マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

天理市山田町・中山田の天を突く白い花に桜樹・伝えたい暮らし民俗譚

2024年12月21日 07時52分37秒 | 天理市へ
天理市の山田町。

下山田の次は中山田に向かう。

田植えじまいに、おばあさんがこしらえたふきだわらを、カワヤナギの又にひっかける。

幣をさしたカワヤナギを畦に立てて、豊作を願う


90歳近くのおばあさんが、生きている間に撮ってや、とお願いされたコロナ元年。

その映像は、「私がとらえた大和の民俗」テーマの一コマに記録した。

中山町では、下山田も同様の習俗が行われていたが、数年前にすべてが消えた植え初め。

足しげく通って旧来の農村のあり方を記録してきたが・・・今はもう見ることはない。

母親の姿を撮ってもらって、こんなに嬉しいことはない、と喜んでくれた娘さん。・・。



別れに見た白い花が、天を突くように咲いていた。

すぐ近くの蔵輪寺に咲いていた大きな桜樹。



これもまた天を仰ぐ。

下山田に住むSさん。

かつてはブトクスベをしていた、という。

腰のバンド止めの輪に棒を挿して入れて固定。

その格好で田植えをしていた。

そのブトクスベの映像も「私がとらえた大和の民俗」写真展の図録に取り上げたからこそ、思いだされたSさん。

雨の降る日は、柿の葉をブトクスベに巻き付け、藁やブトクスベの綿布が濡れないようにしていたそうだ。

ふきだわらつくりをしてくださった中山田のおばあさんの娘。

K・Tさんも話してくれたかつての暮らしの民俗。

ともに暮らしていた母親がしていた民俗の一つに十五夜さんがあった。

十五夜の月見に、母親は外に水を入れた容器を置いた。

水溜めに月の姿が映るように・・・

まるで水鏡のようになった水をもって顔を洗っていた。

この話題も、図録「私がとらえた大和の民俗⑩」を献本した数々の民俗の中から、目をとめてくださった十五夜の芋たばり。

共通する民俗体験に図録の1頁が役立った。

頭の片隅に残っていた古い記憶を呼び覚ました記録映像をきっかけに、さまざまな民俗のあり方に関心をしめしてくださったことに感謝、感謝である。



帰りに喉が渇いたら呑んでね、といただいた缶コーヒーが温かい。

(R4. 4. 9 SB805SH 撮影)

天理市山田町・公民館前に映える桜

2024年12月20日 07時51分02秒 | 天理市へ
足痛に悩まされ、歩行が困難になった奈良市・荻町住民。

そして、天理市・下山田のご夫妻にお礼行脚を済ませて場を離れたその直後に見た桜樹。

現在は市立山田公民館だが、旧小学校校舎の転用活用。

通りがかりにいつも見る旧校舎


懐かしさを覚える建物景観に桜も喜んでいるようだ。

ちなみに木造旧小学校校舎を建てた年は、戦前の昭和10年(1935)。

今から88年前に暮らしていた住民は、子供たちのために伐りだした木材を出し合って建築したそうだ。

山田の歴史的景観に、誰しも懐かしさを思い浮かべる風情に桜樹は、まだまだ若そうだ。

旧校舎から見た東向かいにも歴史的建造物が建つ。



田植え前の荒起こしに耕運機もフル稼働の季節に移っていた。

(R4. 4. 9 SB805SH 撮影)

