マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

越の弁天さんのイノコマツリ

2014年03月31日 07時49分57秒 | 明日香村へ
天さんのイノコマツリをしていると聞いていた明日香村の越(こし)。

氏神さんは許世都比古命(こせつひこのみこと)神社。

通称は「五郎(老)宮(ごろうぐ)」である。境内社に厳島神社こと弁財天社がある。

弁財天と刻まれた燈籠は「享和五年」。

享和年代は4年(1804)しかない。

なにかの見間違いであろうか。

月初めの亥の日に行われるイノコマツリ。

充てる漢字は亥の子祭りであろう。

夜6時ともなれば村の氏子(28戸)が集まる場だ。

それに先立って幕を張るトヤ(頭家)家。

神饌や御幣も供えて村人を待つ。

御幣は木でもなく、竹でもなく、「ヨシ」である。

「ヨシ」が生えている地も少なくなり、「遠くまで採りにいかなあかんようになった」と云う。

弁天さんのマツリでは1本の御幣であるが、秋のマツリでは24本も作るそうだ。



弁天社の境内に手伝いさんが用意していた湯釜がある。

穴を掘ってそこに雑木を燃やす。

釜床は穴なのである。

イノコマツリが始まる前に拝見した羽根付き湯釜に刻印があった。



「大和 高市郡越村 五師大明神 御湯釜 明和三年(1766)七月吉日 五位堂村鑄物元祖 津田五郎平 鑄之」である。

凡そ250年前に鑄造された湯釜である。

刻印にある鑄物師の名は「津田五郎平」。

津田家は、湯釜が製作される28年前の元文三年(1738)に高市郡の鑄物大工職許状を授かった五位堂鋳造名家のひとつ。

家祖は、慶長十九年、「国家安康」で名高い京都方広寺大佛殿梵鐘を鋳造した脇棟梁の一人で、享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の名を拝領したそうだ。

御所市の蛇穴(さらぎ)で拝見した湯釜は同じく津田家の鋳造。

「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田磯七 文化十四年(1817)九月吉日 津田大和大掾藤原定次」であった。

