マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大和郡山馬司町・蘭友会2022春の洋ラン展の花に囲まれて

2024年12月30日 07時47分19秒 | 大和郡山市へ
案内状をもらったけど、行けないからという家人に代わって代理に出かけた蘭友会春の洋ラン展。

今年も、春に咲く洋もののランを拝見した。洋ラン展の主役はカトレア。

展示会場の大数を占めるカトレアの香りが、馬司町・昭和地区公民館一面に拡がる。

開場時間前からたくさんの愛好家のみなさんがやってくる。

デンドロ・デンファレ系もあるからわくわくする展示会。

おまけに格安販売コーナーもある。

私が求めるランは、和もの。

いちばんにセッコク。

二番にデンドロビウム。

三番手はフウラン。

いずれも手のかからない空気中の水、成分で育つ植物なんだよな。

展示がはじまる前に着いていたい公民館の駐車場。

展示がはじまってからでは駐車できないほどの人気の洋ラン展。

家人宛に届いた洋ラン展の案内。

都合ができたから代わりに行ってくれる?といわれていそいそ出かけた奈良蘭友会が主催する第48回秋の蘭展(※令和2年10月)。

それは、それはすっごい香りに包まれたカトレヤ会の人たちが育てた蘭展。

カトレヤ花に見惚れ、香りを愉しませてもらった展示場にあったセッコク。

久しぶりに見た斑入りの銀竜が一鉢500円。

思わず手にして買い取り。

これがキッカケとなって、春と秋に開催される洋ラン展に足しげく通うようになった。

到着した公民館の駐車場でばったり出会った二人連れ。

懐かしい二人は、数年前まで大和郡山市観光ボランティアクラブに属していた一期生(※若しくは二期生だったか?)。

80歳を前に限界を感じて引退したそうだ。

実は、出会いは今回の展示会でなく、昨年に開催された第49回春の洋ラン展だった。



出会ってすぐに賑やかになる。昔も今も変わりなくおしゃべりするTさんとFさん。

その前年。



秋の蘭展の第48回に会場を去る二人を見て、たぶんそうだろう、と思っていた姿は見間違いじゃなかったんだ。

今、どないしてんのん、と声をかけてくれたTさんにFさん。



行事の写真、撮りに行ってるんでしょ、と云われて話した「私がとらえた大和の民俗⑩」写真展

先月の27日まで開催していた写真展。

今回と前回の図録が車にある。

洋ラン展を見終わったら、公民館の談話室で解説するので、と伝えたら、その写真展に二期生(※だったか?)のIさんもSさんも見にいってたそうよ、という。

そうだったんだ。会場に置いていた芳名帳に記載がなかったから気がつかなかった。

また、どこかでお会いできるかも・・。

そのときにでも図録を手渡しておくから、と伝えたが・・・。

ガイドクラブ発足時の方たちとはよく出会い、よく会話した。

現在の大和郡山市観光ボランティアクラブは、第10期養成講座を経て、この4月から活動をはじめているそうだ。

1期、2期の人たちと、はじめて遭遇した場は、矢田坐久志玉彦神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ・大和郡山市矢田町)だった。

今から20年前の平成15年1月8日。

神社行事の綱かけ神事
だった。

矢田坐久志玉彦神社での綱かけが終った途端に、乗ってきた自転車に跨って疾走・・・・どこへ行くのですか、と尋ねたら、ぬすっと神社。

えっ、ぬすっと神社って、盗人???は、はてさてどこに・・・

本社から、南の地に鎮座するぬすっと神社は、主人神社。

祭りの際に行幸する御旅所。

そこにも綱をかけると教えてもらったものの、所在地がわからず・・・。見つかっても車を停める場もなく・・



あれからもう20年、感慨にふける年齢になったもんだ。

ちなみに、談話室で解説したのは「私がとらえた大和の民俗写真展⑨-つくる-」

すべての民俗テーマを話したら、昼めし時間になろうか、と思い、なかでも貴重な”カンピョウ干し“に”カケダイ“、”多段型稲架け“の民俗話題を提供し、献本した。

帰宅して、すぐさまセッテイングしたパンダ風蘭。



母体に交配種ランダーウィナラチャームブルームーンが入っているらしい。

(R4. 4.16 SB805SH 撮影)