天理の中山田・K家の田植え祝いさなぶりのフキダワラ

2024年12月17日 07時56分45秒 | 天理市へ
田植え後に行われるさなぶりのあり方を拝見した。

経緯は、今年の1月11日に行われた村行事にある。

天理市山田町の一角。

大字中山田の蔵輪寺である。

7年前の平成24年の5月13日に遡る。

ここ山田町にある田植え初めに行われている植え初めの調査に立ち寄った中山田。

街道から見たその場に白いモノが見える。

軽トラくらいしか通れないような里道を上がっていた。

停車する広地もなくあるお家の庭前に置かせてもらって見たそれは栗の枝木にぶら下げていたフキダワラ。

個数は3個で3枚の御幣もあった。

ヤナギの枝木にこれまた不思議な形の巻紙もあるし、護符を巻き付けたウルシ棒も立てていた


お花を植えていたあるお家の奥さんと話していたときに出合った蔵輪寺の森口住職。

その年に行われた旧暦閏年の庚申行事を済ませて戻ってきた住職だった。

そのときに話してくださった蔵輪寺オコナイ行事は、今年の令和2年1月11日に初めて拝見した。

行事を終えた村の人に尋ねたこれらの祭具はどうされるのですか、である。



その問いに答えてくださったのが、Kさん。

田植え時期に、うちのおばあさんがフキダワラを作って立てていると話してくださった。

千載一遇の縁をもらって取材を承諾してくださった。

数日前の天気予報では3日、4日は雨天予報であったが、まったく降らないほぼ晴れ模様に一転した。

田植え後にさぶらきをするのは、Kさんの母親。

昭和8年生まれのS子ばあちゃんは87歳。

Kさんも、30年前に嫁いできたお嫁さんのTさんも、詳しい手順は知らない、という。

田植えを終えて戻ってきた、その田の一角にそれがありますねん、と話してくれた。

家から一番遠いところにある田んぼから始める田植え作業。

実家に戻ってくる3人の子どもたちが中心になってするとか・・

どことなくイメージができあがってきたK家の田植え祝いのさなぶり。

オコナイ行事に祈祷した護符。

カワヤナギの枝木にくくりつける。

その枝木にもう一つ。

それがS子ばあちゃんがつくる御供のフキダワラ。

田植えを終えたときに田の一角に立てて豊作を願うさなぶりである。

すべてを終えるのは4日の午後くらいですと、聞いていたので午後1時半過ぎに訪問した。

聞いていた田んぼを見渡した。

田のすべてが、なーんと田植えはもう済んでいた。

その田の一角から、坂道を上りつめたお家を訪れた。

近くまで来てすぐにわかった美味しい匂い。

ご自宅の庭に設営した家族揃って食べるバーベキュー。



着くなり、食べてや、と云われて、取材は後に廻し、ご厚意でよばれるバーベキューをご相伴にあずかる。

食べ乍ら横におられる63歳のKさんが話してくれたここら辺りの自然景観の語り。

田んぼや水路に、かつてはよく見かけたタイコウチにゲンゴロウ。

さらに、メダカもカワヤナギもみな消えた・・・

暮らしの話題から民俗へ。



話題は膨れていくばかりにおばあちゃんの出番を待たせては気の毒でそこまで。

お願いします、と始めてもらったフキダワラ作り。

母親からこねぇーするんやで、といわれて育った、という。

自宅に自生する蕗を2枚重ね。

その中に包む御供は小豆も白大豆も月の数の12粒。

今年は旧暦閏年だから13粒。

少量の洗い米も一緒に包んで横槌を打って柔らかくした餅米の藁でくくってできあがり。

フキダワラそのひとつしか供えないのでカメラ撮りにビデオ収録も、一発撮に失敗はできない。

それを1月のオコナイでたばったカワヤナギの又部分に引っかける。

元々は3月末から4月初めにかけて作る苗代と4月末から5月初めにかけて行われる植え仕舞いに立てていた。

だが、現在はJAから苗を買うようになったから植え初めだけをしている。

平成24年5月13日の植え初め。

H家の婦人がいうには、ご高齢のIさんがフクダワラをつくっていた、という。

立てたその場は、H家下の田んぼ。

Iさんのおばぁちゃん。

祖母のIさんが立てた、と話してくれた。

話は遡るが、そもそも平成2年の1月12日に行われた中山田蔵輪寺オコナイの取材中に出会った村の人の声である。

オコナイにたばった漆棒とカワヤナギ。

そこに「うちのおばあさんが小さなフキダワラをしている」、と伝えてくれたのがきっかけ。

近くの日になれば、いつごろにするのか、わかってくるから電話して、と云ってくれたKさん。

前月の4月17日に伺った電話でお願いしたK家の田植え祝いのさなぶり。

おばあちゃんが、フキダワラをつくっているところから撮影をお願いさせていただいた。

電話で伝えるお願いにKさんの奥さんが応対してくださった。

嫁入りしてから、30数年にもなるが、家の農業はおじいちゃんから教えてもらった通りに、ずっと今でもしている、という。

聞いたもんがしっかり覚え、教えを守って行動する。

それをまた、子どもたちにも同じようにしっかり伝えていきたい、と話す奥さん。

畦元の雑草は奇麗にしておかない、と髭が伸びるように雑草は稲田まで侵入して荒らす。

だから、きちんとしなかん

で、ないとモグラが穴を開けて畔を壊して田は水漏れする。

前年の4月26日に亡くなったおじいちゃんは、村を流れる川からの取水でなく、山に登ったところにある水脈からパイプを引き込んだ谷水を、田んぼに引いて育てたら美味しいお米ができる、と話していた。

