マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

榛原栗谷・春日神社に見た節分御供の福豆

2023年02月01日 07時29分25秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
涅槃会が行われていた榛原栗谷の大念寺を退座。

寺から近い位置に鎮座する春日神社に移動する。

来年の春日神社は、数十年に一度のゾーク(造営事業)になる、と話していたIさん。

塗師を探してほしい、と願われた。

近隣村の安田は、3月にゾーク。

馬に乗る武者姿の鍾馗さん。

隣村の笠間に塗師は居るが、尋ねてみたら忙しいからか、断られたそうだ。

少し離れる隣村の長峰もゾークのときに綺麗にしやはったけど、笠間の塗師。

村に、たいがいは一人の宮大工が居る、と思っていたがそうでもなかった。

ゾーク対象となる社殿を、塗り替え、綺麗にする塗り仕事師は、そうそう居るワケではない。

だからあちこちの村から依頼される。

この地域付近に存じている大工棟梁は、榛原雨師に仕事場をもつKさん。

笠間のSさんに教えてもらったゾーク。

その地が雨師。

たまたま尋ねた方が宮大工を営むKさんだった。

Kさんは、数週間後に行われた雨師に鎮座する丹生神社の造営事業に棟梁頭としていかんなく力を発揮。

上棟祭主軸の儀式に、工匠長。祝詞奏上から振幣の儀、工匠長盃の儀、丈量の儀、墨入れの儀、手斧の儀、鉋の儀。槌打ちの儀に「セーンザーイ トウ」、「マーンザーイ トウ」、「エーイ エイ トウ」、曳綱・・・

目出度い儀式もされる工匠長のかっこいい姿は、今でも脳裏にこびりついている。

探してくれの願いに答えることはできなかったが、ゾークを前に春日神社の今日を拝見したくなった。

神社側から見た大念寺に村の人たちの車はまだあるから、片付けに入っているんだろう。



参拝に立った社殿下。

現状の社殿絵は、背伸びしても見られなかったが、足元に見つけた節分の印があった。

袋のままの福豆。



カラスに喰われることなく、一週間も経った今も見られた福豆。

節分の日に何人かが、参拝に供えていた。

(R3. 2.11 EOS7D撮影)

榛原栗谷・再訪、大念寺の涅槃会

2023年01月31日 07時19分03秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
2年目のコロナ禍もまた収束を知らない状況が続くなか、再訪したくなった榛原栗谷・大念寺の涅槃会。

栗谷の春日神社の年中行事。

いずれも拝見できていないが、祭主を務める宮司から聞いたマツリに奉じる御供があるらしい。

その形態は、特殊なカタチに成型している神饌のようだが・・・

また、カタチは異なるが、大念寺の涅槃会に奉る御供もあるようだ。

そのことについては、平成30年2月11日に訪問の際に、教えてくださった団子。

たぶんに涅槃の団子だ、と思われるが、例えば隣村の榛原の石田に見られるような丸いカタチの”ネハンのダンゴ”ではなく、”ヒトガタ(人形)”。

丸く成型するのではなく、”ヒト”のカタチにしていた、と話してくれた。

”ヒト”のカタチは、定かでないが、他にか、どうかもわかりにくいが、唯我独尊姿のお釈迦さんのような・・・。

また、干支の十二支のカタチも特別にこしらえていた。

例えば、令和3年の今年であれば、十二支は”丑(うし)”。

団子のカタチは、”牛”の姿であったろう。

経緯は、わからないが、たぶんに作り手のトーヤの負担軽減を考えた結果、その年から中断の決断に至った。

そのときのトーヤは、年次交替される当番組。

ここ榛原栗谷の軒数は、43戸。

峰奉(みねほ)に中(なか)、三角(みすみの3垣内(かいと)に分かれているが、人数割りの加減かなにかで、年当番は5組(※ひと組8人構成)にしている。

5年に一度の組当番。

その組の中からトーヤに決まるのも順番があるのだろう。

何十年に一度は、担うトーヤが、これまでずっと継承してきたネハンノダンゴに”ヒトガタ(人形)”つくり。

大念寺の涅槃会の御供であるが、「例のダンゴは、もうやめた」と、いう。

「エロチックなカタチのダンゴ。みなでつくっていたが、テレビでは放映できないような代物だったから、もうつくらない」と・・・

民俗の伝統が途絶えたワケであるが、その極めて貴重な民俗事例は、宇陀地域の収録に活動してきたメデイアネット宇陀・チャンネルに遺された。

地域遺産は民俗の遺産でもある”ヒトガタ(人形)”つくりの実態の一部が映像に遺されたことはたいへん意義がある、と思っている。

ただ、映像を見る限りであるが、村の人がいうようなエロチックなヒトガタは認識できない。

ある時代にソレがあった、ということだろうか。

そのことはともかく、コロナ禍対策に打ち出した涅槃会の参拝。

本堂、大念寺への入室は、役員関係者限りの人数制限。

以外の方たちは、本堂の外から立ち見の状況。

ソーシャルディスタンス対策に、そうせざるを得なかったようだ。

栗谷・大念寺は檀家の日蓮宗。

本堂にあがってすぐさま拝まれる日蓮宗・宗祖の日蓮聖人。

日蓮像の頭上に置かれた白い綿帽子が特徴。



日蓮聖人が、南房総の安房・小松原の地に襲撃を受けた。

そのときに負傷した額。

通りかかった地元民の老婆・おいちが、かぶっていた真綿を差し出した由来の綿帽子、とある。

参拝される栗谷の人たち。



向きを替えて手を合わせた涅槃会の日に掲げる涅槃図。

祭壇に、日蓮像前にも供えた御膳がある。



左に供えた供物は、コロナ対策用に袋詰めした白餅。

前回、訪問時には餅の御供撒きをされていたが、どうやら手渡しに切り替えたようだ。

座椅子に座って唱える般若心経。



かつて僧侶が読経してときの心経は、テープに収録しておいた。

その音源は、以降にCD変換。

開経偈からはじまる観音経に般若心経など・・・

ぽくぽく打つ木魚の音色も堂内に広がる。

今回は、コロナ禍対応に短く、般若心経は一巻まで。



合わせて参拝者も唱えていた。

涅槃会を終えてから、拝見した涅槃図。



前回に訪問、取材の際に拝見した涅槃図の裏面。

平成17年に修復されたものの、涅槃図は寛政八年(1797)の作。

榛原町指定から宇陀市指定の有形文化財に移った。

「奉 開眼涅槃像 京都大光山本圀寺 祖卄六代貫首 了義院日達聖人在(渕)」、「来再興涅槃像副巻 和刕宇陀郡栗谷村住 寛政八丙辰歳 如意宝珠日 発起本願人生駒氏 其外志所施主 同行中面々 現當二世安楽」、「湖東敞人玉挐齊常辰謹書」、「本善山大念寺常什物」。