越の湯釜のよりも新しい200年余のもの。



しかも釜の羽根には寶珠の文様がある極めて珍しい様式。

貴重な湯釜であるが、トヤ(頭家)を手伝う人は始めて知ったと云う。

越の氏子は28軒。氏子入りした順に勤めるトヤ(頭家)家である。

秋のマツリの御幣は24本。

この日に聞いた氏子中は22、23軒だと云うから2年前に聞いていた氏子中から何らかの理由で数軒が辞退されたのであろう。

トヤ(頭家)家だけでは負担がかかる。

隣近所が支援するお手伝いも忙しく作業をされる。

この日もされていた境内雑木の伐採である。



トヤ(頭家)家は弁財天社の神饌だけでなく、許世都比古命神社本殿、燈籠にモチを供える。

鳥居下にある庚申さん、大師堂などにも供える。

それより1時間前。

祭祀を勤める飛鳥坐神社宮司は村内50戸を一軒、一軒巡っていた。

訪れた家に上がって「神棚に向かってお祓い、次に火を使う場に赴いて紙ふぶきをしますんや」と云うトヤ家の手伝いさん。

「もう終わっているけど我が家に来て見ますか」と云われて案内される婦人。



その場はIHヒーターがある炊事場だった。

床には紙ふぶきが散らばっていた。

かつては竃であった一年に一度のお祓いは「火」の用心。

三宝さんなども含めて火の神さんを鎮めるお祓いである。

最初にお祓いをされる家はトヤ(頭家)家。

それから「の」の字を書くように村中を巡っていく。

1軒あたり8分間ぐらいかかっていたのであろうか、旧村全戸を終えるには3時間もかかるお祓い。

道案内される人も宮司も汗びっしょりであった。

その頃、ピカッと光り出したカミナリ。

ゴロゴロと音も鳴りだして、弁天社で御湯(おみゆ)の神事をされるときには土砂降りになった。

とんどを設えていた境内は泥水に浸かってビタビタである。

運動靴も上着もグシュグショに濡れてしまう御湯の神事。

宮司が出仕される前から雑木に火を点けて湯を沸かしていた。

木の蓋を開ければもうもうと湯煙りがわきあがる。

塩、酒を湯釜に投入されて幣で掻き混ぜる。

テントで覆った斎場にカミナリの光りが走る。

湯に浸けた二本の笹。

参拝者に向かって祓い。



そして祝詞奏上で締められた。

参拝される氏子は傘をさしているが地面は水浸しである。

本来であれば暖をとるとんど周りに座ってパック膳を食べる直会となるが、この日はとてもじゃないが不可。

こういう雨天の場合は神社の参籠所が場になる。


膳が配られた席につく氏子たち。

始める際にはトヤ(頭家)家の施主が口上を述べる。

それから座中に酒を注ぎ回って総代の乾杯でいただく直会は「座」であった。

その間はトヤ(頭家)も手伝いさんも食べることはせずに接待に徹する。



下げた130個の「ゴク(御供)」のモチは数個ずつ座中に分けて席に配る。

「稲を刈り取った一束は、人が一日に食べる量。

お米三合に相当する米粒は1万五千粒。

イノコは新米に感謝する日である」と述べられた飛鳥宮司。

お米はパック詰め料理になったがありがたくいただく座中食。

越の座中は正式には宮講氏子。

15年ほど前までのマツリはたいへんであったと云う。

「ゴンダ」と呼ばれるご馳走は白菜と鯨のコロ。

ハモの照り焼きに新米ご飯のてんこ盛り。

ナマブシ、タイメンもあったそうだ。

供えた鯛は竹の皮に包んで蒸す。

鯛をほぐして大皿に盛った上にソーメンを乗せるなど、とにかくたいへんやったと話す。

それより以前の平成7年ではアンツケモチもあったそうだ。

弁天さんの日にはオハギ。

秋のマツリではコシアンだったアンツケモチ。

予め作っておいたアンツケモチは始めに手伝い家に配る。

宮講氏子(氏講とも)には昼に配っていたそうだ。

毎年10月8日は宮送り。

夕方にトヤ(頭家)家を出発するお渡りには伊勢音頭も唄われる。

拝殿で高砂などを謡ってトヤを引き継ぐ儀式もあるらしい。

その際には三段重ねの錫杯で酒をいただく三三九度の酒杯。

杯は真ん中の杯を選ぶことになっている。

仲の良いようにということである。

差し出す料理はカマス、スルメ、マツタケだそうだ。

トヤ受けには受けるホンカゲとウラカゲがある。

ウラカゲはどうやら予備の者らしい。

昔は紋付き袴でトヤ受けをしていたが、今では礼服でトヤ渡し。

儀式を終えれば受けトヤ(頭家)の家までお渡りをする。

二十数年の廻りのトヤは一年間の奉仕。

1月14日のとんどの日で役目を終える。

ご馳走は簡素化されたが、夏祭り、八朔日待ちもある越の年中行事には再訪したいものである。

(H25.11.17 EOS40D撮影)

