この年の御供はどのような形になったのだろうか。
その年、その年でないと形がわからない御供は野菜で作る。
元々は、村の住民たちが、お寺に寄進する形式だったと推定される行事。
初めて訪れた奈良市小倉町にもあった。
にも、あったというのは、私の知る範囲のことだ。
野菜作りの御供の2事例目に見つかった小倉の事例である。
小倉町は、かつて旧都祁村にあった。
平成17年4月、市町村合併政策により、添上郡月ヶ瀬村とともに、奈良市に編入された旧山辺郡都祁村大字小倉。
それ以前の小倉が属していた針ケ別所村(※針ヶ別所村、小倉村、上深川村、下深川村、荻村、馬場村)。昭和30年、隣村の都介野村(※藺生村、小山戸村、相河村、南ノ庄村、甲岡村、来迎寺村、友田村、白石村、吐山村、針村)と、ともに合併した都祁村である。
平成20年9月17日の観音寺の観音講会式。
初めて見る小倉の会式に、野菜で作った御供を供えていると教えてもらったのは、小倉が出里の婦人だった。
平成20年6月4日、
旧都祁村小山戸の行事取材でお世話になったI区長の奥さんとの出会いが、ご縁を繋げてくださった。
話は遡るが、そもそもの縁繋ぎになった行事がある。
旧都祁村より西方の地にある天理市福住。
上入田(※かみにゅうだ)の不動寺で行われた「御膳」行事である。
そのことを知ったのは、奈良新聞に載っていた小さな囲み記事。
後日判明したその記事は読者投稿によって採用された新聞記事。
上入田に住むOさんが、村の行事を紹介したく奈良新聞社に投稿されたのである。
モノクロ写真に写っていた野菜御供。
それは「御膳」行事に供え、法要を営む行事であった。
是非とも拝見したく、区長に取材許可をいただき撮影に入った。
平成19年9月15日、村の人たちが仕切る「御膳」つくりを、小倉でなく天理市福住の上入田に初めて拝見した。
大きな野菜もあれば、小さいものも。
丸こい形に細長いもの。形も多様なら、色合い、風合いもみな異なるさまざまな野菜。
高齢の人たちが作る野菜御供は、村の人が寄進した自家野菜。
そのまんまの形、色を考えて組み立てる。
包丁で切るとか、曲げることもない。
手を入れずに、作り上げた御供は、まるで人を模したようにも見えるものもあれば、はてな・・というような形も。
作り手の思いつきもまたはさまざま。
表情豊かな、御供の形は、みな違う。
どれを見ても、感動する野菜御供。
笑えるものもあれば、これって、というのもある。
設計図もなく、あれこれ思考を凝らして作った御供は、福住・上入田不動寺の不動寺の本尊に供える。
無住の不動寺に僧侶は不在。
導師に合わせて、一同が揃って唱える般若心経で終える。
「こんなの見たことないやろ」と、村人たちは口々にいう自慢の作品群。
「他所にでもあるなら、一報してほしいな」と、願われた。
その願いは、小山戸を経て小倉に繫がった
それからの8カ月後である。
平成20年の4月20日に取材した
旧都祁村小山戸都祁山口神社行事の御田祭。
お世話になったお礼に写真を持って、小山戸区長のI家を訪ねた。
応対してくださったのは、区長婦人である。
民俗行事に興味をもつ婦人。
御田祭の写真から、話題が拡がる他地区の民俗行事に、
福住上入田で拝見した野菜つくりの御供のことを伝えたら、なんと・・・。
出里の小倉のお寺でも同じようことをしていた、という。
まさかの展開に胸が躍った。
嫁入りしてから数十年。
今も、小倉に福住のような行事があるのだろうか。
行ってみなきゃわからない旧都祁村・小倉の地。
下見を兼ねた聞き取り調査に走った
平成20年の7月13日。
観音寺の所在地がわかったところで、村人探し。
畑作業をしていた村の人に教えてもらった寺総代家を訪問する。
お会いできた寺総代のKさんに小倉の年中行事を教えてもらった。
大きなカボチャなどの野菜でつくる御供の形は人面型。
9月17日に行われる十七夜観音講の行事に作って供える。
午前中に持ち寄った野菜で御供つくり。
昼食後に観音講会式を営む。
作り手は、丸山、西区、東区、中区、南出、北出の6垣内代表の檀家総代ら6人。
寺総代を筆頭に責任役員の2人が役に就く、という。
6月16日に行われる虫送りは、陽が沈むころにはじめる虫祈祷。