宇陀市・指定文化財リストによれば「本圀寺(ほんこくじ)26代貫主の日達によって開眼供養されたことがわかる。日達は、延享四年(1747)に没しているから、製作年代の下限がわかり、本図を江戸時代中期、18世紀前半の作と見ることは画風からも矛盾しない」とある紙本著色仏涅槃図。

今回の訪問に是非とも見つけたかった「猫」の存在である。

ひときわ大きい涅槃図に「猫」の姿を探した結果は、ここに居た。



見事な筆に描写された「猫」の姿に感動した。

共に探していた婦人もにっこりした「猫」の描写の涅槃図。

見つかった全国の事例数は少ないが、栗谷の涅槃図もその中の一幅に数えられるようになったのが嬉しい。

拝見し終わって収納された涅槃図。

代表者の話によれば、この涅槃図はシミだらけになっていたそうだ。

動物など周辺空白域にややくすんだシミが見られる。

それらのシミはカビ。

天日干しもせず、ナフタリンや防虫剤も入れずに箱収め保管のままにしていた。

前年に行われた涅槃会の際に気づいたが・・・

今日、掲げた状態では、カビの進行が見られる。

前年は、今日に比べて、まだマシだった、というから今も進行中。

なんせ、涅槃図は宇陀市指定の有形文化財。

対策については、市役所関係課に報告し、専門家に診てもらうなり、早く講じないとさらに拡がる可能性が高い、と伝えておいた。

ところでさきほどのご婦人に話によれば、生まれ育った出里の御杖村菅野の曹洞宗安能寺にタイヤ(退夜)に掲げた涅槃図と比較。

図柄も違うし、大きさも・・・

涅槃図はどこともみな同じだ、と思っていた。と・・・

(R3. 2.11 EOS7D/SB805SH撮影)

榛原萩原小鹿野・不動明王の大祭

2020年03月06日 09時44分36秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
巷では桜があちこちで咲き出したという今日この頃。

春の兆しどころか一挙にやってきた春の目覚め。この日はすごく温かくなった。

気温もおそらく20度くらいになったと思われるが、朝晩はまだまだ厳しい気温だ。

この日に不動明王の大祭行事を行う宇陀市榛原萩原小鹿野。

住民の何人かは雨戸が凍って扉が開けにくかったという。

朝の気温は5度であっても山間部であればもっと寒く感じる。

小鹿野・不動明王の大祭の元々の実施日は3月28日。

現在はより近い日曜日に行われている。

予め聞いていた不動の滝の場。

そこへ向かう村の公道であるが、前年に発生した10月の台風の影響は大きかった。

あちこちとは言い難いが、公道の陥没もあって4輪駆動の軽トラでさえ登れなくなった。

急な公道の勾配はどれくらいであるのか存じないが、歩いてみれば心臓が破裂しそうな急坂である。

尤も私にとっては心不全に対するリハビリ運動だと思っているが・・。この坂道はとてもきつい。

大祭をするにあたって役員さんらは忙しい。

赤い幟を何本も立てて、この日に行われる祭りの印しを明示する。

下の会所から1本ずつ立てていく。

その幟は道先案内。

山へ、山へと登っていく。

車は到底上がれない山道。

その恐ろしさは当月初めに体験した。

おっとろしかった体験は今でも思い出す危険な地。

乗って来た愛車は会所横に置かせてもらって歩き出す。

会所に来るまでに遭遇した村の婦人たち。

頭を下げて挨拶。婦人たちは歩きで不動の滝を目指して山に向かう。



集落から離れて田畑が広がる地。

後ろから足音が聞こえてきたと思っていたら、いつのまにか追い越された。



先に行っているよと伝えられて見送った男性の足は強靭。速さがすごい。

しばらくしたらまた一人に追いつかれた。

どうぞ、と云ったが、一緒に登りましょうと云ってくれる。

その男性は桜井市内から越してきた人。

当初はきつかったが、慣れてきたのはそれから。

何度も何度も歩いているうちに身体が自然と応えるようになった、という。

山道の幅は2m少し。

軽トラの車幅基準は1.48m以下。

リッターカーというか普通自動車のコンパクトカー。

車種にもよるが、たいがい車が1.5m~1.6m程度。

車長の関係もあって急なカーブは無理がある。

狭くて勾配がきつい山道を走るには車体が軽い4輪駆動。

それでも無理な処はいくらでもある。



不動の滝まで歩いてみれば、ここは無理。

歩き以外の動力車は単車かキャタピラ駆動の運搬車が望ましい。

そう思った山道に婦人たちもすたこらさっさと登っていく。

小鹿野の人たちの脚の凄さを知ったこの日。

以前、聞いていた婦人の足。

不動の滝までは20分ぐらいと云っていたことが実感した。

私自身はどうであるのか。

安静状態時の心拍数は40拍前後。

普段の脈拍数である。

心不全に陥ってからはずっとこの調子の徐脈が普段の状態。

運動をすればあっという間に60拍どころか70拍にも上昇する。

そんな状態で太鼓判を押してくれた医師の診断は、無理をしない範囲で、ということだった。

会所を出ていきなりの急勾配。

その時点で脈拍は急上昇。

尤も足の動きは悪い。

しばらくすれば少しはマシになる勾配。

しかし、またもや急勾配。

それからはずっと急勾配。

山に入っても急勾配がずっと続く。

心臓がバクバクする。

休憩をとりたいが、そういうわけにもいかない。

大祭の時間が迫ってくる。

道が崩れたところの状態も見ておきたい。

なんどか停止して山道の状態を撮っていた。

そのときが心臓を少し休めるとき。

そのうち後方からバイク音が聞こえてきた。

1台、2台と追い越していく。どうぞ、と云って先に行っていただく。

そのうち少し広い地に着いた。

先ほど追い越したバイクの男性は持ってきた折りたたみ杖を伸ばして山に入った。

そこから数百メートル。

不動の滝はもうすぐだ、と案内してくれる水の神不動明王「小鹿野(おがの)のお不動さん」。



「不動滝の横に建つお堂には、不動明王を祀られており、もとは修験者の修行の場でした。滝よりそそぐ、清水は大地に潤いを与え、そして健康や災害除けなど、いろいろな願いを叶えてくださる、といわれています。歩むにつれて、滝の音がどんどん近づき、お堂と滝を前委にすると清い空気に心が洗われます。小鹿野では、今なお信仰が深く「お不動さん」として親しまれており、毎年の3月28日(※現在はより近い日曜日に)は大祭行事が行われ、地域の歴史伝承と世代交流をはかっています(※若干補正)」

