宇陀市榛原萩原・小鹿野の苗代にお札を立てていた。
初めて拝見した日は
平成27年の4月18日。
同市大宇陀・
平尾のナワシロジマイの取材を終えて立ち寄った榛原萩原・小鹿野(おがの)である。
同行していた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏が、昔に見た記憶を手繰ってやってきた小鹿野。
記憶の地は小鹿野であるのかどうかわからないが、苗代にお札があった。
イロバナが美しかったから添えてからそれほど時間は経っていない。
カラカラに乾いていない2枚のお札に見えた少しばかりの文字。
「牛」、「地蔵」、「不動」、「宝印」の文字から推定する村行事のオコナイ。
すぐ近くにある民家を訪ねて教えてもらった行事の日。
正月明けの休みの日に村人が集まる初集会。
会合に続いて行っている行事はオコナイとわかったが、会所若しくはお堂と知ったのは、2年後の
平成29年4月14日。
幾人か尋ねてようやくお会いした区長のOさん。
なんと、庚申さんを祭るすぐ近くに建つ集会所であった。
正月の初集会の日程は区長決め。
この年は1月7日に決まったと連絡を賜って出かける小鹿野の集会所。
その北側に鎮座する社は弁財天社。
正月らしくお供えをしていたが袋の中。
内部は見えなかった。
お伺いした集会所は旧地蔵寺でもある。
昼過ぎに集まった区長の他、3人の役員がごーさんの札作りをする。
小鹿野集落は27戸。
お札は多めに作る30枚であるが、中央に書く「地蔵菩薩」と「不動明王」の2種類。
右に「牛王」、左に「宝印」は同じであるが、「地蔵菩薩」と「不動明王」の2枚で1組みのごーさん札である。
地蔵菩薩はここ旧地蔵寺。
不動明王はここ旧地蔵寺より山の上。
里道、並びに山道を登ったところに流れる不動の滝にある不動明王堂。
3月末辺りに不動明王の大祭をしていると聞いている。
前年に残した一枚の見本。
それを見ながら村の役員でもある当番の人が墨書する。
区長にもう一人の書き手も、真心を込めて書いているという。
書ができたら朱印を押す。
朱はベンガラでなくスタンプであるが、これもまた真心を込めて牛王(玉)の宝印を押して朱印する。
合計で60枚。
ストーブ暖房の力も借りて乾かす。
一般的に多くみられる「牛玉」であるが、ここ小鹿野は長年にわたってずっと引き継がれてきた「牛王」である。
「牛王」の事例は県内事例にままある。
少なくもないが、多くもない。
乾燥し終えたゴーさん札は四つ折りして束にする。
正面、地蔵菩薩坐像を安置する祭壇に供えて夜の時間を待つ。
この日は初集会。
祭壇に2段重ねの鏡餅を供えて、御供の酒もある。
本尊は大きな厨子に安置する地蔵菩薩坐像。
右の脇仏2体は観音菩薩立像。
左に不動明王も安置していた旧地蔵寺。
毎月の一日に東組、中組、上垣内に属する地蔵講による営みがある。
組、垣内によって月割り。
東組の営みは4月、7月、10月に1月。
中組は5月、8月、11月に2月。
上垣内は6月、9月、12月に3月の廻りである。
女性講員が集まる地蔵講の毎月は同寺の清掃に花生け。
正月は松、竹(熊笹)、梅の木に千両と南天の木も添えていた。
仏飯を供えて、本尊の前に座る当番の導師。
鉦を叩いて唱える三巻の般若心経。
終えて食べていた白飯。
お家から持ち寄ったおかずでよばれていたが、現在はお茶とお茶菓子に簡素化したそうだ。
かつての地蔵講の営みは毎月に3回。
これを改めた数年前からは月に1回とした。
例月なら午後5時に始める営みは夏場になれば暑い時間帯を避けて午後5時半。
畑作業を終わってから集まっているそうだ。
昔は子どもも住んでいた家族。
住職でなく間借りの家族だったという。
そのような話しを聞いていた旧地蔵寺に鉦がある。
三本脚のある鉦は3枚。
一番大きい径が20cmの鉦に刻印があった。
「京大佛住西村左近宗春作」。
径が18cmの鉦は「室町住出羽大掾宗味作」。
一番小型の径14cmの鉦にも刻印があった「天下一出羽大掾宗味作」
。
私の調査範囲であるが、県内各地に見つかった「西村左近宗春」に「出羽大掾宗味」作の事例である。
「西村左近宗春」記銘の枚数は7枚。
「出羽大掾宗味」記銘は16枚にも及ぶ。
うち、「西村左近宗春」記銘に年代刻印が見られた2枚の鉦。
1枚は
桜井市笠。
「和州式上郡笠村地蔵堂什物 宝暦十一年(辛巳 )年三月吉日 京大佛住西村左近宗春作」鉦は、258年前の宝暦十一年(1761)。
もう1枚は
桜井市北白木。
「和州式上郡小白木小切施主凡人 元禄十七甲申天二月十九日 京大住西村左近宗春作」は315年前の元禄十七年(1704)であった。
もう一枚の「出羽大掾宗味」作の鉦に「天下一出羽大掾宗味作」記銘が数枚ある。
天理市
大和神社が所有する鉦や下市町阿知賀・
瀬ノ上垣内光明寺、大淀町畑屋が所有する鉦に“天下一”の称号がある。
そもそも「天下一」の称号を与えたのは桃山時代の織田信長。
工芸人の意欲を高めるためにあった。
天和二年(1682)以降の時代は「天下一」の乱用を防ぐために記銘することができなくなった。
若干の誤差はあるにしても天和二年(1682)以前か、以後の数年後まではと推定される「
天下一」の称号。
時代確定の難しさがあるものの県内各地にある「西村左近宗春」に「出羽大掾宗味」記銘は凡その年代範疇に嵌る可能性がある。
