マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

十津川・目的地の滝川に向かう道中に出逢った民俗

2023年12月12日 07時20分04秒 | 十津川村へ
幾度となく訪れる五條市の山間地。

再訪した永谷の景観に出合った多段型のハゼ。

圧倒されるハゼもあれば、高齢化によってか、架ける術は、高所を取りやめ低所に切り替えるお家もある。

継ぐ者が居なけりゃ、暮らしの民俗は消え去るのみか。

できるだけ現状を記録する手立てしかない。

永谷を離れて峠を越える。

そこは、大勢の旅人たちが集まってくる場。

午後2時35分の「道の駅吉野路大塔」。

乗り物から降りて、真っ先にむかった公衆トイレ。

いつもきれいにされている人たちのおかげ。

頻尿に助けてもらう公衆トイレにありがとう。

峠を下る道は、カーブばかり。

スピード厳禁のカーブ道に、バイクが疾走する。

下ったそこから見た午後3時。

国道168号線阪本工区(小代―阪本区間)のバイパス・トンネル工事



進捗状況をときおり伝えてくれる知人のIさん。

住まいから、直接見える工事の進展は、毎日見ていても、さほど動きはないように見えるが、数か月も離れると、その変位は歴然。

ここは、奈良県の南部。

旧大塔村の阪本の地。

現在の行政表記は、五條市・大塔町の阪本。

町制に組かわったが、自然や風景はかわりない。

そういいたいところがだ。

カーブ道が連続する道の左手は崖。

崖に沿った車道をバイパス化。

直線的に走れるように工事ははじまった。



完成予定はわからないが、いずれの時期になれば猿谷ダム縁の道に出ることもないだろう。

そう思って撮っていた。

場を離れて、さらに南下する。

目的地は、まだまだ先になる。

おおよそ30分。

午後3時半前、見えてきた文化的有形文化財に指定してもらいたいくらいの価値がある。

そう思っている十津川村・上野地に架かる、特別な吊り橋に出合える眺望の場。



架けた橋は村の人たちの生活道。

日常に利用する谷瀬の吊り橋(たにぜのつりはし)は、観光の名所

村の人が往来するよりも、観光客の方が、多いでは・・・



実は、ここ谷瀬の吊り橋は、対岸の谷瀬と上野地をつなぐために建造した生活道。

村民たちが願った村と村をつなぐ架け橋は、昭和29年(1954)村民出資によって造られた。

吊り橋施設からほんの近く。

なにげに目線が、そっちに動いた。

蛇口を開けたまま流れる透明感のある水を落としていた。

水を溜めていたバケツ。

水分を欲する植物を置いていた。



そう、見た目でわかった、今日は中秋の名月の十五夜さん。

お月さんに愛でる供物はなくとも水を流して生かせていた穂付きススキだ。

ススキは、魔除け

ススキは切り口が鋭いことから、邪気や災いから遠ざける祭具である。



採ってきたススキを置いたのは、「山の駅 吊り橋の郷」の店主。

地元民なら、今日の十五夜さんに詳しいのでは、と思って聞いてみた。



上野地は、50軒ほどの村。

十五夜は芋たばり。

子どもたちが「たばらして」と囃し、お家にやってくる。

かつては芋だったが、現在はお菓子たばりに転じている。

中学生までが参加する十五夜の芋たばり。

今年は、16人になる、と聞いているから、今からたばってもらうお菓子を準備する。

先にススキを採ってきたので、お彼岸に供えるシキビと一緒にバケツの水に浸けている。

芋たばりにやってる子どもたちには、人数分のお菓子包みを用意する。

今は、その最中。

「詳しいことは、駐在さんが引導するからそっちで聞いとくれ」、と云われて、南の地に建つ上野地駐在所に移動する。

表記は奈良県 五條警察署・十津川警察庁舎市上野地駐在所」。



さて、駐在さんはおられるのかな?

