正式社名は和伎座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめ)。
鎮座地は京都府木津川市山城町平尾里屋敷。通称名は棚倉の
涌出宮(わきでのみや)である。
称徳天皇年代の天平神護二年(766)五月。
「天夫貴売尊の神託により平尾邑和岐に遷し奉る・・」とあり、「伊勢国渡会(わたらい)郡五十鈴川の舟ケ原岩部里から、天乃夫岐売命を勧請したのが起こり」とも。
その「勧請した際に、祭神は飛来し一夜に森が生まれた。四町八反余りが、神域と化したことから、世の人は畏れ、その神徳を称えて“涌き出森”」というわけで涌出宮と称した。
たぶんにその字、“涌”水のごとく、当地は地下水が豊かに流れる土地であったろう。
初めて訪れたのは、
平成29年の3月15日。
「女座」と呼ばれる行事取材のお願いに伺った。
お会いした中谷勝彦宮司が話してくださった涌出宮の年中行事。
主な行事の「女座」に「アーエーの相撲」、「居籠祭り」を説明してくださる。
取材許諾を得て訪れた同月20日が「
女座」行事だった。
続いて拝見した行事は饗応(アエ)の相撲。
訪れたのは
平成29年の9月24日であった。
そして、いよいよ本日の
いごもり祭である。
「恒例の涌出宮の宮座行事(※京都府の重要無形民俗文化財)の一つである祈年祭の「いごもり祭」を、今年も厳粛に執り行いたく・・」と案内する通知葉書が届いた。
祈年祭は、一年の初めに、その年の豊穣を祈る祈年(としごい)の祭り。
祈年(としごい)の年(とし)とは、年穀、稲米の稔りを意味する。
「郷土の伝統文化を継承するため、ご支援をいただきたく賜り存じ、ご参拝お願い申し上げます」に続いて「所願成就、清祓いの御鈴、撤饌を福授させていただきますので、本状を受付に提示」とあったありがたい通知葉書の差出人は連名。涌出宮与力座座衆一同に氏子総代一同、宮司中谷勝彦とある。
神社由緒書によれば、いごもり祭を充てる漢字は居籠祭若しくは齊籠祭。
起源は
諸説・伝承あり。
「祟神天皇の御代に、天皇の諸兄で、当地山城地方を任されていた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が、大和朝廷軍と戦い、敗北し、安彦命は非業の最期を遂げた。その後、数多くの戦死者の霊が祟り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。そこで、村人たちは齊みこもって、悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった」と、日本書紀に記載があり、このことが、いごもり祭の起こり、と伝わっている。
朝いちばんに集まってきた与力座の座衆。
境内に設えるとてつもなく巨大な松明作りが始まった。
ちなみに、「棚倉から見て西側にあたる木津川対岸に鎮座する
祝園神社(ほうそのじんじゃ)にも、いごもり祭を斎行されている。伝説によれば、安彦命が斬首されたとき、首は木津川を越えて祝園まで飛んでいき、胴体が棚倉に残ったといわれる」
「祝園神社では、安彦命の首を象った竹の輪を祭りに用いて、涌出宮は胴体を象った大松明を燃やす」との説の他、「昔、鳴子川から三上山(さんじょうやま)から大蛇が出てきて、村人を困らせた。そこで、義勇の士が退治したところ、首は祝園に飛び、胴体が棚倉に残った」説もある。
いごもり祭は、“音無しの祭”ともいわれる。
「昔、村中の人たちは、家に居籠って、年乞い(※おそらくトシゴイと発音する祈年を、“年を乞う”の漢字に充てたのであろう)の祈りが成就されるまで、一切の“音”を立てなかった」、という。
