京都府の笠置町に伝わる民俗に「富士垢離」がある。
その民俗に関して調査報告されているブログがある。
調査・編集は静岡県の富士市立博物館。
執筆は志村博学芸員である。
その報告書に一文がある。
文化庁編『日本民俗地図』第三巻出典行事の御杖村神末(みつえむらこうずえ)地区の信仰行事である。
「この集落は、後の江戸の冨士講で知られる食行身禄の生地に隣接する村で神末の“浅間さん(※せんげんさん)”と呼ばれている信仰行事」を報告する内容は次のとおりである。
「十二、三人の講員で構成され、精進料理で七日の禊ぎをする。男が料理をつくる。材料は麩・竹の子と野菜でまかなう。服装は白いゆかた、帯も白で草履履きである。一日に二、三回禊ぎをする。この時「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー ナム ゴンゲン センゲン タイシ(南無権現浅間大師)」と唱える。晴れの日は草履履き、雨の日は下駄履きで、履き物は終わると屋根裏に吊しておき、また来年使う。中の日を中ゴウリといい、ゴクと御幣をつくり、川の近くに竹で棚をつくる。前には草履を置き、竹の先には布を掛け、ミソギをしながら連珠をくる。部屋には掛け図を掛け、精進料理を供える。当屋は順番でもちあう。病気の神願もした」である。
『日本民俗地図』の発刊は1972年/昭和47年である。
今から47年前に発刊されたということは、調査はそれ以前。
凡そ50年も前の御杖村神末にあったとされる“浅間さん”と呼ばれていた富士講行事である。
今もしているのか、それともとうの昔に解散されているのか。されておれば画期的なことになるが、たぶんに期待できない50年前のことである。
もし、解散されていたとしても当時に体験されていた講中の人の存在を調査したい。
史料或いは物品、道具でも遺っていたらと思いつつ出かけた久しぶりの神末入りである。
「ご祈祷の湯~」の詞章で夏祓いをする作法があまりにもダイナミックで感動した7月14日の祇園祭り。
場は御杖村神末の御杖神社である。
拝見した日は平成17年の7月14日だった。
御杖神社境内で行われた千本搗きを拝見したのは平成17年11月1日。
石搗き唄の歌詞もブログに掲載していた。
その日は午後からもイモバチを盛る作業もあった。
神末の行事を初めて拝見した年は平成14年の11月3日に遡る。
あれから16年。
その後の私の民俗探訪は奥深いところに入り込むようになった。
実は今日に至るまでに再訪したことがある。
調べていたのは農耕の民俗である。
稲刈りを終えた農家の人がしている習俗である。
刈った稲の一部をハザに架ける行為である。
刈った稲を丸くする。
それを田んぼの網目状の垣根に架ける「ホカケ」である。
平成3年に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記録されていた「第十二章-御杖村の年中行事と祭り」にそのホカケ状態の写真が載っていた。
ホカケは同じ形状ではなく、やや違いが見られるホカケである。
いわゆる「カリゾメ(刈り初め)」の習俗であるが、形は実にユニークだった。
尤も写真であるから詳細は掴みにくい。
説明文に「青竹2本を立てて、それを両方から曲げて縄をかけ、アーチ状にする。これを2株の稲、ないし、2把の稲を括り付けてまつる。収穫を感謝してから稲刈りをはじめた。これをホカケと呼んでいた」とある。
その形状は扇型のようにも見えるから、まさに帆掛け船の帆のような形である。
そのホカケらしきものを見た記憶を頼りに訪れた日は平成20年の11月3日だった。
稲刈りはすでに終わっている田である。
ホカケを探してみたが、結局は見つからなかった。
高齢のご婦人がされていたのであろうと判断していたが、ホカケはなかった。
高齢でやめてしまったのだろうと思った日である。
この件は未だに悔しい思いが残っている。
と、いうのも写真に撮っていないからである。
携帯電話の写メール写真でも撮っておけば良かった、と今でも悔やむ「ホカケ」である。