呼び鈴押して、少し待つ。

玄関から出てこられた駐在さんは、T駐在さん。

この地に赴任して5年目。

出身地は、奈良県北西部の生駒市。

念のため尋ねた、生駒のある地域で行われている「月見どろぼう」行事。

まさに、今夕にされる中秋の名月の十五夜行事。

ここ十津川村では、旧暦の十五夜に行っている芋たばり行事

一方、生駒では月見どろぼう。

名称は違えども、お月見に供える供物をもらうことは一緒だ。

ただ、地域差がある。

生駒では、月見だんごであるが、十津川は芋(※サトイモやサツマイモ・・)である。

行事名も、十津川は本来、十五夜の芋名月なわけだ。

もっと深くかんがえてみる。

それは生産地との関係性である。

月見だんごの原材料は、コメである。

主食のコメに対して、山岳地の十津川村は、コメを育てる土地が平坦盆地部よりも極端に少ない。

主食がコメの代わりの芋は、やせた土地でも育つ。

いわゆる困窮作物である。

急な傾斜地に栽培したサトイモの皮を剥いて丸い形に。

お月さんに見立てた形。

月を愛でる形だから里芋を供える。

だから、十五夜の芋たばり、なワケだ。

ちなみに、「たばる」という言葉は、「賜る」が転じた用語。

現代文化で育った感覚では、わからない暮らしの民俗は、それぞれの物理的な土地柄が大いに関連している。

そのことは、ともかく生駒に生まれ育ったT駐在さんは、月見どろぼうは、聞きはじめのようだ。

おそらくであるが、T駐在さんが生まれ育った地域に、その行事がなかった、ということだろう。

生駒の月見どろぼうを取材した地域は高山地区。

その周辺にある旧村もしている、と聞いていたから、旧村でなく、新興住宅地など新町では、と推測される。

ともかく上野地の芋たばりに同行はするが、駐在業務でなく、あくまで保護者の位置づけ。

4歳になった我が子の保護者として同行する、という。



駐在赴任の1年目。

初めて知った上野地の芋たばり行事の出発地は、ここではなく、駐在所から坂を下った場。

元小学校跡地のグランド゙に、みなが集まり、午後7時に出発するそうだ。

上野地は100軒もあるが、芋たばりに参加される家は、およそ80軒。

子どもたちが、芋たばりをしにいくお家。

うち高齢者のお宅が芋を供えているようだ。

今日の取材地はここから30分以上もかかる滝川。

今回で2度目の取材になるが、約束しているので、上野地の行事にはいけない。

中秋の名月、十五夜芋たばりに月見どろうぼうは、同一日。

しかもお月見だから、お月さんが昇ってくころ。

同一日の行事取材は無理がある。

また、機会が合えば、そのときにお世話になると思います、と伝えて再出発した。

(R3. 9.21 SB805SH 撮影)

遅い時季にも咲くセッコクの花

2020年03月13日 10時24分03秒 | 十津川村へ
宿泊する民宿津川に初めて泊まったのは、22歳のころ。

今から46年も前、会社同僚ら数人と泊まった宿への足は新宮行きの路線バスだった。

当時、親父さんも女将さんも若かった。

親父さんは猟師。

仕留めた獣は猪か鹿だった。

獣は宿屋でいただく食材であった。

女将さんが亡くなってから早や7年。

親父さんは数年前から介護の身。

宿主は娘二人に弟が、両親の築いた顧客財産を継いだ。

猟師時代のご褒美に松茸があった。

山に入ったときにときおり見つかる松茸

お土産やいうてもらった鹿肉もあれば、猪肉とともに我が家に送ってくれていたが、今はもう・・。

山奥にセッコクがあった。

親父さんが若いころに採ってきたセッコク(長生蘭)は今でも元気に育っている。



セッコクの開花時期は5月から6月が一般的。

一部のセッコクは9月、10月に咲いている。

いずれも石つけしているセコックはどれもこれも苔むし状態。



眺める傍に秋海棠も咲いていた。

(H30. 9. 9 EOS40D撮影)

滝川に架かる野猿

2020年03月12日 09時59分08秒 | 十津川村へ
滝川に架かる野猿(やえん)がある。

十津川村立昴の郷にあるような観光用の体験型野猿ではない。

十数年前では対岸に行き来していた移動手段である。

移動は人力。野猿に乗っかってロープを引くと前進する。

動きだした当初はするすると動いてくれるが、中央辺りからは劇的に力が要るようになる。

中央から対岸へは登り。



引っ張る力がなけりゃ、戻るのも難儀・・。

どうしようもない、と中央で泣き出しそうな女子もいた。

かれこれ35年も前の体験である。

ところで十津川村唯一と思われる観光用の野猿がある。

生活物資を運ぶのではなくあくまで体験・観光の施設

風情はともかく、一度体験してみる価値はあるかも・・。

(H30. 9. 9 EOS40D撮影)

