マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

預かってもらっていた貴重な農用具のブトクスベが戻ってきた

2024年11月20日 07時39分15秒 | 民俗あれこれ
県立民俗博物館の現在は、一切の寄贈を受け取らない。

溢れてきた博物館収蔵庫の中から、選んで展示する物品は、種類からして多くある。

多くあるから、民俗の謎が解けることもある。

尤も、収蔵品だけでは判明できず、他の施設から知恵と情報と物品をも借用するなどして企画展の内容を深め展示をしてきた、ように思える。

と、いうのもときおりであるが、民俗をとらえた写真展示に協力依頼をいただく場合がある。

つい、先日まで展示していた本館内で開催していたひなまつり展示にも写真提供している。

おまけに、自費で収集した民俗行事に関連する祭具も展示してくださった


写真は、若干の補正を許可しているが、私がとらえた映像である。

五條市・南阿田で行われている流し雛の1シーン。

展示物品に、川流しに千代紙でつくったおひなさんを流す竹皮の小舟。

以前に寄贈していた竹皮の小舟である


かつて26行事、それぞれの行事写真を提供したことがある。

テーマ企画展の「移動―ヒト・モノ・カミ―」。

その解説に、神も、仏も、人も、地蔵さんも動く、とある。

その動く、つまり移動において運ぶ役目にオーコや籠も、すべてが民俗。

実は、民俗写真は積極的に集めてこなかった。

あったのは、おそらく収蔵する際に撮っていた記録であろう。

展示の解説補助に、視覚に訴える考えは乏しかったようだ。

学芸課だけでは、収集するまでは至らない。

企画展といえば、民具、用具などの物品。

その道具を使っていた人たちが、生活、暮らしのなかで使ってきた体験しかない。

人、さまざまなあり方に、一様的要素は多様だ。

学芸課から依頼された写真は、記録でもあるし、解説の補助資料として用いられる。

私の記録は写真だけでなく、手で触れることができる民具や用具、祭具などもできる限り収集してきた。

藁製がほとんどであるが、これら祭具は、小正月のトンドで燃やされる。

すべてではないが、そうしたモノは数多い。

もし、燃やすなら、捨てるなら、私が預かり、県立民俗博物館へ。

これまで収蔵されることがなかった物品を提供・寄贈したことがある。

学芸課=民俗博物館への寄与である。

積極的に意識しだした収集時期は、平成20年のころ。

受け取った貴重な祭具。

これらのほとんどが使用済。

何部か、残っているからと、敢えてくださった物品もある。

年次行事に廃棄処分から免れた祭具をもらってきた。

その祭具が、いつ、どこで、どなたから、その祭具の簡単な説明など、後世の人でもわかるように、記入した紙片。

つまり[F(※百均にも売っている”エフ”)]に記載し、物品がわかるように括っておいた。

また、行事の詳細については、エクセルデータに記録し、これらすべて60点余りを、平成24年3月30日のころに寄贈した。

その2年後、平成26年5月3日から6月23日まで。

博物館内・コーナーに展示してくださった


もちろん写真も提供している。

コーナー展の容量が狭いことから、寄贈した一部の用具になったが、急遽、語りもお願いされ6月8日に講演も受けもった。

その後、である。

用具の寄贈は受け入れできない状況になったようだ。

受け入れられない状況であろうが、私の取材活動は、まだまだ続いている。

初めての寄贈から、さらに増え続け、不要になった祭具は、我が家で保管している。

学芸員のMさんに、一時的に預かっていただいた山添村・切幡でいただいた「ブトクスベ」が、我が家に戻ってきた。



見本につくってくださった切幡のTさんから受け取った「ブトクスベ」も
我が家で所蔵継続・・

不知な人からみれば、これらは「ガタクタ」に見えるだろうが、列記とした暮らしの民俗文化財。

そんなモノは金にならん、という人もおられるだろうが、高価、低額の価値判断ではなく、値打ちの可否を問うものでもなく、すべてが後世に伝える文化財である、と思っている。

(R4. 3.27 SB805SH 撮影)

生前整理に見つかった暮らしの民俗②家族の記録写真に母親や祖母が使っていた当時の暮らし用具

2024年11月06日 07時23分58秒 | 民俗あれこれ
撤去に回収のリサイクル業者さんが見つけてくださったお宝ものに家族、母親、祖母に私ら兄弟の記録写真がある。

懐かしい、幼児の時代の実弟次男。

昔に住んでいた大阪空襲に焼け出された市民。

罹災した人たちのために建築された大阪市営住宅の暮らしぶり。

左右にある団体写真は実弟三男が学業していた小学校の団体写真。

これらの写真は、私的ブログの「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」のカテゴリー「望郷」に公開したいが、きっちり調べて文章化する時間の確保がまだまだ・・・先になりそうだ。

いずれは、生前整理シリーズも、また「望郷」や「あれこれ民俗」に、組み込むことになるだろう。

えっ、我が家でもコウジブタがあったんだ。

「田中」の名も書き入れていたコウジブタ(麹蓋)

遠い記憶に遺る餅つき。

お向かいさんの宮本家とともに餅を搗いていた。

モチ米はどうしたのか、その記憶はない。

宮本家が所有する杵と臼。

昔も今も変わらぬ石造りの石臼。

石臼は、花崗岩のような岩石紋様だったろう。

餅つきは宮本家のご主人や長兄が搗いていた、と思う。

そのときの時代に、うちの親父がおったのか、それも記憶にない。

搗いた餅はたぶん分けてもらったかも・・・



座敷に新聞紙を広げて、その場においたコウジブタ

奈良の民俗文化を調査していると、聞き取り話者のみなさん一様にコゥジュウタ(或いはコジュウタ)と呼んでいる

コウジブタは、麹をつくる際に要した道具。

暮らしていくうちに訛ったコゥジュウタ、に・・。

もう一品は、電熱器。



製品プレートの文字は掠れることなく、美鈴な電熱器。

つい、この前まで使っていたかのような汚れもなく、今でも使えそうな電熱器コンロの販売会社は「アイデアル電熱器」。



製造は「松村電熱器製作所」


ネット調べにわかった「アイデアル電熱器」の、現在社名は「アイデアルヒーター工業株式会社」。

なんと創業は大正7年。大阪・玉造で製造・営業していた「松村電機株式会社」。

昭和47年に「松村電熱器製作所」を設立後、平成14年に「アイデアルヒーター工業株式会社」に社名変更、と同時に大阪・日本橋に移転、現在も操業している、と発信していた。