と、前置きはそれくらいにして、10年ぶりに現地入りした神末の景観はかわっていないように思った。
伊勢本街道に繋がる辺りの民家は行灯がある。
本街道を導く文字が書いてある行灯であるが、奥に行けばまったく見られない。
また、民家の何軒かは玄関に今でも注連縄を飾っている。
お伊勢さんの地域ではそうしていると聞いたことのあるあり方であるが、ここ神末もお伊勢さん方式であろうと思うが注連縄の形は一定でもない。
神末は国道369号線東奥の小屋、西部、敷津に神末川出合の川合から上流を溯る東町、西町、中村、上村の8垣内。
神末川東岸にある道沿いに上流を行く。
私の記憶では上流に対岸西に架かる橋を渡ったすぐ傍に御杖神社があったはず。
その記憶に間違いはなかった。
渡りきった高齢の婦人が畑で作業をしていた。
この日、はじめて見る村人である。
神末に昔と思われる浅間講なるものを聞いたことがありますか、と声をかけたら聞いたこともないという。
来月は祇園さんの行事があり、7月14日に近い日曜にしているという。
そうか、あれから十数年。
人が寄りやすいように日曜日に移したということだ。
それ以上の話しも出なくて車を移動する。
少し行けば新道にでる。
南にも通じる新道。
10年前はあったのか、記憶にない。
その新道にある畑で作業していた男性に声をかける。
聞いたことも、話題にでたこともないというが、子どものころの体験を話してくださった。
モミダネと煎ったキリコを供えていた苗代田である。
今ではどの家もしなくなった豊作願いの印しである。
先に挙げた『中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に解説していた「ミトマツリ」の項にキリコが登場する。
「苗代にモミを落とすと、ミトグチ(※水戸口)に萱の穂を一対立てて、ツツジ・菜の花など、その時季に咲いている花を供え、ヤッコメや炒り豆、カヤ、キリコなどを供えてまつる。萱の穂は、正月の十五日の小豆粥を萱の穂で食べるが、その折のを二本保存しておいて用いる。供えたヤッコメや豆などは子どもたちがもらいに歩いた。袋を持って、「ヤッコメ クレヤナ タノミズハナソ(※焼き米をくれないと田の水を流して水浸しにするぞという意」と云ってもらいに歩いたという。
30年も前の前にしていた」情景が浮かび上がる。
“ヤッコメ”の様相は平成29年4月29日に取材した山添村北野・津越のヤッコメ行事を参照いただきたい。
神末では「ヤッコメ クレヤナ タノミズハナソ」であった詞章が津越では「ヤッコメ(焼き米) くらんせ ヤドガメ はなそ(放そう)」である。興味深い類似例である。
キリコはフライパンでなく網焼き。
七輪にのせて煎っていたという。
記憶のキリコに男性が思い出した餅つき。
カキモチも作っていたという。
カキモチを作る時季はカンノモチ。
カンノモチ寒入りしたころに作る餅。
うちは節分の日までに作っていたという。
カンノモチはもう作っていないが、晦日に搗く正月の餅搗きは今でも毎年しているという。
杵と臼で搗く正月の餅の量は親戚筋などにも送るから多いようだ。
餅つきを避ける日がある。
それは「丑」と「午」の日である。
例えば今年、平成30年であれば「午」の日の12月16日、28日は外す。
「丑」の日であれば11日に23日である。
「午」の日に「丑」の日は“ひらかいになるから”という。
“ひらかい”とは火事のことらしい。
つまり、その日に搗いたら火事になるから、目出度いことを忌み嫌う避ける日であった。
その火事で思い出すのは「火の用心」である。
当家の玄関にある護符の一枚に火の用心、ではなく「鎮防火燭(ちんかぼうしょく)」であった。
どこで発行してもらった護符であるか。
その護符の横に並んで貼っていたもう一枚の護符は村にある曹洞宗(中国禅宗五家の一宗派)龍谷山東禅寺(元真言宗)がが配符した「大般若経・・何某」。
寺印と思しき朱印が同じであったから、東禅寺が配符したのであろう。
また、「9」のつく日も避けたいと話してくれたSさんは昭和23年生まれ。
今でも現役の大工さん。