十津川の川霧

2020年03月11日 08時57分48秒 | 十津川村へ
8月23日・24日に襲った台風20号のときは避難勧告。

台風21号が神戸に上陸した9月4日は避難指示。

避難泊は一日だったという十津川村風屋の住民。

テレビが報じる避難住民映像に映っていなかった。

村長自ら中継スタッフに答えるコメントは“人的被害はありません”だった。

安心はしたものの、気になる人的要素。

電話をかけたら元気な声がかえってきた。

平成23年8月25日に発生した台風12号の影響で8月30日から降り出した雨は9月5日までの総雨量は紀伊半島を中心の広範囲にもたらし、9月3日に・・・・。

台風、大雨になる度に、当時の映像がフラッシュバックさせるように放映される。

テレビは台風報道の度に大崩落が発生した平成16年の映像も映し出す。

それを見た視聴者があたかも、今もまた崩落が発生したと思い込む。

その度に宿泊予約がキャンセルされ、観光客がどんと減少する。

嘆く宿主を元気に・・・と思って予定通りの日程に宿泊する十津川村の風屋。

もうかれこれ40年以上にもなる毎年の宿泊地は民宿津川。

今夜は1年ぶりになる大宴会。

旧知の友とともに宿主も加わって飲む、喰う、語るは大いに盛り上がるだろう。

写真は日帰り温泉利用させていただく昴の湯行き途中にあった川霧。

写真など興味のない元会社の同僚たちとともに霧が浮かぶ大河を見ていた。

(H30. 9. 8 EOS40D撮影)

