クマゼミが鳴いた。
台風7号崩れが去ったこの日は白い雲に爽やかな青空が広がっていた。
気持ちいい正午前の時間帯。
我が家の庭木から一斉に鳴きだしたクマゼミ。
夏の訪れを告げるクマゼミは、これからガンガン。
毎日のように朝鳴き。
雨天の場合は、ばったり消え、雨があがったらまた鳴く。
この日は、京都府南部の木津川市山城町で行われる夏越しの虫送り取材がある。
10日ほど前、京都だけでなく滋賀県を主に、民俗行事の取材を重ねてきた写真家のKさんから、実施の連絡をいただいた。
隣村の鹿背山は、6月30日土曜日が実施日。
椿井は、7月7日の七夕明けの8日に行なわれる。
それぞれ区長の撮影取材の了解をいただいた虫送り、であるが、鹿背山は都合が合わず、翌年廻しとした。
椿井といえば、すぐに思い出す
椿井大塚古墳がある。
3世紀後半の古墳時代前期の中でも最古に位置付けられる代表的な古墳。
今から66年前の昭和28年のことである。
工事中に
偶然に発見された三角縁神獣鏡。
私は未だ2歳のときである。
当時、奈良と京都を結ぶ南北に走る国鉄奈良線の法面拡張工事。
前方後円墳の
後円部法面工事の際に発見された。
奈良線の敷設は遡ること明治29年。
そのときの工事によって古墳は、前方部と後円部に分断された。
当時の地元民の声によれば、後円部は、奈良時代の藤原百川(ももかわ)の墓だと、認識していた程度だったらしい。
重要な遺物などの発見はなかったようだ。
明治29年(1895)を経た昭和28年(1953)までの長い期間。
59年間も知られることなく古墳内に眠り続けた三角縁神獣鏡が、法面拡張工事によって、32枚(※他に内行花文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡も)も発見されるとは、当時の考古学者は仰天したとか・・。
線路脇の斜面を緩やかにするための工事。
後円部を削ったら、竪穴式の石室が現れ、三角縁神獣鏡の他、大量の副葬品が発見された。
京都府教育委員会や京都大学による調査、測量をした結果は・・・。
線路東側の丘陵が後円部。
西側の住宅地が前方部。
つまり、前方後円墳と判明した。
その後の平成12年、「同笵鏡論をはじめ日本の古代国家形成の問題を考える際、
きわめて重要な位置を占めている」と、国史跡指定と相成った。
古墳時代の遺物も大切だが、現在の私は民俗調査に奔走中。
思い出す1件がある。
隣町の上狛に住まいする女性。
大晦日に撒く
砂撒き取材をしたO家の奥さんが話してくれた出里。
今はどうされているかわからないが、かつては逆さ文字の「十二月十二日」護符をしていたという件である。
椿井のどこであるのかまでは聞いていないから、所在地を探すには、機会を待つしかない。
平成29年2月2日に訪れていた椿井の氏神社。
松尾神社の所在地を確かめたくて訪れていた。
知人の情報によれば、椿井の夏越しの虫送りに先立ち、松尾神社に伺って神火を受ける神事があるそうだ。
虫送りの出発地は、大宝元年(701)が創建とされる松尾神社でなく、下ったところにある広地。
神社の鎮座地は存じているが、さて、出発地はどこであろうか。
知人が伝えていた場所、時間を頭に入れて車を走らせる。
念のためにと思って早めに着いた椿井の広地。
時間帯は、午後4時40分。
ピーカン照りのこの日の気温は高い。
風も吹かない日は、車から降りた途端に汗が噴き出す。
辺りを見渡して、えっ、と思った祭場。
四方に立てた青竹に、幣を取り付けた注連縄を張っていた。
まさに神事の場のように思えた囲いの中に太めの藁束を立てていた。
奉書に紅白の水引で括っている藁束もある。
その後ろにある藁束は数が多い。
ざっと測ったその幅は直径が1m。
高さも1m程度のようだ。
ロープで縛って倒れないようにしている。
その中央に御幣を取り付けた御幣がある。
中央に仕込んだ青竹に挿していた御幣。
祭場を拝見して想定するオヒカリ移し。
広地中央には太鼓を設営していた。
合図に打つ太鼓は想定できるが、オヒカリ移しの作法はわからない。