話し声が聞こえてきた。

その場はとんどの煙も上っていた。

ようやく辿り着いた不動の滝。

出発地の会所から歩いた所要時間は25分だった。



お堂下では先に来ていた人たちがとんどの火で暖をとっていた。

参道にお堂、境内の清掃を済ませて落ち着いた時間帯である。

お堂の左に見える滝が不動の滝。

シキビを供えて線香を灯した八大龍王の碑があるこの場は修行の地。

囲いを仕掛けている場に扉がある。

この日は、解放されていたから清い流れがほとばしる滝を拝見するとともに健康祈願に災害除け。



崖崩れに遭遇しても、なおこうして参拝できました、と手を合わせた。

不動の滝の前に建つ石碑は「南無供養云々」とある。



“ざざんだ石“とも呼ぶ六字名号の碑に花を添えてローソク、線香に火を点ける。

山道を登ってきた参拝者のみなは線香をくゆらしていた。



ちなみに花立は「昭和二十八年十一月」に建てたようだ。

不動の滝にときおり青龍寺住職のKさんが拝みにきてくれる、という。



実は不動の滝の水の源流は、小鹿野のすぐ隣村になる榛原・萩原玉立(とうだち)。

平成30年1月3日に行われた村行事。

難除(なんじょ)とも呼ばれる初祈祷行事を取材したことがある青龍寺。

小鹿野も玉立も水の恩恵を受けている。

尤も、小鹿野の不動明王の大祭に住職の登場はない。

村の人たちだけで営まれる大祭である。

さて、大祭である。

不動明王堂は、それほど広くない。

この年の1月3日に拝見した会所こと地蔵堂で行われた初祈祷と同じ位置に座った。

導師の区長や拍子木を打つ役の人たちは祭壇下。

両脇に座ったのは女性陣。

後方に就いたDさん。



次期区長を務めるだけにそのあり方も見ておられたのだろう。

堂外には入り切れなかった人たちでいっぱいになった。



ローソクを灯して線香をくゆらす。

お神酒の口開けもして唱えるお念仏は般若心経。

通しの十巻を唱える。

その間に打ち鳴らす拍子木の音色。

杉や桧木立が植わる谷間に広がる。



立ち上がる煙は暖を取っていたとんど焼きだ。

台風の影響で大きな被害が出た山崩れ。

40年、いやもっと前になるな、という大災害。

8月1日にやってきた台風だった。

けっこうな風量。

きつい風に煽られたその日は出かけていたが、急遽、村に戻ることにしたが・・と話すO区長。



大和川も溢れて、各地区では冠水が酷かった年だった、という。

心経を唱えている不動明王堂は、小鹿野の所有。

村人の寄進だけでなく村外の人たちも多い。

遠くは和歌山県かつらぎ町・葛城妙宣寺の関係者もあれば、橿原市・新ノ口町日宝寺関係者、榛原・墨坂、大和高田市、大阪市に大阪府交野市までも。

寄進者の名を連ねる不動明王堂側面の板書に「瀧堂 不動明王本堂再建浄財御芳名」とあった。

また、道内に安置する不動明王石仏など一切が小鹿野の所有物である。

不動明王本堂は再建だった。

その印しは祭壇に置いてあった板書で判明した「維持 昭和四十年七月廿八日 不動堂落成砌(※みぎり) 青龍寺 小西日(※街)」。

現住職の先代名であろう。



もう一枚の板書に念仏らしき書がある。

日蓮法華宗青龍寺で祈祷された護符と同じ書体である。

祭壇に供えていた御供がある。



村の法会を終えてから拝見したおむすび型のおにぎり。

白胡麻をパラパラ振りかけたおにぎりは5個。

以前はもっと多くあったおにぎり。

法会を終えて配られていたおにぎりの個数は、手間のかかる負担を軽減。

区長家が作るおにぎりは、一昨年から5個にしたそうだ。

ちなみに小鹿野の行事に十夜がある。

11月22日ころに行われる十夜の場合は、アズキご飯がある。

会所にある大きな釜で当番の炊き番が炊いていたアズキご飯。

かつてはあずき粥であったが、作り方に手間がかかることから小豆の赤飯に切り替えた。

小豆粥のころは各家がもってくる漬物で食べていた。

また、逮夜のときも大釜で炊いた。

そのときのご飯は「よりつけめし」。

油揚げとかナマブシ(生節)などを混ぜて炊く、いわゆるイロゴハンもしていたそうだ。



大祭を終えた村の人たちとともに下る山道。

しばらくすると膝ががくがくしてきた。

腰に張りが見られなくなり痛みさえも・・。



随分昔のこと。

二十歳代は山登りもしていた。

ぼっちらぼっちら登っていくアルプスの山々。

途中で戻りたい気持ちは生まれなかったが、帰路はそれどころじゃなかった下り道の膝がくがく。

痛みで下りるのが苦痛。

といっても戻るわけにはいかない。

山に戻ってどうすんの、である。

とにかく下りの方がキツかったことを身体が覚えている。

そのときの体験を思い出したくらいの急勾配。

会所に戻ってもがくがくだった。

その腰の痛さは翌日になっても解消しなかった。

翌々日まで尾を引いたのはふくらはぎだったことも付け加えておこう。

(H30. 3.25 EOS40D撮影)

榛原篠楽・下垣内地蔵尊の開眼法要

2020年01月23日 10時06分22秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
本日の午前中は三郷町勢野(せや)、京都南山城村の高尾、奈良市荻町