滝川の十五夜芋たばり

2017年05月13日 09時25分12秒 | 十津川村へ
旧暦十五夜に行われる「芋たばり」の風習がある。

一般的には中秋の名月と云われている「十五夜」である。

その日の夜は観月祭とかの名で行われている各地のイベントが盛ん。

だが、村々では「芋名月」や、と云って十五夜のお月さんを愛でる夜になる。

我が家もときおりふっと思い出したようにススキを立てて和菓子屋が作った月見ダンゴ(月見モチ)を供えたこともある。

村々ではダンゴでもなく、モチ、あるいは饅頭でもなく、「イモ」である。

これまで拝見してきた「イモ」は皮を剥いた丸っこいコイモである。

白い肌をみせるコイモはお月さんに見立てている。

十五夜のころはイモの収穫期。

豊作に感謝してお月さんに向けて供える。

供えた「イモ」は村の子どもが盗っていく風習があるが、廃れてしまったのか、県内事例は多くない。

地域限定の事例に生駒市の高山平群町がある。

高山は子供が多く、今でも継承されている伝統行事であるが、盗っていくのはお菓子である。

和歌山の山間地もしていると、FB知人のKさんが伝えていた。

地域限定であるがゆえ、しかも少子化によって中断となった地域もあり、どこでもしているわけでもない。

それが山間部の十津川村にあった。

少子化の現代において、今でもしていること事態に驚きである。

しかも、である。

毎年訪れる民宿津川(津川の在地は風屋)から滝川沿いの集落でしていたなんて、とても驚いたものだ。

この風習を今でもしていると知ったのは十津川村の内原(ないはら)である。

集落で「ハダ」と呼ばれる何段にも高く揚げる稲架けをしていた83歳の男性が教えてくれたことによるものだ。

30年前、もっと前かも知れないが、子どもたちが集落にいた時代は内原でも「芋たばり」をしていたという。

話してくれた男性は、「滝川は今でもしているで」と云った言葉に驚いたのである。

「たばり」は「たばる」こと。

漢字でいえば賜るということでありがたく貰う特有の訛り言葉である。

滝川は五つの垣内に別れていることも初めて知った。

わかりやすいように民宿津川から内原に行く道中沿いに云えば、民宿津川から一番近い集落が下地(しもぢ)垣内。

次は向地(むこおぢ)垣内になるのだが、下地垣内中央に橋が架かっている。

そこを渡ったところが閉校した旧小学校跡地の高原(たこはら)垣内になる。

橋の向こうにある人が通れるぐらいの広さの暗がりトンネル向こうが高原である。

滝川を遡上していけば鉄橋手前が向地(むこおぢ)垣内。

放棄された「ハダ」が残っている。

橋を渡ったところが裏地(うらぢ)垣内。

ここが滝川の中心地になると滝川の総代に教えてもらった。

さらに向地垣内の山を登ったところにも集落がある。

そこは上津野(うえつの)と呼ぶ垣内になる。

大字滝川の集落は45、6戸。

それほど多くの集落が建っていたことを始めて知るが、実際はその戸数すべてに住んでいるわけではない。

何軒かは住居を残して平坦に住んでいる家もあるらしい。

数日前に聞いていた総代の話し。

どこからか子どもが集まってきて山影から月が出たら「芋たばり」が始まると聞いていたが、実際は違った。

この日の月の出は午後5時過ぎであるが、山に隠れて実際に見えるのは少なくとも午後5時半ころと想定していた。

その時間に合わせて向かった滝川。

着いて総代に聞けば午後7時ころになると云う。

つまりは月の出の時間とは関係なく、都合の良い時間に家を出るらしい。

待っている時間は長い。



早めですが、うちのお供えをしておきましょうとしてくれたお月見のお供え。

近くで採取した穂付きのススキ。

旧暦の十五夜は毎年動く。

今年は9月15日だが、平成27年は同月の27日。

平成26年は同月の8日。

平成24年は同月の30日。

平成21年であれば10月の3日になる。

ほぼ一月間の間隔であるだけにススキの成長具合と一致しない。

早ければ穂は出ていない。

遅ければ穂は消えている。

当地では見られないが、平坦部のお月見はススキにハギの花を供えるところが多い。

そのハギも時期によったら蕾どころか芽もない。

咲いた花は散っていることもある。

まことに難しい名月のお供えである。

総代家は採れたてサツマイモに長細い形のサトイモを盛った。

サツマイモはムラサキサツマイモ。

入手したツルを植えて育てたという。

サツマイモは冬の食事に登場する。

収穫したイモを蔵で保存する。

ひと冬越したイモはタネイモにする。

食事にするのは干したイモ。

それを「ホシカイモ」と呼ぶ。

イモは湯がいて縦に切る。

藁で括って干していた。

逆にそのまま切って干すのは「シラボシ」。

炊いて食べると話していた。

子供らに貰って帰ってもらうお菓子を並べて待つが、実際にやってきたのは午後8時であった。

いつ、どこから子供が現われるのか、見つけたらついていって撮らせてもらおうと思っていたが真っ暗になっても誰一人現われない。

不安な予感がする・・・。

下地垣内から裏地垣内までの行程を行ったり、来たりで何度往復したことか・・・。

そのときに見つかったススキ立て。



お供えはまだのようだが撮らせてもらったススキ立ては一升瓶。

これこそ民俗だと思ってしまう被写体に感動した。

時間帯は午後6時半を過ぎていた。

対岸の川向うを見れば、ふと、人影が動いた。

慌ててその場に行けば子供さんと一緒にススキと彼岸花を採っていたお母さんがおられた。

それを持っていることは間違いなく十五夜さん。

子供さんがおられることであれば芋たばりに出かけられる。

そう思ってお声をかけたら「うちの子どもたちは書道に出かけるので少し早いですが、いいですか・・」という。

ありがたいお言葉に甘えて、喜んでついていかせてもらいますと云えば快諾してくださった。



お母さんは出がけに我が家のお供えをされる。

時間帯は午後6時45分だった。

サツマイモに串挿しダンゴ。

