マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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阿知賀瀬ノ上弘法大師の井戸替え

2013年11月30日 09時29分04秒 | 下市町へ
天井町の井戸替えとともに、奈良県立民俗博物館にビデオ映像が残されている下市阿知賀の瀬ノ上弘法大師がある。

今でも行われているのか、それを知りたくて出かけた下市町の阿知賀(あちが)。

瀬ノ上の集落内にあった弘法大師の湧水場。

朝8時に集まった住民たちは湧水場の石をあげて石洗い。

山から流れてくる弘法大師の湧水を止めて、沈殿する石コロを取り出して洗っていたそうだ。

始めるにあたって塩を撒いて清めてから、丹念に洗っていた。

数時間かけて奇麗に湧水場に七品の生御膳を供えて念仏を唱えていたと家主の婦人が話す。

お供えは洗い米に小豆。

七品の生御膳はナス、アスパラガス、ニンジン、オクラ、シイタケにコーヤドーフの立て御膳。

汁椀はミツバと麩である。

汁椀の汁は沸かした湯ではなく、奇麗な湧水の水を使う。

御膳を供えるのは毎月の21日。

但し、9月と10月は第二土曜にしている。

14、15軒からなる瀬ノ上の住民が交替して勤める当番さんが供えるが、普段は五品らしい。

お供えの三方は2年ほど前に新調したという。

「やまとの名水」に指定されたこともあって、渕周りを調えて屋根もこしらえた。

弘法大師の湧水は山から湧き出る奇麗な水。

ありがたい湧水であるとW家の先代祖父が弘法大師さんを祀ったと云う。

かつてはその場にタライが並んで洗濯をしていた。

奇麗な湧水は夕方ともなればお風呂の水にしていたそうだ。

今では石に藻も発生し、湧水も濁りがあるように見えるまでになった。

原因は掴めていないと話す。

(H25. 8. 7 EOS40D撮影)

天井町弘法井戸の井戸替え

2013年11月29日 08時38分51秒 | 大和郡山市へ
度々拝見している弘法井戸の井戸替え。

大和郡山市の天井町の行事である。

毎年、盆入りの7日に行われている。

最初のひと汲みはツルベでなくバケツの水汲みだった。

あとはいつものように効率よく電動ポンプで汲み出しをする。

溜まった泥も勢いよく汲みだす。

汚れをポンプで汲みとって、しばらくすれば満々と湛える弘法井戸。

井戸底から出現したのは弘法大師の石板仏である。

一年に一度のご開帳である。



かつては梯子を架けて井戸の中へ入って降りた。

奇麗に洗っていた石板仏であったが、「来年ぐらいは、せなあかんな」と話す村人たち。

頭上からではあるが、弘法大師さんを撮らせていただいた。

弘法大師の水は今尚湧きあがる村の用水。

汽車が走っていた時代には養殖した金魚を出荷していた。

そのときに使っていた水は井戸の水であった。

かつて天井村は30戸の集落であった。

いつしか10数戸になって、今では8戸の旧村。

「水が欲しいか、嫁が欲しいかどっちや」とお爺さんが云った言葉に返した答えは「水」だった。

それほど大切にしてきた水は農業、生活する上での重要なものであったという。

弘法井戸の横には地蔵尊・不動尊を祀っている。

今月の23日にはここで地蔵盆を行っていると話す。

天井町の行事に八幡宮の夏祭りの御湯も拝見したことがあるが、4月には薬師さんもあると云う。

薬師さんを祀っている場はここより東側にある佐保川の東土手。

水門の北側に薬師堂を建てている。

本来は8日であったが、当番の都合で日時は不定だが、当番の人が御供を供えに行くらしい。

遠くにわざわざ出かけるのも難しくなってきたという意見も出ている薬師さんの御供。

八幡宮の境内に遷す意向があるそうだ。

(H25. 8. 7 EOS40D撮影)