カンヅキ(※寒月)のころに細かくした稲わらは、土と混ぜて田んぼにすき込む。

籾藁は燻炭にして、これもまた畑にすき込んでおくと美味しいお米ができる。

ここら辺りの作付けはみなコシヒカリ。

つい最近にモミマキをしてハウスで温度管理に水の管理をしている。

田植えは、5月2日から3日、4日にかけて田植えをするが、フキダワラなどは田植えが終わったときにする(というからサビラキではなくさなぶり)。

長男、次男に娘の長女も孫さんも応援するから、畑作業が動きやすいように、とお父さんがつなぎを買ってやった。

村の人が見てきた、という県立民俗博物館所蔵の民俗映像に山田のKさんが映っているで、と聞いているが、未だに行けていないのという。

現在は、耐震工事中につき来年の3月まで見られないから「私がとらえた大和の民俗-つくる-」写真展図録を、今度来たときに持参しますから、と伝えた。

今月、5月1日の午後。

奥さんから電話があった。

予定日は、5月3日の日曜と4日の月曜日。

朝から夕方までの田植えは、家から一番遠いところから始めて徐々に下って家に近づく。

4日は家近く。

フキダワラはおばあちゃんの役で、今でも主役として動く。

蕗の葉に包むのは生米に小豆と白大豆。

蕗の葉に包む量は少ない。

足の具合がよくないから遠くまではいかないが、フキダワラつくりから立てるところまでは家に近いところになるから午後辺りになる、と・・・

そのような状況に、伺う時間は午後の昼過ぎ。

きっちりしなくとも、時間未定で寄せてもらい、フキダワラをつくるところも、田植えをするところも撮影承諾。

そのおばあちゃん引く手あまたの家の畑作のすべてをしている、という。

天気予報によれば3日、4日とも傘マークはあるから雨天決行になりそうだな、と思っていたが、予想は裏切られ、まったくもって、ほとんどが晴れの日。

一部は曇り空もあったが、祝日のみどりの日に寄せてもらった。

朝5時からはじめたと、いうこの日の田植え作業。

午前中に終えて、正午時間も過ぎた時間に摂っていたお昼はバーベキュー。

自宅の庭に広げたバーベキューに、家族揃ってだんらん中の食事時間中の取材訪問。



前述したように、到着し、挨拶もそこそこに美味しい肉の匂いに・・・・取材は後廻し。

ご厚意でよばれたご相伴にあずかったバーベキューの味。



とてもでっかい有頭海老に肉ステーキからレモン味プルコギもあれば焼きそばも・・

いずれも美味しいおもてなしを受けて、腰を据えてもぐもぐ時間。

一息ついて、昭和8年生まれのS子おばあちゃんにお願いしたフキダワラつくり。

つくる手は止めずに、説明してくださるS子おばあちゃん。



例年は12粒の小豆を詰める。



目出度い小豆は白大豆。



今年はまさに旧暦。

その場合は13粒の白大豆。

洗い米も入れた白大豆を、2枚の葉を重ねた蕗の葉に包む。

柔らかいモチワラでしっかり括る。

蕗の葉っぱは柔らかい。



茎は捨てずにそのままにしておき、その葉と茎の間にモチワラを入れて結ぶ。

くるり、くるりとワラヒモを巻いていく。



しっかり縛って結んで出来あがったフキダワラ。

俵の形でもなく、やや円形のフキダワラ。



こうして出来あがったカワヤナギのフキダワラは、農の神さんに捧げる供物。

これを、正月はじめのオコナイに祈祷した「牛玉 宝印」の書を巻いたカワヤナギの枝。

又のあたりに引っかけてワラヒモを結ぶ。

もう1本の栗の木には御幣結び。

2本が揃った豊作願いのしるし。

えー、カタチにできた、とともに喜ぶ。



ずっと、傍で見ていたKさん。

母親のS子おばあちゃんがつくったカワヤナギにフキダワラにもうひとつある、と・・・

手にした木は葉付きの栗の木。



近くに自生する栗の木の枝採ってくる。

若葉付きの栗の木にヒラヒラの御幣も括って・・



両方とも手にもってしみじみ見ていたKさん。

こうして用意が調った。

さて、行くか。

できあがったフキダワラ付きのカワヤナギを持って田んぼに向かう。

家から一番近い、すぐ近くの畔に出かける。

坂道をくだっていくS子ばあちゃん。



同時についていく息子夫婦に孫さんたちもそろってくだるわくわく感。

おばあちゃんの様子を見ておきたくて、ともに下ってきた母親のTさんに子供たち。

お父さんは田んぼの角地に挿して立てる。

昔からここだ、という田植えを終えたばかりの最後の地点になる畔に挿して立てた。



立ち位置を考えて撮らせていただいた家族の顔。

どこか愛しさを感じる。



一旦は、外した電柵も元の位置に据えた。

続いて、心を込めて豊作を願うS子おばあちゃん。



田植え祝いに「今年も良い年にお米をとらせてもらいますように、豊作でありますように・・」と小さな声でお願いして手を合わした。



かつて直播していた時代は、椿の花が咲く3月の水口にイロバナを添えてウルシ棒のごーさん立てていた。

今は、漬物蔵にある漬物蓋の上に置いてカビ除けにしている。

当時の直播は、裸足で田に入り作業していた。

モミマキしてから45日間後に田植え。

汁もんもはなく、おにぎりとかイロゴハンを田に持っていってケンズイに食べていた。

昼めしは自宅に戻って膳を広げてたべていた。

そのときに、一番最初に田植えする箇所に、2杷の稲苗束をお盆に載せた

盆には茶碗に盛ったご飯とジャコときな粉を、上からぱらぱら振りかけた御供。

家族みなが食べる膳をする場に供えた。

田植えの手伝いに“ウエコ”さんが居た。

親戚のものは、前日から宿泊していた。

朝早い5時からはじめたナエトリに田植えは、“ウエコ”がしてくれた。

「カダ」するとは楽する、簡単にする、という意。

「おまえ“カダ”やな」、といわれるのは略していること。

「アデ」は畔(あぜ)が訛った貞子さんの訛り言葉。

つまり、水口に“アデマツリ”をしていた、と・・・

(R2. 1.12 SB805SH 撮影)
(R2. 5. 4 SB805SH/EOS7D 撮影)

滝本・自家栽培されているY家のサフランに囲まれて

2024年07月22日 07時23分51秒 | 天理市へ
再び電話をくださった写真家Kさん。

Kさんが現地で巡り合った天理市滝本に住むYさん。

お話したいことがある、と私に同行依頼。

月の9月12日にはじめてお逢いしたYさんの情報は多岐にわたっていた

麦わら細工からはじまり、屏風つくりに地元滝本の領地地図を用いたとか、平成10年に発生した台風7号の影響を受けて作業した多くの樹木の植樹やら、古着から裁縫したリフォームもあれば、私が手を揚げて記録させてもらったぶとくすべ・・・

まだまだ、あるあるY家の民俗に様々な護符に、今も使えそうなカラウス。

住まいする地域の神社行事などなど。

そして毎年に、栽培されているサフラン。

そのサフランが咲いたから、お越しください、と知らせてくれた。

Yさんは、昭和6年生まれの90歳。

記憶は鮮明、明確に行動されているお元気な方だ。

お話は多岐にわたり、多くの情報に聞き取りは午後3時から6時ちょっと前まで・・・

さて、本日も、また長居をしてしまうかも・・

パエリヤ用途に、雌蕊だけを摘むサフランを、どっさり栽培しているYさん。

花が咲いたら撮らせてくださいとお願いしていた。

前回、同様、写真家Kさんとともに出かけた聞き取り取材。



先に見せていただいたサフランの栽培場所は、やや明るさがあり、通気もある地下倉庫。

サフランの開花期は、10月半ばあたりから12月半ばまで。



今が丁度の開花期に保管していた地下倉庫にいっぱい咲いている。

これほど多く、咲いておれば、実に壮観。



レンズをどこに向けていいのやら・・・



地下では暗いから、お外に出て撮らせてもらった自家栽培のサフラン。

一気に増えたワケではなく、少しずつ増えていった、と話してくれるYさん。

最初は、1球からはじまったそうだ。

一年、一年を着実に栽培してきたサフラン。

分球に分球を重ねて、これほど大量になった、と・・

サフランは、秋咲きのクロッカスの一種。

もともとは染料、香料、薬用として多く栽培されていたが、現在は観賞用として利用されているようだ。

サフランといえば、パエリアやサフランライスに用いられる黄色染め香辛料の原材料。

薬用、スパイスとして利用されるサフラン。

食べたことがない私でも、そのことは、なぜか知っていた・・・

おそらく、料理人がテレビで紹介しているのを覚えていたのであろう。



原材料になるのは、サフランの雌蕊。

3裂の濃い目の赤色雌しべを、しっかり乾燥させてつくる調味・香辛料。

その状態であっても、同じくサフランと呼ぶ。

こういうぐあいにするのです、と教えてくださるYさん。

午後3時ころの天候にサフランの花は生き生きしている。



地下倉庫で見るよりも、天然の明かりに映るサフラン色。

透明感がある淡い紫色が瑞々しく見える。

嗅いだ花の香りは、ほんわか。

独特の香りに癒される。



雌蕊を摘まんでは、手で受けて、次のサフランへ・・・



手のひらにおいた3裂雌蕊。



手のひらいっぱいになれば、容器に移して、また雌蕊摘まみ。



ひと房ずつ手にしては、雌蕊取り。



いちいちそれでは時間がかかるから、球根ごと手にして雌蕊取り。



サフランの栽培は、ベランダでもつくれるそうだ



なお、トップページにアップした植物は、Y家のお庭に植栽していたシキビ。

シキビの葉っぱは滑らかだが、「ビシャコ」の葉はギザギザ。

特長あるから、覚えておくといい、といわれた。

(R3.10.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

旧街道滝本道にある2体の地蔵石仏巡りに思いを馳せる

2023年11月30日 08時22分55秒 | 天理市へ
知人の写真家Kさんを待つ場は、下滝本バス停付近。

所在地は天理市滝本町。

天理ダム側にある桃尾の滝口に近い方が上滝本。

下れば下滝本。

下の豊井町からてくてく歩く道は旧街道。

南側に新道を新設されてからは車の往来は地元住民の利用ぐらいだろうか。

滝本道とも呼ばれる旧街道に、2体の地蔵石仏がある。

並んでいるのではなく、まま距離を置いたところに建っている。

小雨になった時間帯。

到着を待っている間に撮っておきたい濡れた地蔵石仏。

これまで何度も見てはいたが、じっくり拝見するのは初めてだ。

雨が止もうとした状況に、余裕の時間ができた。

その時間の有効活用に撮っていた。

豊井から福住に向かう新街道は奈良交通の定期バスが運行する。

天理駅を出発して豊井、二本松、滝本、長谷口、仁興口苣原、福住を経由して旧都祁村の針インターへゆく新道を走るバス旅もあれば、旧街道にある地蔵石仏巡り歩きもいいだろう。