赤リンゴに青リンゴなどの果物にお菓子を盛って供えたところで出発する。



まずは隣家に出かけて「芋たばりに来ましたーー」と声をかける。

家人を呼び出してからたばっていく。

それがたばりの礼儀である。

そこから滝川支流に沿って下流に向かう。

家々をたばりに廻っていく。

ひと通り巡ってきて今度は上流にある家に向かう。



ある家はススキを立ててなかったが、塩茹でした皮剥きコイモに蒸しサツマイモがほくほく。

暗闇に照らしたライトでわかるだろうか。



ほくほくのおイモさんに思わず手が出る小っちゃな子どもたち。

兄ちゃんも姉ちゃんも嬉しそうに駆け巡る。

同行取材させてもらっている私も今夜の芋たばりのお相伴にあずかる。

思った以上に甘味のあるサツマイモも美味しいが、私の好みはサトイモだ。

民宿津川のねーちゃんから聞いていた塩茹でしたサトイモはつるっと皮が剥ける。

手で掴んだサトイモはつるっ。

落としそうになったが、おっとっと、で口に放り込んだ。

とても美味い、のである。

民宿津川を継いだ二人のねーちゃんも家で食べていた記憶があるそうだ。

それがこの味だったかはわからない。

塩加減、湯加減で味わいがかわる。

家の料理とはそういうものだ。

それはともかく民宿津川がある在所は風屋(かぜや)。

十五夜のお供えはしていたが、芋たばりの風習はなかったと話していた。

何軒か廻って隣家に向かう。

隣家は明かりが煌々と点いていた。

この家は縁にお供えをしていた。



お月さんを愛でる場は縁とか庭、或は戸口に多く見られるが・・・。

ここも蒸したサツマイモにコイモを供えている。

ガラス戸を開けておイモさんが欲しい子らはここから盗ってもらう。

私もいただいたおイモさん。

とても美味しい家庭の味がする。



大多数の子どもたちは玄関に廻ってお菓子もらい。

お盆に盛ったお菓子に群がるイモ嫌いの子たち。

ここでたまたま遭遇したも一組の子どもたち。

事前に聞いていた子供の数は7、8人だったが、この日は17人にも膨れ上がった。

なんで、であるか。

事情を聞けばこちらに住んでいるお姉さんから、滝川に芋たばりがあると聞いた隣村に住む妹家族が大勢の子供たちを連れてやってきたのである。

あっちへ、こっちへと各戸を巡る子どもたちの後を追いかけるのもたいへんである。



車路に建っているお家は明かりもあるからわかりやすい。

ところが筋を一本入って登り坂の先にあるお家を見つけるには難しい地域外の私。

40年も通っている車路は存じているが、登り詰めた通りはまったく知らない。

しかも暗闇をぬってのあっちへ、こっちへ、である。

車路に面したお家は庭先にお供えを出していた。

ライトを照らしていない庭先。

申しわけないがストロボを当てさせてもらった。



さらに車路を歩いて・・・。

実際は歩きではなく、お母さんが運転する車に子どもたちを乗せて走っていく。

後尾ライトを目印に追っかけをする。

呼び鈴がないお家は大きな声で「芋たばりに来ましたーー」。

大急ぎで用意しておいたお菓子を玄関にもってきてくれた。

その家の向かい側にもお菓子を盛っている。

夕方、陽が暮れた直後に拝見した一升瓶にススキを立てたお家である。

奥さんは大慌てでそこに供えたとたんにゲットする4人の兄弟姉妹たち。



そして高台にある総代家にやっと着いた。

このときの時間帯は夜の8時。

例年よりは1時間遅いという見方もあるが、もう一組の子どもたちはとうにやってきていたのかもしれない。



暗がりであっても踏みなれた石段はひょい、ひょい、ひょい・・。

女児はどちらかといえばお菓子には目もくれずサツマイモに手が伸びていく。



何十軒も同行しておればそれがよくわかる。

60云歳の総代が子供のころの体験談。

イモよりお菓子が欲しかったと云っていたのは真逆になる。

結局はその子の好みであったかもしれない。

総代が云うには、十津川村では折立や上野地、川津で芋たばりをしているようだと話してくれた。

数時間の長時間に亘って同行取材をさせてくださったK親子に感謝する滝川の十五夜芋たばりはこうして終えた。

取材時間は午後8時半を過ぎていた。

ぼちぼち帰ろうと帰路につく。

近年は十津川村の小中学校の閉校が多くなるほどの少子化時代。

隣村の内原や風屋に谷瀬など地域の芋たばり状況を知って、ただただ驚くばかりの滝川風情に浸っていた。

雨は降らなかったが、汗はびっしょりかいた。

滝川より車を走らせて30分ほど。

上野地トンネルに入ろうとしたそのときだ。

トンネル手前十数メートル付近を歩いている集団を見た。

子どももいるし大人もいる。

人数や持ち物ははっきりと認識できなかったが一瞬のこと。

親子連れと思われる集団は間違いなく上野地の十五夜を歩く芋たばりであろう。

来年の旧暦十五夜は10月4日の水曜日になる。

さて、どこへ行くか・・・。

後日、前述した滝川の芋たばりや生駒の月見どろぼうの状況を、9月10日、11日にともに民宿津川に宿泊した連れのAくんに伝えた。

拝読した彼は「まるで、ハロウィンの日本版ですね」とコメントをくれた。

とんでもない。ハロウィンは元来、先祖迎え、もひとつに悪霊祓いである。

先祖迎えの点では日本のお盆の在り方と同じであるが、十五夜の風習にはハロウィン特有の仮装は登場しない。

ましてや悪霊祓いもない。

お菓子を貰うのは似ていても、芋たばりとか月見どろぼうの名で呼ばれる意味はあくまで収穫に感謝する風習である。

お供えを子供が盗っていく村公認の風習は決してハロウィンでもなんでもない。

似て非なり、だと返答した。

収穫祭ともいえる村の行事に野菜で人面を作って供える「御膳」と呼ぶ行事もあるが、大きなカボチャが顔やー、それやからハロウィンやという人も多いのは、本来の日本文化を知らないからそう思うのだろう。

テレビなどが伝えるニュースや報道の影響もあるのかもしれない。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)