田中町甲斐神社七日盆の祖霊祭

2013年11月28日 07時25分16秒 | 大和郡山市へ
田中の里は思った以上に広い地域だと知ったこの日。

二人の息子が通っていた郡山西小学校も田中の区内であると初めて知った。

地区に住んで30年も経って知った田中の里である。

かつての富雄川に沿った斜めの小字境。

それが旧河川の流れ。

三カ井堰から流れて田中、新木南・小南北、豊浦集落北を東に流れて本庄南・杉の集落へ、である。

小字一ノ坪辺りは今でも田園が広がる。

田中の里ではあるが、農業している人は旧村ではないようだ。

田中の里は大和郡山市の田中町。甲斐神社が鎮座する。

同神社には二つの記念碑が設置されている。

一つは生垣を竣工した記念の銅板である。

それには「昭和11年10月 竣工生垣鉄筋 □□土塀御造営」とあり、社挙に藤井秀臣の名が刻まれていた。

もう一つは拝殿の新築で、「昭和52年10月吉日 社拝殿新築記念碑」で、村氏子の他、「軍友會、在郷軍人會、青年団、消防団、国防婦人會」の団体名もある。

宮司の名は璒美川公達に移っていた記念碑である。

璒美川公達は現小泉神社の先代宮司と聞いている。

今では継いだ森本宮司が斎主を勤めている。

この日の神社行事は「代々」とも呼ばれている七日盆の祖霊祭である。

宮総代、自治会長、数理組合長、氏子たちは普段着で参拝する。

この日に行われる下座についた御湯の湯焚きさんも普段着姿で神事を見守る。

以前は4人でもっと若かったが、少子化の影響で大学生ぐらいの年齢に移った。

修祓の次は田中の里に暮らす氏子たちの穢れを祓う祝詞を奏上される。

神事を終えて前庭に移る。

古い湯釜は雑木に火を点けて予め湯焚きさんが沸かしていた。

境内は美しくなっている。

1日には、この日のために地区の老人会の人たちが朝から神社周りを清掃していた。

シバを刈りとり、竹や樹木を伐採していた。

数日前の作業で疲れた身体になったそうで、この日の参拝を見送った人も多いと宮総代が云う。

湯釜の前に登場した巫女さんは森本宮司の婦人であるが、先代宮司の璒美川公達の娘さん。

父親とともに出かけていたと云う。

御湯を引き継いだと云うから、おそらく璒美川に嫁いだ母親の花枝さんから教わったのであろう。

引き継いだ直後は「サンバイコ」を腰に巻いていたと話す。

「サンバイコ」は安産を願う印し。

数年後にはしなくなったと云う。

御湯の作法は「20回どころか50回、もっとそれ以上にしなさい」と教えられていて、今でも先代の云いつけを守っている巫女さんであるが、御湯の作法には祝詞を奏上することはなかったようだ。

この日もダイナミックな湯さばきで湯を飛ばす。

御湯の作法の前には鈴を持ってシャンシャンと舞う神楽舞。

大きく手を広げて舞う。



湯被りをする氏子たちに容赦なく湯を飛ばす。

向こう正面に構えていた私にも飛ばしてくださるありがたい御湯。



森本宮司は「この日の行事は夏越しの祭りでもある」と話す七日盆の湯祓いは、かつて8月7日であった。

いつしか村人が集まりやすいその日に近い日曜日になった。

代々の祖霊を祀る行事でもある御湯は「湯花神事」と呼ばれていた。

湯のしぶきが花のように見える様からその名がついたのであろう。

御湯を終えた湯を柄杓で掬った宮総代。



貰って帰って家人が飲むと云う。

アツケ(暑気)にならないようにというありがたい湯は身体を内部から奇麗にしてくれるのだと話す。

一種の風習であるが、以前は行列ができるほどの状況だったそうだ。

7月の夏祭りの御湯にはたくさんの人が並んだ。

ほとんどの人が老人会。

この日の欠席では、それを拝見することはなかった。

(H25. 8. 4 EOS40D撮影)

8年目のセミ

2013年11月27日 07時02分49秒 | 自然観察会(番外編)
田中町甲斐神社の行事取材のおりにやかましく鳴いていたクマゼミの声。

シャーシャーの鳴き声は五月蠅いぐらいだ。

耳を澄ませば、どこかとなく違う鳴き声も聞こえてくる。

ジーというからアブラゼミである。



アブラゼミはクマゼミより少なくて、1/4ぐらいである。

何本かの樹木を探してみたが、どっちかといえばアブラゼミが松でクマゼミは桜のようだった。

杉の木にはセミが見つからなかった。

セミが生息する樹木はそれぞれなのだろうか。

(H25. 8. 4 EOS40D撮影)