ちなみに同製品だと思われる電熱器コンロは、オークションに見つけたが価格は不明だった。

(R4. 3.22、23 SB805SH 撮影)

生前整理に見つかった暮らしの民俗①少し前の時代の紙幣や切手

2024年11月04日 07時42分47秒 | 民俗あれこれ
この月の3月12日、22日。

生前整理に出かけた大阪・住之江。

大阪市営住宅・大和川団地に長年暮らしてきたおふくろの生前整理。

大方は、リサイクル業者などにお願いし、なにもかもの生活用具を整理し、不用品回収。

洋タンスに和タンス。

整理タンスに食器棚や置き場ボード、テレビ台、棚、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、座卓に多くの雑貨を、撤去、回収してもらった。



その際に、見つかった現金紙幣に切手。

伊藤博文の千円札が一枚はわかるとして、その他の紙幣はなに?

日本国は明らかであるが、私が生まれて暮らしてきた時代より、以前に発行、使用されてきた紙幣。

もしか、明治生まれの大おばあさんのオキョウさんが遺したお札かも・・・

翌日の23日に、旧い紙幣の全容も記録に遺しておこう。



開けてわかった一枚は、日本銀行券の壱円札。

お顔はさてどなたでしょう。

私の時代じゃないからさっぱりわからぬ世界だが、ネット調べでわかった昭和21年3月19日発行のお顔は二宮尊徳


もう1枚の絵柄は羽根を広げたハトポッポ。



その金額は、拾銭紙幣


けっこうあるある、古紙幣のネットオークション。



もう1枚の柄は、梅の花これもまた旧い五銭紙幣も今も有効紙幣のようだだけにネットオークション。

私の代まで古銭遺産にしておこう。

また、郵便切手も見つかった。



切手は、今でも額面扱い。

今でも使える旧い切手。

記念切手なら買取り店に出かけるが、これらの切手は、今でも使える普通切手のようだ。

郵便料が不足の場合に使わせてもらうか、それとも長年にわたってストックブックの仲間入りしようか・・

翌日に広げてわかった昭和52年のお年玉切手は2枚綴りの辰年デザイン

もう一枚のお年玉切手は、昭和48年の梅の木デザインか?

ネットでわかったデザインは、尾形乾山作の色絵土器皿の梅模様


これらは、当選したお年玉年賀状。

複数枚が、当せんしたようだ。

下に並べた3枚は、通常切手として発行されたものだろう。

左一枚は、1964年に発行された10円切手。

ある時代の屏風絵から抽出したと想定したデザインがすごいね。

これもまた、ネット調べだが判明した。

予想していた通りの屏風図絵。

それは切手趣味週間に発行された絵柄は源氏物語絵巻の「宿木(やどりぎ)」


中央は、1968年発行の明治百年記念切手は15円。

海に沈む夕日、それとも朝日なのか?おそらく朝日のだるま型太陽?に帆船を配置した図柄。

ネットにやっと見つかった百年祭マークに帆船は昌平丸
のようだ。

右も同じく1968年発行の明治百年記念切手。

江戸城開城に服した橋を渡る徳川家?を図案したのでは、と思ったが、そうでなかった。

ネットでわかったその図絵は、近代日本歴史画の父と呼ばれていた小堀鞆音(※こぼりともと)作。江戸城・二重橋の状況を描いた「東京御著輦(とうきょうごちゃくれん)」。

明治元年10月13日、西丸正門(※東京二重橋)に入る御行列であり、明治天皇が江戸城に到着した様相を描いた絵画。

このことをもって、事実上東京遷都を終えたことになる歴史的な状況を描いた一枚
あった

これらは、撤去に回収のリサイクル業者さんが見つけてくださった我が家の民俗のお宝もの。

(R4. 3.22、25 SB805SH 撮影)

シュールな情景~そのブーツ靴~

2024年09月22日 07時43分04秒 | 民俗あれこれ
「なぜここに、と云われても、私もわかんなーい!」

ここはあるスーパーの駐車場。

周囲は庭木を植えた造園の場。

緑が優しいが、手入れの行き届かない雑草は、成長し放題。

夕方5時半に目撃したピッカピカにカッコイイブーツ靴。

片足なら放置、両足なら履き替えたものの、気がつかず発進した車に入れ忘れ。

二日後に立ち寄ったシュールな情景~そのブーツ靴~。

なーんもなければ、忘れ物でしょ。

それにしても小雨降る夕方状態に、シュールな映像やな、と思ってシャッターおしていた。

「ハーイ❣」、

FBに公開したシュールな情景~そのブーツ靴~。

知人のコメントが「車に乗るとき靴を履き替えるかたおりますものね。でもいろいろ???になるシュールさにとても惹かれました。人って不思議。」だった。

返答したコメントは「奈良の不思議の一つに数えたい・・・」

(R4. 3. 3 SB805SH 撮影)