支柱を立て、覆屋設えの場に立つ高さ1.5mくらいの地蔵菩薩立像。

蓮華座に立つ上の地蔵菩薩立像は、顔面は削られたのか、それとも風化なのか、目鼻立ちのない地蔵石仏は、室町中期の作と推定されているようだ。

道中の安全を願い、じっくり拝ませてもらった。

真新しい供物台は近年に造られたのだろう。

信仰深い人たちがお花を立てていた。

その地蔵石仏からほんの少し登った場に山の水が流れ落ちていた。

石で組んだ水路に跨げる竿は太い竹。

流れる谷水を流す竹は半割り。



ずいぶん前に据えたと思われる竹の風情に思わず、これも民俗や、と声があがった。

一般的には塩ビパイプを敷設しそうなものだが、当地の心遣いは太い孟宗竹。

自然利用の谷水流しに思わずシャッターを押した。

湧き出る谷水の水流に勢いがある。

当地は、明らかな急こう配地区。

人力で登る急こう配に足があがらない。

一歩、一歩を登るごとに心拍数が急激に上昇する急こう配に、土地に住む人たちは毎日がたいへんだろう、と思うが・・・。

ここより下って、もう一つの地蔵菩薩立像を見に行く。

すぐ下に民家がある。

立ち位置からほとんど見えない民家に石の階段がある。

その階段もまた急こう配。

上にちょっとだけ見える玄関口までが遠い。

伺う気力もないから、その立ち位置から眺める石段横にある大きな岩。



苔むした岩に表札らしきものが隠れているのでは・・と、思ったが・・。

見上げたその大岩の頭上に、いがぐりが三つ、四つ・・。

1週間も経てばポロリと落下するのでは。

栗の実が落下する時期は、地域によって若干の幅はあるが、だいたいが夏の終わり。

かつて9月初めに長距離ロードをしていた。

5年続けた毎年の愉しみに、いつもこの時期に見る美味しい落下物。

走行する車道に落っこちているいがぐりくん。

実成りに手はだせないが、落下物はいただきもの。

裂け目のあるいがぐりを両靴に挟んで割る。

ひょっこり顔出しした栗の実だけをポケットに入れて、再び走っていった。

肝臓の手術。

退院後のリハビリ。

一年後になんとか復帰できた45歳から49歳にかけて走っていた
当時を思い出す走行路は、5カ所。

琵琶湖一周、嵯峨・嵐山往復、淡路島一週しまなみ海道往復山口県半周

いい思いでもあれば、突然のごとく近海に発生した台風に難儀したことも・・。



思い出話は、それくらいにしてさらに下った旧街道。



鬱蒼とした場のすぐ傍にあった二体目の下の地蔵菩薩立像。

上の地蔵菩薩立像の面はのっぺらだったが、下の地蔵菩薩立像の表情は、風化摩耗もせずに、端正なお顔。

右手に錫杖をもつ地蔵菩薩の石仏。

高さはおよそ1.3m。

明らかにわかる舟形光背を背負う下の地蔵菩薩立像。

頭上に座す如来石仏が印象的だ。

上の地蔵菩薩立像。

室町は中期の作とされるが、この下の地蔵菩薩立像は南北朝時代初期の作らしい。



気になるのは、右端に建つ笠形石灯籠の「観世音」。

寺院があったのか、それとも・・・。

当地より、山行きした地に廃寺龍福寺があったそうな。

かつて桃尾山蓮華王院龍福寺(※本尊は十一面観世音菩薩立像)と呼ばれていた大寺であったが、廃仏毀釈の影響を受けて廃寺となった。

その廃寺に向かう参道道があるようだ。



あるブロガーさんは、急こう配の山道を歩いて探した参道。

道標に今も残っている一部の丁石(※ちょうせき・ちょういし)を手掛かりに歩かれた

石灯籠の「観世音」が基点の丁石出発地。

・・・三丁・・・五丁、六丁、七丁、八丁、九丁・・・。

それぞれの丁石に十一面観音の“キャ”の梵字が彫られているそうだ。

ちなみに九丁石には、“キャ”の梵字のすぐ横に、阿弥陀立像の石仏もある。

「寛永十六年・・九丁・・十八日・・當山施主・・」の刻印もある石仏に関係性は見つからない。

急こう配の山登りは、まるで沢登りの様相も見せるらしく、私の身体状況では、到底歩けない無理な地であろう。

九丁石からすぐ近くに布留の滝こと、桃尾の滝があり、さらに登った、そこに建つ大観寺(※本尊は釈迦牟尼仏)。

大正時代、龍福寺故地に建てたそうだ。

故地になった桃尾山蓮華王院龍福寺の本尊は、十一面観世音菩薩立像だった。

大観寺境内に天理観光協会が建てた掲示物に、そう書いてあるようだ。

ようやく判明した、下滝本・下の地蔵菩薩立像右横にある笠形石灯籠の「観世音」。

かつての桃尾山蓮華王院龍福寺に向かう参道の基点がここにあった。

真っ赤な曼殊沙華も咲く基点の地。



当時の様相に、思いを馳せるのもよかろう。

(R3. 9.12 SB805SH 撮影)

解体工事の前に見納め、撮り納めに撮っておきたい天理・南六条北方の環濠集落景観

2023年09月15日 07時56分45秒 | 天理市へ
奈良県内・平坦盆地部に見られる環濠集落。

数々あれど(※推定200~250地)、いちばんのお気に入りは、天理・南六条。

旧地名を「元柳生」と呼んでいる天理市南六条の北方の地。

伝統行事の取材に幾たびも訪れた天理・南六条。

特に、気に入っていた環濠は、西の環濠

昔しながらの風情を遺していた環濠も今や、大きく変貌しようとする時代が・・・とうとう・・

出里が、北方だった知人が伝えてくれた取り壊しの件。

「元柳生の旧家。戦国時代から伝わる森家の居宅。集落にある工務店、買い取った邸宅と田んぼ。そのうちの一部の建物の傷みが酷い状態にあった。リニューアルするにも難しい状態に、特に西の環濠に寄り添う形に佇まう土蔵の姿は、おそらくすべてを撤去するであろう」と、伝えてくれた。