下三橋のラーメン丸福軒

2013年11月26日 08時04分35秒 | 食事が主な周辺をお散歩
先月の20日に開店したラーメン丸福軒は大和郡山市の下三橋を通り抜ける国道沿いにある。

新聞チラシにあった開店記念の割引券。

どんなラーメンでも100円の割引だ。

試しに行ってみるかとかーさんを誘って出かけた。

店内レイアウトは6月末まであった讃岐うどん総本舗琴平製麺所とほぼ同じ。

ラーメン店では珍しく和の雰囲気。

うどん店の名残が懐かしい。

大きな違いはテーブルコーナーで間仕切りがあった。

何を注文するかである。

かーさんはシンプルに580円の醤油そばだ。



見本どおりに半切れ煮タマゴが浮かんでシナチク、ネギ盛り。

チャーシューは2枚のようだ。

透き通るような醤油ダレのスープがさっぱりして美味しいという。

私はこってりコク味のこくまろ鶏スープ麺。

醤油そばより100円高い680円だ。



鶏出汁とも思えないドロドロスープ。

麺はいずれもストレート。

スープに絡んだ麺がジュルジュルっと口に吸い込まれていく。

油が浮いているのはおそらく豚の背あぶらであろう。

絶妙な味に箸が止まらない。

出汁があまりにも美味すぎる。

これで680円とは驚きである。

煮タマゴ、シナチク、ネギ、チャーシューはかーさんが食べた醤油そばとまったく同じだが、出汁はまったくの別次元の味だと思った。

ラーメン一杯では物足りないと考えて追加注文したモチモチ餃子は5個で290円。



たしかにモチモチ感があるのは餃子の皮。

ユニークである。

醤油にラー油を付けて食べてみた。

美味い、の一言であるが、何かが違う。

肉の味が強く感じる餃子には野菜がほとんどない。

もちろんニンニク味はあるのだが・・・。

モチモチ餃子と云うよりもざらざら感があるひき肉味の餃子である。

※ 短期間に閉店相成りのラーメン店

(H25. 8. 2 SB932SH撮影)