現在は、「室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願(※予祝行事であろう)、春を呼び、村に幸せを招く、除厄招福所願成就の祭りとして大いに世人の注目と信仰を集めている」と、神社由緒書に記している。
祭りの最中は家内に居籠り、静かに終わるのを待っていた。
その居籠りを称して「いごもり祭(※居籠祭)」の名が付いたのであろう。
いごもり祭は、与力座による運営を中心に、古川座、歩射(びしゃ)座、尾崎座が参画して祭祀が行われる。
平成19年より日時改定された居籠祭の現在は2月第三土曜、日曜両日の2日間であるが、
以前は、2月15日、16日、17日の3日間であった。
15日は、午後8時ころより、座の饗応になる門(かど)の儀に大松明の儀。
16日は、午後2時ころに、勧請縄奉納の儀。
17日が、午後2時から4時の時間帯に行われる座行事の饗応(あえ)の儀に御田(おんだ)の式の3日間であったが、改定された現在は、第三土曜の午前9時半より、大松明作り。
時間を経た午後7時半より始まる座行事の饗応(あえ)の儀に場を境内に移して行われる大松明の儀。
翌日の第三日曜に、座行事の饗応(あえ)の儀とお田植祭を詰めた2日間にされた。
これらの行事は、一般の人たちが観られる主たる行事であるが、秘儀とされる「森廻り神事」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」は他見をはばかる神事として、所作など、その一切を観ることは禁じられている。
その四ツ塚は祭祀後であれば拝見できる、と云われて
それぞれの場所を中谷宮司が案内してくださったことがある。
朝いちばんに始まった与力座の作業は大松明の調製である。
中谷宮司にお話を伺おうと思って声をかけた社務所・神楽殿の正面口に飾っていたヒイラギイワシ。
2月3日に行われた節分の印しであるが、ほとんどの人は気づいていない。
目の上にある年越しのまじないは神楽殿だけでなく幕を張った居籠舎にもある。
もちろん四脚門にもあるが、視線は上に向かないようだ。
その四脚門にもう一つ。
前年に架けた勧請縄がここにある。
ぐるぐる巻きにした勧請縄。
これもまた気づく人は少ない。
社務所に在して当番していた与力座の婦人たちにお声をかけて上がらせてもらった。
宮司は用事で出ているがすぐ戻って来られるとのこと。
その間に拝見した数々の供え物。
三方、折敷などにそれぞれを盛っている。
手前にある白木の造りものは4種。
榊の木で作った
マグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。
接着剤や釘は一切使わずに組み立てる。
ホゾ穴を開けて組む差し込み式で造った農具はノミ削り。
見た目も一級品の供え物は前週に作っていたそうだ。
右にあるのは松苗。
その向こうにもたくさんある稲の穂を模擬的に見立てた松苗は56本。
8本ずつに束ねた松苗の軸に紙片を巻き付けている。
文字なのか判なのかわからないが、奈良県内の模擬的農耕の御田祭で拝見したような護符と同じ形式だと思うのだが・・・。
左側に盛ったものは御田式で所作されるモミマキである。
たくさんの洗い米に紫、緑、黄、赤、白色の紙片が一枚。
もう一枚は細かく切った紙片は金色に銀色。
お米は玄米である。
戻ってこられた中谷宮司の所用は、兼務社の祭礼に出仕していたとのこと。
平尾に鎮座する中古川・西古川辺りに鎮座する
春日神社に東古川に鎮座する春日神社。
アスピアやましろ(木津川市山城総合文化センター)の前辺りにある春日神社。
大字は平尾の小島に北河原堂ノ上や綾杉であろうか。
現宮司は与力座の一員でもある中谷勝彦宮司。
かつて涌出宮の宮司は中谷家、喜多家、大矢家、土屋家の4軒で廻っていたそうだ。
おじいさんがしていたという女性はこの年与力座一老のKさんの奥さん。