「森家側の環濠に、夕景の時間帯をはじめに雨の日、晴れの日、またお盆のあり方も含めて、できる限り、機会を設けて撮っておきたい」と伝えたが、解体工事はまったなし。

しかも、土蔵の解体とともに、石垣で組んでいた環濠も、コンクリートによって固められるとも・・

この月の29日に予定している、と聞いた解体工事・・・

失念せんように、早めに、思ったところで撮影に走った7月22日。

行事の下見に出かけた室生小原室生染田

さらに、旧都祁村の白石から下った奈良市・今市を経て到着した天理・南六条。



メールで連絡してくださったFさんが、伝えてくれた通りの環濠側から見た家屋が崩れた状態に、ここまできていたか、とため息。



見納め、撮り納めに撮らせてもらった景観。



撮影データの整備に追いまくられ、携帯画像であるが、選んだ3枚をFさんに送り、またイチガンカメラでとらえた映像も遺しておく。

(R3. 7.22 SB932SH撮影)

柳本町・鳥居町/片原町の大神宮祭

2023年09月01日 07時56分53秒 | 天理市へ
天理市柳本町新町の太神宮祭を終えて、すぐさま駆け付けた柳本町・鳥居町。

新町から上街道を南に400m。

車を停められる場に駐車させてもらって、早速の取材に代表の自治会会長に急な取材申し出に挨拶ならびに自己紹介。

取材目的の場は、大神宮石塔。

平成30年7月16日に訪れたときと同じく四方竹を設営していた大神宮

この日は、すでに神饌御供に餅御供もある。

ゆっくり落ち着いて拝見する時間も、お聞きしたい行事のことも、行事を終えてからだ。

大神宮石塔は風化厳しく、建之した時代さえはっきりしない。

石塔の材はもろい。

風化の様相から岩石を同定しようと思ったが・・断念。

彫られた文字、一部が判読できた。

北にあった「町中・・」。

南は「天和皇太宮」であろうか。

天和年間とすれば、1681年~1684年。

天明時代であれば、1781年~17年。

おかげ参りの年代と重なりにくい。

天保時代であれば、1830年~1844年。

「文政のおかげ参り」が流行った年代とほぼ合致するが、結論は出ない。

さて、祭主の伊射奈岐神社笠松健宮司を迎えてはじまった大神宮祭。

神事の進行は、先ほど斎行された新町の太神宮祭に同じく、神式に則り、祓詞に修祓。

蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌。



そして、昨年から続くコロナ惨禍の退散を願い、祝詞を奏上する。

宮司から玉串を受けとった2人の自治会長。



鳥居町、片原町それぞれの地区代表として奉奠された。

当祭典に、主体になる自治会は鳥居町自治会。

もう一つが片原町自治会。

鳥居町は東地区が16戸。

西に12戸。

また、片原町は40戸からなる。

話の様相から伺えば、古くから大神宮石塔を崇めていたのが鳥居町で、後にここより南側に、新しく(※とはいっても時代はずいぶん前のように思える)できた新町の片原町が、後に組み入れたのでは、と思った。

柳本を南北に貫く上街道。

眞面堂(まめんどう)のすぐ北は新地。

その向こうに市場垣内がある。

街道沿いに町家が増え、南に、南に町家を形成していったのであろう。

そしてここは、垣内データベースによれば「鳥居垣内」である。

なぜに鳥居かといえば、東に鎮座する伊射奈岐神社に向かう道。

つまり、ここ鳥居垣内からは神社に向かう参道に他ならない。

今では面影は見られないが、ここに大きな一の鳥居が建っていた、と考えられる垣内名など、あらためて町の歴史、変遷を聞き取りしてみたい事項である。

神事終えたら供えた白餅を町内各家に配られる。

コロナ禍のない、本来であれば、参列者はここで直会をされるのだが・・。

神饌御供のスルメやコンブは人数分を切り分け。

お神酒をいただく直会場に、やってきた町内人らが列をなして餅を受け取るのだが、この時代ではパック詰めの白餅配り。



鳥居町も片原町も、この場に参列された役の人たちが餅を配る数は、班の戸数などに振り分けるよう地区に戻っていった。

(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)

天理市柳本町・新町の太神宮祭

2023年08月30日 07時36分07秒 | 天理市へ
7月16日と伺っていたが、前週の日曜日に移った天理市・武蔵町の「郷神さん」

行事調査は、来年廻し。

その足で調べておきたい天理・柳本の太神宮祭。

コロナ禍の時代に、さまざまな行事は中止されているが、ここ柳本はどうされているのだろうか。

天理市の柳本の民俗調査をしていた際、ネットに見つかった史料がある。

見つかった史料は、PDF形式の『やまとし美し(※うるはし) 柳本』。

柳本町の略歴史に、年中行事や観光施設を案内する観光マップである。

柳本町自治連合会町づくり推進委員会と奈良県地域デザイン課が共同作成したマップは平成27年3月に発行したとある。

これまで調査したことがある県内事例の一つに「だいじんぐう(太神宮)」がある。

大方の地域で行われている「だいじんぐう(太神宮)」行事は、毎年の7月16日。

行事場は、地区に建つ「太神宮」石塔、若しくは「大神宮」石塔である。

地区に構成する伊勢講、若しくは村自治会が営む「だいじんぐう(太神宮)」行事。

かつてというか江戸時代に流行ったお伊勢参り。

集団、あるいは講中から選ばれた人たちが、伊勢を目指す行幸の出発に、行程の安全を願い、無事に戻ってこられるよう拝んだとされる「だいじんぐう(太神宮)」石塔である。

「伊勢街道(※古来は上ツ道と呼ばれていた上街道)沿いに建つ常夜灯の前に参集。江戸時代から続いている伊勢行きの安全を祈願する行事(※若干補正)」とある「だいじんぐう(太神宮)」参拝の日程は7月下旬とある。