そして地区2カ所に祈祷札を立てる
田の虫送り。
2組に分かれて出発する。
1月6日は村の安寧を願う初祈祷。
漆の木と藤の枝先をはたき(※払塵)のような、房状にしたものを持ち寄って、お寺の縁側を大人や子供が激しく叩いていたというランジョウ作法をしていたが、今は、肝心かなめの藤の樹は自生地から消えた。
仕方ないが、水戸まつりに立てる漆の木だけになった。
1月7日は山の神。
カギヒキもしていそうな山の神の話だった。
同月15日は、6垣内それぞれが行うとんど焼き。
簡略化した亥の子行事もあるやように話してくれた。
代表の寺総代のKさんに了解を得て、小倉の行事の初取材に訪れたのは、それから
2カ月後の9月17日だった。
朝早くに集まった人たち。
作りはじめて数時間後。
午前11時ころに作り終えた。
会式の行事に、ご本尊の十一面観音菩薩立像前は
大きなズイキを一対、供えていた。
その様式を見ていて思い出した他村の行事。
小倉町同様の旧都祁村にあった南之庄町。
平成19年9月14日に行われた
金剛地蔵会式。
ご本尊の前に供えた野菜は大きなズイキだった。
小倉のような一対ではなく、太く大きな1本のズイキに、小さなズイキがたくさん。
いずれもご住職が一本、一本に小刀を入れて細工していた。
日程は、異なるが、いずれもご本尊に捧げ、供える野菜は子芋をたくさんつけて増やす親芋ズイキ。
子孫繁栄を願い、収穫に感謝する親芋ズイキである。
また、福住・不動寺の「御膳」行事に見られなかった大根の茎と葉を束ねたものと半月切りのカボチャを並べた折敷の板御供が小倉・観音寺の「観音講会式」にある。
その数多く、70枚。
整然と並べた板御供(※7枚の折敷は一枚板に固定している)は、村の戸数だといっていた。
その昔は、赤飯もあったそうだが、いつのころか、供えなくなったらしい。
昼前、村の人らも参集されて会式の法会をはじめる。
小倉もまた無住寺。
田の虫送りには、
山添村・真言宗豊山派、一心院神野山・神野寺の住職を迎えて祈祷されるが、十七夜観音講会式にお勤めするのは、寺総代以下責任総代ら。
導師に寺総代が就き、木魚を叩いて三巻の般若心経を唱える。
それから、寺務所に移って、みなはパック御膳を並べた席に座り、直会をはじめる。
夕刻、解散されるまでは、御供などはそのままにされているので、学校の授業を終えた子どもらも参拝していたことを思い出す。
その後の、平成28年9月17日も取材した
十七夜観音講会式。
寺総代、責任役員に檀家総代ら、顔ぶれは一新されていた。
また、平成20年には大きなズイキを供えていたが、この年は見られなかった。
導師が叩いていた木魚もなかった。
8年間の年月を重ねていくうちに、徐々に変化がみられた年だった。
一年空けて、立ち寄ったこの日の十七夜観音講会式の造りもの御供。
三度目の拝見に、この年もまたユニークな、それもちょっと刺激的な御供も、数多く並べていた。
到着した時間帯は正午前。
作りものの作業は早くに終わっていた。
板御供も並べ、一段落した午前11時ころには三巻の般若心経を唱えていた。
正午の直会がはじまるまでの時間帯をこうして寛いでいたそうだ。
この日に訪れた目的は、作りものの製作工程でなく、参拝者が途絶える時間帯。
そのころは夕刻の時間帯。
待機していた役の人たちが解散されてからの御供の行方である。
前年にNHK奈良放送局が伝えていた福住・上入田の「御膳」行事である。
製作工程から営み、そして会式を終えた御供である。
夕刻のころにやってきた野菜を寄進した女性は、受け取りに来られていた情景を放映していた。
寄進した野菜は、形を整えて本尊に供えた。
ありがたい御供は、寄進者に戻される。
そういう状況を伝えていた。
ふと、小倉では、どうされているのだろうか、と思った。
はじまりがあれば、終わりがある。
上入田と同じように寄進者が受け取られるのか、それとも役の人たちが持ち帰るのか、そのことを知りたくて訪れた。
そのことは、北垣内に住む73歳のIさんが話してくれた。
実は、小倉においても同じように村の人が貰いに来ていた。
ずいぶん前まではそうしていた。
時代は遡ること50年前までのあり方であったが、その後において処置がくだった。