大和郡山・慈光院の枝垂れ桜

2024年12月08日 07時50分23秒 | 大和郡山市へ
すごく気にしていた枝垂れ桜がある。

大和郡山市小泉町にある慈光院(※抹茶付き拝観料は千円)。

サツキが咲く時季ともなれば、観光客が多くなる。

書院前に拡がる枯山水庭園景観が美しい。

茶道をたしなむ方なら、一度は訪れたくなる慈光院であるが、私は一度も伺ったことがない。

入庭したことはないが、慈光院に枝垂れ桜がある。

そのことを知ったのは、2年前の令和2年4月2日。

買い物に来たスーパーサンデイ店。

車を停める駐車場に入るとき
だ。

えっ・・・・。

思わず声をあげた。

サンデイ向かいにある慈光院。

往来激しい道路から見える「石州茶室名庭園」。

大きな文字で誰しも気づく「慈光院」の看板柱。

天から降り注ぐように咲いていた枝垂れ桜に、息をのんだ。

それから一年後の同場所にある枝垂れ桜に花がつかなかった。

細い枝ばかりの毎日だったように思う。

尤も、しょっちゅうサンデイの買い物があるわけでもない。

令和3年の4月初めは何していたんだろう。

サンデイに用事はなくとも、慈光院の通りは、2日に一度は走っていたはずだ。

それから1年後の本日に見た枝垂れ桜が美しい。

実は、ほぼほぼ昨日、一昨日は、蕾かな?と思えるほどの枝状態だっただけに、驚いたものだ。

2年前に撮ったときよりも、ふくらみの少ない慈光院の枝垂れ桜。



花つきの状態は、2年前より隙間が多く見える。どことなく寂しい感じがする枝垂れ桜であるが、この年は、この状態が満開なのだろう。

横から見れば、一目瞭然。

枝先の花つきが少ないようだ。

2日後も通った際に見た枝垂れ桜は、すべての花を落とし、すっきりした枝状態になっていた。

(R4. 4. 6 SB805SH 撮影)