昼食を済ませて出かけた先は宇陀市榛原。

大字小鹿野の不動滝の場を求めて車を走らせたが、途中で気が替わって足を伸ばすことにした。

再設定した目的地は大宇陀平尾。

神社行事にチマキを供えると聞いていた。

お供えがあれば、と思って走っていたその道中である。

これまで見ていた景観がすっかり消えて、まるで宅地開発のようにしていた荒地工事。

その地は、宇陀市榛原の篠楽(ささがく)下垣内。



2年前の平成28年8月28日に撮った景観とは打って変わって広々としていた。



覆っていた森林すべてがばっさり開墾の地にある「しゅく」の地蔵さんの前に何人かの人たちがいる。

緊急停車した車から降りて近寄ったその場で行われていた法会。

関係者にお聞きしたら新しく地蔵堂を建て替え、今日はお寺さんに来てもらって開眼(かいげ)法要をしている、という。

当地は工場の地。

駐車場拡張のついでに地蔵堂周りの大木も伐採、周囲を明るくした当地に新しく建て替えることにした。

当地を見つめて村を守ってくださる地蔵尊。

田んぼの土で泥だんごをこしらえて供えたら、足の痛みが治る、といわれる霊験あらたかな地蔵尊。

8月23日、24日の次の日曜日に地蔵祭りをしている、という「しゅく」の地蔵さんである。

以前、というか、平成28年の8月28日である。

その日に行われた篠楽・上垣内の地蔵まつりを取材させてもらったときに教えていただいた「しゅく」の地蔵さん。

かつては下垣内の人たちと上垣内の人たちが参っていた。

上垣内の人が云うには、下垣内の「しゅく」の地蔵さんは、我がところの地蔵さんでなかったが、参らせてもらっていた。

上垣内には地蔵さんはなく、あるのは「イシガンノン」の呼び名がある石観音である。

20年前に決断された上垣内の人たち。

「イシガンノン」を地蔵さんのように下垣内と同じ日程で行事をするようにした。



ちなみに「イシガンノン」は「奉供養西国三十三番」の刻印がある。

西国八番札所の長谷寺へ参る里道。

上垣内の人たちは、ここの道を長谷街道と呼んでいた。

一方、「しゅく」の地蔵さんが建つ地もまた長谷寺へ参る里道沿いになる。

篠楽から長谷寺参りする道は二通り。

北の山間に建つ「しゅく」の地蔵さんから西に下る道を行けば、榛原柳である。

そこから長谷寺まではそう遠くない距離(3km)であるが、旅宿があったかもしれない。



「しゅく」は「宿」。

そう考えてもよさそうな「しゅく」の地蔵尊は、また長谷寺観音信仰とも関連性があるように思えてきた。



地蔵堂の新築落慶に僧侶が法要する性根戻し。

それを「開眼(かいげ)」と呼ぶ。

東大寺もまた「開眼(かいげ)」をしている、と僧侶は話していた。

開眼法要を終えたら御供下げ。

当番のTさんから、これも縁だ、と云って御供した赤飯をくださった。



母親が作ってくれた、という赤飯。

ありがたく頂戴した。

(H28. 8.28 EOS40D撮影)
(H30. 3. 3 EOS40D撮影)

榛原笠間のハウス苗代の水口まつり

2019年10月06日 10時34分34秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
この日の午前中は宇陀市室生の下笠間で植え初めの在り方を拝見していた。

午後はフリー活動にどこへ行く。

用意していた写真を手渡したい地域がある。

昨年に取材していた宇陀市榛原の笠間。

室生も榛原も同じ読み名の笠間である。

勝手知ったるハウスを覗き見する。

今年もしていたほうれん草作りのハウス内の水口まつり

昨年は取材されることにイロバナを飾ってくれたが、今年はその便宜は必要事項でない。

ハウスの片隅。

育苗していた傍らに祭っていた御田植祭に奉納した杉の実の模擬苗である。

今年は竹支えで立てることもなく寝かしていた。

(H30. 5.12 EOS7D撮影)

再訪、榛原栗谷に春日神社探訪

2019年08月31日 07時41分10秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
2月に行われた涅槃会

宇陀市榛原栗谷にある日蓮宗大念寺だった。

行事があることは隣村の石田の人たちに聞いていた。

調べてみたらメディアネット宇陀に栗谷の涅槃会が紹介されていた。

そのことが頭の中に残っていて2月に訪れた。

その取材中に耳にした花まつり。

違っているかもしれないが、気になれば出かけてみたくなるのが性である。

再訪した大念寺は満開だった桜の花が境内一面に広がっていた。

本堂の扉が閉まっている。

時間帯が違ったのか、本日ではないのか。

ネットをくってみてもまったくヒットしない大念寺。

村の人に聞くしかないと思って付近を探してみる。

ぐるりと周囲を廻った地に鳥居が見える。

小高い丘のようなところに鎮座していたのは春日神社だった。

階段を登っていけば社殿があった。

あるブログで紹介していたので参考にするが、その内容は榛原町教育委員会が掲示した神社由緒解説にある。



春日神社は東から若宮(大将軍・大山祇神)に武甕槌命(たけみかずちのみこと)・経津主命(ふつのしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売大神(ひめのおおみかみ)の四神を祀った四連棟型社殿形式である。

この形式は全国的にも、宇陀市というか、奈良県内においても極めて珍しい建造物である。

もう一つの棟札の写しによれば、元文二年(1737)に現在の形式で建之されたと伝わる。

もう一つの棟札写しより、元徳元年(1329)12月。

当時、土地の名主だったとする願主実盛が春日四神を祀って創建したようだ。



「栗谷守 享保壬子(享保十七年/1732)天 春日大明神 十一月吉日」の刻印が見られた春日神社の手水鉢。

元文二年の棟札の写しよりも5年前の記し。

再建かどうか断定できないが、祈念に寄進された可能性もある。

神社より下った処にあった出荷場に数人の女性たちがおられた。

涅槃会におられた人も居るし、当日は不参加だった人もいる。



涅槃会取材に撮らせてもらった十数枚の記録写真をもってお礼とする。

その場には区長の奥さんもおられたので話は通じやすいが、結局は村に花まつり行事はなかった。

代わりといえばなんだが、春日神社の年中行事を教えてもらう。

正月朔日の元日祭は鏡餅を供えるが、3月3日の節句は一般的な神饌になる。

田植え奉告祭もあるようだが、なんといっても秋のマツリである。

以前は10月20日がマツリだった。

特定日であれば、集まりにくくなった時代があった。

氏子の職がサラリーマン化していくにつれて平日開催がしにくくなった。

そういう理由で土曜、日曜、祝日に移行した地域は数多い。

秋のマツリは最たるものである。

栗谷もそうせざるを得なかった。

年中行事を一年間に亘って務める人がいる。

その人の役名はミヤド、である。

ミヤドを充てる漢字は何であるのか聞きそびれたが、毎月の1日、15日は神社境内を清掃しているというから、おそらく宮守の役であろう。

ただ、現在は1日、15日に縛られることなく、相前後する日でも構わないようだ。

その秋のマツリの本祭は特別なものはなく、ヨミヤに見られるという。

神饌御供は鏡餅もあるが、その他に栗、枝豆がある。

特徴があるのは大根である。

その大根は言いようのない細工をしているという。

具体的な形は想像できなかったので、実物を見てみる価値がありそうな特殊神饌であろう。

夕方(午後5時)に神事がある。

その後は直会。

神事が始まってから3時間後(午後8時)にモチマキがあるという。

(H30. 4. 8 EOS7D撮影)

榛原栗谷・大念寺の涅槃会

2019年08月30日 09時35分42秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原の栗谷(くりだに)を訪れるのは初めてだ。

ここ栗谷に涅槃会をしていると聞いたのは平成27年の2月11日に取材で訪れた栗谷からすぐ近くになる石田に住むMさんら講員と、県教委時代から存じているUさんの教えである。