その対応は現在も続けている、一晩おいた翌朝の廃棄処分。
村によって判断は分かれたようだ。
ずいぶん昔のことを話してくださったIさん。
続いて話すかつてしていた村の行事に腰を抜かすほど驚いた。
一つは「おつきようか」だ。
毎年の5月8日に行われていた「おつきようか」。
村全体で行われている組織的な行事でなく、おうちの習俗である。
県内事例に体験、記憶を話してくださった奈良市
別所の事例もあれば、近年において復活された天理市
福住・西念寺の事例もあるが・・・。
昭和59年3月、田原本町教育委員会が発刊した『田原本町の年中行事』には、当時されていたというおつきようかの写真が掲載されている。
春まつりの項に書かれた「おつき8日」。
「春の季節のまつりの古い姿に“おつき8日“がある。4月8日の”てんとばな(※天道花)“である。仏教の灌仏会」は、“おつき8日“の日に重なって行われている」とあった。
ちなみに掲載された「おつきようか」の”てんとばな(※天道花)“を撮影した地域は伊与戸。
民家の角地に建てた長い竿に、十字結びに括りつけたお花はモチツツジ。
掲載写真はモノクロであるが、かろうじて判断できる。
竿にもうひとつの祭具がある。
奈良市別所で聞き取った、まさに三本足のカエルが入ると信じられていた編み籠である。
今は見ることもない”てんとばな(※天道花)“。
町教委が、当時に聞き取った伊与戸の人。
他にも竿を揚げていた経験者は、多くあったようだ。
隣接する旧二階堂村でも”てんとばな”にカエルが入るといいことがある、と話していたらしい。
掲載写真にある民家の屋根にテレビアンテナが、また焚きあげ風呂の煙だし煙突も映っている。
当時の生活文化を知るお家の形がわかる民俗写真に感動を覚える。
Iさんが、小倉の地で体験したオツキヨウカは、高さ3mくらいの竹の先端に、括り縛っていた花は3種。
赤い躑躅、黄色の山吹に青紫の藤の花。
カドサキに建てていたそうだ。
小倉のオツキヨウカのその日は、花まつり。
御釈迦さんを納めた御堂を建てて、甘茶の木の葉を煎じ、炊いて作った甘茶を、御釈迦さんにかけていた。
山添村の
ある村の一角にも建てている事例がある。
県内事例では、まず拝見するのも難しいオツキヨウカのあり方。
今は、体験談でしか得られない小倉のオツキヨウカもまた、貴重な民俗事例であった。
また、1月7日は、山の神をしている、という。
朝5時のころ。暗いうちに3人がウツギの木で作ったカギをひいて山の神参り。
唱える詞章は「にしのくにのいとわた(西の国の糸綿) ひがしのくにのぜにこめ(東の国の銭米) うーちのくーらへどっさりこ(※家の蔵へどっさりこ)」。
声を出してカギを引く。
カギヒキをしたら、藁で作って持ってきたホウデンの内部に、男の数だけ正月のふところ餅を詰める。
家で作った七草粥も持ってきて、笹の葉を皿代わりに七草粥を盛って山の神に供える。
まだまだありそうな小倉の民俗行事。
みなが揃ったからと、奥の部屋で直会をはじめられるから、聞き取りはここまで。
山の神も、一度は取材したいが朝の5時では、無理がある。
せめて一時間後の朝6時なら拝見できるかも、と伝えたら、どうぞ、と承諾してくださったが・・・。
本堂を下りて帰路に就こうとしたそのとき。
目線に入った「庚申」に「馬頭観音」石仏。
「庚申」の営みはたぶんに庚申講であるが、今でも講中が勤めているのだろうか。
また、県内事例ではあまり見ることのない「馬頭観音」石仏も合わせて、次回、訪問の際に尋ねてみよう。
ちなみに馬頭観音をキーに検索したら、まま
見つかった。
一つは、香芝市穴虫の
穴虫峠に建つ馬頭観音石仏。
二つ目に、南都七大寺の一つにあげられる
大安寺・嘶堂安置の馬頭観音菩薩立像がある。
三つ目に
生駒市北新町・大佛寺に建つ馬頭観音菩薩立像もあるが、名号があるのは小倉だけかもしれない。
この「馬頭観音」、「庚申」石の背景に映りこんだ稲作風景。
実り真っ盛りの銀穂の波。
その情景をFBに揚げた際、知人のFさんがコメントしてくださった「バックの稲穂の黄色がいい感じですね!」の言葉が嬉しい。
今日の野菜御供も、稲作も村の豊作祈願が秋の稔りに通じたのであろう。
(H30. 9.17 EOS7D撮影)