大和郡山・富雄川桜づつみモデル事業地の桜

2024年12月04日 07時54分44秒 | 大和郡山市へ
富雄川の源流は、生駒市・高山にあるくろんど池

大阪府民の森・くろんどの森は、大阪の交野市(かたのし)私部(きさべ)にあるくろんど園地。

最寄りの電車駅は京阪電鉄の私市(きさいち)駅から歩くハイキングコース。

たどり着いたくろんど池の位置は奈良県。

その奈良県側から行くには、奈良市を経て大和郡山に流れる富雄川添いがわかりやすい。

私ら家族が大阪から転入した大和郡山市内。

西の地に流れる富雄川沿い、高台に立地する居住地。

転入した当時は、護岸工事がまだなかった時代。

土手から下りた川は綺麗な砂地があった。

護岸に生えていた葦や野の草。

土手は土。そこから竿を出して釣った魚は、小魚。

鮒もおれば鯉に貴重なモロコ魚も住処にしていた葦や野の草。

姪っこが釣った小魚は、モロコに養魚池から流れてきた黒や赤の金魚も・・・。

大雨に養魚池から逃げ出した金魚は水路を経由し、富雄川に・・。

やがて再び大雨に、富雄川から大河の大和川に・・流された金魚の行先は大阪湾に・・・。

大移動の金魚は、当時、子供のころの体験。

住んでいた大阪・住之江も流れる大和川に、何度も目撃した泳ぐ金魚。

母親に祖母も云った。

この金魚は大和郡山から流れてきたんよ・・・。

小学生高学年のころだから60年も前の記憶。

辿っていった記憶に鰻の稚魚がある。

大阪湾から大和川を俎上する鰻の稚魚。

集団で泳ぐ稚魚は、岸辺の水際にそって、くねくね泳いでいた。

鮮明に遺っている情景は、頭の中に思い浮かぶ。

この日は、おふくろが入居している施設に伺う。

富雄川は、家からほんに近い。



右岸に農家さんが小売りしている場がある。

夏はトマト。

春は苺を直売りしている。



近ごろ、苺買いに行列ができているらしい。

へぇ、そんなに有名になったんや、と・・・

苺が食べたい、と訴えていたおふくろに食べもらおう、と近くのスーパーで買ってきた。

味見したら、水くさい苺。

味はよくわかるおふくろの舌。

誤魔化せない、と判断し、買い替えに伺った右岸の農家さん。

誰一人並んでいない時間帯に、買い占め・・ではなく、いちばん美味しい、お店の人が推奨する古都華(ことか)。

昨今は、地産地消店でよく見る古都華であるが、買ったことがない。



これならいい、と選んでくれた古都華を、施設に住まいするおふくろに食べてもらおう。

食べる場は、居住者が朝、昼、晩に食事を摂る食堂でなく、住まいする居住室だ。

部屋には冷蔵庫の設備はない。

食べ残しの食を自身で管理できない場合は、設置許可はおりない。

なぜなら職員が、そこまで手が届かないからだ。

食べ物の差し入れは可であるが、食べ残しは不可。

だから苺はほんの数個。

持っていったら、ぱくぱく食べきった。

こんなに美味しい苺。

初めてや、と喜んでいた。



苺を売っていた場から、小橋を渡ったそこは、奈良県事業・富雄川桜づつみの一角に咲く満開の桜並木。

富雄川に架かる橋は城栄橋であるが、お城はすぐ近くでもない。

徒歩にしておよそ15分の地にある郡山城跡。

今年のお城まつりに訪れた桜見観光客。

さくら名所百選や、続日本100名城に選定されている郡山城跡の桜はおよそ800本。

御殿桜とも呼ばれる桜は観光の目玉

コロナ禍でなかった例年は、8万人もの人たちが訪れるそうだが、ちょっと離れた富雄川桜づつみには、興味はわかないらしい。



ほんの近くにある桜づつみなのに、今はゆっくり落ち着いて愛でる時間も確保できない。

日々のあれこれ事情がある。

ついさっきに撮った場から三歩移動した。

ここは農家さんたちが耕す稲作地に畑地がある。

農機を移動する道は農道。

近くに住まいする私たちもショートカット利用している農道。

向こうに見えるゲート。

越えたそこから桜づつみの公園地に入れる。

車道でなく、人道坂を登った場は、芝生の園。

吾妻屋や藤棚もあるし、親水の広場、スポーツ・コミュニティの広場、木陰の広場もある。

さらにはトイレもある川堤の散策道。

自治会活動のクリーンキャンペーン・清掃活動を終えて、ご近所さんたちとともに移動した。

アルコ-ルも持ち込んだ花見の会。

急遽決めたものだから、家庭の料理がほとんど。

おおかた20年前。

地元民もみな覚えている憩いの場。

さて、今年が最後になった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。

展示した3枚組テーマは「コロナ禍、そのときのT家・・」
である。

1枚目のサブテーマは「看る」。

3枚目のサブテーマは「で、あっても、なかっても・・」。

撮影地は、ここ富雄川の桜堤だった。

満開だった桜は突風に煽られて飛んできた花付きの小枝。

散った花びらも自然体。

ありのままの情景を背景に据えて撮っていた。

初めての試みに、あれこれ試作したが、満足できず。

百均に売っている大判の木製ボードに、携帯電話で撮った映像を自宅プリンターで出力したL版プリント。

あーでもない、こーでもない、と配置した。

これだ、と思って行こう、としたその日は、風がキツかった。

何十枚ものL版プリントすべてにセロテープをくるりと巻いた両面テープ。

芝生の上に置き、すぐ横にあったベンチに立った。

手持ち撮影に身体が安定しない。

ファインダー覗きもできない位置に両腕を伸ばしてバシャバシャ・・・。

見えないファインダーに無作為シャッター。

何度も、何度もトライした中の一枚。

ゆがみがわかり難い一枚が撮れた。

自然光が効を奏した一枚に納得できた。

2枚目の「通販もテイクアウト」の撮影時期は夏。

紫陽花にランタナが咲く我が家の南庭を撮影地に決めた。

3枚目の「で、あっても、なかっても・・」の撮影地は、桜時季と同じ桜堤。

秋の時季に実成りの数々をあしらった。

従兄妹が贈ってくれた栗の実。

そればかりじゃ地味ぽっい。

茶色以外の色を探してスーパーへ。

柿にミカンも並べようとしたら、もう一人の従兄妹が、大阪からわざわざ出かけた大淀町で栽培されたでっかい梨を贈ってくれた。

栗も梨も、「看る」テーマの95歳のおふくろに喜んで食べてもらおう、と思って送ってくれた。

秋の実成りに彩りを添えることができた。

感慨無量のテーマ写真。

拝観してくださったほとんどの人たちは、小さな写真に目線を落とされたが、周りに散りばめた桜や秋の実成りに気づかれることなく、写真展は、3月27日を最後に幕は下りた。



平成4年、YAMATO郡遊回廊コースの一つに設定された川の道WALKの富雄川堤。

下流の桜は満開状態に見ておきたい地がある。

大和中央道が完成と同時に、ほとんど通行しなくなった道がある。

東城(ひがしんじょ)地区に繋がる農道になった道。

受動信号機付近の桜堤が始点。

桜づつみの始点の状態も見ておきたい、と思って回り道をした。

富雄川桜づつみモデル事業地に駐車場はない。

ほんの数分、一時的に停車できそうなやや広地に停めさせてもらって撮った桜のトンネル。

暖かいこの日に散歩する人は多い

大きな犬とともに散歩していたご夫婦。



南の端からここまで歩き。

車をちょい停めしているから戻りも歩き。

ぽかぽか天気に気持ちが浮かれて自宅を出た。

遠くから来られたのですか、と尋ねたら、方角北に数キロメートル離れた丸山古墳付近に住んでいる、という。

そういや、うちにもワンコが居た。

長男が生まれる前。

家に住み着いた野良犬。

隣近所の人らは懐くことはなかった中型犬。

痩せた犬が愛おしく、一泊二日の旅から、戻ってもまだいてたら飼ってやろう、と・・・。

それから13年間もともに暮らした柴犬もどきの「チロ」。

あっちこち散歩に連れていった。

この日にお会いしたご夫婦が住まいする丸山古墳や追分梅林まで散歩に連れていった「チロ」。

車に乗るのも大好きだった「チロ」は、なぜか数キロメートル走ったところでいつも、ゲーゲー嘔吐。

遠出ができなかたから旅にも連れていけなかった生前の「チロ」を思い出した。

実は、大阪暮らしの時代である。

60年も前のころのワンコ。

同じような境遇に飼ったワンコは三匹。

クロにシロにチロ。

三匹とも当時なりわいとした犬捕りにやられた。

だから、チロは縁もゆかりもない二代目のチロ。

悲惨だった飼い犬第一号のクロは、停留所でバス待ちしていたおふくろについていった・・・・キャン、と鳴いた一撃を目撃し、懇願したが・・・・。

そんな時代もあった。

今の子たちには、言葉も出ないくらいの時代の生業があったのだ。

辺りを見渡したその場に、落下した桜の花びらが一面に広がっている。



ひらひら落ちた芝生に点々とあるし白い花びら。

満開を過ぎた時季がわかる状態に、まるまる花弁状態の桜が落ちている。

あちらこちらに見られるそれは野鳥が落としたラッパ落としの痕跡

別に不思議なものではなく、野鳥が啄んだ雌蕊。

吸い終わった桜は、付け根に蜜のある軸ごと落とした現象。

スマホ時代に入った近年は、SNS上にアップする人が、やたら多くなったように思える。

近ごろは、ウエザーニュースにも取り上げる野鳥と桜の花の関係性

そのときの季節を教えてくれる自然観察のテーマが、毎日のニュースで知る。

(R4. 4. 5 SB805SH 撮影)