小正月習俗から天理の山々にかかる勧請縄調査行脚

2024年09月09日 07時27分10秒 | 民俗あれこれ
今日は、わりあい早い時間帯。

朝から立ち寄り民俗取材をしていた田原本町富本・富都(ふつ)神社。

小正月の1月15日に行われる「枇杷の葉」を添え。



その葉にのせた食は小豆粥。



前日のとんど焼きに派生する燃えた炭を持ち帰る。

その炭は、竈の火点けに用いる。

支度するのは、翌朝の15日。

つまり、小正月に炊いた小豆粥を、地域の、例えばここに田原本町富本に鎮座する富都(ふつ)神社に供える。

炊き上げた小豆粥は、ご家族みなが朝に食べる。

そのような事例は、奈良県内の地域それぞれで行われていたが、徐々に消えていった。



ここ、富本も今や2軒が続けている、と教えてくださったA家に、神社に供えた枇杷の葉のせ小豆粥御供を撮影。

そのお礼と報告をしていた。

時間帯はお昼。

近くにある台湾料理を提供するお店で食事。

さて、午後の時間帯にどこへ行こうか。

15日の小正月行事を中心に、同行していた主に滋賀の民俗をとらえてきた写真家のKさんを時間のある限り、奈良の民俗行事を紹介することにした。

はじめに紹介する地は、県東部の天理市。

東へ、東へ向かった先は天理市の豊井町。

今年もしてはった小正月の日に荒起こしした苗代田のカヤススキ立て。

これまで、と同じように苗代田に正月御供。



小豆粥と蜜柑ものせた正月餅御供。

奈良県内に、おそらく唯一ではと、と推定している豊井町の小正月習俗。

この日に荒起こしした苗代田に立てたカヤススキ。

それだけでなく、小豆粥と蜜柑ものせた正月餅も供えている。

毎年に見ておきたいO家の貴重な民俗行事。

同行していた写真家のKさんも初めて見るあり方、景観に感動していた。

さらに、山間地にも足を運んで、調査する小正月の行事、習俗を案内していく。

次の目的地は、天理市長滝の勧請縄。

小正月行事でなく、二ノ正月はじめの行事だから、架ける場所でも、と思ってやってきたが・・・・・・・・・集落入口あたりにあった。



なぜにあるのか、頭が混乱する。

可能性として考えられることは、コロナ禍によるまん延対策を講じ、座など密集を避け、限られた人たちで、例年とは異なる日程をもって行われたのでは、ないだろうか。

長滝の二ノ正月行事は、例年2月5日に行われる。

正月ドーヤ
に続いてマトウチ、鬼打ち

そして、集落入口にかける勧請縄かけ。

平成22年に訪問。

その一連を取材してきた




入口に見つけた勧請縄をしり目に、そこより奥になる集落に向かう。

広地に車を停めて坂道を登る。



急な坂道だけになんども一服せざるをえない身体状況。

Kさんに見てもらいたかったY家のカラスノモチ

お家の前にある柿の木にぶら下げているだろう。

と、近づいたが、なかった。

以前、来訪したときの話。

正月が明けころになれば、梅の木に移し替えると聞いていた。

ここよりさらに登った山行き。

どこにあるのか、さっぱりわからぬ梅の木は見つからず・・・

後に聞いた話によれば取りやめたもよう。



山の上の方から眺望した長滝の集落。

消防団の火の見櫓が見える。

竈か、お風呂か、どうかわからないが、暮らしに必要な煙が見える。

思わず頭に浮かんだ「高き屋に のぼりて見れば 煙たつ 民の竈は 賑はひにけり」(※新古今和歌集 賀歌 仁徳天皇御歌)

ここにずっと佇むワケにはいかず、先に目指したい次の目的地は、天理市の苣原町(※ちしゃわらちょう)。

一年に2回もかける苣原勧請縄。



年末の12月16日にかける房の植物は松の葉。

年が明けた2月の6日にかける植物は樒(※しきみ若しくはシキビ)の葉。



12月の松は神事ごと。

それに対して2月は樒だから仏事。

つまり神仏習合であった時代を反映する松の葉と樒。

小正月の本日にかけている勧請縄は松葉1種の房飾り。

数年前に訪れた平成25年の2月24日は、松葉に樒の葉。

房飾りは両方ともかけていた。垂らしたロープが2本あるから、明白だ。

その状態を拝見するには、1カ月後の2月6日。

村の都合で、前後するかもしれないが・・・



そして、ここへ来たなら2体の摩崖石仏が拝見できる



スロープ上になっている急坂は旧道。

登ればわかるだろう。



さて、苣原町の勧請縄を拝見したら、ご挨拶しておきたい手造り蒟蒻店がある。

主に、元区長のNさんの奥さんが営業している手造り蒟蒻店。

店がオープンしている日なら、顔だし。



お家に持ち帰るお土産になるようなモノを買ってくる。

この日のお買い物は、手造り蒟蒻。

つくり方に二通りある手造り蒟蒻。

一つは、水酸化カルシウム混ぜた蒟蒻。

もう一つは、木灰のうわずみを使って凝固させた蒟蒻。

なぜか、二つとも200円売り。

帰って、今夜のおかずに刺身蒟蒻だ。



もう一品は、これもまたお家で干してつくっている干し柿。

7個入りの干し柿も、同じく200円。

持ち帰ったら、すぐに消えてしまう美味しい干し柿。

なんでもお家の裏で干し柿みしているそうだ。

苣原町に滞在していた時間は、午後4時。

もうすぐ陽が落ちる。

時間の許す限り、近郊にある勧請縄を拝見しよう。

苣原町から天理ダム。

その手前にバス停がある。

そのバス停は仁興(※にごう)への入口。

仁興と、いえば、かつて仁興城があったとされる地であるが、私の目的は下仁興に、その先にある上仁興。

それぞれ集落入口にかける勧請縄を確認したい。



下仁興の勧請縄は、平成18年の2月9日



上仁興は、平成22年の12月8日に訪れている。



その後も、ときより立ち寄る下・上仁興。

それぞれの年中行事を取材してきた。

そして、この日の勧請縄。

そろそろ陽が沈む時間帯。

午後4時半の房飾りはわかりにくいが、存在がわかればいい。

さぁ、もう一か所。

天理ダムを越え、さらに山深い道を行こう、としたらなんらかの工事のために、道は封鎖していた。

迂回道も考えたが、大回りに時間を喰う。

ここで、小正月習俗から天理の山々にかかる勧請縄調査は断念した。

(R4. 1.15 SB805SH/EOS7D 撮影)

滝本・Y家の暮らし歴史・文化を知る民俗譚2

2024年07月24日 07時44分06秒 | 民俗あれこれ
サフランの香りに沸騰した天理市滝本

話題は、再び、地下倉庫に戻ってY家が所有する民俗の用具などを紹介してもらう。

昭和19年から20年の期間。

そのころは、13歳から14歳のYさん。

天理女学校時代に作業をしていた、という柳本飛行場の整地。

そこでの整地作業に、「さしいなう」をしていた、という。

えっ、「さしいなう」とは、なんだ?