神社のゾーク(造営事業)とか寺建築も手掛けるSさんは私より三つ上の年齢のほぼほぼ同年齢。
子どものころ、お爺さんに連れられて御杖神社に参っていた。
家で作ったイナリアゲを抱えて神社に出かけた日は9月1日。
八十八夜やから集まっていた。
夕方に集まった15人ほどの人は重箱に詰めたボタモチやオハギをもってきた。
何年か参ったが、今はもうないという行事はおそらく旧暦8月1日にしていた八朔籠りであろう。
ところで、講のことで思い出されたSさんの話し。
2、3年前になるが、何人かの講の人が寄合いをしていると聞いた。
そのことを話してくれた80歳台の男性を訪ねたらどうか、という。
紹介されたお家は老人ホーム秀華苑に近くにあるという。
村の道を下って見つかったY家。
ご夫婦は忙しく家廻りの雑草刈りの作業中だった。
はじめに伺った奥さんも記憶のない浅間講である。
もしかとすれば神社境内にあった・・・。
それよりも中村垣内の人は「せんげんさん せんげんさん」と云うて、水泳をしていたというのだ。
県内事例にある富士講(浅間講)行事につきものの行為がある。
川の水に足を浸かって杓子で掻いだ水を前方に向けて「ひー、ふー、みー・・・なな、やー」とかける。
いわゆる水垢離の作法であるが・・。
奥さんの話しは子供が垣内ことにしていた水泳である。
水泳といっても、神末川の一部を堰き止めるなどして川の水嵩を増やしたところで泳いでいたという。
小学学童に中学生くらいがしていた場は、中村垣内は御杖神社付近の川。
上村垣内の子どもたちはバス停近くの観音さんやという橋の辺りに堰き止めた。
その奥にソマヤブチの地があった。
下は川合垣内に敷津垣内も。
それぞれでしていたという川遊びである。
刈り込み作業を一時中断してくださった旦那さんも離してくださる。
昔は講があった。
浅間神社は昔に寺があった処にあったそうだが、今は廃寺の浄光寺(じょうこうじ)。
“じょうこうぶち”辺りにあるというそこにあった浅間神社は痕跡もないようだが、付近に墓地があるという。
Yさんがさらに話した講の装束。
記憶にあるのはその浅間神社に参っていた講中は白い装束であったということだ。
50年も60年も前のこと。
講中は誰であったのか知らないが、かつて村長を務めたSさんなら知っているかも、という。
ちなみにY家は6軒で営む愛宕講に属しているという。
2、3カ月に一度は家に集まっているのか、という愛宕講。
火伏の神さんを祀る京都の愛宕神社の参拝は、急な坂道で年寄りに堪えるから今は行っていないそうだ。
村には数組単位で営む伊勢講があった。
今は組ごとに集まることなく、3月初めくらいにバスで伊勢参拝するツアー行程。
参集する人数は40~50人にもなるという。
会費を集めているのでその費用が貯まったときに参拝しているそうだ。
また、村には庚申講もある。
場所は神末川の東岸。
民家裏にあるから表通りでは見えないらしい。
以前に千本搗きを拝見したことがあると話したら、今でもしているという。
石搗き唄を謡う音頭取りは声のえー人がしている。
搗く餅は5臼。
先に話してくれたSさんも石搗き唄があると話してくれたら、再訪したくなってきた。
最後に伺うのは墓地へ行く道沿いにある元村長家。
その道の奥にあった墓地は村の墓地である杣谷霊園であった。
その場に延元三年(1338)造立の腰折れ地蔵があると知ったのは帰宅してからだ。
Yさんが話してくれた廃寺・浄光寺に浅間神社はこの地に建っていたのだろう。
場所がわかって戻る道沿いに見つかったお家は不在だった。
何度か呼び鈴を押してみたが反応がないから下る。
そこですれ違った車は、墓地の方角に向けて登っていった。
もしかと思って、ハンドルをきり返して再び・・。
やはりである。お声をかけたご夫妻がSさんだった。
夫妻ともは講のことは存じていなかったが、もしかとしたら本に・・・。
お爺さんの弟さんが昔に書いた本がある。
その一冊を「これは大事だから」と云って渡されたそうだ。
家探ししてみないとわからないが、見つかれば連絡してあげるという。
朗報が届くように祈りたい・・。