平成30年7月10日に訪れた柳本

五智堂傍に建つ薬師堂行事を尋ねていた

話者は、上街道と新道が交差する十字路角地に建つたばこ屋さんの奥さんだった。

7月16日に行われる太神宮祭は、伊射奈岐神社宮司が出仕される。

上街道はお伊勢さんに参る道。

ここ柳本は、上街道沿いに、太神宮石塔は何カ所かに建っているが、祭礼をしているのは新町、鳥居、戎、片原、上長岡になる、と話していた。

それから4日目の7月16日も訪れた柳本。

伊射奈岐神社を西に下った上街道と交差する地に、四方竹を張っていたのだ。

上街道辻に近い位置に建つ石塔は常夜灯。

その並びにあった石塔。

欠損ではないが、風化激しく彫った文字は判断できないが、状況からみれば大神宮石塔。

通りがかりに撮っていた時間は、午後4時半。

もう少し待っておれば、お供えなどが拝見できるのだが、この日は予定がある。

これから向かう先は、明日香村豊浦甘樫垣内の大神宮行事

聞き取り調査する時間もなく立ち去ったが、16日は確実にしているとわかったから、武蔵町の「郷神さん」を外した次の行先と思って車を走らせた。

ところが、先に見つかったのは、新町の太神宮祭だった。

上街道を通り抜けようと思ってハンドル切りかけた辻。



お供えをしている状況に、取材チャンスを見捨てるわけにはいかない。

地区代表の新町自治会自治会長他、長老らも許可をいただき、早速の突撃取材。

17軒の新町自治会。

口々にしゃべりはじめた「まめんどう」。

ここにある建物が「まめんどう」に果てさて・・。

「まめ」みたいなお堂なのか、それとも「めんどう」な建物なのか・・・。

ここがそうやと、指さしたその建物は珍しい形態の傘堂。

「まめんどう」をキーにネットをぐぐったら「五智如来を表す不思議建築の『長岳寺五智堂』・・」が、一本足で建つ不思議な建造物は、国の重要な文化財。

真ん中の柱は心柱。

一本の柱で支える建造物は、どっちを向いても正面に見えることから。

「まめんどう」と呼ばれている、と話す。

充てる漢字が「眞面堂(まめんどう)」。

管轄は、東に数キロメートル離れた地に建つ長岳寺

心柱上部に、四佛の梵字額があり、全体で五智如来を表しているそうだ。

今日の目的は、「眞面堂」でなく、辻際に建つ石塔である。

西に「太神宮」、南に「天満宮」。

北に「永代常夜燈」。

それぞれの方角から拝礼する石塔。

「太神宮」は、伊勢神宮に。

「天満宮」は、柳本の氏神社である伊射奈岐神社に・・・。

かつては、まめんど川と呼ぶ小川の傍に建っていた。およそ50年前。

この辻から東を南北に走る国道19号線と結ぶ拡幅新道の工事。

それまでの道、つまり村の里道は、石塔の際々を東西に向かう旧道が一般道であった。

新道を地図で見ればよくわかるが、もともとある里道から、大きくうねって作道されたバイパス道である。

86歳のNさんがいう。

75年前のここは小学生のころの集団登校の集合場所。

柳本小学校に集団登校していた3地区(※笠堂とも呼ばれる真面堂”まめんどう”村と新地に新町地区)の子どもらが集まる場だった。

当時の子どもらは、太神宮塔の周りをぐるぐる廻ったり、石塔に攀じ登って遊んでいたそうだ。

また、現在は、ここに石塔はあるが、実は移築したもの。



元の位置は、四つ辻のど真ん中に建っていた、という。

台座に「新町中」。

東の面に「天保八年(1837)」□□建之」とある歴史建造物。

今から185年前の住民。

新町中の人たちが、「文政のおかげ参り」が流行った8年後に建之したもようだ。



さて、お供えを並べて、祭主を待つ新町地区の人たち。

予定時間を、少し過ぎたころに到着した笠松健宮司。

本社の伊射奈岐神社行事の大神宮祭を終えてからやってきた、という。



宮司の到着を待ってローロクに火を灯した。

コロナ禍の今年は、新町中の厄払いも兼ねて行われた太神宮祭。

神式に則り、祓詞に修祓。



蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌、祝詞奏上、代表者による玉串奉奠。

撤饌を経て神事を終えたらお神酒を口にする直会。



その場で立ったままの直会。

コロナ禍の今年は、あっさりと締め括られた。

祭壇などを片付け、すぐに解散された。

宮司は、次の祭典場に直ちに移動。

次の場の取材に、車で後を追っかけた。

(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)