虫送りの松明に直接、神火を移すのか、それとも祭場の松明に一旦は火移し。
そのことがわかるのは、日暮れの時間帯。
2時間は待たなければならない。
祭場付近を散策してみたら作り置きの松明が見つかった。
参集地にあたると思われる小屋に立てていた松明の数は13本。
細めの竹に2束重ねの藁束をロープ縛り。
落下しないように強く縛っている。
長さはおよそ2mにもなる松明である。
広地でしばらく散策していた。
その場に来られた男性は村役の一人。
もうすぐ区長も来られるようだ。
始まる前に話してくださった椿井(※夏越し)の虫送り。
藁束で作る松明は子どもが作るという。
やましろ音頭も鳴るが音源はカセットテープ。
7月に入ってからは、外に出ている子どもたちが椿井に戻ってこれるよう土曜にしているが、その年度によって若干の変動がある虫送りの日程。
最終的に決定するのは区長の役目である。
オトメ(御灯明)をもうてきて、点火する火点けの場は米藁で作った。
椿井の豊作を願う虫送り。
区長に副区長と農業実行委員長の3人が、松尾神社に参って神火のオヒカリを授かる。
虫送りの行程は、木津川堤防まで。
広地を出発して南北を走る国道24号線に出る。
信号を渡って堤防に出る。
下流にとんど場を設けているからそこまでのコースに大勢の子どもたちがやってくる、という。
合流された区長のHさんに取材許可の申し出に、その件はすでに伺っている、という。
この日の取材許可は、先に伺っていた写真家Kさんが取っていた。
この日は、滋賀県教育委員会文化財保護課主査のY氏とともに朝から行動していた滋賀県
日野町の民俗取材。
虫送りが始まるまでには到着するであろうと伝えた。
ちなみに隣村の北河原にも虫送りをしているようだ。
いつもなら同じ日程ではないそうで、今年はたまたまの同じ日になった、という。
椿井と北河原、かつては同じ日にしていた虫送り。
大川と呼ぶ木津川堤防に合流。
どちらが早く虫送りの火を送るのか、競い合っていたそうだ。
略式白衣を着用した待ち合わせの3人が向かう先は急坂を登りきった地に鎮座する松尾神社。
神社を目指して出発する3人。
その直前に合流した滋賀県民俗調査を終えた2人とともに坂道を行く。
どこからか現れたのか、存知しない複数のカメラマンもついていく。
松尾神社に着いた3人。
まずは朱塗りの鳥居にて拝礼。
それから境内入り。
そして先に来ていた宮司と宮総代にも取材の挨拶をする。
拝殿に上がっても構わないと許しをいただいてから登る。
その拝殿に数多くの祭具が見られる。
これより夏越しの神事が始まるだけに、諸々の祭具について教えを乞いたいが時間がない。
次の機会にまた尋ねてみたい松尾神社の祭具の筆頭はなんといっても大きな鉄釜であろう。
時代的にはそれほど古くはなさそうだが、御湯神事があった思えるほどの形態に見惚れていた。
白馬の手綱を曳く2人の童子姿を描いた絵馬も興味を惹かれる。
「奉 縣御寶前祈雨成就満願」。
祈雨満寄成就に寄進奉納した年代が判別し難い墨書。
「●政九丙戌龍集初穂吉辰」から判断した時代は、文政九年(1826)だった。
寄進村は上狛村、林村、椿井村の三村。
幕末の『旧高旧領取調帳』」記載によれば、上狛村は津藩領。林村(※明治9年に上狛に吸収合併)は皇室領・公家領・女官領・京都守護職役知。また、椿井村も公家領だった。
松尾神社鳥居傍に立てている由緒書きによれば、「拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長十五年(1610)に再建されたことともに、有力農民の代表である“十二番頭”や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社、御霊社の神主などの名が記されている」、「宮座に残されていた遷宮神事を行うときの絵図にも、狛野荘の荘官である下司、公文トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座、ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれており、これら中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる・・・」とあった。
