今年、平成31年2月9日に訪れた奈良市旧都祁村の荻町。
子どもの涅槃講調査の際にお会いした氏子総代のIさんの許可を得て拝見していた荻坐神社の祭典行事表に7月7日に近い日曜日は「天王行者祭」とあった。
上荻が当番大字。
場所は上荻にある天王社であろうと待っていた。
午後1時と書いてあった行事表であるが、その時間が訪れても誰一人として来られなかった。
祭典場が違ったのか、それとも都合によって前後する日曜日に移されたのか・・。
「天王行者祭」の名がある行事に天王社は外せないだろうと思うが、“行者”も併せもつ行事を知りたくて待っていたが・・。
草刈りもなくひっそりと佇んでいた天王社境内に山乃神の印しがある。
鮮やかな朱の色で彩色している山乃神の鳥居に目がいく。
苔むしていることもない山乃神に行事はあるのだろうか。
ちなみに現在は、本堂が壊れた関係に建て替え工事中の本堂。
総代の話によれば安置する本尊は観音立像。
で、あるならお堂は観音堂になろうと思うが・・。
この年の平成31年2月10日に取材した下荻のネハンコ行事。
本来なら涅槃図は、安穏寺本堂に掲げるのだが・・。
仕方なくであるが、本堂代わりに設営した仮安置所に納めて実施された。
神社から下ったところに上荻集会所がある。
付近の道路に停車していた十数台の軽トラ荷台に草刈り機や鎌があった。
いずれの荷台にもそうあるから、この日は道作りだと思った。
集会所内に集まっていた人たち。
なにやら会議をされているように思えたので声かけをせずに場を離れようとした、そのときに解散された。
順次、軽トラに乗車して離れる上荻の人たち。
一人の男性に声をかけた。
事情を話してわかったその方は前年の一年間、村神主を務めたというIさん。
2月9日に訪れたときのことを兄から聞いていると・・。
まさかの出会いに伺った天王行者祭。
道作りは午後も作業があり、それを終えてから代表がお供えをするだけになっていると・・。
前年に村神主を務めたIさんは、上荻の天王社に参ることはなかった、というから、荻坐神社で行われる行事のように思えてきた。
ところで、天王社境内にある山乃神行事について尋ねたら、神社下に住むYさんが詳しいという。
不在なら仕方がないが、尋ねてみる価値があるように思えたYさん。
Iさんの紹介でこちらに・・と山乃神のことについて教えを乞う。
話してくれたのはずいぶん前のことであった。
山乃神がある場にサルスベリの木が生えている。
その木に山行き道具のナタやカマ、ノコギリなどを供えていた、という。
山行きする人は限られていた山の仕事をする人たち。
個々に参って山に行く。
製材業の人でなく山へ出かけて伐採する人たちである。
マサカリもあったし、竹の筒にお神酒を入れてお米も供えていたそうだ。
もしかとして、お神酒入れの竹筒は背中合わせに一枚皮で繋がる、このような形でしょうかと、図示したら、薄れているが、そんな形だったように思える、と・・。
昭和40年の初めまではしていた山行きのお供え。
中学生からはじめて二十歳のころまでしていた山行き。
割り木を焼く炭窯も作っていた。
昭和40年代に燃料革命が起きた。
窯で焼いた割り木の炭は燃料。
その後は石炭とか練炭時代。やがてプロパンガスの普及とともに炭焼き窯がほぼ全村から消えた。
山添村に炭焼き窯をもっていた知人がいた。
趣味の範囲でしていた、という知人。
やがて廃した。
窯で焼いて作る炭は網焼きに最適。
肉に鰻、焼鳥くらいしかない需要になんとかやっていたが、次第に高齢化。
そういうことで廃したようだ。
最盛期は荻でも4、5軒でしていた窯焼き。
手入れをしていなかったら途端に崩れる。
窯は火を焚いておけば崩れることはないが、放置しておけば湿り気によって屋根辺りから落ちる、という。
炭焼き窯をつくることを“カマウチ”と呼ぶ。
作り終えたらアカメシ(赤飯)を炊いて祝っていた。
“カマウチ”に必須の材料は赤土。
これがなければ作れない。
炭焼き窯の厚さは10cmにもなるから大量の赤土が要る。
窯の周囲に槌で叩いて固める。
何回もくるくる周回して打つ赤土を思い出してくださった。
地域差はあるが、窯の製造法を載せているブログ「陸奥新報の木炭づくりの今昔」がある。
ちなみに上荻の天王社はある時代に荻坐神社に合祀したそうだ。
天王社のご神体は荻坐神社。
ここ荻町は上荻、中荻、下荻それぞれに神社があったが、それら纏めて合祀した、という。
そういうことから天王社は上荻にあるが、神事は荻坐神社で行われている、ということだ。
村行事に移したことから敬神講を組織化したという。
役行者像も奉っているが、大々的な行事でなく上荻地区の道作りも兼ねる日であった。
状況がわかったところで、下荻に足を伸ばした。
今年の2月10日に行われた下荻の子供のネハンコ(涅槃講)行事の写真である。
伺うお家はネハンコのオヤ家を務めたT家。
ネハンコにお米貰い(※現在はお金もらい)にオヤ家の子どもが中心となった下荻に住む子供たちとともに各戸を巡る。
その子のおじいさんが応対してくれた。
荻坐神社の祭りに子供神輿を導入したSさん。
息子が初乗りしてくれた。
やがて村の子どもたちは減少化。
やむなきこと廃すことになったが、〆の納めに乗ったのが孫だった。
その孫も子供のネハンコを終えた次年度は中学3年生。
対象となる年齢は中学2年生まで。
クラブ活動が終わって帰ってきたときに伝える行事のお礼に写真を手渡し。
母親も喜んでくださった写真。
下荻にまだ下の子どもは要るがごく数人。
しばらくは実施できそうにあるが、その先が見えない少子化である。
(R1. 7. 7 SB805SH撮影)