福住町中定・ハツオージの垢離取り

2023年08月10日 07時34分43秒 | 天理市へ
天理市杣之内町に住むNさんが編集の一員としてまとめた『天理市の歳時記』の控えが手元にある。

平成22~23年度・天理市社会教育委員会(生涯学習・人権部会)が編集した史料(仮版)に、福住町・中定で行われている地域行事がある。

紹介されている行事名は「八王子さん氷とり」。

まさか“氷“を取りに行くって・・・。

近くに都祁氷室神社がある。

7月1日に献氷祭をされているが、”氷とり“ではない。

また、氷室神社から東に数キロメートル離れた地に、”氷“をつくる復元氷室(※平成11年~)がある。

その氷室から”氷“を取り出すことを、”氷とり“とは呼ばないだろう。

両行事とも拝見したことはあるが、”八王子さんの氷とり”のことは聞いたことがない。

歳時記によれば「33枚の南天の葉を八王子山の麓から山頂の社まで、村人が並んで手送りをする」とある。

続けて「(氷とり)直会を中定会所でする」とあり、行事日程は、「7日に近い日曜」だ。

全文を読んで、ハタと思った。

南天の葉を33枚。

これだけでわかった、歳時記に記載する”氷とり“は”“垢離取り”の誤植。

“氷室“が近いだけに、“垢離取り(※こりとり若しくはこおりとり)”を”氷とり“と考えた。

そのようなことはあり得ない。

誤植としか考えられない33枚の数。

垢離取りとは、神仏への祈願や祭りなどの際に冷水を浴び、身を清めること。その行為、つまり水行による禊を水垢離と呼ぶが、垢離の回数は33回。

県内などで行われている垢離取りの回数は、どの地域であっても33回。

何故に33回なのか、未だにわからない、悩ませる数字である。

宇陀市大宇陀の栗野で行われている田休みの垢離は33回。

神社裏を流れる小川の水に葉を浸け、その葉を供える。

これを33回繰り返す。

桜井の修理枝での願掛けは、化粧川にある小石を33個運んで八王子神社の神社裏に置いていた。

小石を拾う負荷を軽減するために複数人に。

もっと減らして小石は1/10の3個に。

その代わりに数取りは、榊の葉で数えることにした。

大宇陀の野依もまた、白山神社に供える垢離取りは、神社下を流れる宇陀川の小石だった。

山添村の北野

神社下にあった小川に浸した葉は椿の葉だった。

奈良市都祁相河町では薬師籠り前の願掛けに33回の垢離取りをしていた。

近くを流れる小川に出でて南天の葉を水に浸けていたが、護岸工事によって汚れた川になったことからバケツに汲んだ水に替えた。

旧都祁村の上深川は、風の祈祷に33回を数える道具は竹箆である。

また、広陵町の小北稲荷神社境内で願掛けしていた人は、同じく竹箆だった。

数える祭具は、まちまちであるが、いずれも何故にその回数なのか知る人はいない。

中定の村行事を初取材した令和2年8月23日。

十輪寺の地蔵盆に参集された宮総代、区長代理他多数。

行事前に話してくださったのが、ハツオージさんのコオリトリ。

かつては、各家がめいめいにしていたコオリトリ。

南天の葉を水に濡らして往復33回。

氷室神社同様に、竹箆で回数を取る家もあったようだ。かれこれ40年前、バラバラだった作法を、南天の葉を手送りする形に一本化した。

一人で33往復するのもたいへんだから、バトンリレーのように葉を手送りにしたというコオリトリは、7月7日の朝6時にはじめる、と話していた。

朝早くの取材は、事情で行けないから、時間を遅らせて自宅を出発した。

行事をされているなら、痕跡が見つかるかも・・と思って出かけた。

到着した時間は、午前9時。

はてさて、茶畑の上の方にあると聞いていた八王子社は、どこに・・

水道水を流してお店のシャッターを洗っていたIさんに、ハツオージさんのことを尋ねてみたら、今朝7時にしたと、いう。

かつてほとんどのお家は、朝の5時からしていたが、Iさんが子どものころは、朝方どころか、夜に起こされて、行かされた、という。

さて、ハツオージさんに行くには・・・。



あそこに見える「都祁氷室の旧跡」が集合地。

そこからみなが登っていく。

正面に民家がある。

そこら辺りに八王子山に登る道がみつかるはずだ、と言われてここまで来た。

先ほど拝見した「都祁氷室の旧跡」は旧神社跡地行きの道しるべ。



そこは山のてっぺんにあるのだろうか。

白い標柱は、平成3年に建てたようだ。

都祁の氷室神社は、標柱に書いた方角にあるのではなく、この地からみれば、もっと西に鎮座する。

それはともかく、道なりにいけば民家に・・。

といわれてきたが、それ以上は、玄関向こう。

突き進むわけにはいかない玄関口にそれはないだろう。

民家を背に、道なりの道を戻っていけば、右手に畑道が見つかった。

草刈りするなど、綺麗にしている畑道。

その右手にあった建物。



視線の行先は、収穫した玉ねぎ吊るし。

軒下に吊った玉ねぎ干しの景観に見惚れていた。

畑地に野生の動物が侵入しないよう電柵を張っている。その先にも電柵が・・。

低めに設置した電柵。

鹿対策でなく、猪の侵入を喰いとめる電柵であろう。



低く設営していた電柵の向こうにも、「都祁氷室・・・」は旧神社跡地行きの道しるべ。

標柱に行きたいが、生い茂る背高のっぽの草むらに阻まれたここで足止めをくらった。

後にわかったことは、「都祁氷室の旧跡」の位置である。

都祁氷室神社の秋祭りに御旅所に向けてお渡りをする神幸祭がある。

実は、その御旅所地が、氷室の旧跡であった。

平成17年10月15日に行われた神幸祭。

神職を先頭に、祓主、警護、御社旗、高張、楽太鼓、楽人、天狗、獅子舞、甲冑、神前旗、太鼓、大玉串、日月旗、五色大御幣、白大御幣、御神輿、宮司、神楽巫女、護衛、三組の当屋座(当主、当任子)衆、神饌箱、吹抜、甲冑ら歩く大行列の行先が、氷室の旧跡だった。