(H30. 6.17 SB932SH撮影)
その民俗に関して調査報告されているブログがある。
調査・編集は静岡県の富士市立博物館。
執筆は志村博学芸員である。
その報告書に一文がある。
文化庁編『日本民俗地図』第三巻出典行事の御杖村神末(みつえむらこうずえ)地区の信仰行事である。
「この集落は、後の江戸の冨士講で知られる食行身禄の生地に隣接する村で神末の“浅間さん(※せんげんさん)”と呼ばれている信仰行事」を報告する内容は次のとおりである。
「十二、三人の講員で構成され、精進料理で七日の禊ぎをする。男が料理をつくる。材料は麩・竹の子と野菜でまかなう。服装は白いゆかた、帯も白で草履履きである。一日に二、三回禊ぎをする。この時「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー ナム ゴンゲン センゲン タイシ(南無権現浅間大師)」と唱える。晴れの日は草履履き、雨の日は下駄履きで、履き物は終わると屋根裏に吊しておき、また来年使う。中の日を中ゴウリといい、ゴクと御幣をつくり、川の近くに竹で棚をつくる。前には草履を置き、竹の先には布を掛け、ミソギをしながら連珠をくる。部屋には掛け図を掛け、精進料理を供える。当屋は順番でもちあう。病気の神願もした」である。
『日本民俗地図』の発刊は1972年/昭和47年である。
今から47年前に発刊されたということは、調査はそれ以前。
凡そ50年も前の御杖村神末にあったとされる“浅間さん”と呼ばれていた富士講行事である。
今もしているのか、それともとうの昔に解散されているのか。されておれば画期的なことになるが、たぶんに期待できない50年前のことである。
もし、解散されていたとしても当時に体験されていた講中の人の存在を調査したい。
史料或いは物品、道具でも遺っていたらと思いつつ出かけた久しぶりの神末入りである。
「ご祈祷の湯~」の詞章で夏祓いをする作法があまりにもダイナミックで感動した7月14日の祇園祭り。
場は御杖村神末の御杖神社である。
拝見した日は平成17年の7月14日だった。
御杖神社境内で行われた千本搗きを拝見したのは平成17年11月1日。
石搗き唄の歌詞もブログに掲載していた。
その日は午後からもイモバチを盛る作業もあった。
神末の行事を初めて拝見した年は平成14年の11月3日に遡る。
あれから16年。
その後の私の民俗探訪は奥深いところに入り込むようになった。
実は今日に至るまでに再訪したことがある。
調べていたのは農耕の民俗である。
稲刈りを終えた農家の人がしている習俗である。
刈った稲の一部をハザに架ける行為である。
刈った稲を丸くする。
それを田んぼの網目状の垣根に架ける「ホカケ」である。
平成3年に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記録されていた「第十二章-御杖村の年中行事と祭り」にそのホカケ状態の写真が載っていた。
ホカケは同じ形状ではなく、やや違いが見られるホカケである。
いわゆる「カリゾメ(刈り初め)」の習俗であるが、形は実にユニークだった。
尤も写真であるから詳細は掴みにくい。
説明文に「青竹2本を立てて、それを両方から曲げて縄をかけ、アーチ状にする。これを2株の稲、ないし、2把の稲を括り付けてまつる。収穫を感謝してから稲刈りをはじめた。これをホカケと呼んでいた」とある。
その形状は扇型のようにも見えるから、まさに帆掛け船の帆のような形である。
そのホカケらしきものを見た記憶を頼りに訪れた日は平成20年の11月3日だった。
稲刈りはすでに終わっている田である。
ホカケを探してみたが、結局は見つからなかった。
高齢のご婦人がされていたのであろうと判断していたが、ホカケはなかった。
高齢でやめてしまったのだろうと思った日である。
この件は未だに悔しい思いが残っている。
と、いうのも写真に撮っていないからである。
携帯電話の写メール写真でも撮っておけば良かった、と今でも悔やむ「ホカケ」である。
と、前置きはそれくらいにして、10年ぶりに現地入りした神末の景観はかわっていないように思った。