桜井市山田のカンピョウ干し

2013年11月25日 07時54分54秒 | 民俗あれこれ(干す編)
東山間から下って訪れた桜井市の山田。

明日香村へ向かう途中に立ち寄った。

昨年の4月のことだ。

旧暦閏年に行われる庚申さんの調査で伺った山田の地。

畑の中に立ってあった3本の木。

どことなくカンピョウ干しの道具であるように思えたのである。

もしかとすればと思って拝見した木に細長い白いものが垂れさがっていた。

まさにカンピョウである。

夕暮近い時間帯である。

曇天でなおさら判り難い映像になったが紛れもないカンピョウ干し。

もしかとすればと思って尋ねたお家の人。

ご主人の話によれば、6月半ば辺りから始めたカンピョウ干しは毎朝6時に起床する。

天候にも左右されるカンピョウ干しは雨天の場合はしない。

雨が降りそうな気配であればしないと云う。

前日の天気予報を確認しておいて、晴れると判っていれば朝早く起きてカンピョウの皮をカミソリのような道具で剥く。

7月に入ってから、畑で栽培しているカンピョウをとってくる。

手ごろなカンピョウを蔵で保存しているが、10日間も経てばずくずくになるというから、多くの採り溜めはできない。

この日も朝からそうしておいて干していた。

もうすぐ夕暮れになる。

「そろそろ下ろす」と話すご主人は「世話がかかりまんねん」と云う。

揚げ下げする木製の道具は「カッシャ」と呼ぶ。

紐を引っ張れば滑車が作動する。

天頂にあるのがそれだ。

カンピョウは私の大好物。

それがなければ巻き寿司ではないと思っているくらいだ。

乾燥させた美味しいカンピョウを食べてもらおうと近くの道の駅で売りだそうと思ったご主人。

店に申し出たところ、保健所の許可がなければと断られた。

しかも、43度の熱湯で殺菌、冷たい水で冷ます設備も調えなければならないというから断念したと話す。

大好きなカンピョウの話に喜んでくれたご夫妻はこの日に干しておいたカンピョウをくださった。

ありがたいことである。

山田の地では、カッシャで揚げ下げするカンピョウ干しは、おそらく我が家だけだろうと云う。

平成22年7月に取材した田原本町の多の住民は家で食べる量を作っていると皮剥きを拝見した。

翌年に伺ったときには、「しんどいから止めた」と話していた。

天理市の嘉幡(かばた)でもカッシャを見つけたことがある

そのときはされていなかったが、隣の家では物干しのような処で干していた。

その後においては目撃することもなくなった。

大和郡山市の額田部の婦人たちは手間がかかるし、年寄りはキツイからと、とうに止めているカンピョ干し。

年寄りが楽しみにされてきたカンピョウ干しは手間がかかる上に天候に左右されやすいのである。

平成23年11月に聞き取った田原本町の八田の婦人もそう話していた。

隣村の天理市吉田では今でもしているそうだと云っていたが、巻きあげ機械であるのかまだ現地取材ができてない。

田原本町の矢部で目撃したことがあるが、今でもそうしているのかどうかだ。

見ることは稀になった「カッシャ」でなく、もの干し型で干す地域も僅かに残る。

桜井市山田のすぐ南の地。明日香村(八釣・小山/飛鳥川沿い)や橿原市鳥屋町宣化天皇陵付近にあるようだが、カッシャ揚げではなくもの干し型である。

夏の風物詩のカンピョウ干しはいずれ県内で絶滅することになるのではと思った。

カンピョウ干しを拝見したFさんの話しによれば、住んでいる東茶ノ前垣内では8軒で営む庚申講があると云う。

初庚申のときは近くの庚申石へ参って三巻の般若心経を唱えていると云う。

オリンピックの開催年というから旧暦ではなく新暦である。

「モウシアゲ」と呼ぶ初庚申は、モチを搗いてトーヤの家でヨバレのご馳走を食べていたそうだが、今ではトーヤ家に負担をかけず、飲食店に出かけるようにしたと云う。

(H25. 7.28 EOS40D撮影)

針テラスの冷たいぶっかけうどん

2013年11月24日 08時33分45秒 | 食事が主な周辺をお散歩
朝から家を出て東山中を掛け巡っていた。

昼の時間はとっくに過ぎていた。

曇り空ではあるが、湿気が多くむんむんするこの日。

さっぱりとした昼食を食べたくなって針テラスにやってきた。

いろんなお店があって呼び込みもある。

そんな声は耳に入らず、入店した店はつるまる饂飩店だ。

新しいメニューである季節限定の夏のぶっかけうどんもあるが眼もくれずに頼んだうどんは冷たいぶっかけうどん。

値段は280円である。

カウンターで注文すれば直ちにできあがるが、即席麺ではない。

しっかりとしたコシをもつうどんである。



大盛りであるかのようなカツオブシ削り。

鉢からはみ出しそうな勢いに盛ってくれた。

ネギもたっぷりでだし汁は冷や冷や。

無料トッピングの天カスものせる。

ここの天ぷらは美味しい。

揚げる油はキャノーラ油。

これが美味いのだ。

特に美味くに見えた紅生姜のかき揚げ天はテンコ盛りの丸いボール。

値段は150円と実にお買い得だが、今回は遠慮した。

どちらかと云えば玉ねぎのかき揚げが欲しいのだが、この日もなかった。

冷たいぶっかけうどんはシコシコ麺。

おろしショウガも添えて食べた。

歯ごたえがあるがツルツル麺は喉越しがよろしい。

大盛りを頼みたいと思ったぐらいに美味しい麺である。

「麺之庄つるまる饂飩」店は「まいどおおきに食堂」を経営する㈱フジオフードシステム。

どうりで美味いはずだと思った。

(H25. 7.28 SB932SH撮影)

切幡黒住教の大祓え茅の輪

2013年11月23日 08時36分31秒 | 山添村へ
この日は山添村など東山間を巡っていた。

立ちよった大字切幡の神明神社前に駐車する村人の車があった。

大勢が集まって行われていたのは黒住教の信者さんたち。

この日は神明神社の行事ではなく、黒住教の大祓えである。

鳥居に括りつけていたのは茅の輪である。

信者さんらはここを潜って参拝していたという。

(H25. 7.28 EOS40D撮影)