Yさんが、いうには”さし荷担う“である。

つまり”さし”で”荷なう”こと。

二人で担ぐモッコ運び。

整地に出てくるゴロ石を、モッコに入れてオーコで担ぐ。

前に一人、後ろに一人。

二人で担いでゴロ石を運ぶ。

頭ぐらいの石をゴロ石、といい、16個ほどの石をモッコに入れて運ぶ女学生。

授業の代わり、週に1度や2度目は修身として習っていたそうだ。

モッコは2種類。

縄編みと稲藁編み。

数本の稲藁を掴んで放り込む。

ラッパのような口に数本の稲わらを入れて手動の足踏み式機械の縄綯い機。

その縄綯い機で、長い稲わら縄をつくっていく


なお、電動式縄綯い機に移ったのは、戦後復興の時代、私が生まれた1951年前後になってからだ。

その電動式縄綯い機でさえ、農作業から消えた。

1970年代と聞くから、大阪万国博覧会を境に営み、暮らしがどっと変化した。

ちなみに県立民俗博物館には、こういった縄綯い機が屋外展示をしている。

古民家の正面からでは見えない裏にある


さて、モッコで運んだゴロ石。

その石は、竹で編んだ“スダテ”のような場に収め、コンクリートを流して滑走路に固める。

その固めに、鉄筋はない。

鉄は、どんなものでも軍に集められた。

鐘楼まで軍に没収された鉄のない時代に、代用したのが竹である。

日本は、石灰を産出する国だから、コンクリートは製造できたが、鉄は軍備。

不足の時代に工夫した代用竹。

だから、“鉄筋コンクリート”でなく“チッキン(※竹筋)コンクリート”と呼んでいた、と笑うが、現在はSDGsの時代


「放置竹林の増加に伴い、土砂災害が多発するなどの“竹害”を解決できるのに加えて、強度や耐久性に優れ、環境にやさしい建築材を開発することでSDGsにも貢献できるとして、竹筋に着目した」事業が存在している。

天井を見上げ、あれが、“チッキンコンクリート”や。



そこに見た竹で編んだ“スダテ”の電灯。

そっくり似ではないが、竹編みの仕組みを観て、思い出したそうだ。

また、稲藁は”スサ”と、呼び、土壁つくりに。

山に出かけて採取した赤土と練り混ぜてつくった土。

その土壁つくりに必要な竹。

今風の家でなく、昔の家屋はみな土壁。

我が家もそうであるが、内部を見てもらったらわかるように、竹を編んだところに土壁塗り。

”スダテ”は、魚を追い込んで手つかみ漁をするときの竹で編んだ簀。

その生け簀は、簾と同じような道具


大和郡山市内に多くみられる金魚の養魚場がある。

出荷の際に金魚を追い込む道具もまた生け簀である


女学生も動員していた整地作業。

昭和19年の12月7日の午後1時36分に発生した南海沖大地震(後年に改め昭和東南海地震)

地震のときは天理女学校・桜井女学校と同じ学舎内で遭遇した。

その日は、たまたま女学校にいた。

大きな揺れに、すぐさま飛び出した場は運動場。

揺れは、体育館だけが収まっても横揺れにガッシャ、ガッシャ音がした。

その女学校の門は、今も残っている。

小学校は6年生、4月からは女学校の1年入学。

13歳の子どもは、5年生になった昭和24年に天理女学校を卒業した。

寒いから毛糸にミトンで編んでつくった。

軍手が手に入らん時代。

上は女学生だが、下はモンペを着ていた。

女子制服も作っていたから、今でも裁縫が達者。

戦時下の暮らしに、大地震を体感、記憶も話してくれた。

そのころに食べていた手造りのおやつ。

サツマイモを潰し、餡を混ぜた。

サツマイモ・餡は溶いた小麦粉に挟んでつくっていたしきしき焼き


鉄製のほうらくで焼いていた”しきしき焼き”。

山添村は、それを”しりしり焼き”と呼んでいたらしい。

12月30日は、正月の餅搗き。

知り合いを呼び、30人もの人たちが機械式餅搗き。

仕上げに杵と臼で搗いた丸餅の正月の餅。

ネコモチを何本かつくって、コウジュウタ(※コウジブタ)詰め。

乾いてから切り、キリモチにしていた

豆腐に大根、里芋に、餅もいれた雑煮。

雑煮の餅は、一旦取り出して、皿に移す。

その皿に盛っていたキナコを塗して食べるキナコモチ。

テレビ番組にでも取り上げられる奈良特有のキナコモチ雑煮
であるが、全県におよぶものではなかったようだ。

正月雑煮は、オトコが台所に立って調理していた。

初水は若水(※わかみず)を汲んで、その若水で雑煮を炊いた。

大晦日の夜の里芋は、頭芋(※かしらいも)を食べる。

お椀に入れた煮もの。これも大晦日の夜に食べる。

正月三が日、その年の厄年の人がにらみ鯛を食べる。

食べる、と云っても睨むだけだからにらみ鯛。

マツリの夜宮にカケダイをしていたかも・・と

マツリにカケダイの登場は極めて珍しい。

以前、拝見した民家でしていたダイコクさんとエビスさんに供えたカケダイ

また、奥大和にあたる川上村・高原十二社神社の夏季大祭のほか、田原本町蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社摂社に恵比須社の三夜待ちに拝見したことがあるカケダイ。

