マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

今回も気分は上々

2017年01月31日 09時18分57秒 | むびょうそくさい
なんとなくふっきれたような気がする。

二日前に訪れた曽爾村小長尾。

センゲンサンに参っていた男性と直会で話すことになった同病相憐れむ。

私は僧帽弁の故障だが、男性は心筋梗塞が発端だった。

何度かの対応処置はそれぞれが違うが、不整脈による脈拍異常を治すために行った処置は私が受けた処置と同じであった。

それはカテーテルを差し込んで異状な箇所の回路を焼き切るという電極カテーテルアブレーション処置である。

処置は上手くいったがその後がおかしくなった。

起床したての脈拍は36拍。

私もほぼ同様の40拍前後。

身体を動かせば60拍前後の正常値になる。

これもまた同じである。

「そんな状態だが、遠出もする」。

内緒ではなく医師の了解を得てのことだ。

行先はけっこーな遠出。

私よりも遙かに長い距離を車で走る。

センゲンサンに登った山歩きもひょいひょいと軽々登攀していた男性は85歳。

数年前に患った不整脈の身ではあるが、すこぶる元気。

お互いは同情しあうわけでもなく、励ましでもなく、ひょうひょうと生きていけることに歓びを感じた日だった。

勾配45度とも思える山登り。

昨日も、今日も疲れはなく、膝、関節、筋肉、どれをとっても痛みがない。

気分は上々で入室したリハビリ室。

いつものように心電図機器を装着してもらう。

直後の脈拍は53-54拍。

これもまた上々である。

準備体操からスクワット運動では58-61拍。

ペダルを漕ぐ前からの60拍越えである。

エルゴメーター付きの自転車のペダル漕ぎの初速は10ワーク。

血圧は112-49。

脈拍は54-55拍だ。

順調な滑り出しだ。

1分後にガツンときた。

なんとワークは60。

いきなりの負荷にガツンと反応するペダル漕ぎ。

今日はきつい運動に頭も機敏な運動をするってGリハビリ療法士が云った言葉の意味がわかった。

漕ぐペダルの回転数は55rpm辺りを意識しながら漕ぐ。

6分後の血圧は134-50。

脈拍は68拍。

5分前の脈拍は60-67拍。

ぐんぐん上昇する脈拍に歓びを感じる。

そこへ持ち出されたワークシート。

持っていたのはリハビリ療法士のIさん。

これから行うのはペダルを漕ぎながら頭を使うということだ。

持っていたワークシートは5マスのクロスワードパズル。

設問に対して答えを導きだす。

頭のなかで考えれば考えるほどペダル漕ぎが疎かになる。

ほとんどの人はそうなるらしい。

これをデュアルタスク、つまり二重に設定した課題をこなすときのバランスを測るらしい。

認知症とか転倒しないように頭と身体を同時に動かす訓練みたいなもの。

タテのマス。

ヨコのマスなど設問は少ないが答えられるものもあれば、答えが頭のなかに湧いてこない問題もある。

意外と難しいがこれをリハビリ療法士と話しながら運動するのでデュアルどころかトリプルタスクだと思った。

マスが埋まれば出てこなかったワードも発想できる。

ペダルの回転数は落ちるどころか、逆に60rpmを越す具合。

自然体でそのようになるから、認知症は今のところ、心配ない。

そう思ったが、次回はマスが増えて7マスになると伝えられた。

16分後の血圧は145-55。

脈拍は69-70拍。

ペダルに重さは感じるが、息苦しさはまったく感じない。

汗もようやく滲んできた。

21分後の血圧は131-55。

脈拍は71-73拍。

久しぶりの70拍越えに気分は上々。

26分後の血圧は144-50。

脈拍は74-76拍。

ペダル運動を終えて自転車を降りる。

しばらくしてから測った脈拍は65-68拍。

徐々に下がって54―58拍。

今度、行われる負荷テストの話しなどを聞いていたときもいきなりのお下がりはなく、逆に上がった62拍。

整理体操のときも60-67拍。

いいんじゃないの。

先週に予約した負荷テスト実施にあたっては同意サインをして退室した。

運動を終えた直後の午後2時38分は会計の処理待ち。

その間に測った血圧は118-65。

脈拍は59拍。

受付したときの血圧は125-61で脈拍が51拍だたったから、この日の気分も上々である。

(H28. 7.26 SB932SH撮影)

