奈良県内の事例に正月の「カンマツリ」がある。
ただ、家の正月の在り方だけに目に触れる機会もまずない。
これまで私が取材した事例でもたったの3例。
一つは天理市
福住町別所の民家。
二つ目も奈良市
長谷町の民家である。
三つ目は宇陀市
室生小原。
これもまた民家の習俗である。
この3例はとてもよく似ている。
ほとんど形状が同じであるといっても過言でないくらいに似ている。
それは割り合い太目の一束の藁束である。
中央辺りで中折れ。
およそ90度に折る。
元の形状は注連縄である。
それを中折れして作る。
角度が戻らないように縄、或いはppロープなどで括って止めている。
長谷町や福住町別所の造りは中折れ部分を拡げている。
しかもその部分に四角くさいの目状に切ったモチと炊いたご飯を盛ったのは長谷町の事例。
福住町別所は長谷町と違ってコウジミカンにモチ。
クシガキも盛っていた。
長谷町の呼び名は「シメナワサン」であるが、福住町別所は「カンマツリ」。
両地域民家とも玄関を出たところに祭っている。
福住町別所ではこれを「外の神さんが来やはるので供えている」という。
一方、室生小原の民家は玄関でなく庭の門(かつては玄関口)であった。
注連縄を90度以上の角度をつけて折る。
そこにはしめ飾りと同じように葉付きのダイダイを括っていたそれは「注連縄の正月飾り」である。
それにはお供えという観点はない。
私が思うには何者かわからないが、外にも神さんがおられる。
その神さんにもお供えをさせてもらう。
それが「カンマツリ」と推定している。
「カンマツリ」は「寒まつり」でもなく「神まつり」が訛って「カンマツリ」に転化したものと大胆に推定した。
尤も「カンマツリ」の呼び名もなく、こうした注連縄を変形させた藁作りではないが、注連縄に飾るユズリハにご飯を供える習俗があった。
一つは大和郡山市
小林町に住むHさんは「そこにおっぱんを供える」と云っていた。
「おっぱん」は「御飯」。
仏事にご飯盛りをする場合も「おっぱん」と呼ぶ地域・人は多い。
大和郡山市内には小林町と同じように、同市番条町の酒造りのお家は正月三が日の毎日に注連縄飾りのユズリハにご飯を盛っていたと聞いたことがある。
これらも外の神さんにお供えをするという慣習であろう。
それはともかく福住町別所、長谷町事例である藁作り(ワラズト)の注連縄に米御供をしている民家があるということだ。
平成6年11月に初芝文庫より発刊された『藁綱論―近江におけるジャノセレモニー―』がある。
著者は橋本鉄男氏だ。
氏が論ずる「藁」「綱」にはさまざまな民俗があると伝えている。
主なフィールドはサブテーマに挙げているように滋賀県近江。
「藁」で作る「ジャ」の民間信仰をとらえている書物に「ヤスノゴキ」関連民俗資料一覧がある。
「ヤスノゴキ」とは何ぞえ、である。
書物はこの日の民俗行事取材に同行してくれた写真家Kさんが手に入れたもの。
論考は私が存知しない滋賀県のあり方を事例に基づいて執筆されている。
一度に拝読するには時間の確保が要る。
そう思って
診察の待ち時間にたっぷり時間をかけて読んだことがある。
「ヤスノゴキ」は「ヤスコギ」、「ヤスゴキ」とかの呼び名があるらしい。
そもそも「ヤス」とは・・・。
書物を読んだ限りであるが、「ヤス」は藁作りの細長い形状である。
魚捕りの道具に「モンドリ」というものがある。
形はなんとなくそれに似ているらしい。
豊中市のHPであるが、
越前敦賀の民家施設の解説に「ヤスツボ」が登場する。
その解説によれば、「正月の雑煮やご馳走をヤスツボという藁の容器に入れて大黒柱に供える」とある。
続きが書いてあって「柱の信仰も後には床の間や神棚に移った」とある。
状況説明だけでもわかるように、供え方は異なるものの信仰の時期、あり方が同じである。
さて、「ヤスノゴキ」の一覧表である。
氏は日本全国の「ヤスノゴキ」を整理するために「歳神祭の祭具・用具に用いられる」と「・・以外に用いられる」ものとに区分された。