風屋・内原・滝川・谷瀬の十五夜情景

2017年05月07日 09時18分46秒 | 十津川村へ
十津川村で今尚されているという情報がどこやらに書いていた。

そのどこやらは覚えていないがメモが残っている。

平成20年のメモだからずいぶん前のことだ。

場所は十津川村の折立。

中秋の名月に行われる芋たばりと呼ぶ地域の行事である。

芋たばりの「たばり」は賜るから訛った言葉。

山添村の切幡では芋ならぬ豆たばりという行事がある。

切幡では子供たちが村の各戸を巡って豆を貰ってくる。

豆はアゼマメ。

すぐに食べられるように塩湯につけて湯がいた食べ物。

全国的どころか飲み屋に行ってちょい飲みのアテに食べるエダマメである。

そのエダマメは大豆。

大豆の枝に実がついているからエダマメ。

大豆は田畑周囲に植えるとアゼマメの呼び名になる。

つまりは畑の畦に植えているから畦豆。

所は代わってもそう呼ぶ。

何故に今頃なのか。

豆たばりも芋たばりも畑の収穫野菜。

中秋の名月に豆や芋を供える。

それを貰っていただくことができる。

つまりは収穫に感謝しつつありがたくいただくのである。

話は十津川村で行われているという芋たばりに戻そう。

折立の芋たばりを聞いたのは平成20年8月15日に行われた西川の大踊り取材の際かも知れない。

それはともかく吊り橋で名高い谷瀬(たにぜ)にあると知った日はいつの日であるのかまったく覚えていない。

中秋の名月を十五夜とか、供える収穫野菜から芋名月或は豆名月と呼ぶ地域もある。

場合によっては栗名月の名で呼ぶ地域もある。

もしかとして、と思って内原の「ハデ」取材をさせてもらったご主人に尋ねた。

結果は30年前まではしていたという芋たばり。

「昔、子どもが大勢いたころ。9月の十五夜に家のカド、三方に皮付きのサツマイモとサトイモを供えていた。サトイモはコイモ。皮を剥いて載せていた。イモは甘辛う炊いた。ススキとかは立てなかった。日暮れともなれば、村の子どもたちがやってくるので、お菓子なんぞを渡していた。競争になってしまうので、不公平にならんようにもって帰らせた。今でもしているのは隣村の滝川や。内原は子どもがいなくなってやめた」。

そう話してくれた内原のNさんの話しはかつての十五夜の様相である。

その夜に宿泊していた風屋(かぜや)の民宿津川のねーちゃんに伝えたらこう話してくれた。



「生前、母親がしていたお月見。塩茹でしたサトイモは皮がつるっと剥けた。それを食べていた。コメコ(米粉)挽いてダンゴを作っていた。ツキミダンゴ(月見団子)は三方に盛って供えていた。ススキの穂は立てていたが、ハギの花はなかった。子どものころの記憶はあやふややけど、他家へ出かけて芋たばりをしていたように思う。家には“ハダ”があった。利用することもなくなって倒したが結構しんどかった」。

芋たばりは風屋でなく滝川でしているのなら総代さんは知っている。

家はここら辺りやと地図を書いてくれた総代家は下地のFさん。

バナナの木がある所やからすぐにわかる。

そこにも“ハダ”があるはず。

いっぺん聞いてみたら、どう、と言われてお家を訪ねる。

ちなみに民宿津川のねーちゃんが云うには折立は知らないが、谷瀬(たにぜ)ならしている可能性があるという。

下地のF家は民宿津川よりそれほど遠くない。

バナナの木を見つけて立ち寄った。

滝川の十五夜はかつて全戸でしていた。

戸数は少なくなったが毎年の中秋の名月の十五夜にしている。

その日は今年が9月15日。

4日後に行われるという今年のお供えはススキの穂立て。

かつては空になった一升瓶に立てていた。

立てる場所は屋外の縁。

子どもたちがたばれるように外縁に立てる。

供える家によって異なるが、食べられるように蒸したサツマイモ、または、サトイモはススキを立てたところに供える。

そのお供えをいただくことが「芋たばり」だという。

例えば、であるが、キャッチボールを受ける場合も「ボールをたばる」というのである。

各戸の住民は芋名月の夜に村の子どもたちがたばりにくるので準備するらしい。

各戸を巡って秋の収穫をいただくという風習である。

ちなみに滝川の芋たばりはサツマイモがメインになると話していた。

秋の収穫は果物の梨もあれば柿もある。

畑をしていない家では芋でなくお菓子になるようだ。

総代さんが子供のころの芋たばり。

芋はどこの家にもあった。

芋よりもお菓子の方が子どもの好み。

お月さんが出るのを待ってうろうろしている時間帯。

やがて山影からお月さんが顔を覗かせる。

出てきたら、行けっていう感じで各戸を廻った。

最近は小中学生が7、8人ほどやってくる。

かつては団体行動ではなくバラバラやってくる。

ちょっと間は中断していた時期もあったが、村で決めるわけでもない芋たばり風習の復活は自然にやってくるようである。

お菓子は取り合いの競争になって公平さを欠いたらいかんと考えてやってきた子どもに配っている。



十五夜に芋たばりをしていたのは風屋、内原、滝川だけでなく、谷瀬にもあった。

あったのは20年ほど前のことである。

この日に訪れて「ハダ」場の取材させてもらった谷瀬の男性の話しである。

芋名月の夜である。かつては大勢の子どもがいた。

その子らは村中を巡って芋たばりをしていた。

父親もしていたし各戸もお供えをしていた。

蒸したサツマイモをもらっていく子供たち。

いつしかサツマイモはお菓子に移っていった。

家の前とかにお盆盛りしたお供えである。

谷瀬も少子化になった。

谷瀬の子どもに小学生はいない。

たった一人の中学生も寮生になったから芋たばりはすることもないようだ。

対岸の上野地は10年前までしていたというから十津川村の各大字で今でもしている可能性があるということだ。

滝川は確実性がある。

それぞれの違いはあるかもしれないが、4カ大字で話してくださったおかげで十五夜の情景を思い描けることができた。

(H28. 9.10 EOS40D撮影)
(H28. 9.11 EOS40D撮影)