気分は上々といいたいが

2017年01月31日 09時14分42秒 | むびょうそくさい
前回のリハビリ時に話された医師の言葉で気持ちが和らいだ。

たとえ脈拍が低くとも生存に影響を与えるものでもないようだ。

身体を動かすことで心臓の回転数は一般常識レベルになる。

至って心配はないという言葉に気持ちが整理できた。

この日も心臓のリハビリ運動。

もう何回、通ったことか。

そろそろ卒業・・なんてことはない雰囲気でもある。

リハビリ室で心電図機器を装着する。

そのときの脈拍は42-43拍。

そんなものだ。

これがスクワット運動をすれば48-50拍になる。

運動がキツいスクワットであれば58-61拍にもなる。

これが崩れたらエライことである。

自転車エルゴメーターのペダル漕ぎの初速は10ワーク。

初めの血圧測定は132―65。

ペダルの回転数を53程度にしておこう。

このときの脈拍は48-49拍。

50拍を切っていても心配はしない。

負荷が55ワークになった1分後の脈拍は51-52拍。

3分後には55-56拍にもなる。

6分後に測った血圧は150-63で脈拍は51-55拍。

なんともないだろ、の雰囲気に気持ちが良い。

11分後の血圧は140-66。

脈拍は56-58拍。

クーラーが利いている室内では汗はかかないと思っていたら、大間違い。

出てくる、出てくるであるが、少量だ。

16分後の血圧は153-60。

脈拍は57-58拍。

21分後の血圧は122-58。

脈拍は同じく57-58拍。

リハビリ療法士のIさんが運動している傍で話しかける。

盆明けにはストレス耐久負荷テストをしましょう、ということだ。

前回のストレス耐久テストは4月13日。

しばらく前の日にGリハビリ療法士より伝えられていたから日程の決定である。

テストができる曜日は水曜日しかない。

お盆は行事取材があるが17日は可能だ。

翌週の24日は地蔵盆がある。

どこを取材するかは別として選べない日。

17日の午後2時半に設定した。

そういった相談も受け答えしながらのリガビリ運動。

跨っていた自転車のサドルを降りる。

脈拍は44-45拍。

こんなもんである。

ちなみに循環器内科の血圧計で測った状態である。

午後1時7分は135-68で脈拍は44拍だった。

受付を済ました直後の安静状態である。

運動を終えた直後の午後2時42分は会計処理待ち。

その間に測った血圧は127-68。

脈拍は47拍。

上々である。

(H28. 7.19 SB932SH撮影)