それら3例と、ここ天理の長滝と一致するのか、どうか確信がもてない。

トーヤの膳にはモッソがあった。

鯛やこんにゃく、豆腐、里芋にくるみの餡。

芋を包み込むようにくるんでいるから“くるみの芋餅”も膳にあった。

膳の食は、ヒノキの葉に盛っていたそうだ。

そうそう、モッソをつくる道具がここにある、と棚から下してくれたマツリの道具。



モッソつくりの円筒形のワッカが3種類。

虫喰いもある祭具に年輪、滝本の歴史の深さを知る。

大小三つのワッカ。



その大きさに飯を詰める祭具である。

詰めた飯を取り出した、ソレがモッソ飯。

そもそも”モッソ”と、呼ぶ道具は、地域によってさまざま



ここ滝本では筒型だが、四方系の枡型もあれば、バケツのような円錐型もある。

”モッソ”は、これら飯を詰める道具。

詰めてできあがった飯を”モッソ飯”と、呼ぶ。

長滝では、3段の飯を詰めてつくったモッソ飯を中央に、そして餅は四隅に配置する。

前月の9月12日に訪れた際に、聞いていた長滝の宮座

Y家が、トーヤに務めたのが最後に村座になった。

20年前に記録したビデオに最後の宮座を収録していた。

神饌御供を供えていた祭具、道具は燃やそうとする意見もあったが、大切な道具だけにY家が預かり残した“モッソ”がこれだ。

宮座は解散。

その行事の仕組みも解放された。

また、また箱から出てきた用具。

一目でわかった高枕。



明治生まれの私の祖母もしていた高枕は、台形よりもっと高い高枕だった。

ただ、Y家のような綺麗なものではなく、頭を支える部分はほとんど木材。

頭を支える布はもっと薄かったような気がする。

子どものころ、おばぁちゃん、ちょっと使わして、と言って枕にしたが、子供でも肩が凝ってしまうほどの高さだったことを覚えている。

家の高枕は、おそらく箱枕。

箱に二つの高枕がセットされているから「夫婦枕」




しかも家紋もあることから、嫁入り道具として持ち込まれたのであろう。

ときおり、オークションやメルカリに見つかる高枕。

価格帯は、そんなに高くない


そして、またまた見つかったY家の掘り出し物。

まるで、発掘調査をしているような気がしてきた銅鏡である。



古式鏡でなく、時代的には江戸時代。

左側の柄鏡にあった刻印は「藤原光長」の名が・・・



銘に「藤原光長」があった柄鏡は、以前にも見たことがある。

稲刈りの〆に行われる農家さんの習俗。

大和郡山市・田中町に暮らすM夫妻にお願いし、カマ納めのカリヌケを取材していたときだ。

お家に、柄鏡があると教えくださり、記録に撮らせてもらった


そのうちの一枚にあった刻印銘記が「藤原光長」。

三つ葉葵の紋がある柄鏡には驚いた。

「藤原光長」は、江戸時代の中期から後期にかけての鏡師。

ここY家が所蔵していた銅鏡の文様に松の木を描いている。

中央に刀の鍔のような紋様がある。

これもネットオークションに多くみられる「藤原光長」記銘

レファレンス協同データベースによれば、「広瀬都巽『和鏡の研究』(角川書店、1978年再版)P159~の“江戸時代の鏡工”中に“鏡師銘記集”として鏡師が紹介されている。そこに同名があり、鏡師であったようであるが詳細はわからない。インターネットにて“鏡師、藤原光長”で検索してみると、江戸時代中期以降~大正頃に“光長”を襲名していた鏡師のようである。鏡の作製数も多く、ネットでオークションに出されていたりもする」と、あった。

柄鏡はもう一枚ある。

右手の柄鏡も銅鏡であろう。

左の「藤原光長」記銘の柄鏡より大きい。

この柄鏡にも刻印があり、「天下一田中伊賀守」記銘。



ただ、紋様は皇室の紋章として知られる16菊花弁。

いわゆる菊の御紋の菊花紋章であるが・・・

江戸時代、幕府により厳しく使用が制限された葵紋とは対照的に、菊花紋の使用は自由とされたために、一般庶民にも浸透し、菊花の図案を用いた和菓子や仏具など、ほか飾り金具にも用いられ、各地に広まった菊花紋章。

銘に「天下一田中伊賀守」もまた、鏡師。



鋳物師や、ここ鏡師にも”天下一”を称した作品を製作する人たちがいる。

山梨県立図書館・レファレンス事例集によれば「柄鏡は、室町時代の末期から製作されていたようですが、文字入り鏡は主として江戸時代後期の所産です。桃山時代、織田信長の手工芸者の生産意欲の高揚促進を目的とした政策の一つで ある“天下一”の称号公許制度により、鏡に“天下一”の銘が施されるようになりました。江戸時代には鏡師全員といっても過言でないほど使用するようになったため、天和二年(1682)に、“天下一”の使用禁止令が出されました。そこで、“天下一”の代わりに、石見守、肥前守といった受領国名を使用し始めました。江戸後期になると、作者銘は“橋本肥後守政幸”というように、姓・守名・名乗という長いものが好んで使用されました」と、ある。

そうであれば、Y家が所有する「天下一田中伊賀守」柄鏡は、使用禁止令が出される前。

つまり、天和二年(1682)以前に製作した、と推定される逸品。

織田信長の時代にはじまった、とされる工人に「天下一」の称号。

鏡師だけでなく茶釜を作る釜師や、鉦などを製作する鋳物師、漆工品の塗師{(ぬし)にも付与されたという「天下一」。


旧いものであるには違いない。

ただ、Y家が所有する「天下一田中伊賀守」柄鏡に、三文字の墨書が見られる。

後年において、どなたかわからないが、墨で印しを入れた「丼イシ?」は何らかの暗号か?