大和郡山 2022お城まつりの雪洞に火が灯る

2024年10月21日 07時38分06秒 | 大和郡山市へ
19日、朝に出かけた病院。

当月の1日、緊急入院した。

コロナ禍に面会謝絶の日々往来。

リハビリを経て退院通知に入室した病棟。

手続きを済ませた次の行先は、週2回のデイサービスにお世話になった施設に御礼。

その施設に戻りたいが、戻れない。

療養していた、わが家に戻ることなく、急遽決まった施設に、当日入居。

夕刻、再び病院へ。

介護保険証の確認のための事後手続きを終えてくだってきた踏切。

遮断機が下りた待ち状態に、2022お城まつりの雪洞に灯った試験点灯。

午後5時前の暮れ時間に灯ったようだ。

踏切手前に見つけた雪洞に寄進者の名があった。

お世話になった病院にデイサービス施設。



ありがとう、と深く頭を下げて踏切を渡った。

現在、県立民俗博物館、付帯施設の県立大和民俗公園内・古民家旧萩原家にて「私がとらえた大和の民俗」写真展が開催されている。

私のテーマは” コロナ禍、そのときのT家・・”。

3枚組のうち一枚のサブテーマは、“看る”。

写真展に公開した我が家の“看る”は、今も継続中だ。

大和郡山 2022 第61回お城まつり」は、本日3月24日が初日。

お城の桜がぽつぽつ咲きだした。

天候佳ければ、一気に満開。

うららかな桜日和に、気持ちも、顔も、なにもかもが晴れ晴れの四月を迎えそうだ・・・

(R4. 3.19 SB805SH 撮影)