格安弁当で元気だそ

2017年01月31日 09時01分54秒 | むびょうそくさい
この日は月に一度の診察日。

総合受付を済ませたら血液検査。

これをしないと診察は意味をもたない。

血液を採取してから1時間十数分後には結果がでる。

とにかくトップバッターが打たないと診察が始まらないのだ。

尿意をもよおしていてもトイレは後回し、である。

朝から降りだした雨は止まない。

こういう日は外来受診する患者さんは少ない。

いつもそういう傾向にあることが判ってきた。

血液検査の受付をすれば10人待ち。

待ち時間は10分もないから、実にスムーズ。

次は胸部レントゲン。

これもまた早い。

椅子に座ることもなく直ちに撮影、である。

次は寝台に横たわって測る心電図検査。

前回の脈拍結果は40拍だった。

先日の8日に上田診療所で受診した特定健康診断の検査では35拍だった。

驚愕の数値に驚きは隠せないが、とにかく身体を動かすことによって大幅に改善される。

自宅周辺を歩くだけで50拍以上にもなる。

そう思って外来棟の階段を歩くことにした。

外来棟は五階建て。

一旦は4階から下りて一階に。

そして登る階段は5階まで。

苦しさ、しんどさはあまり感じない。

これで40拍以上になるだろう、なんてことをしたら大間違い。

心電図を装着する技師は初心者。

装着し終えたら上司に検証してもらっていた。

それもあるが心電図の計測がうまくできない。

上司がし直すわ、「息を止めてー、ハイ、吸うてー、ハイ」などと安定措置も。

階段歩きによって脈がおかしくなったのかもしれない。

やってはいけないことに大反省する。

そして循環器内科の受付に向かう。

時間は午前の11時10分ころ。

前々回の診察は午後を大幅に間跨いだ。

前回もややそれに近い。

今回はどうなんだろうか。

おそるおそる尋ねてみれば割合順調であるという。

雨の日は受診する患者もすくないのか、流れは停滞していない。

停滞しているのはいつもの通りの駐車場入り。



この日の駐車待ちは15分間。

出庫の車がなければずっと待ち続けなければならないが、ときおり下りてくる車を見たらほっとする。

診察が滞っていたのは電子カルテ導入における医師の不慣れ。

システムのせいではなく、慣れの問題。

それによって停滞していた診察時間。

伸び伸びになっていた原因が除去しつつあると話していたK循環器医師。

「慣れも解消されて少しずつ早くなっている。もう少しで時間も早まることだろう。」と話していた通りだった。

それはともかく診察待ちは一時間。

借用している橋本鉄男著の『藁綱論—近江におけるジャのセレモニー』を読んでいた。途

中で何度もなんども眠りにつくリズムがない文章。

なかなか前へ進まない。

長くも短い待ち時間に、少しは頭に入ったかい、である。

診察室に呼ばれた時間は12時20分。

にこやかな循環器内科医師の顔が迎えてくれる。

これもまた、おそるおそるの結果が心配。

その通りの脈拍は39拍。

こりゃいかんであるが、

しかし、である。

今月結果のPT-INRの値は1.60。

前回は1.52。

前々回は1.23だった。

PT-INRは1.5以上が望ましいし、今回も前回と同様にクリアーしている。

血液検査の結果はもう二つ。

一つはBNPである。

前回は131.8だったが、前々回は76.4。

さて、今回は、ということで結果は・・・。

循環器内科医師のⅠさんが伝えた結果は特に問題はなし、である。

数値は80.7。

BNPの標準基準値は18.4以下であるが、これぐらいでも特に問題はないそうだ。

甘い点数をもらったかもしれない。

もう一つはヘモグロビン。

前回は12.4だったが、前々回は13.3。

今回の結果はどうか。

12.6である。

排便の際の出血はないが、尻を拭いたときには赤い血がついている。

トイレットペーパーを真っ赤に染めている状態でもない。

多少の血をみるが、特に問題はないという結果。

標準には届かないが特に問題はなしということである。

胸部レントゲンの結果も特に問題はみられない。

水も溜まっていない健康体の肺である。

なにが不安なのか。

言わずと知れた低脈拍である。

これまで、目まいを感じたことはない朝の安静状態。

リハビリなどで身体を動かせば問題なく50拍から60拍にもなる。

毎日の記録を記している健康手帳を診てもらう。

数値は決して誤魔化しているわけではない。

正真正銘誓っていう。

そんなことを言わなくても医師は信じている。

週一のリハビリ運動の結果も診られて、同意の安心、である。

次の通院は二カ月後。

その間に行われる耐久負荷テスト。

それもあるのが決断のトリガー。

その結果をもって二カ月後に判断したいと伝えられた。

また、上田診療所の先生から云われた24時間計測し続ける心電図機器装着の件。

運動しているときは測っているものの安定、安静、就寝時などの状態を認識することも大切。

今後の生活のためにも認識しておくのもいいだろうと話す。

たしかにそうだが、出てきた結果に冷や汗でも出るようなことになれば・・・。

これもまた心配、悩みをもってしまう可能性もある。

痛しかゆしの決断はどうするか、である。

そうしたことは将来的な課題。

それもあるが、同乗者を乗せての運転が許可されることになった。

ありがたや、ありがたや、である。

気持ちよく診察室をでたら昼食。

ここへ来るまでに買っていた弁当を広げる。

買った店は奈良市京終にあるラ・ムーの京終店。

つい、数日前の10日も同店舗で弁当を買った。

格安値段でありながら美味しくいただける弁当の値段は税抜きで184円。

驚異的な値段に物は試しと思ってこの日に選んだのはから揚げ弁当である。

前回とどこが違うのか。

前回はてりたまハンバーグ。

それに替わったのが三つの鶏から揚げである。