撮影当時、福住中学校裏山であったことは、朧気ながら思い出した。

あれから15年も経った今、すっかり記憶から消えていたが、思わぬ出会いに、当時の情景が瞼に甦った。

八王子山に向かう道は、どうやらこの畑道ではなかったようだ。

もう一度、教えていただきたくお店番をしていたIさんに、正しい道を・・。

左ではなく、右や、という道。

民家の門の右際にある細い道。

いや、道とは言えないような民家の所有地の通路が、入口だ、という。

なるほどであるが・・・。

さて、八王子山に登る道は、村の道なのか、それともその民家の所有地なのか。

そのことについては、気にかけても仕方がない。

Iさんが、指示された通りに、民家の庭から山登りと続く参拝道。

いきなりぶつかる急な坂道。



村の人が登りやすいように、その民家の方が、予め草刈りをしていた山道。

道とも思えない急こう配の山道に、いきなりぶつかる。

地面は数日前に降った雨によって濡れている。

一歩、踏み出す、二歩、三歩に運動靴ではずずっと滑りそうだ。

手すりのない自然体の山道。

右側はがけ下。

おそるおそる登っていくが、心拍数が異常に高鳴り、足はどうにもこうにも動かない。

この坂道が見える範囲内でも、足が止まること、3回も・・。

そろり、そろりと登る急こう配の山道。

目的地は、どこにあるのだろうか。

Iさんの話によれば、それほど距離はない、というが、勾配は予想以上だった。

ここも足が止まった一地点。

右側に見た景色に眺望が開けた。



足元あたりは茶畑。

そう、昨年に聞いていた茶畑だ。

腰を下ろして眺めてみたいが、じゅくじゅく道。

踏ん張って観た右に拡がる景勝地に、茅葺の家屋がある。

それは、近年になって多くのカメラメンが押し寄せるようになった枝垂れ桜が美しい融通念仏宗派の西念寺である。

平成26年4月20日に立ち寄った西念寺。

ピンク色に染まった枝垂れ桜が満開。

雨降りの日であったが、本堂の茅葺屋根の補修に、茅葺職人さんがカヤサシ作業をしていた

西念寺の枝垂れ桜を初めて拝見したのは4年前に遡る平成22年4月15日

西念寺の枝垂れ桜は遅咲き。

平たん部地域、あちこちの桜が咲き終わった4月半ば辺りが、西念寺の枝垂れ桜が見ごろになる。

そう話してくれた平成20年11月13日

取材していた西念寺の十夜会法会の際に教えてもらった。

平成22年当時は、まだ知る人ぞ知る、というくらい、カメラマンにはまず知られていなかった枝垂れ桜。

茅葺本堂と相成った情景を醸し出す枝垂れ桜って、県内では数少ない景勝例であるが・・。

枝垂れ桜はそこまで。

本来目的の垢離取りに話を戻そう。

もう少しで八王子社が建つ平たん地になる。

登りだしてから5回も身体を休めた急こう配。

目と鼻の先にやっと近づいた。

その地の奥に建っていた社。



辺りを見渡したそこに枝木が見つかった。

葉っぱがまったくない枝木といえば、本日の垢離取りに使った南天の木しか考えられない。

その枝木付近に南天の葉はない。

付近を探してみたが、同じような枝木もなく、他にあったのは枯れた枝ばかり。

垢離取り行事の痕跡が見つかった。



これだけでも十分と、思ったが、なんと、南天の葉っぱは社に供えていた。

枚数は数えていないが、垢離取りの回数を示す33枚であろう。

登る前にIさんから聞いていたこと。

この葉付き南天を用意し、先に供えておくのは一年任期の区長の役目。

南天の木は、予め探しておき、伐っておく。

また、垢離取りに必要な道具がある。

それは水を入れたバケツ。

今年は、バケツが用意されてなくて、ばたばた慌てたらしい。

そのバケツは、神社下にということだから、参集地である。

一枚の南天の葉。

バケツの水に浸した南天の葉を手にして登坂。

八王子社にその一枚を供えて、山下り。

次の葉を水に浸けて、登坂し、供える。

これを繰り返すこと往復33回。

私は、たった1度の往復であったが、これを33回も繰り返すのは苦行そのもの。

人数はともかく、負担軽減に往復回数を減らす複数人によるバトンリレーのような手送りの垢離取りにしたのは、納得できる。

短い距離だが急勾配。



下りは、特に滑りやすい。

誤って道を踏み外したら、大怪我どころか、場合によっては、怪我では済まされないような状況に陥るとも限らない。

「水の祓浄力を利用し、不浄をとり去る行為」が垢離。

水垢離、塩(海水)垢離、寒垢離に湯垢離など、みな水の祓浄力。清浄な川の水を利用し、身を清める禊祓えの垢離作法。

これまで私が見聞きした民俗調査の範囲内では、水垢離でなく、お百度参りのような形式。

33回、ぐるぐる周回する願掛けもある。

八王子山をそろり、そろりと下って、再びお会いしたIさんに垢離取りの痕跡が確認できた、と伝えた。

それなら、来年はもう来なくていいだろ、といわれたが、それは未達。

村の人が作法される実際の垢離取りは未だだから・・。

身体状態と起床時間が、なんとか間に合うようであれば、また寄せていただきたく・・と、伝えて、氷室神社に向かう。

昨年の風の祈祷行事取材の折、宮総代が話してくれた氷室神社での垢離取り

混雑しないように垣内ごとに参拝時間を決め、

垢離取りをしていたそうだ。

手水に竹箆を浸して神社に参る垣内単位の垢離取り。



垣内は、ここ中定の他、浄土、上入田(※1)、下入田、別所、南田、井之市、鈴原、小野味がある。

Iさんは、中定はしていない、といっていたが、いずれかの垣内が、氷室神社において垢離取りをしているように聞く。

9垣内、それぞれの区長さんに伺って垢離取りの状況を聞き取りしたい気もあるが・・。

ちなみに(※1)を印した上入田だけが集会所、他はみな公民館を会所にしているようだ。

(R3. 7. 4 SB805SH撮影)

天理・上山田に時季遅れの山桜に出会い、農産物直売所の「みちくさ」に旬の春の味を求める

2023年05月12日 07時31分24秒 | 天理市へ
お礼を伝えた天理の中山田

次の目的地にハンドルをきった。

名阪国道の福住ICに行く途中に立ち止まり。

思わず急ブレーキかけた畑の桜。

雪洞のような桜の花は八重。

淡い緑色の葉もきれいな八重の山桜の雰囲気がいいね!。

奈良市の長谷に向かう峠道まで走ってまた戻ってきた。

と、いうのも三叉路辺りにあった小屋に目が潤んだ。



割った薪を綺麗に積んだその情景。

火力に用いる薪の材を伐採した木を運ぶ。

屋根のある小屋のような建物の軒に積んだ薪。割るための台は丸太。

伐りだした材から取った丸い台。

割り木を縦に立てて斧を振る。

薪は、かつて竈やお風呂の火ダネに使っていたが、今はよほどのことでなければ、屋内に設置した薪ストーブに暖をとる材であろう。

今の若者は、薪の割り方さえ体験することはない。

斧や大ハンマーを振る動作は、腰を使い、道具の重さを利用して下ろすのだが・・・

BBQの火に燃やす薪は、つくるのではなくアウトドア用品売り場に求める時代。

薪割り体験すれば、わかるが体力は相当なもんだ。

昔、昔、我が家に木製の風呂があった。

火ダネは、ご近所にあったお風呂屋さんがもっていきな、と云われた捨てるくらいの端材をもらって、家にあった斧で割っていた。

そんな時代がとても懐かしく感じる私も70歳の身。

今じゃ斧も振る力はなくなった。

薪置き場からすぐ近く。

三叉路にある地産地消の野菜を売っている上山田・農産物直売所の「みちくさ」に立ち寄る。



店舗前の棚に並べていた採りたて野菜。

棚にあるときと、ないときもある。

売り切れなのか、それともその日の持ち込みがなかったのか・・・

さて、何を選んでお家の土産に・・・。



いちばんに目が動いたソレは、葉の部分を切り落とした葉たまねぎ。

新玉らしいから、そう判断した葉たまねぎは、3玉が100円。

正味大好きなわけぎも100円。

家庭食に常備している青葱も100円。

滅多に買うことのない150円の蕗の茎も買っていた。

代金は、左下に置いているカンカンに収める。

お釣りを要する場合は、店舗におられる売り子さんにお願いして硬貨に替えてもらう。

朝採り新鮮野菜。

ほんまやったら、ぜんぶ買いたいところだが、そこはぐっと我慢した。

基本が無人販売の上山田の「みちくさ」はこれくらいにして再出発した。

走った瞬間に停車。

まさかここに見事な山桜が咲いて板とは・・・

ここもまた、時季を替えてやってくると思いがけない美の世界に出会える。



大木の山桜。

カメラのレンズに収まらないほどの大きく育った山桜。

横から撮った一部の姿も美しい。



杉林に埋もれてしまいそうな山桜。

心に焼き付けておこう。

(R3. 4.25 SB805SH撮影)