西佐味水野亥の日の弁天さん

2014年03月30日 07時55分16秒 | 御所市へ
平成18年に赤い鳥居を寄進された御所市西佐味水野の弁天さん。

水野の集落は8戸であるが、講中は5戸。

講中の年中行事はシンギョ、とんど、弁天さん、観音さん、亥の日、山の神。他にも大師講、伊勢講もあるそうだ。

赤い鳥居を寄進された講中は施設に入所されて欠席され、なにかと忙しい講中のお勤めはいつも同じ顔ぶれ。

山の神もそうであったがが、「いつまで続けられるかどころか、数年後には止めてしまうかも」、と話す。

シンボルタワーのようにそそり立つ樹齢数百年の大川杉の下に市杵島姫の神を祀る弁天さんが鎮座する水野の地である。

水野在住の高鴨神社の宮司さんが今回の当番にあたった。

ゴザであったら貧しかろうと赤いカーペットを敷かれる。

弁天さんは年に一度の開扉。

御簾もきちんと垂らしている。

山の神の当番だった男性の奥さんや宮司の奥さんも参列されて神饌を供える。



講中揃って身潔祓詞を三巻唱える。

開扉している弁天さんが見ておられる、お姿が写り込んではならないと伝えられて祝詞奏上はシャッターオフのお断り。

手を合わせて静かに見守る。

「旧暦、夜十時ぐらいから行われていた宮中行事に食べる習慣があった。

その日は亥の日。イノコのモチを食べる。

小学校の頃はゴクマキもしていた」と話す宮司。

2番目の亥の日にされる地域もあるが、水野の弁天さんは月始めの亥の日。

弁天さんにモチを供えられた。

空は晴れ晴れ、穏やかな風が流れるこの日は温かい。

「いつもならもっと寒いんやけどなぁ」と口々に云う講中。

しばらくはこの弁天さんの前で直会をされ、気持ちの良い時間を過ごす。



天狗が住んでいるのかと思えた西佐味水野の一本杉の樹高は約28m、幹周りは6mにもおよぶ。

「下界のおまえたちよ、騙しも嘘もしてはならん、正直で暮らせよ」なんて声が聞こえてくるようだ。

水野には「ジンジョウ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、暮六ツ、初夜」の時間割を書いた「番水」板書がある。



ここら辺りは数多くのため池がある。

子供の頃は釣り糸を垂らして大きな鯉を釣ったと云う池は、今でも魚影が濃く、水底も見えるほどに美しい池の佇まいに時間を忘れる。

(H25.11.17 EOS40D撮影)

皿盛りごはんよくばり河童のぶっかけうどん

2014年03月29日 09時33分54秒 | 食事が主な周辺をお散歩
うどん専門店の「よくばり河童」はスーパーセンターオークワ御所店にある。

5月に出かけた際は併設する「粉もん処わっぱ蛸」店のお好み焼きそばセットを食べた。

この日のお目当てはうどんである。

かけうどんの味を確かめたいと思ったが、注文したぶっかけうどんが出来あがった。

手渡されていた器具がプルプルと音は鳴るが目と鼻の先で店員さんが押していた。



揚げたての天カスを盛ったぶっかけうどんは見た目に多くはない。

丼の縁にたっぷりの摺りおろし生生姜がある。

出汁はうどんの底にあるが見えない。

生姜を麺に混ぜていただくぶっかけうどんは温仕立て。

温か麺に混ざって箸で上げるうどん。

口元に持ってくれば生姜と出汁の香りが漂う。

つるつる食感がたまらない。

カツオ出汁であろうと思ったぶっかけうどんが美味しい。

これなら大盛りでと思ったが、次回に回しておこう。

(H25.11.17 SB932SH撮影)

白土町浄福寺十夜の小豆粥

2014年03月28日 09時29分43秒 | 大和郡山市へ
奈良市西大寺芝辻にある真言律宗総本山の西大寺。

中興の祖とされる興正菩薩の生誕地が大和郡山市の白土町だ。

室町時代以前は箕田と呼ばれていた白土荘。

その西大寺と関係を示す石造宝篋印塔が浄福寺境内にある。

覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式。

当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものと伝わる。

宝篋印塔の四面にはそれぞれ刻印が見られる。

正面の「顴譽淨音居士 歡譽淨喜居士 經譽壽誓比丘尼 和光道受居士 本譽故願任誓比丘尼 艶顔妙容大姉」は六故人の名であろう。

右側面は「仲貞幹字子節其先木 曽我義仲亡慶玄者更 姓仲氏匿和州箕田生 三子長為嗣次蚉卒次 為僧中興於西大寺 賜諡興正菩薩矣其衣 盋杖拂迄令蔵仲氏面 家世殷富中衰節之曾」とあり、曽我の義仲(木曽義仲か)を祖とする仲氏が箕田の生まれ。

西大寺の僧、興正菩薩より衣を賜ったとある。

正面裏には「祖貞章勤労業遂複舊 矣節為人謹素克家今 皆其妻病卒節□曾祖 有功干家且喪偈之哀 而造寶塔而置田□資 祖先之耎毎月□□□ 斎談経□成話□之□ 也其壱寶可□矣□□」があった。