「ヤス」の名称は地域によってさまざまである。
用いられるものを県別に挙げれば、群馬県、千葉県、東京都(大島・三宅・南多摩)、神奈川県、長野県、静岡県、愛知県、富山県、石川県、岐阜県、福井県、滋賀県、奈良県、三重県、愛媛県、鹿児島県である。
以外に用いられるものの県は、青森県、岩手県、秋田県、山形県、福島県、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、静岡県、岐阜県、和歌山県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県である。
気になるのは奈良県のデータである。
地域は3カ所。
一つは十津川村であるが、在所は書いていない。
呼び名は「ツトゴキ」で形状は苞状である。
二つ目は天理市の豊田町。
呼び名は不詳だが、形状は苞状である。
三つ目が天理市福住町の井之井。
ここもまた呼び名は不詳だが、形状は苞状である。
これらを供えていた場所である。
十津川村は門松のモチクイとある。
豊田町も井之井も門松である。
供え物は十津川村がトビ(ご飯・雑煮・粥)で豊田町も井之井も雑煮である。
また、豊田町の事例備考では門松は庭に一本を立てるとある。
これら3件の出展文献は十津川村が『民間伝承・十二の二・十二』。
豊田町も井之は『日本民俗・奈良』とあった。
つまり、氏は実物を拝見しているわけでなく、書物より探し出したということだ。
出展本の調査日は不明であるが、井之井(正しくは井之市)は私が見聞きした「カンマツリ」をしていた福住町別所にとても近い。
距離にして3km程度である。
前置きが長くなってしまった。
さて、平成23年1月1日にされていたカンマツリの様相を撮らせてもらったN家である。
久しぶりに訪れる別所は申の日に行われる「申祭り」行事がある。
今では12月23日に固定されているが、以前は申の日であった。
初めて取材した日は
平成21年12月23日だった。
翌年の
平成22年12月23日も取材させていただいた。
この日のことである。
「デンボ」の呼び名がある注連縄を結っていた
男性が話してくれたのが元日に家の玄関口に供える「カンマツリ」であった。
あれから7年も経っている。
今でもされているのか、どうか不安であった。
元日早々に訪れたが、「カンマツリ」の存在はなかった。
時間が早かったのか、それとも、もうすることはしなくなったのか、元日の朝だけに呼び鈴を押す気持ちは萎えて周辺の正月風景を拝見することにした。
坂道つたいに集落を巡ってみる。
玄関の注連縄は当然ながら存在を示していた。
市販の注連縄ではなく、しっかり作った手造りの注連縄にウラジロ、ユズリハにミカンがある。
注連縄は弓なりになるように両端を結った縄で括っていた。
隣家の注連縄も手造り。
同じようにウラジロ、ユズリハにミカンもあるが、ミカンの位置だけは違っていた。
全戸を見たわけでもないが、県内では減少の一方にある手造りの注連縄が嬉しい。
注連縄は玄関だけでなく農小屋にも飾っているが、ミカンはない。
もう一つの違いは七、五、三の房を垂らした簡便な造りである。
玄関は太くて立派な注連縄。
房もフサフサというか何本も垂らす簾型のようにも見える注連縄に比して簡便である。
農業に忙しく活躍する軽トラを納める駐車小屋にも同じ形式の注連縄がある。
思わず見惚れる情景にシャッターを押してしまう。
このお家にもあった七、五、三房の注連縄。
その小屋には編んだ藁紐にホシガキを吊るしていた。
同竿には干し藁も見られる。
しかも、だ。
お家のカドニワにはススキもあったから驚いてしまった。
ご挨拶はできなかったから、この場を借りて撮らせてもらったことを報告させていただく。
時間帯は朝の9時。
そろそろ来るかなと思っていたところにやってきた郵便屋さん。
元日に伝える年賀状配達姿に、これもまた身体が反応してシャッターを押していた。
泥かけ地蔵を解説した真新しい立札がある。
