大阪神社庁であろうか、その人たちも取材をしている。

能勢の記録に来ているとHさんが話していた。

様子が判っていないのか、神聖な場に立ち入り撮り。

カメラマンもビデオ撮りの一般人が入り込む。

残念なことだと思った。

こうして神事を終えた氏子らは神職と共に直会。

およそ30分後に始まった御田植え祭り。



その間も穴掘りをする子どもたち。

あちらこちらに掘った個所がある。

そうして登場した馬子。

クワを担いで現れた。

「今日は暑いのー あんまし百姓は好きとちゃうんやけど 穴空いとったら云うてや」と云いながら境内に居る早乙女役の子どもたちと共に作法をする。

「モグラがいるんや」と云って、その場所を示す早乙女たち。

馬子はそれを見つけてはクワで穴を塞いでいく。

実はモグラの穴ではなく、ウトと呼ばれる穴。

棚田下に空間が発生して水路ができる。

抜けた処が石組のガマである。

そうして田んぼに穴が空いた。

それがウトなのだ。

そのままにしておけば田んぼから水が抜けてしまう。

そのウトをこまなく探して穴を埋めなければならない。

それゆえ、早乙女たちはウトを見つけるのである。

ここもある、あそこもあると見つけては馬子を呼ぶ。

馬子は丹念にウトを埋めていく。

「田の土は堅いし、穴は多いし」とアドリブを利かせながら作法をした「アゼハツリ」。

長谷棚田らしい作法である。

次の作法はハルタオコシとも呼ばれるアラオコシ。

カラスキで田を鋤いていく。

牛は小屋の中にいたが、広い田に出れば初めは喜んで暴れまくると紹介されて登場した馬子と牛。



牛は言うことを聞かずに暴れまわり馬子(まご)を引っぱる。

とっとと・・止まれの声も届かない牛は走り回る。

逃げまどう早乙女たちの間をぬって暴れる牛。

元気がいい牛だという。

巧みに綱を引っぱって牛を操る馬子。

牛を操る馬子(まご)と牛の丁々発止。

かつていた牛の動きはそうであったのだ。

その作法は昔していたそのものを再現したという。

再び登場した馬子。

アゼヌリの作業に移る。

棚田だけに頑丈な畦を作らなければ田んぼから水が漏れてしまう。

丁寧に畦を塗っていく作業に「穴はどこや」に対して応える早乙女は「ここあんで ここも・・・」。



「大きな穴や」と云いながらクワで穴を塞ぐ。

ウトと呼ばれる穴探しに早乙女たちは重要な役割をしているのだ。

ここらで一服したいと云いながら煙管を取り出す馬子。

タバコを吸う仕草をするが、この年の馬子は数年前にタバコを止めていた。

一服はお茶に限るといってひと休み。



「ほんま えらいわ」と云いながらねじり鉢巻きの小休止。

僅かな時間で身体も回復した。

再びウトの穴探しをして畦を塗るアゼヌリ作業だ。

こうして田んぼに見立てた境内は奇麗になった。

ウト穴がなくなった田んぼに水を張ればシロカキに移る。



再び登場した馬子と牛。

道具はマングワだ。

ドッド、ドゥと云いながら綱を引っ張って牛を操る。

「ドゥは左やんけ、ゆうこときかん、こって牛やな」と云いながら綱を引く。

たまには云うことを利かなくなって走りまわる牛。



早乙女めがけて行くこともある。

こうしてようやく終えた田んぼのシロカキ(代掻き)であった。

それが終わってやっと田植えになる。



再び登場した馬子は苗に見立てたサカキを担いできた。

オーコの左右の苗籠にはたくさんのサカキ。

一つは早稲で、もう一つが晩生だという。



境内にいる早乙女たちにサカキを渡して苗を植えていく。

まさに田植えの所作である。

サシナエ(挿し苗)もきちんとしておく田植えの作業。

すべてを終えれば一同は揃って「豊年じゃ」と大声を掛ける。



その際には馬子と牛はサカキを大きく振る。

それに合わせて「今年も豊年じゃ、豊作じゃ」と大きく声をあげる。

「豊年じゃ、豊作じゃ」とたくさんの実りがなるように唱和する。

こうして一連の御田植え祭りの作法を終えたのである。

氏子たち参詣者は、サカキを持ち帰り苗代(ノシロ)に挿すというが、長谷の田んぼは既に水を張っている。

田植え待ちの時期である。

それゆえ家の庭先に挿す家もある。

長谷のお田植え当日が雨であれば日照り、晴天ならば雨が多く水不足にならないという。

奈良では見られない仕草で演じるオンダの所作は、大阪府能勢町の無形民俗文化財に(選択)指定されている。

(H24. 5. 8 EOS40D撮影)