「天下一」の称号はもう一枚ある。

柄鏡でなく、見た目では札型の小型手鏡。



たぶんにたわわに実った葡萄をあしらった紋様に、またもや天下一の称号の「天下一松村因幡守」記銘。

年号でもあればいいのだが・・・

続いて取り出された一品。



見慣れない道具だが、柄鏡と同じ場所に保管していたことから、柄鏡を見ながら、お化粧をするおはぐろ道具。



当初は、仏具では、と思っていたが、柄鏡合わせにお化粧道具のおはぐろ一式であった。

次に見る道具は、ホッカイ(※地域によっては、ホッカイが濁ったボッカイ)。

ぼっかい事例を拝見した地区に吉野町・吉野山口神社がある。

ここ山口のほか、香束(こうそく)、西谷、平尾、佐東、峯寺の六カ大字からもちこんだ「ぼっかい」によって運ばれた神饌餅


ちなみにホッカイを充てる漢字は「行器」である。



Y家が所有する「ホンホッカイ」は、4本の足がある。

嫁入りの際、実家の両親或いは付き人が担いで婚家に運ぶ「ホンホッカイ」の中身は、目出度い赤飯だった。

赤飯は、婚家の隣近所に配るが、その際に配る容器は各家が使っている重箱。

一方、丸みを帯びたホッカイは、これも目出度い紅白饅頭を詰めていることから「マンジュウホッカイ」と呼ぶ



「マンジュウホッカイ」は婚姻から一週間、或いは一か月後に、実家の両親が「娘がこれからよろしゅうに・・」、と持ってくる、と話してくれた。

なお、「ホンホッカイ」に「マンジュウホッカイ」は、それぞれに一対ずつである。

この日も、また長居してしまった天理市滝本に住むY家の民俗譚。

午後2時から5時まで。



先に紹介してくださったサフランを含め、およそ3時間にわたるY家の暮らし民俗を聞き取りさせていただいた。

車に積んでもって帰ってや、といわれて受け取った雌蕊つきの4株のサフランに、家の実成りだから、と富有柿も、椎茸も受け取った。

同行取材していた写真家のKさんと、分け分け。



この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第だ。

(R3.10.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

天理滝本町・Y家の民俗譚

2024年07月10日 07時48分33秒 | 民俗あれこれ
出合いはこの日の午後3時。

場所は天理市滝本町。

出逢う地に目印を決めておいた。

そこは、上の地蔵がある地


連絡してくださったのは、知人の写真家Kさん。



数日前、Kさんが、石仏地蔵の上の地蔵を撮っていたときである。

ご近所に、たぶんお住いでは、と推定された女性がいろいろ話してくれた。

戦中前後の話題かもしれませんが、あらためて当家に行くことになり、お誘いの同行を願われた。

おそらく、その女性が伝えたい過去に体験された歴史ではないだろうか。

過去、暮らしてきた民俗話題の可能性がありそうな取材に同行させてもらった。

どうぞ、あがってください、と玄関の間。



そこで語ってくださった女性はYさん。

生まれ育った築130年の古民家暮らし。

明治28年の築造。

応接の間にしたリフォームしたその2階はかつて女中さんが住み込んでいた。



おじいさんが集めた引き札に手造りした鹿の麦藁細工。

来年に行われる奈良県立民俗博館のイベント・ワークショップに参加する、という。

その話題に、県立民俗博物館・学芸員のお二人の名前が出てきて、びっくらぽん。

後日、お二人に確認をとったらお家に伺い、数々の民俗資料を・・・

腰を抜かすほど驚かしてくれた昭和6年生まれのYさん。

お喋りは止まらず、メモを取るのもたいへんになってきた鹿の麦藁細工。



材に小麦は黒くなるから使用不可。

麦は照りがあるから作品としても成り立つ。

テーブルに置いた数十頁の原稿用紙。

記憶、体験を書留めた資料。

腰痛が酷くなってきたから稲作は息子にと指導したが、水を入れた田んぼを見にいかへんから、稲地が乾いてもうて・・・

平成10年、室生寺五重塔を破壊した台風7号による影響に持ち山の樹木が全壊。

確かに、奈良県全域に襲いかかった平成10年9月22日に上陸した台風7号の脅威。

奈良県地方気象台によれば、午前6時半に暴風警報。その約3時間後、の午前9時50分には、全県に大雨・洪水警報を発表。風雨が激しくなってきたのは、台風の中心が紀伊水道に達したころからで、雨のピークは台風の中心が県内を通過する前、風のピークは通過する前後にやってきた。各地の雨量は、22日午後4時の時点で大台ケ原が565ミリ。上北山村は354ミリ。十津川村の玉置山で274ミリ、大宇陀町は85ミリ。奈良市は62ミリだった」。

また「風速は、22日の午後3時に観測した数値は、最大風速が南南西の風。秒速13.1メートル。最大瞬間風速は、西の風が37.6メートル(※午後3時30分に計測)。この風速は、昭和36年9月に発生した第二室戸台風に次ぐ3番目の強風だった