他にといえば・・・たまご振りかけだったご飯に堅めの梅干し。

違いはそれだけだ。

味はそこそこ。

184円の値打ちと考えればそれなりの弁当である。

決して不味くはない。

軽いかどうかわからないが、食事を済ませば週一回のリハビリ運動。

この日は待つこともなく、丁度いい。

ちなみにこの日のリハビリ運動の状態。

心電図装着時の脈拍は47拍・・48拍・・・・49拍。

すでに安静状態ではなくなっている。

ここへ来ればボルテージが上がるのはなぜか・・・。

いつもの準備体操時の脈拍は51拍・・52拍・・。

これもまた順調である。

次のスクワット運動では53拍・・54拍・・。

不整脈の波形が見られたようだがすぐに消えた。

見てしまうと不安感が生じる・・。

それがコワイのである。

自転車エルゴメーターのペダル漕ぎの初速は10ワーク。

回転数は52rpm辺りを保って漕ぐ。

血圧は117-55で脈拍は55-56拍。

すぐさまワークは55。

回転数を維持しながらペダルを漕いだ5分後は65-66拍に上昇する。

今日のノリはなかなか良くて上昇速度が早い。

10分後の血圧は135-51。

特に問題もなく脈拍は66-67拍。

汗がじわっと出だした。

15分後の血圧は148-55で脈拍は66-67拍。

実に安定している。

20分後の血圧は143-50で脈拍は67-68拍。

ときには69-70拍にも達する。

ラストの25分後の血圧は134-61で脈拍は61拍。

この日、最大の脈拍は73拍になった。

隣についたK循環器医師が云った。

「心臓を動かしている状態で60拍以上の脈拍であれば心配はない」である。

40拍前後の安静状態の脈拍を気にするよりも動いているときの状態が正常であれば問題はない、ということである。

嬉しい言葉にペダルを止めた。

それから数分後の脈拍は59-61拍に一安心である。

そこで一言伝えるGリハビリ療法士の話し。

心不全の人たちにとっては夏場の過ごし方が難しくなる。

夏場は汗をかく。

喉も乾く。

水分補給が多くなる夏場は心臓病の人にとっては大敵。

水分を摂り過ぎることで心臓に負担をかけるのだ。

浮腫みがでるような状態にならないよう、と説明された。

ところでこの日の循環器内科受付にある血圧・脈拍測定は11時28分に125-67で脈拍は41拍。

医師の診断を終えてリハビリ運動に向かう前の午後1時15分は126-57で脈拍は38拍。

こりゃいかんという脈拍数にガクっとくる。

そしてリハビリ運動を終えた午後2時41分は156-85。

脈拍は59拍。

医師の云う通り、心配せずに元気出して行こっ、である。

(H28. 7.12 SB932SH撮影)

気分が上がらない

2017年01月31日 08時56分36秒 | むびょうそくさい
この日もリハビリ運動。

いつも通りに受付に向かう。

月の始めは保険証の確認がある。

毎回、持っているので忘れた・・・なんてことはならない。

2階にあがって血圧計で測る。

136-66はごく普通であるが、出力した脈拍が42拍。

これまで見たこともない低さにドキっとする。

携帯型心電図機器を装着した直後の脈拍は43拍。

準備体操をしても44-45拍。

スクワット運動をしても48拍程度。

まるでなんの運動もしていないような感じの緩い上昇ぐあいに気持ちもあがらん。

自転車エルゴメーターのペダル漕ぎの初速は10ワーク。

1分後には55ワークに切り替わる。

そのときの血圧は111-66。

回転数、61rpmでペダルを漕いでも50拍程度しかあらない。

5分後の血圧は138-54。

54rpmで漕いで、脈拍は55-57拍だ。

11分後の血圧は129-52で56-59拍。

16分後は135-52に55拍。

この日はまったく上がらない。

Gリハビリ療法士は脈拍を引き上げるにはワークを揚げるしかないと判断されて60ワークにセットした。

21分後の血圧は133-50で脈拍は59拍だ。

26分後の終了間際の血圧は139-48。

脈拍は58-59拍だった。

なんとも言えない気分が残る。

しかもだ。

この日の異常はこれだけではなかった。

スクワット運動を終えて自転車エルゴメーター運動に移る数分間。

目を疑うような脈拍になった。

一瞬ではあるが、38-39拍を表示した。

リハビリ運動はかれこれ何か月もしてきた。

こんな状態に陥るのは初めてである。

しんどさを測るメーター。

とはいっても自身の感覚である。

リハビリ療法士が手にするペーパー測定値に指をさした処はややしんどに近い。

終わってK循環器医師が話しかけた。

「えらい日焼けですね」という。

これは一週間に一度に出かける取材焼け。

徒歩のリハビリ運動でも日焼けする。

昨年までは患者さんを送迎するドライバーをしているときも日焼け。

運転席側の右腕が特に黒い。

顔半分も黒い。

それは仕事上の日焼け。

もっと黒く焼けている人はたくさんおられる。

日中に立って仕事をしている人は多い。

外来棟にやってくる車を誘導する警備の人は顔も腕も真っ黒だ。

熱中症にならないように取材に熱中してはならんと心に決めている身体状態。

しんどい時は無理をせずに身体を休める。

心臓に負担をかけないように気をつけた行動をする。

これからは特に注意しないといけない夏場の暮らし方。

自宅周りを歩くリハビリ歩行も夕方に移した。

そのこともあるが、次週の診察がどういう結果になるのか、不安がある。

前回にお願いしていた同乗者有の運転許可だ。

Ⅰ主治医はこういった。

それは「先輩医師のK医師と相談してみる」である。

その件を伝えたK医師は「大丈夫でしょう」であるが、決定権は主治医にある。

こんな調子であれば無理である可能性があるだろうな。

(H28. 7. 5 SB932SH撮影)