小林町・道具は替わっても、目的は変わりない新福寺のおこないのランジョウ叩き

2024年10月03日 07時54分20秒 | 大和郡山市へ
帰路に立ち寄った御所の名所。

私なりの名所であるが、どこか懐かしさを覚える田園風景。

今日の天候は、コントラストが激しい空間になったが、稲作の季節が待ち遠しい御所・池之内に買い物した玉手


時間は、まだまだ余裕がある。

そうだ。今日は3月3日のひな祭り。

ただ今、県立民俗博物館・古民家活用の写真展開催中。

明日、明後日に予定があるから、その日に顔出ししたい。

実は、3月3日に寺行事のおこない(※修正会)をしている地区がある。

県内、盆地平坦地に、おおかた320年以上も続けてきたおこない。

連綿と続く、歴史、文化が深い地。

もし、よろしければと、写真家のKさんを誘った。

行先は、大和郡山市の小林町。

おこない(※修正会)を行う場は、真言宗豊山派寺院の南照山新福寺

旧くは、元禄九年(1696)に本堂の落慶法要が営まれた、と考えられている。

と、いうのも、庫材を駆使した形跡、また現存する仏像の古さから推定し、再建された新福寺。

また、昭和43年(1968)に、本堂の屋根瓦を葺き替えなど改修した際に発見された棟札から、本堂の建之時期が判明
したそうだ。

そして、平成28年(2016)、320年ぶりに行われた本堂の建替え、落慶法要に記念式典を挙行された。

実は、毎年の3月3日におこないをされているから、一度伺ったらどうか、と背中を押してくださったのは上田清市長だった。

当時の私は、市民であり、市の臨時職員であった。

勤務先は、市の施設の大和郡山市市民交流館

平成15年(2003)7月にオープンした大和郡山市市民交流館。

採用面接に出かけてから、一週間後だったか・・・

当時、面接してくださったY人事課長から電話があった。

「今も、空いてますか・・」の問いに、「もちろん」、といったかどうか、覚えてないが、やっと就職先が決まって大喜びしていた。

「市政案内・観光案内などの情報を提供する“インフォメーション”、貸会議室の2つの機能を持つ公共施設」の大和郡山市市民交流館に、7年半も勤続していた臨時職員。

ある日のこと。たまたま市長がぶらり、と来られて、小林町に”おこない”がある、と教えてくださった。

新福寺本堂で行われるその”おこない”取材は、平成22年を皮切りに2年後の平成24年も伺った

本堂は、前述したように元禄九年(1696)に創建。

屋根の葺き替えなどで再建した年は昭和43年。

本堂内部は、昔の様相そのまま、風情を遺した風格があった。

内陣周りに座った座中が、左座に一老、二老、三老。

右座も同様に一老、二老、三老がそろっていた。

そう、併設する杵築神社の座中である。

2度目の小林町入りは平成22年の11月。

大阪・平野の大念仏から如来さんがやってくる


町民は、融通念仏宗徒であるが、新福寺は真言宗豊山派。

大和ご回在にお家を一軒、一軒巡って、最後にお寺となるのだが、ここ小林町では公民館をあてがっていた

さて、小林町・新福寺のおこないである。

平成27年が最後のお勤めにおこない。

新福寺本堂・観音堂は新しく生まれ変わる新築化。

これまでの再建ではなく、320年の時代を経て新しき本堂に建て替える。

だから、旧き新福寺の最後の営み。

おこないにランジョーの叩き納めの年。

歴史を刻む記念日は、平成27年の3月3日


平成27年の4月のころ、320年もがんばっていた新福寺本堂・観音堂は、解体工事に入っていた

しかし、解体中の本堂では3月3日のおこないは、どこでされるのか。

予め聞いていた場は、新築された藍染会館に移し、畳部屋で行うことになった。

これを機会に、おこないの道具は、一挙に代わった。

内陣の縁をたたくフジの木は真竹に代わった。

祈祷を済ませたごーさんの護符は、ヤナギの枝。

割れない程度に、二つに割いたヤナギの枝に護符を差し込む。

ただ、ヤナギの枝は長いので、バキバキと三つに折る。

そのヤナギの枝の束が崩れないように、フジの木の皮を使用する。

フジの木の皮は柔らかく、剥がしやすい。

子どもでも剥がしやすいフジの木の皮をヤナギの束にくるくる巻いて括っていたが、これらすべてまとめて真竹に代わった。

新築中の新福寺本堂・観音堂は、工事中。

落慶するまでは、一時的に利用した平成27年4月29日に落成式をされた壇信徒会館「藍染会館」だった。

仮の場を借りて、はじめて青竹で打つランジョウ所作を拝見したのは、翌年の平成28年3月3日

仮の場の藍染会館の部屋は畳座敷。

長い板を据える考えもあったそうだが、半切した青竹内部に空間があるから、打つ音は、とてもなく甲高く反響するから、と採用に至った。

ご住職が、唱えるご真言。

そのとき、突然に発声された「ランジョー」に合わせて・・・青竹をもって竹を打ち叩く。

けたたましく、カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・が、室内空間が全域にわたって響き渡る青竹ランジョウの音色感。