三谷の行事

2013年11月22日 08時38分37秒 | 桜井市へ
氏子総代らに聞いた桜井市三谷の行事の数々。

三谷のオンダ祭は3月7日に近い日曜日に行われているが、稀に宮司の都合で日が替わる場云もあるらしい。

この年の3月23日に拝見したオンダ祭の名残。



拝殿廊下に置かれてあった藁製の束の呼び名は「ハナカズラ」であった。

8本の矢もあった。



それは「鬼」と書いた的に向けて射った矢であった。

神官が射る弓はサクラの木のようだ。

最初に鬼の的へ目がけて矢を射る。

その後は四方へ4本。残りは氏子が射る。

ハナカズラは「サビラキ」と呼ぶ田植え初めの際に田んぼに立てた。

かつては苗代の際であったが、今は田植えで5月のGWを過ぎた日にしていた。

ウルシの木に結んだ「ゴーサン」も立てて、ナタネの花を添えたと云うが、現在はそのような農の風習をする家は見られなくなったそうだ。

その後の日々。7月頃、雨が降らないときには「アメゴモリ」をしていた。

七夕の行事もあったそうだが、今は見られない。

三谷では山の神祭の12月7日と年明けの2月7日にカンジョウナワをしていた。

12月の房はシキビの枝葉で、2月はシラカシの葉だった。

今では年に一回となったカンジョウナワは掛け直しと云って2月11日の春祭りにしていると話す。

マツリは10月。

60年前には太鼓台を担いできた小夫のマツリ。

三谷を通ってダケホウ(小夫嵩方)まで掛け巡ったそうだ。

ちなみに三谷に閏年の庚申さんがある。

地蔵院にある庚申さんに参る際にはカシの木の塔婆と菓子台をあげると云う閏年の庚申さん参りは「トアゲ」と呼んでいた。

(H25. 3.23 EOS40D撮影)
(H25. 7.28 記)

三谷菅原神社お庭造りのハナツミ台

2013年11月21日 07時23分22秒 | 桜井市へ
かつては8月1日だった桜井市三谷のお庭造り。

現在はその日よりも前の休日に移った。

氏神さんを祀る菅原神社には早朝から作業をしてきた村人。

この日は朝8時から作業に入ったという氏子総代や人足さんだ。

手分けして、神社や無住寺の高野山真言宗地蔵院、寝地蔵さんの愛称がある地蔵磨崖仏などを奇麗にされていたのである。

屋根に積もった枯れた葉っぱはブロワーで吹き飛ばす。

落ちた葉を集める。

境内の樹木は刈りとるなどの作業である。

「お庭造り」の「お庭」は境内のことであって、神社を含めた村の所要な場の清掃であったのだ。

拝殿前に立てた台が気になってお聞きした。

現在は木製の台に換わったが、かつては丸竹で組んでいた。

四方に竹を立てて竹のカスガイで組んでいたと云う台である。

台となる場はおよそ60cm四方の正方形で高さは90cmぐらいだ。

四方の角にシキビを挿した台の名は「ハナツミ」だと氏子総代が話す。

漢字を充てれば「花摘み」であろうか。

シキビを載せる台の竹は縮むほど柔らかいシンダケを使っていたそうだ。

その台に、8月1日から毎日の15日までの毎日を一日交替で毎朝、毎晩に当番の人がシキビの葉を並べると云う。

縦に9枚、横に9枚を並べて合計81枚のシキビの葉である。

「なんでそんなことするのか、判りませんねんやけど、盆を迎える」と云う。

三谷は14戸の集落。

氏子一軒、一軒が順に当番するらしいが人数が合わない。

「ハナツミが判ったら教えて」と云われたが、思い起こしたのが奈良市の奈良豆比古神社で行われている「花摘祭」。

ここでは72枚のカワラケにサカキを置いて神水を注いでいたのである。

「花摘祭」は別名に”涼み”と呼ばれる行事で、7月初め頃に初日、中日、千秋楽とそれぞれの呼び名をもつ3日間続ける神社行事である。

厳しい夏の暑い時期、雑草をこまめに刈り取りとると身体を休める「野休め」だとも云っていた。

一方、奈良市旧都祁村の上深川の元薬寺で行われる「ゲー」の呼び名がある行事だ。

大人講の仲間入りをされた人たちが盆板に九つの銅杯を並べてシキミ(シキビとも呼ぶ)の葉を一枚一枚入れる。

対角線上の二杯には4枚の葉をつけたシキミをいれますが理由は伝わっていません。

6枚の盆板に並べられたシキミは祭壇に供えて十三仏、一心頂礼、光明真言を唱えていた。

なにやらよく似た作法であるが、三谷の「ハナツミ」の枚数とは合わない。

地域によって在り方が違うのだろうか。

多くの類似例を調査しなければならないと思った。

(H25. 7.28 EOS40D撮影)