「明徳元年(1390)南北朝時代 向かって、右が来迎印の阿弥陀如来、左に錫杖と宝珠をもつ地蔵菩薩を刻む双石仏である。病気になったとき、その病箇所にあたる、石仏の躰の部分に泥を塗り、病平癒の祈願をする。治るとその泥を洗い落としお礼参りをする。このことから泥かけ地蔵と呼ばれる。また安産祈願で、男の子が欲しいときは、右側、女の子が欲しいときは左側の石仏にお願いをする」と書いてあった。
親しみを込めて泥かけ地蔵と呼ばれている双石仏の高さはおよそ1.5mの大型。
下部に笠石をもつ形態どころか、南北朝時代の威容が残存しているケースにおいても稀で珍しい。
現代と違って医者も薬の調達もままならぬ時代に石の仏さんに願をかけるしかなかった。
別所の泥かけ地蔵の事例もあるように、何かに縋りつきたい願掛け。
眼病に効くなら、足に効くならと願いを込めて祈った。
その始まりがいつ、誰の手によってそうなったのか、どこにも真相を語るものはない。
胸を患えば胸元に、足の怪我なら傷む部位に泥を塗りつけた。
県平たん部に油掛け地蔵なるものがある。
大阪であれば水かけ不動尊もある。
いずれも願掛けに重宝されてきたのだろう。
ここ別所の泥かけ地蔵は願が叶えば泥を拭い去る。
奇麗に洗い落としてお礼参りをする習わしがあったが、
川西町の油掛け地蔵はそうすることもなかった。
水をかけてばかりの不動尊に苔が生える。
洗うことはなかったのである。
こうした在り方は地区それぞれさまざまな区々である。
正攻法の位置から泥かけ地蔵さんを撮らせてもらうが、なんとなく平凡に見えてしまう。
尤も、いろんな供え物があるから正月供えは見えない。
そうであれば大胆な角度をつけて御供を撮る。
ウラジロを敷いて二つ折り半紙を置く。
左右どちらも同じだと思うが、二段重ねのコモチに2個の串柿とミカンを重ねた。
その両横には芽付きのシキビもある。
丁寧な正月の祭り方に思わず手を合わせて「あけましておめでとうございます」と心の中で念じた。
後日に拝読した季刊誌がある。
奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事である。
「里人の願いを一身に 泥だらけで仲良く並ぶ隠れ仏」のキャプションに誌面写真を飾っていたのが、この「泥かけ地蔵」だった。
そこより少し下った処にも石仏がある。
場は福住町の大字浄土の地。
氷室神社があるすぐ傍である。
どっしり構えた十王を刻んだ笠石仏である。
十王石仏は江戸時代中期の作らしいが、よくよく見れば十一体もある。
と、いうことは一番上の上段中央が阿弥陀仏で他十体が手に笏をもつ道服姿の十王であるということだ。
十王石仏には正月のお供えはなかったが、左横の祠の前に正月飾りがあった。
松に芽のついたシキビにウラジロを注連縄で括った飾り物。
別所の泥かけ地蔵のお供えとは異なるが信仰の篤い人が飾っていたのであろう。
ちなみにネット情報であるが、正月飾りをしてもらっていた石仏は二体。
右が文化十年(1817)建之の僧座像。
右手に五鈷杵をもつ。
左の一体は安政六年(1859)建之の如意輪観音座像である。
ここも手を合わせて現地を離れる。
次の行先は宇陀市室生の小原であるが、結論から云って正月に飾る門扉の半折り注連縄はなかった。
記憶にある家はどこへいったのか、すっかり頭の中から消えていた。
門扉のある家が見つからないのだ。
思い出せずにあっちへウロウロ。
坂道を上り下りしてこっちもウロウロ。
記憶にある門扉の家が見つからない。
たまたま玄関ドアを開けた人がいた。
その人に尋ねたお家のご主人。
身体を壊されて現在は病気療養中の身にあるという。
たしか年齢的にも私より若干上だと思うご主人に初めてお会いしたときは元気だった。
復帰はどうなるのかわからない療養の身にあるらしいから、もう見ることはないだろう。
尋ねた男性が云うには村でそういう注連縄をしているのはご主人だけだと話される。
辛いことだが致し方なく現地を離れた。
(H29. 1. 1 EOS40D撮影)