ランジョウの目的は、激しく打ち、激しい音を発生させることによって、悪霊を村から追い出す作法。

フジの枝に内陣の縁は木材。

旧き新福寺の本堂内陣は、300年以上も叩きつけたことによって、深い黒色が、打ちすれて白くなっていた記憶が蘇る。

その年、平成10月10月29日に落慶法要された南照山新福寺本堂は、その後も3月3日におこないをしている、と聞いている。

その証が見つかった。

所用で市内南部に向かって走っていた大和中央道。

国道25号線と交わる今国府町信号から数キロメートル手前にも信号がある。

西に折れたらJR大和路線・大和小泉駅。

左折れなら北西町に入る。

その信号は小林町西1。

その北側、数百メートルの地に、毎年、苗床をつくり、苗箱を広げている小林の男性。

苗代田に水を入れる水口に、例年立てていたおこないの印し。

そう、これまでは前述したとおり、折ったヤナギの枝に挟んだ護符。

おこない法会に祈祷したごーさん札(※牛玉宝印の書)。

三角折りの護符は珍しいから、すぐわかる。

令和2年5月19日のこの日に見つけた護符。

ランジョー所作に用いた青竹に挟んでいた


所用だけに撮影機器は、携帯電話しかない。

その機器であっても、これも記録。

実は、この苗代田に苗床を調え、躑躅のイロバナとともにヤナギの枝に挟んだ護符を立ててから、ロールに巻いた新聞紙を丁寧に広げていた

実弟とともに苗代つくりの作業をしていた状況を撮らせていただいた平成22年の5月4日。

そのときの写真を、後日にさしあげたら、すごく喜んでくださった座中の一人。

当時、74歳だったKさん。

ここ、最近は苗代もされていない。

あれから12年も経っている。

ここを走るたびに、次第に雑草化に移っているのが、気がかりだ。

走馬灯のように蘇ってきた「新福寺のおこないの縁たたきランジョウ」と「苗代に立てる護符」。

大淀町・大岩から御所市・池之内に玉手から駆け付けた。

前置きが長くなってしまった。

午後3時40分。

表敬訪問にようやく着いたここは、大和郡山市・小林町。

おこないは、午後4時よりはじめられる。

まずは、参拝。



手を合わせきっちり拝んでいた男性がおられた。

後姿でわかった男性。

たしか伊豆七条町に住む男性だ。

お名前は覚えてないが、伊豆七条町(※地元ではいずひっちょう、と呼ぶ)の大晦日行事。

「ふくまるこっこ」を、今もされているのか、尋ねた男性だ。

下見に来ていた平成19年の12月23日だった


畑におられた男性は、以前勤務していた大和郡山市市民交流館時代に出逢った方。

たしか会議に来られていた人だった。

子どものころに体験していた伊豆七条町の福丸迎えだけに、その対象となるお家を案内してくださった。

奈良県内に福丸迎えの行事のほとんどが山添村である。

奈良市東部や天理市の山間地にも継承されているが、平坦盆地では、ここ伊豆七条町しかみられない。

史料によれば、ごく近いところの天理・森本町も行われていたが、途絶えたようだ。

ご縁があった男性が、なぜにここ小林町・新福寺に参拝を・・・

おこない行事が、終わってから聞いてみた。

ここ、小林町にはご縁があるのですか、と聞けば、なんと・・・

男性が住んでいる伊豆七条町に勝福寺がある。

おばあちゃん講とも呼ばれている尼講が、毎月に営まれるお念仏。

毎月の1日に参ることから朔日参りとも
・・

施餓鬼もされていた勝福寺

現在は、天理市・南六条町の西福寺僧侶であるが、かつては小林町・新福寺の僧侶であった。

その僧侶とは、新福寺の現住職を務める佐々木章の先代の父親。

先代の住所は、伊豆七条町・勝福寺だった。

その後に、先代の父親は小林町の新福寺に。

そして、代替わりに就いた佐々木章住職。

そのような関係に、伊豆七条町の男性はことあるごとに、新福寺にやってきて参拝している、という。

表敬訪問に、出会ったご縁。

参拝していた私たち3人は、今からはじまりますから、どうぞ本堂にあがってください、と・・・

その場には、存じている人たちが多い。

ひさしぶりやね、といわれる方たち。

直近であれば、令和3年の1月1日。

正月に行われる天理の行事取材にハンドルを握っていたとき。

電話が鳴った。住民のSさんからの電話は、修復していた神輿が氏神社の杵築神社に戻ってきた。

小林町の元日の朝。

村の人たちが寄り合う元日参拝に神輿のお披露目


是非、と伝えられて、急行。

天理までの道中にあった小林町。

短時間ではあるが、有意義だった神輿のお披露目を見届けて、再出発したその日以来、足は遠のいていた。

さて、小林町・新福寺のおこないである。

本尊前にそろえた青竹。



先を割いた竹に挟んだ護符。

墨書された「牛頭天王 寶印 新福寺」。

一般的には、ごーさんこと、牛玉寶印を押印した護符を正面に据え、その前に護符を挟んだ青竹が8本か。

かつては、もっと多くあったような気がする。

おこないの作法において祈祷される。

ご住職の立ち位置。



内陣との境目に厚めの赤いシートを敷き詰め。

半切した長い一本の青竹に、ランジョーの発声と同時に打つ青竹も用意された。

以前は、内陣を囲むように、それぞれが座ってフジの枝木で叩いていたが、大幅に削減したようだ。

と、いうのも、昨年より土地改良区が主宰としたおこない行事に移した、という。

少子化の時代に、将来を見据えて主宰を土地改良区に移したのである。

午後4時15分ころからはじめたおこない。



まずは、ご真言である。

正面立ち位置ではなく、右手の脇に座って唱えるご真言。

次はご真言に続いて拍子木打つ、般若心経。

そして座を前にすすめたランジョー叩きは3人。

右に男性一人と左に二人の女性は、手に青竹をもつ。

ご住職が座る位置は明るいが、ランジョー叩きの場は、消灯していた。

暗くなったランジョー叩きの場。

雰囲気は、より近くなったような気がする。

ご真言に、あるとき、突如発した「ランジョー」。



カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・甲高い音色が本堂内に広がり、響いた。

激しく叩きつける音は魔除け。

村から悪霊を追い払う意味もあるが、世界平和・村民安全、五穀豊穣をも願う所作である。

そのことを願った表白を唱える住職は、何度も何度も「ランジョー」を発せられる。

おリンを鳴らせば打ち止める。

表白の次は神名帳を詠みあげる。

「・・・春日大明神、大和、広瀬、龍田、大神、・・・ダイミョウジュン、ダイミョウジュン・・・・ランジョー」。

カーンと鉦を打てば、けたたましくカタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・

悪霊はこれでもか、これでもかと追い払う。

十数回、いやそれよりもっと多く数えきれないほどの「ランジョー」を発せられる。

住民が平和に暮らし、繁栄、五穀豊穣を願うためにある、というランジョーであった。



祈りが終われば、身体堅固。

諸願成就、三界万霊、功徳などの念仏を唱えて最後に身体堅固。

古くから伝わる本尊、観音さまの牛玉寶印を参列者の頭に押す真似事をする。



「オンソワカ」、手を合わせて身体堅固のご加持をありがたく受ける。

本日のおこないの縁たたきランジョウに、参列合わせて撮影もさせていただき、御礼申し上げお堂を出た。

合わせて、参拝した杵築神社。

かつて、牛頭天王社とされていた神社に参拝。

そこにちょこんとあったコレは何?



初のテレビアニメに映し出されたまんが日本昔ばなし・・・に流れた音源を思い出した。

「・・ぼうやー よい子だ ねんねしな いーまも かわりなく はーはーの めーぐみの こもりうたー とおいー  むかしの もーのーがたり~いぃ・・」

今日のおこないに、子どもたちの顔は見なかった。

その代わりか、どうか知らないが・・・ ぼうやー よい子だ ねんねしなー

※ ※ ネットで探した正体は、結局見つからず、「獅子(猪)の背にまたがる童」の人形かな・・・

(R4. 3. 3 SB805SH 撮影)

おもひでの春の花 大淀町大岩・はるをさきどる白梅から、大和郡山の県立大和民俗公園へ

2024年09月26日 07時42分19秒 | 大和郡山市へ
今年の梅の開花は遅かったように思える。

待ち焦がれた春を彩る梅の花が美しい、と感じるようになったのは、3月初旬。

平坦でなく、里山の地。

今年も写真展開催のお世話になった大淀町・大岩

展示会場のきまぐれやからほんの近くに咲いていた白梅。

桜が咲くまでに感じていたい春の訪れ・・・・

大岩に白梅に春を感じた翌日は、今回で最後になった「私がとらえた大和の民俗」写真展

春はまだまだ。

梅は蕾の状態だった展示初日の2月23日。

いつになれば、訪問者を迎えてくれる梅の花。

遠い日になるだろう、と思っていた。

見ごろはもう少し先になるだろう。



私が、指標にしている梅の花は、県立大和民俗公園入口にある。

白梅に紅梅。

満開前の6割~7割くらいに開いたときが、見ごろ。



茅葺屋根の旧吉川家の前に咲く白梅も指標。

2カ所が見ごろに・・・・

橿原市中町に所在した自作農の典型的な農家で、庄屋を務めたといわれていた旧吉川家住居前。

茅葺家屋を背景に、外から眺める白梅が美しい。

それから25日後の県立大和民俗公園に桜の花が見ごろになった。

ちなみに、2年前の旧吉川家に寄り添う白梅。



天候の状態にもよるが、空一面が真っ青に、植垣根も綺麗だった平成2年3月7日の様相。

世界中が、コロナ禍に突入、感染症が、まん延に埋もれていくはじまりだった。

こうして見比べていると、コロナ禍とはまったく関係なく、自然の営みに左右される白梅の状態がよくわかる。

(R4. 3. 3、 4、 5 SB805SH 撮影)
(R2. 3. 7 SB805SH 撮影)