話によれば、隣村の栗谷・大念寺に伝わる涅槃図があるという。

寛政八年(1797)作の涅槃図は平成17年に修復されたものの榛原町指定から宇陀市の有形文化財に指定に移ったようだ。

石田に残る涅槃図は宝暦九年(1759)に修復されているものの、栗谷より39年以上も前の作品。

修復記銘の年代が宝暦であれば製作した時代ももっと古いことになるが、指定はされていない。

その日に聞いた栗谷・大念寺の涅槃会は石田と同じ日程の2月11日。

時間帯はすでに終わっているらしく村の代表にお会いできなかった。

翌年の平成28年は病み上がりもあるが、心不全の関係から主治医から車の運転は許されなかった。

次の年の平成29年は通院日と重なりお預け状態。

この日になってようやく栗谷に行けるようになった。

栗谷につく前に見ておきたい石田の涅槃会。

公民館におられたMさんに尋ねた石田の涅槃会は、昨年の平成29年を最後に村行事としては幕を閉じたという。

村行事は中断することになったが、元々の3軒で営む涅槃講だけが当番家に集まった昨日に済ませたと、という。

涅槃講の営みにアマチャと呼ぶ花まつりをしているが、まさかの中断に愕然としたものだ。

前置きはここまで。

さて、栗谷大念寺の涅槃会である。

カーナビゲーションにセットした榛原栗谷。

番地は不明であるため主たる地にたどり着く。

ここはどこであるのかさっぱりわからぬ迷い道。

集落道を外した地に駐車していた数台の車。

数台の軽トラがあるからそこに違いない。

向かった先にお堂が建っていた。

駐車場といっても野地であった。

停めた広地に多数の桜木が植樹されていた。

春ともなれば、村の人たちが集まって花見をされそうな雰囲気のある広地である。

本堂におられた区長さんに取材主旨を伝えて許諾してくださった大念寺涅槃会。

峯奉(みねほ)、中(なか)、三角(みすみ)の3垣内からなる栗谷集落は43戸。

峯奉にはかつて薬師さんと呼んでいた寺があった。

その寺に安置していた本尊。

元は峯奉の不動寺の仏像だったようだ。

大念寺は今より下になる三角にあったそうだが古くなり壊れそうになっていた。

国営パイロット事業のおかげもあって、平成7年より始まった建て替えを経て翌年の8年9月に落慶法要を迎えた大念寺である。

大念寺の檀家は日蓮宗。

昔から真ん中に安置していたから、現在もなお中央に配した。

また、パイロット事業のあおりを受けて仏像をお宮さんの押し入れに納めていたら、後に村の人が怪我をした、という話もある。

涅槃会は前日からの作業がある。

3垣内43戸を、8軒ずつの5組にわけた廻り当番組がその年の行事を担う。

5年に一度の廻りであるが、組によっては仕掛かりに差異がみられた。

この年の御供は前日に多く搗いた餅である。

9枚のコウジブタに盛った白餅。

実は、御供は昨年まで団子だった、という。

今年から白餅に換えたが、団子。

団子であるなら米を挽いて作る米粉。

水か湯で練って作る団子である。

隣村の石田は団子だった。

平成29年に立ち寄った際に拝見した御供下げの餅は団子だった。

その団子を石田の人たちはネハンダンゴと呼んでいた。

ここ栗谷も同様のネハンダンゴであったのが、白餅に移った。

しかも、餅つきをしていたわけでなく、餅屋に作ってもらったコモチになった。

団子作りは作業が面倒。

餅つきもやめて餅屋の餅に移った。

そのこともあって今年は団子で作っていたヒトガタ(人形)や唯我独尊姿のお釈迦さん、その年の十二支を象って作る団子は中断した。

この年にあたった廻り当番の意向であるとトーヤのIさん、他当番組員が話す。

ネハンダンゴはともかく、特別にこしらえた感のあるヒトガタに十二支の形が気になる。

気になっても、実物を見ることはもうできない。

村にとっても、民俗にとっても貴重なあり方が、ここ栗谷からまた一つ消えた。

その形はどのようなものだったのだろうか。

実は動画で見ることができる。

今ではもう見ることのできない貴重な形つくりのネハンダンゴ映像は、宇陀チャンの愛称で呼ばれているメディアネット宇陀が平成25年2月に取材し、編集を経てネット公開している。

前日にモチゴメで作るネハンダンゴは棒状にしてから細棒で切断し、手で丸めるダンゴ。

大多数が丸い形のネハンダンゴであるが、数個が、ヒトガタであり、十二支ダンゴである。

平成25年の十二支は“巳”年。

流れる映像にとぐろ巻きの巳さんや絡みつきにぐるぐる巻いた形もあれば、まさにヒトガタに見えるコミック的要素のある形に仏像を模したような形もある。

訪れた今年は見ることのできない貴重な映像をディアネット宇陀が残してくれた。

ありがたいことである。

奈良県内のさまざまな行事を取材してきたが、このような形態は初見である。

とても珍しいネハンダンゴ。

区長さん他、役員の方々にお伝えした願い。

できることなら復活されんと、期待を込めて待つしかない。



本堂正面に設えた壇に数々の座像、立像などの仏像を並べ、安置している。

中央に配した座像は日蓮宗のご本尊であろう。

彩色の違いもあるが、頭に紅白仕立ての綿帽子を被った日蓮聖人のお姿である。

その下に御供のコモチ。



コウジブタに盛ったコモチがいっぱいある。

本日は涅槃会。

有形文化財にしてされている涅槃図は、そこへ掲げるのではなく、右隣の壁面に、である。



天井、ぎりいっぱいの位置か下げた涅槃図。

榛原大念寺護持会が所有する涅槃図の大きさに圧倒される。

下に御供台を設えて花を立てる。



御供は餅に蜜柑の山。

神饌ものと中央に配した大御膳。

ローソクを灯して線香をくゆらす。

次々にやってくる村の人たち。

めいめいが手を合わせて席に就く。

当番の人たちも席について始まった涅槃会。

涅槃会や栗谷の涅槃図ついての説明は区長。

それから始まる涅槃会の読経は般若心経。



組当番の人が導師を務める心経は、木魚や拍子木で調子をとることもなく詠みあげる。

導師が発声する調子に合わせてプリントした般若心経を詠みあげる村の人たち。

この年は34人も集まり、ぎっしり埋まった本堂に響き渡った。

1巻の心経を終えたらゴクマキ。

餅の個数は半端じゃないほどにある。



大量に撒かれる餅に広がった歓喜の声。

老若男女、それぞれがありがたい御供を授かったら、解散。

手に入れた餅は袋などにごっそり。



笑顔で戻っていく。

会式を終えてから、じっくり拝見していた当番の女性たち。



一人、一人の表情の違う僧侶や動物、昆虫など、熱心に見ていた。

その涅槃図の裏面の墨書文字の記銘文がある。



「奉 開眼涅槃像 京都大光山本圀寺 祖卄六代貫首 了義院日達聖人在(渕)」、「来再興涅槃像副巻 和刕宇陀郡栗谷村住 寛政八丙辰歳 如意宝珠日 発起本願人生駒氏 其外志所施主 同行中面々 現當二世安楽」、「湖東敞人玉挐齊常辰謹書」、「本善山大念寺常什物」とある。

宇陀市・指定文化財リストによれば「本圀寺(ほんこくじ)26代貫主の日達によって開眼供養されたことがわかる。日達は、延享四年(1747)に没しているから、製作年代の下限がわかり、本図を江戸時代中期、18世紀前半の作と見ることは画風からも矛盾しない」とある。