見誤りも多数あるが書きとめておく。

正面左には「慶般為兄節来請余誌 余謝不可於是乎書之 吂天明癸卯(1783)之秋也 西大寺衆首第五十八世尊堂謹識」があった。

西大寺中興の祖である第一世興正菩薩から数えること五十八世の尊堂の名があった。

歴代長老の第六十四世が佐伯弘澄氏であることから現代に於いて云い伝えを書識建之されたのであろう。

この日のお勤め法要はお十夜。

「五重相伝」によって生きている間に戒名を授かった男女20数名の五重講の人たちが浄土宗智光山浄複寺に集まってくる。

昼にパック詰め料理の膳をよばれる十夜の昼膳。

かつてはダイコン、ドロイモにアツアゲの煮もの料理であった。

講中は家にある椀などを風呂敷に包んでお寺にやってきた。

漬物もあった十夜の膳はお勤めの前にいただく。

法要を済ませて小豆粥を食べていたと浄福寺の住職は話す。

かつては小豆粥でなくセキハンだったそうだ。

その昔は黒米、赤米のセキハンであった。

いつしか小豆を入れて炊くセキハンになった。

セキハンはオニギリにして食べていた。

その後になって小豆粥に移った。

セキハンの時代はどうやら戦前の頃の様相であるらしい。

15年ほど前は村の子供たちがたくさんいた。

公園で遊ぶ子供の数も多かった。

10年ぐらい前になれば少子化の時代を迎えた白土町。

そのような時代になって数珠繰りはしなくなったと云う。

十夜のお勤め始めは法話から。

それより30分前のことである。

観音堂に登ってご詠歌をされていた集団は、浄土宗本山である京都知恩院で吉水流詠唱を学ばれた吉水講の婦人たちだ。

春・秋の彼岸と十夜にお勤めをされる講中は左手にリンを持って右手で鉦を打つ。

5、6年ほど前からお勤めをするようになったそうだ。

観音堂でされていたのは前練習。

本番は法話に次いでご詠歌を唱える。

次が勤行。

お念仏は常々と同じで、決して特別なことでもないと住職は話す。

「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の念仏を唱える。

十夜のお勤め法要されている時間帯は6人の年番婦人たちが小豆粥を作る。

五重講や年番の人たちのなかには存知している方々も多いが、法要取材は遠慮して粥作りの一部始終を拝見した。



小豆粥は大鍋に五合の米と二合の小豆で作る。

それを二杯の大鍋で炊きあげるから合計で米一升に小豆は四合。

けっこうな量である。

ある程度の量でなければ「粥が少なすぎる」と講中から云われるのでそうしていると住職は話す。

米と一緒に予め茹でておいた小豆をチャチャチャと炊くのであるかと思えば、そうではなかった。

まずは小豆を入れて、ほどよく茹でて、お湯を捨てる。

茹でた小豆を取り出して、鍋に新水を注入して再び茹でていく。

小豆を取り出した茹で汁はバケツに入れる。



一番だしは捨てるが、二番だしは柄杓で掬って上から落とす。

これを何十回も繰り返すのである。

そうすれば徐々に茹でた汁が赤くなってくる。

この状況を酸化させると云う住職。

予め聞いていた酸化の状態は初見である。

茹でた小豆を取り出して、新水を入れてさらにもう一回茹でる。

二番だしと同じように、三番だしも柄杓で掬って上から落としていく。



茹でたばかりだというのに、もうもうとたち上がる湯気は小豆の匂いが香ってきた。

これが小豆粥の重要な作り方だという年番さん。

上手くできるかどうか心配しながら作っていく茹で汁は緊張ずくめの作業だ。

セキハンもこうして茹で汁を作るのだと話す年番さんは寺世話(てらぜわ)。

垣内から一人ずつ、一年任期で勤めている。



茹で汁の二番だし、三番だしを掬う柄杓は13杯。

大鍋に入れて分量を確かめる。

若干足らないと判断されて新水一杯を補充された。

二つの大鍋、それぞれに米五合と小豆二合を入れて炊きあげる。

炊きあがり具合を確かめてお塩を小さじ4杯ぐらい入れる。



こうして出来あがった小豆粥は美しき小豆色に仕上がった。

作業を始めてから丁度2時間ぐらい。



「手間がかかりまんねん」と話す年番さんはほっとした顔つきになった。

お勤め法要の永代供養・塔婆回向が丁度終わるころに出来あがった小豆粥。

30分ぐらい蒸らした方が出来が良いそうだ。