近年、盛んになってきた大和なひな祭りも早や11回目を迎える

2024年08月25日 07時42分16秒 | 大和郡山市へ
2月のはじめ。

イベントニュースが取り上げる日本全国、お雛まつりが盛大に行われ、賑やかさも華いちばん。

数週間後には、県立民俗博物館も盛り上がる。

お雛さんの段飾りに雛御殿。

今では、大和民俗公園内の施設にも飾られる。

いつも無料で入館できる古民家に飾られる立派な雛御殿が目玉。

県立民俗博物館・本館(※入館料要)奥にもずらりと並べた人気の雛御殿づくし。

来訪されるお客さん。

例年、来させてもらってます、と嬉しい声に、毎度の設営に汗も喜んでくれる。

一方、大和郡山市内・城下町は「大和なひな祭り」が開催される。

テレビなどでも取り上げてくれる話題が、「大和なひな祭り」。

和菓子屋さんも、神社も報せる今年で早や第11回になった「大和なひな祭り」にいらっしゃい。

(R4. 2.15 SB805SH 撮影)

東京拉麵ペペロンンチーノがスーパーサンデイにあった

2024年08月23日 07時42分17秒 | 大和郡山市へ
何年か前、テレビに登場した東京拉麵ペペロンンチーノ

番組は大阪テレビが製作するおとな旅。

たしか神戸の駄菓子屋さんだった、と思う。

お店の棚にあったインスタントカップ入りペペロンンチーノ。

これ、美味しいんだよね、と伝える出演者の声に、えっ


5、60年前の駄菓子屋さんなら体験しているが、今どきの駄菓子屋さんに入ることはない。

番組を見て、一度は食べたい、とずっと思い続けてきたが・・・見つかるワケがない。

大手スーパーはもちろん、中小スーパーでさえ見ないミニカップタイプのペペロンンチーノ。

駄菓子屋さん専門に卸しているなら、そこに行くしかないが、私の民俗取材に駄菓子屋が周辺に見つからない。

ところが・・・・。

えっ、ここにあるやん。

売り場は、スーパーサンデイ大和郡山店。

たった1箱しかないミニカップタイプのペペロンンチーノは、速攻の動き。

直ちに買い物籠に入れて支払った。

帰宅してぐぐったネット情報。

巷で評判な東京拉麵ペペロンンチーノは、楽天市場など、ネット通販で売っていた

(R4. 2.14 SB805SH 撮影)

大和 松尾寺・二月初午・初午観音出現大祭に授かる厄除け鳥御供

2024年08月22日 07時47分28秒 | 大和郡山市へ
お寺さんから毎年に届く年賀状に、いつも正月行事の日程が書いてある。

1月から2月かけての正月行事に、二月初午の日に行われる初午観音出現大祭がある。

その日は「天平時代の古記録“松尾山縁起”により、養老二年(西暦718)の厄除観音御出現を祝う、全ての厄除を願う参詣者で賑わう」と、「大和 松尾寺」の年中行事に伝えている。