国王神社大祭

2010年12月03日 08時10分14秒 | 十津川村へ
心配された台風14号が過ぎ去ったというのに雨が降ってきた。

国王神社に向けてお渡りが出発するころのことだ。

一週間前から実行委員長はやきもきされていた。

台風が直撃するようなら中止もやむなしと判断されていたが、台風のコースが南下と気象庁の情報に変化があったことから開催の決断をされたのだ。

昼間ではもつだろうと思っていたが降り出した。

丁度そのころは出発の神事の真っ最中。

竈の廻りを三周している間に雨つぶが大きくなった。

国王神社のいわれを説き、伊勢、春日、住吉の大明神、吉野蔵王、大峰などの権現に御(ご)幣(へい)を奉る表(ひょう)白(びゃく)の詞。

「そもそも当社は…」「河津に国王 大明神は…」と唱えれば、行列一行が「万(まん)歳(ざい)楽(らく)」と唱和する。

20名ほどの裃(かみしも)姿の警固役に宮司や神職も大きく唱和して大合唱。

1km先の神社まで長い列のお渡りだ。



上野地の山々は雨で煙っている。

車の往来も気にせず表白の詞は十津川村上野地にこだまする。

神社に着いても表白は謡い続ける。

舞殿の周りを出発と同じように三周する間も謡っている。

一文字笠を被っていても裃衣装はしっとりと濡れている。

心配なのは太鼓だ。

鼓の皮は水分が大敵。

御幣も扇も何もかもがしたたり落ちる雨天の祭典となった。

昨年も神事が始まったときから降り出した。

2年連続の雨となったが祭典は執行された。



黒袴の河役童子は背中に挿した扇子を取り出して、正面に向けて一歩前に差し出す。

詞は発しない。

次ぎに御幣を持った緑袴の津役童子。

御幣を差し出し、扇ぐような所作で上下に振る。

これらの所作は7回繰り返される。



国王神社に祭られた七社の御神霊に捧げる所作だという。

このあと河役童子は右回りして正面、右面、左面へ交互に扇子を3回ずつ振る。

その際、初回だけは「氏子中に御幣をあげましょう」と口上する。

これは河津の宮が元々、上、中、下地区の河津の祭礼であったことに所以しているもので御幣を9回振る。

青袴の宮役童子は立ったままの姿勢で所作はない。

一連の所作を終えて御幣は本殿に供えられた。



神事を終えて奉納餅つき踊りが始まった。

踊り子は女性、カラフルな千本杵を持つのは男性たち。

保存会の人たちだ。



女性は目立つ赤色の着物にたすきがけ。

前列はお櫃、後列の女性はモチを模したモノを持つ。

それは箕に入れてある。

その後列は扇を2枚持つ。

唄い手は伊勢音頭の囃子唄を歌い出した。

太鼓を打つ人は二人を先頭に出発した一行は境内で餅搗き踊りを踊る。

雨のために衣装は法被になったが踊りはリズミカルで見ていてとても楽しい。

その後も歌謡ショーや餅撒きなどがあったが家路を急いだ。

(H22.10.31 EOS40D撮影)