伊勢本街道に繋がる辺りの民家は行灯がある。
本街道を導く文字が書いてある行灯であるが、奥に行けばまったく見られない。
また、民家の何軒かは玄関に今でも注連縄を飾っている。
お伊勢さんの地域ではそうしていると聞いたことのあるあり方であるが、ここ神末もお伊勢さん方式であろうと思うが注連縄の形は一定でもない。
神末は国道369号線東奥の小屋、西部、敷津に神末川出合の川合から上流を溯る東町、西町、中村、上村の8垣内。
神末川東岸にある道沿いに上流を行く。
私の記憶では上流に対岸西に架かる橋を渡ったすぐ傍に御杖神社があったはず。
その記憶に間違いはなかった。
渡りきった高齢の婦人が畑で作業をしていた。
この日、はじめて見る村人である。
神末に昔と思われる浅間講なるものを聞いたことがありますか、と声をかけたら聞いたこともないという。
来月は祇園さんの行事があり、7月14日に近い日曜にしているという。
そうか、あれから十数年。
人が寄りやすいように日曜日に移したということだ。
それ以上の話しも出なくて車を移動する。
少し行けば新道にでる。
南にも通じる新道。
10年前はあったのか、記憶にない。
その新道にある畑で作業していた男性に声をかける。
聞いたことも、話題にでたこともないというが、子どものころの体験を話してくださった。
モミダネと煎ったキリコを供えていた苗代田である。
今ではどの家もしなくなった豊作願いの印しである。
先に挙げた『中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に解説していた「ミトマツリ」の項にキリコが登場する。
「苗代にモミを落とすと、ミトグチ(※水戸口)に萱の穂を一対立てて、ツツジ・菜の花など、その時季に咲いている花を供え、ヤッコメや炒り豆、カヤ、キリコなどを供えてまつる。萱の穂は、正月の十五日の小豆粥を萱の穂で食べるが、その折のを二本保存しておいて用いる。供えたヤッコメや豆などは子どもたちがもらいに歩いた。袋を持って、「ヤッコメ クレヤナ タノミズハナソ(※焼き米をくれないと田の水を流して水浸しにするぞという意」と云ってもらいに歩いたという。
30年も前の前にしていた」情景が浮かび上がる。
“ヤッコメ”の様相は平成29年4月29日に取材した山添村北野・津越のヤッコメ行事を参照いただきたい。
神末では「ヤッコメ クレヤナ タノミズハナソ」であった詞章が津越では「ヤッコメ(焼き米) くらんせ ヤドガメ はなそ(放そう)」である。興味深い類似例である。
キリコはフライパンでなく網焼き。
七輪にのせて煎っていたという。
記憶のキリコに男性が思い出した餅つき。
カキモチも作っていたという。
カキモチを作る時季はカンノモチ。
カンノモチ寒入りしたころに作る餅。
うちは節分の日までに作っていたという。
カンノモチはもう作っていないが、晦日に搗く正月の餅搗きは今でも毎年しているという。
杵と臼で搗く正月の餅の量は親戚筋などにも送るから多いようだ。
餅つきを避ける日がある。
それは「丑」と「午」の日である。
例えば今年、平成30年であれば「午」の日の12月16日、28日は外す。
「丑」の日であれば11日に23日である。
「午」の日に「丑」の日は“ひらかいになるから”という。
“ひらかい”とは火事のことらしい。
つまり、その日に搗いたら火事になるから、目出度いことを忌み嫌う避ける日であった。
その火事で思い出すのは「火の用心」である。
当家の玄関にある護符の一枚に火の用心、ではなく「鎮防火燭(ちんかぼうしょく)」であった。
どこで発行してもらった護符であるか。
その護符の横に並んで貼っていたもう一枚の護符は村にある曹洞宗(中国禅宗五家の一宗派)龍谷山東禅寺(元真言宗)がが配符した「大般若経・・何某」。
寺印と思しき朱印が同じであったから、東禅寺が配符したのであろう。
また、「9」のつく日も避けたいと話してくれたSさんは昭和23年生まれ。
今でも現役の大工さん。
神社のゾーク(造営事業)とか寺建築も手掛けるSさんは私より三つ上の年齢のほぼほぼ同年齢。