はっちょうなわて(※八丁縄手であろうか)の道にコエダメ(肥え溜め)があって、と言いかけた昔話は棚倉小小学校の生徒たちに話してきた。
コエダメはコエタンゴとも。
懐かしい呼び名は私が生まれ育った大阪・住之江の市街地にもあった。
大方、55年も前のころである。
冬になればカチコチになった表面。
他地区の子どもが学校帰りに遊びふざけてそのコエタンゴにのっかった途端にどぼーん、というかズボっと。
身体全体でもなかったから助かったが・・。
そんな経験は同年配者であればどこともあったようだ。
棚倉駅に市電が通っていて、神社に保育園もあった。
通いの市電の車中で勉強していた、という思い出話。
川越えに「いちひめさん、いちひめさん、いちひめさん」を3回言うて、渡っていた。
「春日さんからお姫さんが出てきて悪さするから、早よ帰ってこい」と云われた“いちひめさん“は市姫の地区であろうか。
さて、本題の大松明作り、である。
作業を始めてからおよそ1時間。
本体部分を束ねて崩れないようにする道具作りがある。
隣村の神堂寺地区の山から伐り出したフジツル(藤蔓)。
使用するのはフジツルの根っこの部分である。
大量に採ってきたフジツルが自生する山は知り合いの山。
了解を得て、伐りだして運んできた。
フジツルの根っこは冬の季節になれば、その存在がわからなくなる。
目印は咲いた藤の花。
5月から6月にかけて咲く藤の花。
その時季に山入りして目印を付けておく。
こうしておけば埋もれている根っこも見つけられる。
根っこは土の中。
掘り起こす作業はたいへんだし、細い根っこもあれば太目の根っこも。
巻きに利用する根っこを伐りだした本数は長短の差もあるが、相当な量である。
根っこはそのままでは使えない。
柔らかくするには槌が要る。
力を込めて打つ槌。
何度も、何度も打って柔らかくする。
皮を剥いだりして根っこを加工する。
使い方は結びである。
太く束ねて作る松明は61束の樫の木。
相当な量である。
樫の木のシバの本数は例年が61本であるが、新暦の閏年の場合は1本増えた62束となる。
なぜにシバは61本であるのか。
翌日に出合った
菊約さんのブログによれば、神さんを山にお返す12月行事の森廻しと翌年の2月に迎えるまでの期間日数が61日というわけ。
旧暦の場合は“大“の月が一つ増えることなのだろうか。
力仕事は男の作業。
太さ3cmくらいの長い藤の木の根で締めて崩れないようにするが、見ての通りの機械道具の力も借りる。
ラチェット型万力だと思うがこのあたりは機械締め。
締めて広がらないようにして柔らかくした根っこで縛る。
心棒のような太い木は「アテギ」と呼ぶ。
この木も例年は12本であるが、新暦の閏年の場合は13本になる。
現在は新暦であるが、かつては旧暦であったろう。
一年の月数は12カ月。
旧暦の場合の月数は13カ月になるからだが・・。
旧暦閏年の間隔は2年→3年→3年→3年→2年の繰り返し。
その廻りの年が旧暦の閏年。
月数は13カ月。
明治時代になる前の江戸時代は旧暦であった。
今なお“13“の数で表すことがあれば、江戸時代にもしていた、ということになる。
先祖代々が継承してきた民俗行事に旧暦閏年を示す”13“があれば、江戸時代以前から、であるが、昨今は暦の本を見ることも少なくなり、誰しもわかりやすい4年に一度の新暦閏年に移す地域が増えつつある。
縛って崩れないようにしてから持ち上げる。
下部に這わせていた丸太は長い竿のようなもの。
作業初めから据えていた丸太を揚げて木材をかます。
空洞ができあがって竿は重さでしなる。
そうして空洞が広くなったところで細めの根っこを通す。
作業工程は毎年のこと。
職人気質のベテランの人たちが指図する根っこの締め方にも技術が要る。