国王神社大祭神事

2009年11月26日 07時13分51秒 | 十津川村へ
およそ30分かかった渡御は、到着すると神社の拝殿周りを出幸の儀と同じように三周する。

「そもそも当社は」の謡いに「万歳楽」と唱和する。

「文中二年 癸丑年 十月吉日 御鎮座まします 河津に国王 大明神は」と謡われると一説ごとに「万歳楽」の唱和が続く。

宮司、神官は本殿へ。

三役と三役の親は拝殿に座る。

警固ら一同は囲むように座る。

三役警固の甲冑武将だけは見守るかのように椅子に腰掛ける。

修祓、祓えの儀、祝詞奏上のあとは三役の出番となる。

河役の童子が背中に挿した扇子を取り出して一歩前に差し出す。

詞は発しない。

次ぎは御幣を持った津役の童子。

御幣を差し出し扇ぐような所作で上下に振る。

これを繰り返す。

差し出す向きは左から右へ、左から右へと移るが所作は同じ。

親王の御神霊に御幣を捧げ奉る所作であろう。

ただ、ツルベ持ちの宮役の童子は立っているだけで何の所作もない。

長い所作を終えると御幣は宮司に渡される。



それを神官が受け取って本殿に供える。

最後にツルベサカキも同じように供えられて玉串奉奠になる。

駐在さんの奉奠、小学生の斎賀奉唱もある例祭祭典はお渡りから既に3時間を経過していた。

その後は小雨降るなかの村の祭りに転じた。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社大祭のお渡り

2009年11月25日 09時38分04秒 | 十津川村へ
公民館の下で出幸の儀式が行われる。

中央に据えられたのはカマドの神さん。

お渡りは戦前までトーヤの家から出発していた。

そのころは家の竈をぐるぐる廻ったという。

生活文化の向上とともに消えてしまった竈。

いつしか火鉢に移り替わった。

その火鉢も居間から消える時代になった。

出幸の儀はカマドの神さんに祝詞を奏上して、行列を組んでカマドの神さん廻る。

区長を先頭に三役警固の甲冑武将、サカキを持つ神官、河役童子、御幣持ちの津役童子、ツルベ持ちの宮役童子の三役、宮司、神官、ヒノキカゴ担ぎ、酒樽担ぎ、口上役、太鼓、旗持ち、刀を差して編み笠を被った警固、旗持ちが続く。

表白の口上は国王神社の謂われや伊勢、春日、住吉の大明神や吉野蔵王、大峰などの権現や大菩薩へ御幣を献じ捧げ奉る詞を一節ごとに唱えて謡う。

すると、一同は太鼓の調子に合わせて「万歳楽」と唱和する。

これを繰り返し到着するまで謡い続ける。

カマドの神さんを三周すると、神社へ向けてようやく出幸する。

地区を抜けて往来激しい国道を練り歩く。



紅葉が始まった上野地の山々を背景にお渡り行列が行く。

眼下に流れるのは熊野川の流れ。



紅く染まった色と清流の青さが美しい。

1km超の長い道のりを謡い続ける表白の詞は山々に響き渡る。

<表白(ひょうはく)の詞>

そもそも当社は 文中二年(1373) 癸(みずのえ)丑年 十月吉日 御鎮座まします

 河津(こうつ)に国王 大明神は 畏れ多くも 天の川の 五色谷より 流れ給いし(たまいし) 南天皇(なんてんのう) 第一の皇子 寛成(ひろなり)親王 御神霊を 斎(いつ)き奉りし 今月今日 ご神事に 御幣を 華やかに 飾り立てて 参らせたりや 其の外末社の 御神々に 供えたりや 伊勢には神明(しんめい) 大神宮へ 御幣を 献じたりや 八幡(やはた)に八幡(はちまん) 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや

奈良には春日の 大明神へ 御幣を捧げたりや 堺に住吉 大明神へ 供えたりや 吉野に 蔵王の 大権現へ 御幣を 献じたりや 大峰山上 役の行者 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや 天の川には 弁財天へ 供えたりや 熊野の三山 大権現へ 御幣を 供えたりや 天下泰平 国土安穏 氏子繁盛 五穀成就 守らせ給えと 御幣を 参らせたりや  ~繰り返し~

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社大祭の日

2009年11月25日 09時34分02秒 | 十津川村へ
南朝ゆかりの国王神社、例大祭の日に上野地の村民が装束を身につけて神社へお渡りをする。

公民館に集まってきた村民は食事のあとにそれぞれの役目の衣装を身に着けていく。

裃を着る警固役は20名を超える。

甲冑武将は一人。

何年も当たっているので慣れたものだという。

会場内に小学生男児が3人。黒、緑、青色の衣装を着る。

背中の紋はそれぞれ河、津、宮とある。

三人揃って河津の宮。

国王神社が鎮座するのが河津の淵。

三人の子供は三役と呼ばれ、神さんを迎える役目になる。

紋の河、津、宮がその証しである。

頬紅は薄く、口紅も塗って化粧した三役は、烏帽子を被り、白足袋を履いて出番を待つ。

会場にはお渡りの道具が置かれている。大きな竹編み籠が目立つ。

奉書を巻かれた竹棒の両端にある編んだ竹籠。

半紙の上に平べったい二枚の供餅を入れて担いでいく道具はヒノキカゴと呼ぶ。

かって竹でなくヒノキだったからそう呼んでいるという谷瀬中村区長。



担ぐ道具はヒノキカゴより小さめの酒樽天秤棒もある。

三つの日の丸扇を組んだ御幣はニシキノミハタと呼ぶ。

ヒモロギを括り付けたサカキが二本。

一本は太い円筒のものを括り付けておりツルベと呼ぶ。

首が入っているのだと警固役は言った。

首櫃はいつしかツルベの名に置き換わったのであろうか、確認する記録はない。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)