上狛村、林村、椿井村に明確な宮座組織があった時代から、現体制に移った経緯はわからないが、他に、三村から寄進された武者絵の絵馬もある。
姿、形態から、たぶんに那須与一ではないだろうか。
神事前に急いで撮る絵馬。
慌ててシャッターを押した画像はぶれぶれだった。
本日の神事に参列される宮総代らも上狛10区と椿井1区を代表する氏子総代。
うち5人が宮総代に就くという。
なお、神社探訪された「
旧木津川の地名を歩く会」が揚げている探訪記が詳しいので参照されたし。
他にも、柱に括りつけた大きな弓と矢がある。
奈良県・天理市の宮大工が納めた拝殿の上棟祭に奉った弓矢もある。
奈良県東部山間地に多くみられるゾーク(※社殿や拝殿、或いは社務所などを建て替える造営事業/上棟祭)に奉る弓矢と同じ形態。
地域によって形態が異なるのも調査対象だけに、ここ椿井の松尾神社の上棟祭もあらためて尋ねてみたい。
また、実物と思われる
木製のプロペラも奉納されていた。
昭和五年三月吉日、上狛町 大井七造氏が寄進されたプロペラの機体を知りたくなる戦前の時代。
複葉機体の旧日本陸軍の
九二式戦闘機が考えられる。
さて、神事である。
3人が持ってきたお神酒は本殿に2本。
もう1本は末社に供えてから始まる。
席に就いた4人。
目の前の祭壇に並べた神饌御供。
よく見れば、一つの三方に灯りが見える。
先に遷していた神火。
その前に置いた手持ち提灯である。
神事の始まり合図は太鼓打ち。
宮司自ら打つ太鼓の音色が拝殿に拡がった。
修祓に祓え詞。
夏越しの豊作願いに稔りをもたらせてくれる祝詞奏上。
参拝した3人の名を呼び、かしこみ、かしこみ申された。
祈願神事を終えたら手持ち提灯に神火移し。
決して消してはならない神火を調える区長の眼差しに映る。
揃って拝殿から降りてきた3人。
村に戻っていく道は、元々の参道である。
竹林に囲まれた石段の参道を下ってきた。
時間帯は午後6時45分。
広地に設えた祭場に丁度着く時間になろう。
たっぷり溜めた用水際の道を下っていけば、民家が建ち並ぶ狭い集落道に出る。
たまたま遭遇した家族さん。
おじいちゃんが作っていた松明がまた凄い。
藁束を4束重ねて作った長い松明。
途中で崩れないようにロープを締めていたところを撮らせていただいた笑顔のO家族。
後ほどの虫送りにまた出会う。
大勢の子どもたちで賑わっている祭場に着いた3役。
十分に間に合う余裕のある到着にしばらくは火点け待ち。
それにしても子供たちの人数がすごく多い。
何十人になるかわからないくらいの長蛇の列。
手にはみな手作りの松明を持っている。
役員さんが作った松明もあるが、ほとんどが自宅で作ってきた松明。
先ほどのご家庭のようにおじいちゃんとか、親が作るケースもあれば、なんと見習って作る子どもたちもいるとか。
心棒の竹は青竹もあれば枯れた竹とか、細めのススンボ竹もある。
近くに生えている竹といえば、ここ椿井は竹の生産地。
生業に素材の竹はいっぱいある。
火付けの時間はきっちり午後7時。
提灯に遷した神火。
消えないように持ってきた神火は奉書巻きにしていた松明に火移し。
すぐさま立ち上がった3役は、太く束ねた藁束に火移し。
手伝い役は、慌てて退避させる頂点に揚げていた榊の幣を取る。
火が移らないように退避させるとともに張っていたしめ縄も外す。
そして始まった松明の火移し。
危険のないように子供たちを安全誘導する手伝い役。
メラメラと燃え上がる松明。
火の確認ができたら、いざ出発。
一人、一人が順番待ちの子どもたち。
ざっと数えてみた松明の数は30本ほど。
子どもたちと一緒になって保護者も出発した。
わぁわぁいいながらの火付けに盛り上がる祭場。
小さいお子さんから高学年の小学生に中学生。
