大和郡山市番条町の各家は弘法大師木像を祀っている。
4月21日は厨子ごと弘法大師木造を門屋など移して出開帳される。
合計で88体あるというから1軒、1軒巡ることで四国へんろ道の八十八カ所を巡拝したことになるありがたい村落である。
由来書によれば文政13年(1830)にコレラが流行った際に人々が申し合せて弘法大師を信仰したのがはじまりだとされている。
やむを得ず引越しされた家は隣近所や阿弥陀院、大師堂に預けている。
大師空海が入定された日は4月21日。
そのお大師さんを信仰する大師講(だいしこう)はその日を命日として毎月の21日をお勤めする日としている。
番条町にはその講が北と南垣内に二つある。
南は文化三年(1806)建立の藪大師(昭和33年2月21日に再建)で、北は大正四年(1917)四月二十一日に落成されているものの元は文政13年(1830)の建立の大師堂だったようだ。
北の大師講の始まりは明治の初年、町内の人が四国詣りをして本尊をたばってきた。
寄った7軒が長屋風の建物を手立てた。
その後に再び四国詣りをされて四国のお堂と同じような建物にした。
それが大正4年だったそうだ。
戦後に現在の講となって続けられてきた。
いずれも集まった講中が念仏を唱えているが南の大師講は講の家の持ち回りとしているようだ。
かつて出開帳は1月の初大師、4月の春の大師に8月の盆大師が行われていたが明治時代の末頃に春の大師だけになった。
それが今でも続けられてきた。
北の大師講ではその日は出開帳で忙しいことからお勤めは三日前にされている。
夕食を済ませた6軒の講中たちはお堂に集まってきた。
ほとんどが女性だがお一人は男性だ。
座布団を敷いて本尊にローソクに火を灯し線香をくゆらせた。
大和棟に住まいするSさんが導師となって本尊前に座る。
はじめに開経偈(かいじょうげ)のお念仏をあげ、続いて般若心経を三巻唱える。
線香の煙がお堂のなかに溶け込んでいく。
そしてカーン、カンと鉦を叩いて始まった「弘法大師和讃」。
「きみょう ちょうらい へんじょうそん ほうきごねんの みなづきに たまもよるちょう さぬきがた びょうぶがうらに たんじょうし ・・・」の調べは十九夜和讃と同じような旋律に聞こえた。
「なあーむだいしー へんじょうそん」を三回繰り返して、最後に御宝号の「南無大師遍照金剛」を唱えて終えられた。
お勤めを済ませるとお供えのお下がりが配られる。
今はお菓子になっているが講中の先代だった親たちの時代はイロゴハンがつきものだった。
アブラアゲやニンジンなどの季節野菜を入れて炊いていた。
この時期だったらタケノコが入っていたと思うという。
それもそのはずその頃は若いとき。
実際には見たことがなく姑や母親の話を聞いていただけだったが御櫃を一輪車に積んで持っていったことははっきりと覚えているそうだ。
それを用意するのは当番の人だった。
家の漬物はめいめいが持ってきたようだ。
その当番は毎月のお勤めを終えたらカバンごと引き継いでその夜に交替する。
大和北部では明和六年(1769)に郡山の紺屋町に住む池田屋六兵衛が願主となって1番札所の大安寺、番条村では阿弥陀院を5番札所、熊野神社付近にあった光明院は64番札所とした。
その後、光明院は廃寺となり本尊は阿弥陀院(現在は57番)に移された。
大師堂の前には大正15年(1926)に作られた「大和北部八十八カ所64番番条光明院」の石柱があるのはその名残であるが現在も霊場の一つとして御朱印参詣される人もいるそうだ。
講中のお話によれば、後日に箱を整理したら弘法大師座像のお札が出てきたという。
参拝に来られた人にはご朱印帳とともに差しあげようかとも話すが版木は見つかっていない。
そのお堂は不審者を見かけることもあり、何年か前には火点けの仕業現場を見つけたこともあって、数年前には熊野神社とともに防犯ベルや発光装置を設置された。
<弘法大師和讃本>
『帰命頂礼遍照尊(きみょうちょうらいへんじょうそん)
宝亀五年の六月に(ほうきごねんのみなづきに)
玉藻よるちょう讃岐潟(たまもよるちょうさぬきがた)