若い当番女性。



ニノ膳とも呼んでいた大御膳の盛り付けも見ていた。

次に廻ってくる当番は5年後。

参考にしてきたい解散後の本堂で落ち着いてみることができる。

特に御膳は年長者の婦人が煮炊きした五品の調理御膳。



中央の椀に盛ったお豆さんは黒豆。

美味しそうに炊けた赤飯の椀。

右下は人参、子芋、椎茸、蒟蒻の煮しめ。

左下の椀は、蒟蒻や青菜に人参を混ぜて作った白和え。

その上の椀は汁椀。豆腐汁のおつゆです、と、担当した高齢の婦人が説明してくださったが、味付けはたぶんに家の味だろう。

もう一つの膳は神饌もの。

大根、人参、牛蒡、干し椎茸に高野豆腐を盛っていた。

(H30. 2.11 EOS40D撮影)

室生ダム湖ふれあい公苑のコイノボリ景観つくりに感謝

2019年08月12日 09時37分04秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
1年ぶりに訪れた本日の山辺三・ふれあい広場。

下見と思って榛原帰りに立ち寄る山辺三。

尤も山辺三も榛原だが・・。

この地にたまたま来られた村の人曰く、桜が早くに咲いたので例年より早めて6日に立てたという。



前年同様に強い風が吹いていたので綺麗に泳いでいた。

半時間滞在にやってきた数グループの男女。

スマホでちょいと撮って立去った。

僅か数分のできごとである。



なお、南側の荒れ地。

草マメシだった地。

市からの願望もあった。

ネパールにステイできる家建てたと話す男性に巡り合った。

仕事を趣味にネパールへ行き来する71歳男性。

この日はドローンを飛ばし、桜に近鉄特急入れて撮っていた。

その画像は、FBをしている知人に送付してアップしてもらっている、という。

で、その荒れ地である。

何日か手間をかけて奇麗に整地し、駐車できるようにした。

話してくれた男性はもう一人いる。

男性は80歳。

山辺三が出里であるが、数年前に開発された高台に移転した、という。

今年のコイノボリは桜が早く咲いたから大慌て。



4月6日の金曜に立てた、という。

コイノボリは5月になったら下す。

最近はコイノボリ泥棒が暗躍しているから、そうするという。

なお、コイノボリの支柱に枯れた竹は使えないから、わざわざ青竹を伐って立てている。



苦労をかけた二人の男性のボランテイアのおかげで、私たち来訪者は、山辺三の素晴らしい景観を愉しませてもらっていたのだ。

まことに感謝申し上げる次第である。

(H30. 4. 8 EOS7D撮影)
(H30. 4. 8 SB932SH撮影)

榛原萩原・小鹿野の大とんど

2019年06月30日 09時40分07秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
西名阪国道を行く。

針ICから抜けるコースもあるが、この日は雪景色をみながらのドライブウエイに福住ICから旧都祁村の吐山経由で宇陀市榛原に向かうことにした。

平地走行ではまったく気にならない外気温。

車内のヒーターが身体を、足元を温めてくれる。

冷たい風が車の窓ガラスを通して、その寒さを敏感に感じる。

吐山まで来れば辺り一面が真っ白になっていた。

ここへ来るまでの街道沿いの野原も積雪で白いが風景。

普段見る光景とはまったく違っていた。

全面真っ白というような感覚である。

榛原へ抜ける国道369号線の香酔(こうずい)峠道。

道路に設置してある外気温は-2度。

ヒーターで温めていた車内でも冷気を感じるわけだ。

香酔峠を抜けた下り道。

玉立(とうだち)の信号を折れた榛原・玉立に着いた途端に雪の白さは見られない。

雪はなくとも、車から降りたと同時に感じる冷気に身体がぶるっと震える。

冷たい風にあたった耳がすぐさま感じる痺れる冷気。

手で覆いたくなる冷たさに村の人たちは云った。

気温が-4度であっても積雪量とは関係がない。

そんな寒い日に取材する宇陀市榛原萩原・小鹿野(おがの)地区のとんど焼きである。

帰宅してから寒さ便りが届いた山添村の神野山は、なんと-8度である。

北海道函館よりも寒い気温になったと伝えてくれた。

昔は小正月。

1月14日の夕刻にしていたという小鹿野の大とんど。



集まった村の人たちは34人。

大半が高齢の男性、女性である。

自宅付近に生えていた竹を伐りだしてここまでずるずると運んだという人も多い。

その声は男性も女性もみな一様だ。

6日前は村の初集会だった。

そのときにお会いした方たちも、これまで取材させてもらった苗代のあり方や、閏年のトアゲの庚申さん行事に作法を見せてくださった馴染みある中組中組東の人たち、よう来てくれたと笑顔で応えてくれる。