子どものころ、お爺さんに連れられて御杖神社に参っていた。
家で作ったイナリアゲを抱えて神社に出かけた日は9月1日。
八十八夜やから集まっていた。
夕方に集まった15人ほどの人は重箱に詰めたボタモチやオハギをもってきた。
何年か参ったが、今はもうないという行事はおそらく旧暦8月1日にしていた八朔籠りであろう。
ところで、講のことで思い出されたSさんの話し。
2、3年前になるが、何人かの講の人が寄合いをしていると聞いた。
そのことを話してくれた80歳台の男性を訪ねたらどうか、という。
紹介されたお家は老人ホーム秀華苑に近くにあるという。
村の道を下って見つかったY家。
ご夫婦は忙しく家廻りの雑草刈りの作業中だった。
はじめに伺った奥さんも記憶のない浅間講である。
もしかとすれば神社境内にあった・・・。
それよりも中村垣内の人は「せんげんさん せんげんさん」と云うて、水泳をしていたというのだ。
県内事例にある富士講(浅間講)行事につきものの行為がある。
川の水に足を浸かって杓子で掻いだ水を前方に向けて「ひー、ふー、みー・・・なな、やー」とかける。
いわゆる水垢離の作法であるが・・。
奥さんの話しは子供が垣内ことにしていた水泳である。
水泳といっても、神末川の一部を堰き止めるなどして川の水嵩を増やしたところで泳いでいたという。
小学学童に中学生くらいがしていた場は、中村垣内は御杖神社付近の川。
上村垣内の子どもたちはバス停近くの観音さんやという橋の辺りに堰き止めた。
その奥にソマヤブチの地があった。
下は川合垣内に敷津垣内も。
それぞれでしていたという川遊びである。
刈り込み作業を一時中断してくださった旦那さんも離してくださる。
昔は講があった。
浅間神社は昔に寺があった処にあったそうだが、今は廃寺の浄光寺(じょうこうじ)。
“じょうこうぶち”辺りにあるというそこにあった浅間神社は痕跡もないようだが、付近に墓地があるという。
Yさんがさらに話した講の装束。
記憶にあるのはその浅間神社に参っていた講中は白い装束であったということだ。
50年も60年も前のこと。
講中は誰であったのか知らないが、かつて村長を務めたSさんなら知っているかも、という。
ちなみにY家は6軒で営む愛宕講に属しているという。
2、3カ月に一度は家に集まっているのか、という愛宕講。
火伏の神さんを祀る京都の愛宕神社の参拝は、急な坂道で年寄りに堪えるから今は行っていないそうだ。
村には数組単位で営む伊勢講があった。
今は組ごとに集まることなく、3月初めくらいにバスで伊勢参拝するツアー行程。
参集する人数は40~50人にもなるという。
会費を集めているのでその費用が貯まったときに参拝しているそうだ。
また、村には庚申講もある。
場所は神末川の東岸。
民家裏にあるから表通りでは見えないらしい。
以前に千本搗きを拝見したことがあると話したら、今でもしているという。
石搗き唄を謡う音頭取りは声のえー人がしている。
搗く餅は5臼。
先に話してくれたSさんも石搗き唄があると話してくれたら、再訪したくなってきた。
最後に伺うのは墓地へ行く道沿いにある元村長家。
その道の奥にあった墓地は村の墓地である杣谷霊園であった。
その場に延元三年(1338)造立の腰折れ地蔵があると知ったのは帰宅してからだ。
Yさんが話してくれた廃寺・浄光寺に浅間神社はこの地に建っていたのだろう。
場所がわかって戻る道沿いに見つかったお家は不在だった。
何度か呼び鈴を押してみたが反応がないから下る。
そこですれ違った車は、墓地の方角に向けて登っていった。
もしかと思って、ハンドルをきり返して再び・・。
やはりである。お声をかけたご夫妻がSさんだった。
夫妻ともは講のことは存じていなかったが、もしかとしたら本に・・・。
お爺さんの弟さんが昔に書いた本がある。
その一冊を「これは大事だから」と云って渡されたそうだ。
家探ししてみないとわからないが、見つかれば連絡してあげるという。
朗報が届くように祈りたい・・。
(H30. 6.17 SB932SH撮影)