また、大和郡山市
白土町に残されている「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」の鉦がある。
製作年がはっきりしている「出羽大掾宗味」鉦は、今のところ、この一枚だけである。
「天下一」や二人の同一作者名から推定した製作年は貞享五年(1688)から宝暦十一年(1761)。
その期間は74年間。
同一人物でなく、その名を継いだ弟子が製作したとも考えられる。
そうこうしているうちに集まってきた村の人たち。
午後5時から始まる村の初集会である。
新年、あらためておめでとうございます、と新しき年を迎えた年始の挨拶。
区長からこの場におられる人を紹介しますといわれて自己紹介並びに取材主旨を伝えて了解を得る。
初集会の本題の一つは農業委員の推薦。
二つ目にとんど場や台風の影響で崩れた里道にラントバ(※石塔婆墓)の整備など。
他にボーリング大会や体育委員、老人会から墨坂神社のゾークに伊勢参りまである多様な課題を検討される。
さて、初祈祷が始まった時間帯は午後6時である。
本尊前に座った導師は区長の他、拍子木打ちも座る。
もう一人は太鼓打ち。座敷でなく、障子の向こう側の縁が立ち位置だ。
座敷を囲むように座った村の人たちの手には般若心経の読本が用意された。
蝋燭を灯してから始める初祈祷。
拍子木を打つ調子に合わせて唱える「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・・・」。
祭壇前に据えた大きな文字で書かれた般若心経は布一枚。
三巻唱えたところで一区切り。
時間にして6分半後くらいに達したとき発声された「ナンジョー」。
その声と同時に慌てて動いた太鼓打ち。
障子扉を開けてすぐさま打つ太鼓の音はドン、ドン、ドン。
3音の太鼓を打ったら再び般若心経を唱える。
太鼓打ちは所定の位置に戻ってともに唱える心経。
一巻をあげる都度に手を合わせて頭を下げる。
始まってから13分後。
2度目に発声する「ナンジョー」は六巻目を唱えたときである。
様相がわかった太鼓打ちは慌てることなく2度目の太鼓打ちもまたドン、ドン、ドン。
再び静けさを取り戻して続ける心経。
四巻唱えた最後の十巻目もまた「ナンジョー」にドン、ドン、ドン。
十巻の心経を唱えて太鼓を打った初祈祷は、発声する「ナンジョー」から充てる漢字は「難除」である。
ここ小鹿野には住職の姿は見られないが、村の人たちだけで行われる初祈祷。
太鼓を打つ場の窓は開放状態。
「ナンジョー(難除)」に打つ太鼓の音によって、窓から悪霊を追い出して、村は平和、安穏にした、ということである。
初祈祷の「ナンジョー(難除)」を済ませた村の人たちはこれよりパック詰め料理をいただく会食の場に移るので、本日のお礼を述べて集会所から離れた。
ちなみに集会所に掲げている小鹿野婦人消防団の記念写真を拝見させてもらった。
一枚は第1分団第7部消防ポンプ入魂式の模様を記録した写真。
昭和50年7月27日の記録に写る人たちの大多数は男性である。
入魂に式典される神職の周りを囲む人たちは村役や消防団の長であろう。
制服姿で並ぶ男性消防団。
記念の日に宴を催す会場は現在の小鹿野公民館。
つまり旧地蔵寺も兼ねた集会所である。
その宴の場に数人の婦人たちも会食している。
写真のタイトルに続いて書かれた「並に婦人消防団」とある。
もう一枚はそれから13年後の昭和62年9月11日。
婦人消防隊用に設備された軽可搬ポンプの入魂式。
2年後の平成元年9月6日に記録された写真は第5回全国婦人消防操法大会出場記念。
選ばれた6人の精鋭部隊が出場した女性消防団の操法大会。
出陣式にお祓いをされる神職の姿もある。
大会の会場はどこであるのかわからないが、応援幕に「ガンバレ!!はりきりママ」とあるのが微笑ましい。
もう一枚は総名28人が並んで撮った小鹿野婦人消防隊の記念写真である。
撮影日は記載されていないが結成されて間もないころであろう。
結成されたのはいつであるのかわからないが、昭和47年2月18日付けの表彰状がある。
「右(小鹿野婦人消防隊)は平素よく消防のことに励み、その成績、特に優良である」と財団法人日本消防協会会長名で表彰されているから、このころ既に組織化されていたようだ。
宇陀市のHPに
平成28年4月現在の消防団のことが書かれている。
分団は大宇陀に菟田野も榛原も室生もすべてが第4分団まである男性消防団員は1008人。
女性消防団員は14人である。
かつては各村にあったと思われるが、そうでもなかったようだ。
区長らの話によれば珍しいくらい。
しかも総数がとても多いと自慢できる女性消防団であろう。
他市町村にも女性消防団はあるらしいが団員数は極めて少ないようだが、
平成27年度の消防白書によれば、平成19年以来、年々増加の傾向にあるらしい。
当時の記念写真である。
スカーフでもないような制服に目立つ赤の色に昭和45年(1970)のジャンボジェットの就航を思い出す。
ネットの頁を捲ってみたら、スタイルに大きな違いは見られるが、小鹿野婦人消防隊の制服は
日本航空の制服に匹敵するくらいのクオリテイだと思った。
(H27. 4.18 EOS40D撮影)
(H30. 1. 7 EOS40D撮影)