力を合わせて引っ張り合う。
下部の木材はチェーンソーで切断。
不要な部分は伐り落として、周りの葉っぱも落として奇麗な形にする。
本体の重要なものができあがれば鉄骨で櫓を組む。
材料は仕事上で使っている鉄骨やチェ-ンブロック。
座中提供の道具は大掛かり。
崩れないように安全性を確保して組み立てたら引き上げる。
その状況を見守る座中の奥さま方。
鉄骨やぐらがなかった時代はどうしていたのだろうか。
たぶんに考えられるのが丸太の3本組。
その中央部にジャリジャリと音を出して引き上げるチェーンブロックを架けていたのだろう。
鉄骨やぐらの場合は足場もある。
これなら安心して作業を進められる。
全容が見えてきた大松明は垂直に立てるのかと思えば違って、斜めの状態で固定する。
最後に化粧と、いうか葉付きの樫の木を挿して埋めていく。
中木以下の葉付き枝を何本も何本も隙間に挿して埋めていく。
大松明の本体(※故伝によれば斬首された武埴安彦命の胴体)は奇麗になったこの状態で完成である。
作業はもう一つある。
昨年に賜った初詣参拝の際に授かった破魔矢や十二支絵馬を付けた矢に前年の居籠祭でたばった稲穂に御田式の所作を描いた絵馬付きの祈祷守護の矢などがある。
氏子たちの家々を守護し終えたこれらは今夜の大松明の儀において焼納される。
よく見れば柳の枝木に結んだ“瓢箪“もある。
その枝木には願い事を書いたと推定される短冊も結んでいた。
こうしてできあがった大松明の出番は、この日の夜である。
古川座に尾崎座(※中世から幕末まで参列することはなかったが、明治期になって参列し始めたものの再び中断であったが、平成5年に復帰)、歩射座を与力座がもてなす座行事である門(かど)の儀を終えてからである。
始まるころには参拝者で境内がいっぱいになる。
作業の合間に中谷勝彦宮司が見せてくださる「かぎ」。
「かぎ」は、「おかぎ」と「こかぎ」の2種類。
与力座の一老が作っておいた榊の「おかぎ」束。
御田式の座に参列される古川座(9束)、尾崎座(3束)、歩射座(3~4束)の座中たちに手渡す「おかぎ」の形に特徴がある。
よく見ていただければおわかりになると思う形。
短く伐った枝付きの葉茎。
その形はまさに「かぎ」である。
「かぎ」で思い起こす囲炉裏の自在鉤。
そう、鍋などを引っかけて吊るす道具の「鉤」である。
そう思えるのは「おかぎ」の鉤形状。
軸中央でなく、いずれも端に寄せており、その形状はまさに自在鉤である。
なお、「おかぎ」は座中一人ずつに手渡されるが、「こかぎ」はばら撒き用にしているようだ。
また、「かぎ」の中に一本の松葉を入れているそうだ。
また、最後の作業に一つ。
この夜に燃やされる大松明。
その松明火から移される小松明。
白衣を着た2人が、この小松明を転がすようにして四脚門にもっていく、と聞いたが・・。
それはともかく最後の調整である。
葉付きの樫の木を巻き付けて落下しないようにきっちり縛るロープ。
力を込めて作業を終えた。
なお、いごもり祭については祭りや座の調査当時に担当された若いころの中村彰氏の調査報告書ならびに
ブログが詳しい。
また、論文発表から縁が繋がり、昭和61年に京都府の無形文化財1号指定になった経緯も書かれている。
一つは、京都府教育委員会が1979年に発刊した『宮座と祭祀―棚倉涌出宮の場合 京都の田遊び調査報告書』。
また、映像記録された山城ライオンズクラブ・制作解説本の『天下の奇祭 いごもりまつり』もある。
もう一つに1986年に幻想社から発刊された『天下の奇祭 いごもりまつり-涌出宮の宮座行事』もある。
いずれも拝読していないが民俗視点などさまざまな視点で執筆されていると思われ、参考になるだろう。
(H30. 2. 6 SB932SH撮影)
(H30. 2.17 EOS40D撮影)