土台の櫓を組んで周りをかためる伐りだし竹。



太めの竹を担いで運ぶ男性、女性の動きは手慣れた動き。

役目がわかっているから動きは敏捷。

初集会の場で見せていただいた小鹿野の消防団。

男性以上に女性に機敏さ。解散してからすいぶん経つらしいが、訓練などで備わった動きは大とんど組みにも発揮しているようだ、と思った。

ある程度の竹の量を重ねたら、番線で締めて倒れないように、強固なつくりにする。

実は櫓つくりの際は藁縄。

ロープ締めであるが、大きくしたとんど組みは番線が有効的である。

しっかりできた大とんど。

ローソク立てに利用するのは竹材。

細めの竹を土に刺して小枝を少し加工する。



小枝を燭台に使うのである。

ローソク、お神酒、御供を点火する位置に据えた。



写真ではわかりにくい画像であるが・・。

火点けは区長が行う。

点火する位置は今年の恵方になる南南東。

アキの方角に向かって総勢34人の村の人が並んでまずは火点け。

当初、予定していた位置では風の通りで消えてしまう。

少しでも風に当たらないように地面からすぐ上に火点けの位置を替えた風の状態である。



火が点いたところでみな揃って二礼二拍一礼。

大急ぎで火点けに集まる男たち。



用意していた藁束に火を移して大とんどのすそ野に火点け。

前夜に降った雪の加減で湿っているとんどの竹。



藁束をもっと増やして埋め込んだ場所にも火移しして、ようやく燃え上がった大とんどである。

燃えるにつれて竹が弾ける音が村内に響き渡る。



ポン、ポンと大きく鳴る大とんど。

燃える大とんどの風の当たりがどうも良くない。



南から吹き抜ける冷たい風が強いのか、燃える火が満遍なく広がらない。



風に負けるわけにはいかないと燃えているとんどに竹のつぎ足し。

このときもだれかれとなくみなが動き出す。

湿り気のある竹に火移りの動きが悪い。

燃えた竹を取り出して、燃えていないところに移動する。

雨も雪も降らない日が続いた場合は逆に竹はカラカラに乾いているから燃え方が早い。

強固に作った櫓もやがて倒れた。



火点けから倒れるまでにかかった時間はおよそ50分。

湿気が邪魔したようだ。

倒れた竹のほとんどが燃え尽きるまであともう少し。

その間に設えた餅を焼く場つくりはそれから30分後。



ようやく落ち着いた火ダネを囲むようにセッテイングする。

枝付きの竹を短く伐って穴埋め。

トンカチで叩いて地面に打ち込む。



火点けの場が前にいかんように竹を置いて柵をつくる。

その後ろに設営した一人一人の椅子。

座って火に差し出す道具もまた竹。



その先に針金をかました網。

餅を乗せて焼く。

餅は赤い色もあれば黒色も。

緑色は青のりでなく蓬を混ぜて搗いた蓬餅。

赤いのは小エビ入りの餅。

さて、黒い餅は・・黒豆だった。



あんたも食べや、と言われて焼きたての餅に食らいつく。

これがなと、むちゃ美味い。

饅頭屋さんが作ってもこんなに美味いもんはできないやろ、と思ったくらいに味のある大粒いっぱい詰めた黒豆餅に堪能していた。

うちの餅も食べてや、と馴染みの人たちからたくさんの手作り餅で胸いっぱいになった。

映像にはとらえていないが、弁天さんに供えていた角切り御供餅も下げて焼いていた。

餅焼きを愉しんでいた村の人たち。

かつてはとんどに書初めを燃やしていた、という。

いわゆる天筆(てんぴつ)の習俗。

燃えた書初めが天まで届また、あるくくらいに燃えたら習字の腕が上手になると・・。

また、昔は「ブトノクチ ハミノクチ」を云いながら、ちぎった餅をとんどにくべていた、という。

「アブの眼や」と言って餅をちぎって火中に投げ入れた。

Tさん夫妻が、昔の情景を思い出して話してくれるとんど焼きの民俗である。

火が落ち着いたところでタネ火を持ち帰っていた。

タネ火は炭火。

消えないように火が点いたまま持ち帰ってくどさん(※おくどさんと称した竈)の焚き木に火を移していた。

夕飯はその火で炊いた。

お風呂の焚き木にもに移した。

翌朝はその火で小豆粥を炊いて食べていたが、カヤススキを立てることはなかったという。

さらに、である。

翌朝にくどさんから取り出した燃え尽きた灰は畑に撒いた。

畑が病気にならんように願ってそうしていた。

当時の畑作は二毛作。

麦作りもしていたし、宇陀の黒豆も作っていたという。

12月28日は家で餅を搗く。

夫婦二人で搗いた杵つき餅。

ドヤモチをアラレと呼んでいた。

おくどさんは今でも現役で活躍してくれていると話してくれた昭和16年生まれのMさん夫妻。



O区長さん他、Nさん、Oさん、Dさん夫妻、Oさん夫妻にM夫妻。

みなさんほんまにありがとうございました。

小鹿野のとんどが燃えている時間帯。遠くの方から煙が立ち登った。

その地は下井足。

今から車を走らせても間に合わないだろう。

(H30. 1.13 EOS40D撮影)

榛原萩原・小鹿野の初祈祷はナンジョー

2019年06月15日 09時05分30秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原萩原・小鹿野の苗代にお札を立てていた。

初めて拝見した日は平成27年の4月18日

同市大宇陀・平尾のナワシロジマイの取材を終えて立ち寄った榛原萩原・小鹿野(おがの)である。

同行していた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏が、昔に見た記憶を手繰ってやってきた小鹿野。