狐狸に移った五重講の人たちは席につく。

年番さんが椀に盛って席に配る。

十夜の小豆粥は、住職の奥さんが作られたユズダイコンの漬物やダイズとヒジキの煮もの、ニンジン・レンコン・ウスアゲ・シイタケコンブの煮ものとともにいただく。

「あんたも食べてや」と云われて席につく。



手がこんだ小豆粥はむちゃ美味しい。

漬物や煮ものも美味しいので、2杯もおかわりをいただいてしまった。

感謝、感謝の小豆粥に大満足した。

(H25.11.16 EOS40D撮影)

丸福軒の大サービス醤油そば

2014年03月27日 07時50分35秒 | 食事が主な周辺をお散歩
この年の7月にオープンした丸福軒下三橋店。

オープンしてから数週間後に出かけたことがある。

前日に配られた新聞チラシにあった丸福軒の大感謝祭。

15日~17日までの期間に限られる大感謝祭の目玉は、なんと、なんとである。

一杯が580円の醤油そばが100円。

えっ、100円引きの誤記表示ではないの、と思ったチラシ案内。

何度も何度も読み返した。

時間制限があるのだろうと見るが、そうでもない。

とにかく一人一杯に限っての限定販売だ。

たまたまではあるが、この日は近くの白土町に居た。

昼どきは講中がお寺さんで会食される。

その間は私も昼どき。ちょうどいい時間帯だ。

丸福軒の店内は行列ができていた。

それほど多くでもない。

氏名と人数、希望席を記入してチェックイン待ち。

しばらくして案内されたカウンター席。

一人客はいち早く席につくことができる。

店員さんが尋ねたご注文の返事は「醤油そばを一杯」である。

店内は仕事休みの昼食に家族連れ、友だち連れでいっぱいだ。

数分も待てば席に出てきた醤油そば。

ほとんどの人はヤキメシ、ギョーザも注文しているが、私は目当ての一杯だけ。

大盛りなら100円アップであるが、お腹に堪えるから通常バージョン。

これが美味いのである。

豚の背あぶらがぷかぷかと浮いているスープは醤油味。

さっぱり感であるが、味にコクがある。

絡んだ麺がつるつるあがっていく。

のど越しが良い麺は好のみの味。

半切れ煮タマゴが浮かんでシナチク、ネギ盛り。チャーシューは4枚も盛っている醤油そばは美味すぎる。

チャーシューの味は特に気にいった。

薄切りであるが、歯ごたえのある食感に豚肉の油身がトロトロ感。

絶品である。

(H25.11.16 SB932SH撮影)

が、平成26年3月31日に通りがかった国道の建物が壊されている。

リニューアルなのか、それとも解体。

しばらく様子を見なければ・・・と思っていたが、4月ともなれば、出入り口にロープを張って、すべての看板が塗りつぶされていた。

開店してから一年少し、丸福軒は消滅した。

屋根瓦の補修

2014年03月26日 07時26分42秒 | ぽつりと
月初にやって来た「株式会社大工さん」。

契約の範囲内での定期点検だ。

2階の屋根に上がって点検した結果は散々である。

一部の屋根瓦が破損しているし、漆喰も剥がれている。

甍の波の瓦もずり落ちている。

平成22年10月には一階建ての奥の部屋の屋根瓦は修理したものの、2階建て部分は費用の関係もあってそのままにしておいた。

このままでは雨漏り状態になるのも近い将来である。

自宅建築からすでに32年も経った。

「はじまりあれば終わりあり」。

家屋であろうが、なんであろうが、物は出来あがった瞬間から終末を迎える。

賞味期限、消費期限のようなものではない家屋は住み続ける限り安全でありたい。

住まなければ朽ちていく家屋。

自宅建築の際に読み漁った建築雑誌には20年、30年という期間に壁、屋根を修理しなければならないと書いていた。

まさに今がその時期になったのだ。

屋根瓦補修の見積金額は予想をはるかに超えた20万円。

どえりゃー金額がのしかかるが、仕方がない。

本質的にはリフォームしたいが、それもできない。

十年前には壁面の塗り替えをしたこともある。

そのときの金額は60万円。

サラリーマン時代だったので何とも思わなかった。

今では年金生活。

苦しい家計のなか、なんとかねん出して修理を頼むことにした。

(H25.11.16 SB932SH撮影)