屏風が浦に誕生し(びょうぶがうらにたんじょうし)
御歳七つの其時に(おんどしななつのそのときに)
衆生の為に身を捨て(しゅじょうのためにみをすて)
五の岳に立雲の(いつつのたけにたつくもの)
立る誓ぞ頼もしき(たつるちかいぞたのもしき)
遂に乃ち延暦の(ついにすなわちえんりゃくの)
末の年なる五月より(すえのとしなるさつきより)
藤原姓の賀能等と(ふじわらうじのかのうらと)
遣唐船にのりを得て(もろこしふねにのりをえて)
しるしを残す一本の(するしをのこすひともとの)
松の光を世に広く(まつのひかりをよにひろく)
弘の給える宗旨をば(ひろのたまえるしゅしをば)
真言宗とぞ名づけたる(しんごんしゅうとぞなづけたる)
真言宗旨の安心は(しんごんしゅうしのあんじんは)
人みなすべて隔てなく(ひとみなすべてへだてなく)
凡聖不二と定まれど(ぼんじょうふにとさだまれど)
煩悩も深き身のゆえに(なやみもふかきみのゆえに)
ひたすら大師の宝号を(ひたすらだしのほうごうを)
行住坐臥に唱うれば(ぎょうじゅうざがにとなうれば)
加持の功力も顕らかに(かじのくりきもあきらかに)
仏の徳を現とずべし(ほとけのとくをげんずべし)
不転肉身成仏の(ふてんにくしんじょうぶつの)
身は有明の苔の下(みはありあけのこけのした)
誓は竜華の開くまで(ちかいはりゅうげのひらくまで)
忍土を照らす遍照尊(にんどをてらすへんじょうそん)
仰げばいよいよ高野山(あおげばいよいよたかのやま)
流れも清き玉川や(ながれもきよきたまがわや)
むすぶ縁しの蔦かずら(むすぶえにしのつたかずら)
縋りて登る嬉しさよ(すがりてのぼるうれしさよ)
昔し国中大旱魃(むかしこくちゅうおおひでり)
野山の草木皆枯ぬ(のやまのくさきみなかれぬ)
其時大師勅を受け(そのときだいしちょくをうけ)
神泉苑に雨請し(しんぜんえんにあまごいし)
甘露の雨を降しては(かんろのあめをふらしては)
五穀の種を結ばしめ(ごこくのたねをむすばしめ)
国に患い除きたる(くにのうれいをのぞきたる)
功は今にかくれなし(いさおはいまにかくれなし)
吾日本の人民に(わがひのもとひとぐさに)
文化の花を咲かせんと(ぶんかのはなをさかせんと)
金口の真説四句の偈を(こんくのしんせつしくのげを)
国字に作る短歌(こくじにつくるみじかうた)
いろはにほへどちりぬるを
わがよたれぞつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしとひもせず
まなびの初めにし稚子も(まなびそめにしおさなごも)
習うに易き筆の跡(ならうにやすきふでのあと)
されども総持の文字なれば(されどもそうじのもじなれば)
知れば知るほど意味深し(しればしるほどいみふかし)
僅かに四十七字にて(わずかにしじゅうしちじにて)
百事を通ずる便利をも(ひゃくじをつうずるべんりをも)
思えば万国天の下(おもえばばんこくあめのした)
御恩を受けざる人もなし(ごおんをうけざるひともなし)
猶も誓の其の中に(なおもちかいのそのなかに)
五穀豊熟富み貴き(ごこくほうじゅくとみたとき)
家運長久知慧愛敬(かうんちょうきゅうちえあいきょう)
息災延命且易産(そくさいえんめいかゆいさん)
あゆむに遠き山河も(あゆむにとおきやまかわも)
同行二人の御誓願(どうぎょうににんのごせいがん)
八十八の遺跡に(はちじゅうはちのゆいせきに)
よせて利益を成し給う(よせてりやくをなしたまう)
罪障深きわれわれは(ざいしょうふかきわれわれは)
繋がぬ沖の捨小船(つながぬおきのすておぶね)
生死の苦海果もなく(しょうじのくかいはてもなく)
誰を便の綱手縄(たれをたよりのつなでなわ)
ここに三地の菩薩あり(ここにさんじのぼさつあり)
弘誓の船に櫓櫂取り(ぐぜいのふねにろかいどり)
たすけ給える御慈悲の(たすけたまえるおんじひの)
不思議は世世に新なり(ふしぎはよよにあらたに)
南無大師遍照尊<三回> 南無大師遍照金剛』
(H23. 4.18 EOS40D撮影)
(H23. 4.21 EOS40D撮影)