そのころの私は、朝から勤務していた事務所に居た。

相方、課長のY氏とともに、すべての部下を早期に帰宅させ、外の荒れぐらいを見ていた。

課長、あの旗はもうじきぶっ飛ぶのでは、と話していたとき。

まさに、その通りの事態に、我々も腰をあげて帰宅の途に就いた。

地下鉄御堂筋は、特に問題もなく近鉄難波に着いた。

さて、ここからは、近鉄奈良線に乗り換え。

生駒山を越え。トンネルを抜けたそこは奈良県の生駒駅。

こりゃぁ、どこまでいけるやろか。

乗換駅の西大寺駅について発令された近鉄橿原線が運行停止。

情報は、遅々としてわからなかったが、近鉄橿原線の田原本町辺りに立っていた、

架線を支える鉄柱が総倒れ。

パンタグラフに電気が送られず、列車は立ち往生。

つまり西大寺駅で帰宅者も立ち往生していた時間帯。

後に聞いた隣に住むご主人。

西大寺駅から徒歩で帰ってきた、という。

息子たち二人は、かーさんを待っていた。

外を見ていた二人が、あっ、飛んだと叫んだようだ。

そう、我が家の駐車場の屋根がぶっ飛んだのだ。

怖くて、怖くて怯えていた長男と次男は、まだ小学生のころに見た光景は、今も記憶に残っているようだ。

私は、といえば、順番にめぐってきたタクシー乗車で帰路に就いた。

そのことはともかく、ここ天理市滝本町も、また多くの木々が倒木状態。

偲びないYさんは、独りでこなしたという、檜、杉に桜樹の植林。



その山はどこですかと聞けば、蔵にあったという明治24年12月の『山邊郡山邊村瀧本官有地取調實測全図 地主総代‥云々』を広げてくれた。



破損、甚だしかった地測図を綺麗に整備し、屏風にした、と話すYさん。



表具の勉強をしていたから、自分一人で屏風を作ったというから、これもまた、驚きもんのYさんの能力がすごい。





昔に着ていた木綿絣の着物は、捨てるには偲びないと、思い通りに仕立て直した孫服が着る洋服。



絣の柄、紋様が今も似合う、とわかって喜んで製作中。



青い柄を見て、思わずもんぺ向きだ、と思った。

木綿絣の着衣から、ふと尋ねた“ぶとくすべ”。

それなら、つい最近になって新たに作った、という。

地下の蔵にたしかあったと思うから探してみようってことで・・・

蔵から出てきた“ぶとくすべ”は、真ん中に心棒を据えて、綿生地をぐるぐる巻き。



藁紐をしっかり縛ってできあがり。

腰バンドに据えて使っていた、という形は、先だって提供した山添村切幡のT家とほぼ同じ

新しい綿生地で作ったおむつ。

使い古したおむつは再生利用に“ぶとくすべ”と成す。



そういうことでありましょう。

そうそう、地下蔵に陶製のアイロンを手にしたYさん。

県立民俗博物館・学芸員のお二人も興味をもっていましたね、と伝えてくれた。

また、来年春になるのかどうかわからないが、リニューアルした県立民俗博物館の倉庫が整備されたら、御殿雛を運んでもらいますねん、と・・いっていたが・・

民俗話題に道具も豊富なY家。



玄関に多種類の護符。

門屋に唐臼。



おまけにパエリヤ用途に雌蕊だけを摘むサフランをどっさり栽培しているY家。

ここにもある、と示してくれたウスヒキ道具のカラウス



今でも使えそうな綺麗さにうっとり見ていた。

たっぷり2時間越え。

次の機会もありそうな雰囲気を後にして場を離れた。



後日、県立民俗博物館・学芸員のお二人に、今日出会ったYさんがつくってくれた心棒巻き腰バンド“ぶとくすべ”情報を伝えた。

学芸員のMさんからのコメントは「ええぇ!それはびっくらぽんです。戦時下のくらし展での体験談、パン焼き器の持ち主がYさんでした。もんぺは一着。学芸員のTさんが、ありがたくいただいてましたが、”ブトクスベ“の話はしなかったですね…。ありがとうございます!」。

「そう、パン焼き器のことも話してくれて、その展示見てきましたよ、と伝えたら喜んではりました」。

その返信コメントが「ありがとうございます。それは良かったです!麦をいただいたので、県立大和民俗公園の一角。綿畑に蒔いて育て、来年の麦藁でつくる鹿のワークショップをする計画です。Yさんに応えるためにも整理作業を頑張ろうと改めて思いました」。

「なるほど、麦で繋がったご縁に、“ぶとくすべ”までくっついてきた❣。こりゃぁ、胸がワクワクしますね」。

その返信コメントが「いろんなご縁が繋がっていくのは素晴らしいです。麦よりも猪が怖いですが、大切に育てないと・・」。

荒らす猪対策は、シシ脅しに“ぶとくすべ”を・・・

Tさんからの返信コメント。

「田中さん、嬉しい&興味深いご連絡をありがとうございます☺️まさか、Yさんを介して繋がるとは、驚きです…!実は、先日の戦争の展示の中で体験談を伺ったのもYさんです。また、わたしはこのあいだもんぺをいただきました。」に返したコメント。

「ほんと、まさか、まさかのご縁繋がり。お名前正しくはKさんでしたか。ありがとうございます。
山中家で試着した、もんぺ着衣はぴったりフイットですね。農家さんのように見え、現代的洋装は、採寸してもらって縫いはったんやろか?」

「かせや」の屋号で商売していた質屋業。

Y家は都祁白石が里。

何代も前の人が白石から、滝本に移ってきた、という。

Yさんが、突然に謳いだした詞章。

「友田、白石ごばんと おもてなぜに ウラ毛ができんやろ」が口に出る。

友田、白石は旧都祁村の盆地部。

気候の上でも平たんより気温が低い土地。

二毛作なら麦に米。

表に稲なら、裏に麦を栽培するが、寒い土地だけに麦の栽培は不向きだったようで、そのことを揶揄した「ウラ毛では麦もできんやろ」ということのようだ。

滝本町に神社は三社もある。

ハリノウ、サカグチは桃ノ尾村。

カケハシ(梯/熊橋)に鎮座する石上神社だけを神社庁に登記したそうだ。

ここ下滝本に、今も神社がある。

桃尾ノ瀧に行く道中に見る石上神社がそれにあたり、下滝本は滝本下氏神社と滝本下神社社殿の2社。

古くから伝わる宮座があったが、村座に移した。

Y家がトーヤに務めたのが最後に村座になった。

20年前に記録したビデオに最後の宮座を収録したそうだ。

神饌御供を供えていた祭具、道具は燃やす意見もあったが、大切な道具だけにY家が残した、という。

かつてはモッソがあった。

五升餅にモッソ。

これらは檜の葉に乗せて供えた。

また、サトイモに茶大豆を擦ったくるみで塗したクルミモチというから亥の子のときであろう。

宮座行事は10月14日のヨミヤに継承されたが質素になった。

氏神社はスガ神社。

急な石段があるようだが苔生えに滑るらしく、御供下げしたおさがりをもらうようだ。

(R3. 9.12 SB805SH/EOS7D 撮影)

正月三日にご一緒した車にしめ縄

2024年06月25日 07時53分24秒 | 民俗あれこれ
大晦日から正月三が日を往来してきた町の車通り。

よほどのことがない限り、見ることが極端に少なくなった愛車にかけるしめ縄。

この日、取材に同行した写真家Kさん。

取材地に合流した際に見た愛車に、お飾りのしめ縄。

久しぶりに拝見した愛車のしめ縄。

奇しくも令和2年の1月3日


まったく同じ3日に拝見した愛車のフロントグリルにかけたしめ縄。

令和2年も知人。

今日も、また知人にお願いして撮らせてもらった。

最近は、滅多に見ることのない車のしめ縄だけに、貴重な1枚を撮らせてもらった。

お正月の風物詩だった車のしめ縄。

生活文化の考え方が違ってくれば、この先にも見ることはないだろう。

神戸新聞の記事によれば、徐々に廃れていった時代は1990年代(平成2年あたり)とあるが、もっと早い段階では・・。

減少傾向は昭和の末期だ、と推測したが、どうだろう。

(R4. 1. 3 SB805SH 撮影)