男の子も女の子も、みな嬉しそうな顔で出発していった。
温かい目で見送る3役や手伝い役も目を細めていた。
椿井の夏越しの虫送りは小雨決行。
稀に大雨になることもあり、そのときは中止になる。
大川の木津川に注ぐ椿井の水路に沿って練り歩く虫送り。
かつてはこの辺りも田んぼだった。
信号のない新道渡りにも安全配慮。
手伝い役は子どもたちが安全に渡りきるまでは交通整理。
その辺りにくれば田園が拡がるアスファルト舗装。
上狛川に架かる橋を渡って西へ、西へと練り歩く。
交通往来の激しい国道24号線を渡る信号にも交通整理。
事情を知らない運転手さんも驚く、大勢の松明持ち。
火が点いて燃える松明を見て、これは何ぞえ、と思う人はたぶんに都会育ち。
農村に見られる虫送りの大切さは、生活環境が変わり文化的になっても継承してきた。
椿井の子どもたちも次世代を継いでいくことだろう。
信号を渡ったそこが木津川。
坂道を登りきったところが堤防。
その松明行列に付いていくには難しい身体状況。
諦めて国道に沿って舗道をいく私の足は低速。
ふと西の空を見たら空が焼けてきそうな気配。
半数の子どもたちはとんど場まで先に向かっていったが、何人かは慌てず騒がず。
うまい具合に歩いていた姉弟がもつ松明火をとらえた。
流れる手前の雲の向こうが焼けてきた。
早く流れる雲はすっかり消えて見事な夕景が現われた。
とんど場に松明を送った戻りの子どもたちと交差するシーンに思わず口ずさむ歌は・・・。
夕焼け小焼けに日が暮れて~♪の童謡。
それとも夕焼け小焼けの赤とんぼ♪・・でしょうか。
抒情的な歌もあれば、云十年前に流行ったゆうぅーやけー うみのゆうやけ~♪とか、先行発売していたゆうひあかぁーくぅ~♪などの青春グループサウンド音源も自然に口にするこの日の夕焼けである。
出発地からおよそ1km先に設営したとんど場で火の番をしていた地元自警の消防団。
火が消えるまでの安全管理は任しといて、と云った一人の消防団員が話してくれた他の地域で行われている虫送り情報。
ここからすぐ近くの北河原の虫送りも来ていた。
現在は、堤防まではいかず、国道も渡らない手前に拡がる北河原の田園地の一角に替えたそうだ。
また、椿井からずっと南。
奈良県境になる市坂も虫送りにとんどをしているという。
市坂といえば、
この年の4月30日に見た田んぼの護符を見つけた地域だ。
京都府の最南部に4地区が行っているとわかった農村行事の虫送り。
機会を設けて早めに調査をしたいものだ。
虫送り情報を聞いている時間帯もやってくる松明火の虫送り。
子どもたちが大勢いるとわかった椿井の虫送り。
とんど場から戻っていくときに拝見した奇妙な動きに関心をもった。
燃える松明に鋏を入れている父親に尋ねた。
縛っていたロープをきって藁束に空気を入れる。
そうすることで沈火しかかっていた松明火が再び勢いを増すのだ。
その役目をするのが保護者だった。
勢いを戻した松明火は燃え上がり、ぼたぼたと落ちる。
なるほど、と思ったこれもまた民俗のあり方。
虫送りに随行した歩数は午後5時からは939歩。
6時からは1021歩。
7時の虫送りが2204歩。
合計が4164歩。
普段、運動しないだけに歩く機会をくださった。
祭場に戻った時間帯は、午後7時半。
3役は祭場の清掃。
火種が残っていないかどうか確かめて、用意していたバケツに汲んだ水路の水で消火していた。
最後に戻ってきた家族さん。
お家へ帰ろう♪~のコマシャールソングで聞くカレーの唄も聞こえてきた。
ちなみに区長や消防団が云っていた隣村の虫送り。
今年の平成30年2月18日に立ち寄った北河原に春日神社がある。
その日は涌出宮の居籠祭に訪れていた。
時間的に余裕があったので、通りすがりに拝見した
北河原の春日神社は美しく清掃されていた。
極端な云い方をすれば、散りひとつも落ちていない境内だった。
(H30. 7. 8 SB932SH撮影)
(H30. 7. 8 EOS7D撮影)
(H30. 2. 2 SB932SH撮影)
(H30. 2.18 SB932SH撮影)