西興寺十夜会の供養袋

2014年03月24日 07時52分37秒 | 大和郡山市へ
横田町の神社行事でお世話になった市場垣内の役員さんから「西興寺の十夜に持っていく供養袋を見るか」と云われて撮らせていただいた。

農家であればその袋に新穀の米を詰めて寺に持参するのであるが、一般の家では現金納めだ。

平成21年の11月拝見した奈良市都祁小倉の観音寺の十夜でも同じような袋で納めていた。

いわゆる佛しょう(食偏に肖)袋であって、本尊の仏さんに供えていた。

大和郡山市横田町の西興寺で営まれる十夜に納める袋の名は「供養袋」だ。

毎年の10月14日に営まれる十夜の数日前。

檀家当番の人が袋を持ってくる。

お米ではなく現金を入れて14日の朝に西興寺の住職に預けると話す。

農家であれば新穀の米を寄進するが、供養袋に溢れるほどの量であるゆえ、別途に入れて持っていく。

すべての檀家がそうするわけでもなく、蝋燭や線香を入れて持っていく家もあるらしいし、小豆の家もあるそうだ。

先祖代々のお役目が決まっているのだろう。

小豆はお粥に入れて炊く。

炊きあがる前に塩を入れる。

食べるのは檀家の子供たち。

幼稚園児や小学生の子供だそうだ。

ハクサイなどの漬物とともにいただく。

小豆粥を炊くのは念仏講の当番の4人。

毎年交替するらしく、撮らせていただいた男性も勤めたことがある。

大鍋で炊く火が大型のガスコンロ。

鍋二杯も炊くそうだ。

14日が十夜の日。

午後に集まった当番さんが庫裏の前で炊いていた。

十夜には尼講の人たちもやってくる。

ヨバレに出されるふるまい小豆粥には南天を添えるそうだ。

新穀の収穫に感謝し、これまでの「難」を天に通じて「福」になるための南天。

ありがたい小豆粥のヨバレである。

(H25.11.12 EOS40D撮影)