前日の24時からはじまる厄除祈祷厳修に、午前11時・午後2時から行われる柴燈大護摩奉修がある。

その賀状に書いてあった特別なこと。

“厄除け鳥御供”の記しに目が点になった。

“厄除け鳥御供”とはなんだろうか。

一度は拝見してみたい、と思った“厄除け鳥御供”。

ネットをぐぐってわかった限定の御朱印がある。

あるブロガーさんがアップしていた御朱印の映像に美しさを感じた。

「福(ふく)来る」の文字がある御朱印に、描かれた鳥は鳳凰の姿。

「大和 松尾寺」の授与品の頁にも載っていた

「大和 松尾寺」といえば、住まいする奈良・大和郡山市にある。

江戸時代からわが国最古の厄除け道場として民間の信仰を集める松尾寺。

かつて、私も厄除けに祈祷してもらったことがある。

ずいぶん昔のことだ。

突然に発症した肝膿瘍に、危険な状態に陥っていた。

風邪の疑いに入院した大阪の医院。

一週間に、一度は医院に来られる医師に症状を伝えた看護師長。

実は、義理の姉だった看護師長。

義理の弟の症状に、勤務する医院の診断では、治る見込みがないと判断されての行動。

状態を診た週一来られる外来医師。

CTエコーの状態を診て、直ちに救急車の手配をされた。

的確な診断に、急遽走った病院替え。

救急車で運ばれた大病院は、大阪・高槻。

直ちに処置したが・・・。

ぼやーっとする光景・・・・・親族一同がベッド横に並んで、なにかをしゃべっている。

あーこれが、見納めか・・・・・・・生死を彷徨った末の処置は、カテーテル・・・・

長い療養期間、精一杯のリハビリに、再び仕事に就いたが・・

生きながらえた私に、厄払いを、と家族の声に背中を押されて後厄祈祷をしてもらった「大和 松尾寺」。

回復してからの私は、考え、生き方に変化があった。

命をもらった私になにか、人のためにせい、と声が聞こえたかどうかわからないが、・・・その後にはじめた、今住む町、2番目故郷の奈良・大和への恩返し。

地域に貢献したい、その思いが今の取材活動に繋がった。

松尾寺は、真言宗醍醐派の別格本山の寺院。

山号は松尾山、または補陀洛山(ふだらくさん)。

2月、3月の初午の日の縁日には、多くの参詣者でにぎわう。

麓の山田町から車で登ってくる。



駐車場整備をしている警備員。

今年も少ない、というコロナ禍の縁日。

数年前までは、駐車場に行きつくまでの山行き車道は、駐車待ちの車で大行列になったけどなぁ、とつぶやく警備員。

それより何年か前の大晦日。

麓まで車が並んでいた状態が記憶にある。

昭和32年、入江泰吉がとらえた大和路・松尾寺参詣の道がある。

大行列に厄除け詣りをする人たちの写真が残されている。

どこから撮ったのかわからない写真。

クレーン車にでも乗って撮ったのでは、と思える一望できる参詣道




北惣門を潜り、石段を踏みしめて登る参詣者もまばら。



手水に手を清めてから登るが、一気にとはいかず、途中の石段に2度も一息つく。



手を合わせ、厄除けを願う参詣者たちが、灯した蝋燭にお線香。



奥へ、奥へと行きついたそこはこの日のためにふるまい善哉を用意していた。



ありがたい厄除け善哉に白玉だんごが三つも浮かんでいる。

つるっと口の中に滑り込み。



これが旨いんだなぁ。

つい、思いだす正月初めの行事。

大和郡山市内に鎮座する塩町戎。

笹もってこい。精いっぱい声を張り上げて参拝客に、「福」を授ける卑弥呼さんたち。

神社向かいに設営したテント内に、長椅子が・・・。

飛ぶように振舞われる塩町戎さんのぜんざい。

関係者がつくった白玉だんごを添えて・・・。

今はコロナ禍のせいで、実施できない振舞いぜんざい。

お願いだから、終息したら、黄色い声で「よーおまいりー」と迎えてほしいものだ

松尾寺のふるまい善哉は、お寺さんを支援する人たちが準備する。

昔はもっと大勢の人たちがいたから、杵で餅を搗いていたそうだ。

今は、ごく数人しかいないので、手間のかかる作業は、簡単にしたらしい。

白玉だんごもその一つ。

市販品を買ってきてぜんざいにしていると話す。

ありがたいふるまいぜんざいの温かいこと。

この日も寒いが、暖かく心を込めてつくってくださった厄除けぜんざいが美味しい。

さて、初午の日に求めていた“厄除け鳥御供”である。

御供の受付は阿弥陀堂左側になる。

案内盾に「日本最古の厄除寺 創建1300年に始まる(鳳凰)記念の朱印」。



すぐ傍に、「一枚三百円 記念の朱印」見本も立てている御朱印受付窓口に申し出た“厄除け鳥御供”。

要望に応じ、すぐさま筆をとるご朱印担当の職員さん。

予め版木で刷っていた鳳凰の姿は三色仕立て。

この三色は、伝統行事の「まつのおさんまいり」の赤たすきに、黄色たすき。

厄除け袈裟の青色。

厄除け祈願のこの日、厄除観音さまの御宝前に象徴の三色を彩った御朱印に、参拝日の令和四年二月十日を記してくれた。

一枚に心をこめて書してくださったありがたい御朱印を拝授した。

憧れだった御朱印。

賀状に参拝、とあり、今日ようやく詣でました、と伝えたら、貴方にはもう一枚、



特別に差し上げよう
と、予めパウチしていた日付けなしの鳳凰姿の朱印をプラスしてくださった。



今、まさにはじまろうとしていた護摩焚き。

初午日の柴燈護摩焚き。



この日、最初の柴燈護摩焚きに参拝者が群がっている。

二番目に行われる護摩焚きは、午後2時より。

そのときの人手を見届けることなく下山準備。

行者堂の前に焚かれていた煙立つ線香を撮っていた。

袈裟を首から下げた厄除け祈願者は、厄除けの赤たすきを祈祷中襟にかけ、護摩焚きの煙とともに、階段を駆け上がっていった。

松尾山神社の厄除け参拝。

神楽奉納に祈祷してもらう
のだろう。



もうもうと立ち昇る護摩焚きの煙を見届けながら、出店が並ぶ階段下に降りた。



厄除けかんざしに、回転焼き。

カステラを売る店もあれば北海道の郷土料理ともいえる鶏ザンギを売る店も・・。



揚げ油の香ばしい匂いに釣られて足が勝手に動く。

5本揚げ300円。

家族のお土産を、と思って注文した。



ザンギの名前は知ってはいるが、これまで一度も食べたことがない。

初午詣りに、えー機会だと思って注文した。

注文受けてから揚げてくれる情熱の鶏ザンギ。



揚げたて熱々の鶏ザンギ。

こんなに細いとは思ってもみなかった。

(R4. 2.10 SB805SH 撮影)