記憶の地は小鹿野であるのかどうかわからないが、苗代にお札があった。

イロバナが美しかったから添えてからそれほど時間は経っていない。

カラカラに乾いていない2枚のお札に見えた少しばかりの文字。

「牛」、「地蔵」、「不動」、「宝印」の文字から推定する村行事のオコナイ。

すぐ近くにある民家を訪ねて教えてもらった行事の日。

正月明けの休みの日に村人が集まる初集会。

会合に続いて行っている行事はオコナイとわかったが、会所若しくはお堂と知ったのは、2年後の平成29年4月14日

幾人か尋ねてようやくお会いした区長のOさん。

なんと、庚申さんを祭るすぐ近くに建つ集会所であった。

正月の初集会の日程は区長決め。

この年は1月7日に決まったと連絡を賜って出かける小鹿野の集会所。



その北側に鎮座する社は弁財天社。

正月らしくお供えをしていたが袋の中。

内部は見えなかった。

お伺いした集会所は旧地蔵寺でもある。

昼過ぎに集まった区長の他、3人の役員がごーさんの札作りをする。

小鹿野集落は27戸。



お札は多めに作る30枚であるが、中央に書く「地蔵菩薩」と「不動明王」の2種類。

右に「牛王」、左に「宝印」は同じであるが、「地蔵菩薩」と「不動明王」の2枚で1組みのごーさん札である。

地蔵菩薩はここ旧地蔵寺。

不動明王はここ旧地蔵寺より山の上。

里道、並びに山道を登ったところに流れる不動の滝にある不動明王堂。

3月末辺りに不動明王の大祭をしていると聞いている。

前年に残した一枚の見本。

それを見ながら村の役員でもある当番の人が墨書する。

区長にもう一人の書き手も、真心を込めて書いているという。



書ができたら朱印を押す。

朱はベンガラでなくスタンプであるが、これもまた真心を込めて牛王(玉)の宝印を押して朱印する。



合計で60枚。

ストーブ暖房の力も借りて乾かす。



一般的に多くみられる「牛玉」であるが、ここ小鹿野は長年にわたってずっと引き継がれてきた「牛王」である。

「牛王」の事例は県内事例にままある。

少なくもないが、多くもない。



乾燥し終えたゴーさん札は四つ折りして束にする。

正面、地蔵菩薩坐像を安置する祭壇に供えて夜の時間を待つ。



この日は初集会。

祭壇に2段重ねの鏡餅を供えて、御供の酒もある。

本尊は大きな厨子に安置する地蔵菩薩坐像。

右の脇仏2体は観音菩薩立像。

左に不動明王も安置していた旧地蔵寺。

毎月の一日に東組、中組、上垣内に属する地蔵講による営みがある。

組、垣内によって月割り。

東組の営みは4月、7月、10月に1月。

中組は5月、8月、11月に2月。

上垣内は6月、9月、12月に3月の廻りである。

女性講員が集まる地蔵講の毎月は同寺の清掃に花生け。

正月は松、竹(熊笹)、梅の木に千両と南天の木も添えていた。

仏飯を供えて、本尊の前に座る当番の導師。

鉦を叩いて唱える三巻の般若心経。

終えて食べていた白飯。

お家から持ち寄ったおかずでよばれていたが、現在はお茶とお茶菓子に簡素化したそうだ。

かつての地蔵講の営みは毎月に3回。

これを改めた数年前からは月に1回とした。

例月なら午後5時に始める営みは夏場になれば暑い時間帯を避けて午後5時半。

畑作業を終わってから集まっているそうだ。

昔は子どもも住んでいた家族。

住職でなく間借りの家族だったという。

そのような話しを聞いていた旧地蔵寺に鉦がある。

三本脚のある鉦は3枚。



一番大きい径が20cmの鉦に刻印があった。

「京大佛住西村左近宗春作」。



径が18cmの鉦は「室町住出羽大掾宗味作」。

一番小型の径14cmの鉦にも刻印があった「天下一出羽大掾宗味作」



私の調査範囲であるが、県内各地に見つかった「西村左近宗春」に「出羽大掾宗味」作の事例である。

「西村左近宗春」記銘の枚数は7枚。

「出羽大掾宗味」記銘は16枚にも及ぶ。

うち、「西村左近宗春」記銘に年代刻印が見られた2枚の鉦。

1枚は桜井市笠

「和州式上郡笠村地蔵堂什物 宝暦十一年(辛巳 )年三月吉日 京大佛住西村左近宗春作」鉦は、258年前の宝暦十一年(1761)。

もう1枚は桜井市北白木

「和州式上郡小白木小切施主凡人 元禄十七甲申天二月十九日 京大住西村左近宗春作」は315年前の元禄十七年(1704)であった。

もう一枚の「出羽大掾宗味」作の鉦に「天下一出羽大掾宗味作」記銘が数枚ある。

天理市大和神社が所有する鉦や下市町阿知賀・瀬ノ上垣内光明寺、大淀町畑屋が所有する鉦に“天下一”の称号がある。

そもそも「天下一」の称号を与えたのは桃山時代の織田信長。

工芸人の意欲を高めるためにあった。

天和二年(1682)以降の時代は「天下一」の乱用を防ぐために記銘することができなくなった。

若干の誤差はあるにしても天和二年(1682)以前か、以後の数年後まではと推定される「天下一」の称号。

時代確定の難しさがあるものの県内各地にある「西村左近宗春」に「出羽大掾宗味」記銘は凡その年代範疇に嵌る可能性がある。

また、大和郡山市白土町に残されている「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」の鉦がある。

製作年がはっきりしている「出羽大掾宗味」鉦は、今のところ、この一枚だけである。

「天下一」や二人の同一作者名から推定した製作年は貞享五年(1688)から宝暦十一年(1761)。

その期間は74年間。

同一人物でなく、その名を継いだ弟子が製作したとも考えられる。

そうこうしているうちに集まってきた村の人たち。

午後5時から始まる村の初集会である。

新年、あらためておめでとうございます、と新しき年を迎えた年始の挨拶。

区長からこの場におられる人を紹介しますといわれて自己紹介並びに取材主旨を伝えて了解を得る。

初集会の本題の一つは農業委員の推薦。

二つ目にとんど場や台風の影響で崩れた里道にラントバ(※石塔婆墓)の整備など。

他にボーリング大会や体育委員、老人会から墨坂神社のゾークに伊勢参りまである多様な課題を検討される。

さて、初祈祷が始まった時間帯は午後6時である。

本尊前に座った導師は区長の他、拍子木打ちも座る。

もう一人は太鼓打ち。座敷でなく、障子の向こう側の縁が立ち位置だ。

座敷を囲むように座った村の人たちの手には般若心経の読本が用意された。

蝋燭を灯してから始める初祈祷。



拍子木を打つ調子に合わせて唱える「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・・・」。

祭壇前に据えた大きな文字で書かれた般若心経は布一枚。



三巻唱えたところで一区切り。

時間にして6分半後くらいに達したとき発声された「ナンジョー」。

その声と同時に慌てて動いた太鼓打ち。

障子扉を開けてすぐさま打つ太鼓の音はドン、ドン、ドン。

3音の太鼓を打ったら再び般若心経を唱える。

太鼓打ちは所定の位置に戻ってともに唱える心経。



一巻をあげる都度に手を合わせて頭を下げる。

始まってから13分後。



2度目に発声する「ナンジョー」は六巻目を唱えたときである。

様相がわかった太鼓打ちは慌てることなく2度目の太鼓打ちもまたドン、ドン、ドン。



再び静けさを取り戻して続ける心経。

四巻唱えた最後の十巻目もまた「ナンジョー」にドン、ドン、ドン。



十巻の心経を唱えて太鼓を打った初祈祷は、発声する「ナンジョー」から充てる漢字は「難除」である。

ここ小鹿野には住職の姿は見られないが、村の人たちだけで行われる初祈祷。

太鼓を打つ場の窓は開放状態。

「ナンジョー(難除)」に打つ太鼓の音によって、窓から悪霊を追い出して、村は平和、安穏にした、ということである。

初祈祷の「ナンジョー(難除)」を済ませた村の人たちはこれよりパック詰め料理をいただく会食の場に移るので、本日のお礼を述べて集会所から離れた。

ちなみに集会所に掲げている小鹿野婦人消防団の記念写真を拝見させてもらった。

一枚は第1分団第7部消防ポンプ入魂式の模様を記録した写真。



昭和50年7月27日の記録に写る人たちの大多数は男性である。

入魂に式典される神職の周りを囲む人たちは村役や消防団の長であろう。

制服姿で並ぶ男性消防団。

記念の日に宴を催す会場は現在の小鹿野公民館。

つまり旧地蔵寺も兼ねた集会所である。

その宴の場に数人の婦人たちも会食している。

写真のタイトルに続いて書かれた「並に婦人消防団」とある。

もう一枚はそれから13年後の昭和62年9月11日。



婦人消防隊用に設備された軽可搬ポンプの入魂式。

2年後の平成元年9月6日に記録された写真は第5回全国婦人消防操法大会出場記念。

選ばれた6人の精鋭部隊が出場した女性消防団の操法大会。

出陣式にお祓いをされる神職の姿もある。

大会の会場はどこであるのかわからないが、応援幕に「ガンバレ!!はりきりママ」とあるのが微笑ましい。

もう一枚は総名28人が並んで撮った小鹿野婦人消防隊の記念写真である。



撮影日は記載されていないが結成されて間もないころであろう。

結成されたのはいつであるのかわからないが、昭和47年2月18日付けの表彰状がある。

「右(小鹿野婦人消防隊)は平素よく消防のことに励み、その成績、特に優良である」と財団法人日本消防協会会長名で表彰されているから、このころ既に組織化されていたようだ。

宇陀市のHPに平成28年4月現在の消防団のことが書かれている。

分団は大宇陀に菟田野も榛原も室生もすべてが第4分団まである男性消防団員は1008人。

女性消防団員は14人である。

かつては各村にあったと思われるが、そうでもなかったようだ。

区長らの話によれば珍しいくらい。

しかも総数がとても多いと自慢できる女性消防団であろう。

他市町村にも女性消防団はあるらしいが団員数は極めて少ないようだが、平成27年度の消防白書によれば、平成19年以来、年々増加の傾向にあるらしい。

当時の記念写真である。

スカーフでもないような制服に目立つ赤の色に昭和45年(1970)のジャンボジェットの就航を思い出す。

ネットの頁を捲ってみたら、スタイルに大きな違いは見られるが、小鹿野婦人消防隊の制服は日本航空の制服に匹敵するくらいのクオリテイだと思った。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)
(H30. 1. 7 EOS40D撮影)