特定健康診査

2014年03月23日 08時07分18秒 | むびょうそくさい
協会けんぽに加入していた任意継続が契約満了となって、本年度より市の国民健康保険に加入した。

何カ月か経ったころに郵送された『特定健康診査のお知らせ』には「将来の病気につながる危険性を見つけるための検診」のお勧めとある。

自己負担額は1000円だ。

少額であるが、自覚症状がないまま進行する高血圧、糖尿病などの生活習慣病を早期に発見してくれるという。

検査結果の数値に変化があるのか、ないのか、である。

いたって健康だと自己診断する過信は禁物だ。

そう思っていてもなかなかその気にならない受診。

この日は、気持ちのうえでも余裕があった。

思い立って受診した北和診療所。

なにかがあれば診断してもらっている。

受診券・問診票・保険証を持参して窓口に申し込んだ。

前もって予約が必要な医療機関もあるが、診療所は直ちに受けつけてくれた。

計測は身長・体重・腹囲・BMIに血圧、検査は尿糖・尿蛋白・血液に心電図だ。

なんともないだろうと高をくくっていたが、今までと違った数値がいきなり出た。

血圧である。これまで60代から130代までだった数値が、なんと、89-151になっていた。

高血圧の一歩手前の数値である。

心電図でもおかしいと云われた脈拍は48。

若いときから低い数値の脈拍に驚かれる看護師さん。

30年前に越してきた当時も受診した診療所。

当時おられた大先生の言葉、「スポーツマンの心臓や」と云われたことを思い出す。

どこの病院でも心電図の結果は「不完全右脚ブロック」だ。

脈拍が70にもなれば、心臓がばくばくして起きあがれないことが稀にある。

ここ数年間はそんな症状もないから安心していたが、あまりにも低すぎる脈拍数。

40を切ってしまうようであれば、ペースメーカーを装着しなければと伝えられた。

血液検査の結果がでる一週間後には、24時間計測する心電図を身体につけようと云われた。

寝ている状況が最も怖い。

心臓が停止するかもしれないと云う。

それから一週間後、血液検査の結果がでた。

主要な検査結果であるγ-GTPが65、中性脂肪のTGは53で、充分な許容範囲内。

HDLコレステロールはやや高めの82であるが、特に問題はない。

尿酸、血糖数値も6.4、93であり、これもまた特に問題なし。

脈拍については、今のところ生活に影響を与えるものではないという診断結果にほっとする。

一年後も検査を受けて今後も身体の具合を診ておこうか。

(H25.11.12、19 記)

横田町柳生素盞嗚神社当家祭り

2014年03月22日 09時56分38秒 | 大和郡山市へ
辰巳城(たつんじょ)・西・市場・中・南垣内の五垣内からなる大和郡山市の横田町。

これまで八幡神社・治道和爾下神社のトーヤ(当家)のお渡りなどを取材していたが、南垣内に鎮座する素盞嗚神社の行事は失念していた。

南垣内は柳生垣内とも呼ばれる地。

集落外れの小垣内である。

それより隣接する南側は天理市の南六条北方である。

北方も元柳生の地と呼ばれている。

「ここから柳生へ移った人がおって、あそこが柳生の地名になったんや」というのは奈良市の柳生。

剣豪柳生一族で名高い地である。

かつては「楊生(やぎう)」の字を充てていた元柳生の地。

平安時代中期に作られた和名抄には「楊生郷」の名が見られるそうだ。

現在の山村町、楢町、山辺村、横田・南六条町、八島町、櫟本町、春日、山町は、かつて旧添上郡内の山村郷、楢中郷、山辺郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷、大宅郷の呼び名であった八郷。

延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園だ。

そのような歴史を物語る元柳生の地に鎮座する素盞嗚神社は大和郡山市横田町の南垣内。

今でも柳生垣内と呼ぶ地域には5軒で営んでいた「座」があった。

氏神さんは一年間も祀っていたトーヤ(当家)家。

神饌などを供えるトーヤ(当家)の祭りをされていた。

今でも座帳文書を持ち回りしているが、神社行事は村行事に移った。

集まった氏子たちはおよそ15人。

神饌は略されたが本殿に供えて一同が拝殿に並ぶ。

祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌を経て宮司一拝されて神事を終えた。

かつては拝殿に座って直会をされていたが、今では垣内の公民館に場を移した。

座敷に上がって席につく氏子たち。



パック詰め料理に供えた神饌の内、結び昆布やカマボコ、リンゴを配膳するトーヤ(当家)。

それから数時間に亘って語らいをする直会の場。



かつては夕刻近くまでされていたが、今ではほどなく終えると云う。

それから始まるトーヤ(当家)受けの儀式。

新旧トーヤ(当家)が酒を酌み交わすそうだ。

公民館は日待ちの場でもある。

2月、5月、9月の年三回に集まる日待ちに掲げる掛軸がある。

中央に配した雨宝童子は天照皇太神。

囲むように4神が描かれている。



右上は多賀大社の伊弉諾尊、左上は熊野神社の伊弉册尊。

右下は大巳貴命で、左下は稲蒼魂命である掛軸は「開運壽福地神」の5神を祀るが、時代記銘は見られなかった。

素盞嗚神社に建ててあった数々の燈籠。

これらには建之された年代記銘の刻印が見られる。

鳥居したにある燈籠には「明和五年(1768)戊九月吉日 午頭天皇社」とある。

境内にあったもう一つの燈籠では「宝暦三年(1753) 午頭天皇社」である。

260年前の江戸時代の神社名称は午頭天皇社であったのだ。

(H25.11.10 EOS40D撮影)