しめ飾りにでっかく重たい柑橘は

2024年05月21日 07時18分45秒 | 民俗あれこれ
正月前にしめ飾りを調えていないと、どうも落ち着かない。

今年もまた、藁造り名人にもらった長い尾をもつ長寿の亀も附属するしめ飾りを飾った。

新しいドアになってからは、飾りを吊るフックを取り付けられなくなった。

それを打開する方法は強力粘着性のあるフックでないと・・。

数年間、そうしてきたが、今回は吊るしたとたんに落下した。

接着効果が薄れたフックもろとも落下した。

玄関ドアにキズを付けないようにするにはどうしたらいいのか。

思案して閃いた針金利用。

ドアの天を境に外、内にバランスをとる針金。

外側にある針金の先をフック状態に曲げる。

ここに大きくて重たい柑橘を取り付けたしめ飾りにバランスを取るには、内側にも同量の重量をもつ何かが要る。

それは難しい。

ここで考えた荒業。

見かけはもひとつだが、しめ飾りがちゃんと玄関に落ち着けば、それでいいのだ。

荒業は2カ所に貼った強力な接着性をもつガムテープがいい。

ドアの天にある針金が動かないようにガムテープで固定。

もう1カ所は、内側にある針金の先端を動かないよう、そして目立たない場所に固定した。

外、つまり玄関ドアの表から見れば、違和感をまったく感じさせない、上々の出来具合。

それにしても今年の柑橘はあまりにもでっかい。

昨今、一般市場に出回っている柑橘類は、橙代わりの葉付きのコミカン(小蜜柑)。

橙はだいだい。充てる漢字は代々。

つまり代々、末裔の代まで紡ぐ子孫繁栄を意味する橙。

本来の目出たい謂れから外れた蜜柑をしめ縄に飾る家の多いこと。

我が家もそうだった。

コダイダイ(小橙)は、どこにでも売っているわけではない。

無いから代用、である。

かーさんが、売り子さんから勧められて買ってきた柑橘。

蜜柑と違うね、というが確信はもてない。

翌年の小正月に下ろしたしめ飾り。

その後も、ずっと炊事場に置いていた柑橘。

包丁で切った中身を食べてみよう。

食べてみたらはっきりする。

皮が固い柑橘。



包丁を入れた瞬間にわかったが・・・。

1片を口にして食べたら・・・・・すっぱーーい。

まさに橙の味である


搾ってなんかの料理に使いたくなってきた。

橙代わりの小蜜柑の時代にいつしか知らず知らずのうちに、注連縄売り場市場に蔓延っていたウラジロ(裏白)のの代替。

代わりに使われていたのは近似種のコシダ(小羊歯)である
、と教わった。

生産地、生産者の後継者不足に採算も合わなくなるなど、年々が問題化。

いずれは中国産植物の台頭、輸入製品にすべて切り替わる
のでは、と危惧している。

(R3.12.29 SB805SH 撮影)
(R4. 1.27 SB805SH 撮影)

菟田野古市場通りの米穀燃料店・神棚に張りだし造りの御供棚

2024年02月08日 07時35分18秒 | 民俗あれこれ
数年前の平成28年の6月12日。

取材地は桜井市の笠。

地区の行事に「テンノオイシキ」があった


漢字で表記すれば「(※牛頭」天王社の会式」。

神社行事であるが、仏式用語の会式。

民俗行事に拝見したかった藁つくりのカタチ。

編んだ藁は4種類。

一足半の牛の藁草履に人が履くような藁草履。

その藁草履は三つのカタチ。

子どもの藁草履に、女の藁草履。

さらに男の藁草履。

他地区では見られない藁つくりのカタチ。

それらすべてをつくり、会式に奉納された男性。

お家にあがりや、と云われて入った室内に見た神棚。

神棚の前、少し離して設えた板一枚の御供棚。

はじめて拝見した暮らしの民俗


いずれもブログに公開した貴重なあり方。

妻の実家にも同じような形態の神棚・御供棚がある、と伝えてくれた知人のNさん。

その後も、同様の事例も見つかった。

地区は奈良市中山町。

ご自宅拝見までは至らなかったが、男性が話してくれたそのカタチをイラスト化して、見てもらったら、これだ、といってくれた箱型のような御供棚


天井から1本の吊り棒があった。

神棚とは別に設えた箱型御供棚は、ボルト止めした鉄製の吊り仕様。

吊り位置は中心だからくるくる廻る造り。

その事例と、よく似ている御供棚は、大和郡山市雑穀町にあった。

お家行事のサンニンサン取材の際に、話してくださったかつての形状。

当時をとらえた写真も拝見した。

これら、仕様の違いはあるが、神棚から少し離した場に設えた別途構造の、いわば張りだし造りの御供棚。

お家のあり方だけに、事例はどれほどあるのか、それさえさっぱりわからぬ暮らしの民俗。

以前、妻の生家にある、と伝えてくれた高取町に暮らすNさんから、10月はじめのころにメールをいただいた。

「ブログで神棚のことを書かれていましたね。いつでも来てください、といいながら中々実現してません。だいたいは、毎月1回に家内の実家に母親のご機嫌伺いに行っています。ほとんどが日曜日の訪問ですが、今度の訪問時に来られますか?今のところ、24日の午後が有力です・・・」。

続けて「第三日曜日は、いつも宇太水分神社の秋祭りでお渡りや太鼓台が出て賑やかなのですが、今年もコロナで、神事のみの祭事は17日になるようです。ですから、訪問日を1週間延ばそうか、と家内と相談しています」と、あった。

調整した来訪日は10月24日の午後。

歴史も文化も記載されている「まちづくりマップ 菟田野古市場」裏面に生家が載っている、という地図を確認して出かけた。

その通りも、宇陀市菟田野古市場の地に鎮座する宇太水分神社も存じている。

平成17年の2月7日、ずいぶん前になるが、宮司お一人で祭礼をしていた年頭に豊作祈願する御田の祈年祭を拝見していた

本日の行先は、地元宇陀の地に商売されていた米穀燃料店。

ご挨拶に伺った米穀燃料店は、知人のNさんの妻の生家。

店主は、分家四代目の昭和33年生まれのYさん。

N妻の弟さんが継いできた米穀燃料店。

本家は、当家より西に建つ3階建ての家屋。

Nさんは、数年前から神棚に張りだし御供棚を私に見せたい、と伝えていた築造140年の建屋。

大正時代の建屋にある、と云われて案内された座敷。

まさに、これだ。



正面から拝礼、拝まさせていただいた神棚。

その前に設えた御供棚。



2段構造が見える正面から、左から寄って撮った神棚と御供棚の配置関係。

お燈明などを置く張りだし型の御供棚は珍しく貴重な神具。



一歩、下がって底面を拝見する。

神棚と御供棚との間隔がよくわかる。

天井から下げる支柱は、左右にそれぞれに一本ずつ。

天板がある御供棚の構造は桜井市の笠で拝見したカタチと同じようだ。

出入口から入室したその部屋は、かつての帳場であろう。

商売している感がある昔ながらの雰囲気を醸し出す。

帰り際にもらった実成りの柿は、N家で採れた柿。

自宅の畑に育つ甘柿は2年おきの実成りに収穫する。



お土産にいただいた甘柿。

数が多くて、ご近所さんにおすそ分けした。

(R3.10.24 SB805SH 撮影)