山町・下山八坂神社の祇園祭

2017年01月30日 09時28分38秒 | 奈良市へ
7月14日と云えば祇園さん。

県内各地で行われている夏祭りの祇園祭であるが、すべての神社ではない。

特定の神社で行われていることに気づく。

7日から14日の間のいずれかで祇園祭が行われている地域はたくさん見つかる。

大和郡山市では矢田町の八坂神社、椎木町の杵築神社、横田町の和爾下神社、池之内町の八幡神社

奈良市は大保町の八坂神社。

桜井市は三輪の素盞嗚神社、初瀬の素盞雄神社

天理市は苣原の須賀神社、武蔵町の素盞嗚神社、海知町の倭恩智神社

田原本町は矢部の杵都岐神社に津島神社にある。

他にもたくさんの地域でされていると思われるが、いずれもかつては牛頭天王の名で呼ばれていた神社である。

全国規模でいえば祇園社を勧請している神社は3050社もあるらしい。

帯解地域にある山町の下山八坂神社がある。

これまで数多くの年中行事を取材させていただいた。

平成20年4月3日、翌年の平成21年4月3日は神武祭。

平成21年10月9日は宵宮当家祭。平成18年10月8日、3年後の平成21年10月11日は当家祭。

平成18年12月28日は正月を迎える簾型の注連縄作りや門松飾りを拝見した。

手で捻ったシンコモチが登場する神武祭は産経新聞の奈良版に記事を掲載した。

また、モッソや女児が担ぐゴクカツギやトーニン、トーニン、ワッハッハーイを唱和するお渡りがある当家祭は京都の出版社の淡交社から発刊した『奈良大和路の年中行事』で紹介した。

神社祭祀を務めているのは一老から六老までの六人衆。

かつて行事取材にお世話になった六人衆は死去される、或は退かれたことによって様変わりしていた。

久しぶりの平成26年7月、平成27年2月にお会いしたTさんは山の辺の道「奈良道」を守る会の理事職。

ひょんなことから会が催す写真展に頼まれ参加することになった。

そのころは六老から二老に繰り上がっていた。

これまでの六人衆は和服であったが、平成25年に改正されて礼服に移り、当家祭の御供搗きも中断することになったと聞いている。

平成25年の8月14日は池田町で行われるタイマツ行事の取材をしていた。

その場でお会いしたTさんは六老になったと話していた。

それから5年後にお会いしたTさんは一老に昇格していた。

月日が経つのは早い。

六人衆の移り変わり年代も早い。

こうした六人衆の経緯もあった下山八坂神社。

かつては牛頭天皇社と呼ばれていた神社である。

到着した時間は午前10時過ぎ。

人の声はするが神社本殿前ではなく参籠所だった。

雨がいつ降るやもしれないからと判断されて例年より時間を繰り上げて早めに斎行したので、たった今、終わったばかりだという。

六人衆が斎行する祇園祭は普段着姿。

村神主の一老が斎主となり、三巻の般若心経を唱えていたという。

ご挨拶もそこそこに残存状態を撮らせてもらう。



祇園祭のお供えの特徴は三本のシロウリである。

昭和60年からはシロウリになったが、それまでは5本のシロナスビを供えていたという。

その祇園祭は、かつて牛供養の呼び名があった行事。

昭和28年4月に発刊、昭和56年7月に再販された添上郡帯解町郷土研究会編の『帯解町郷土誌』がある。

それによれば「六人衆によって、神饌物として洗米、鯛、白瓜、昆布、するめ、茄子、お神酒が供えられ祇園御霊祭が行われる。また、この日は牛供養も行われた」とあることから、その供養に般若心経であったのだろうか。

昭和28年の時代に生きてきた若人。

仮に二十歳代としても今年で80歳越え。

覚えている人は居るのだろうか。

斎行が終わるころになれば村役の人たちが参集してきた。

この日は直会も兼ねた村行事の打合せ。

10月第二土曜、第二日曜に行っている当家祭と特定日の9日が祭礼である公式祭の名がある秋例祭の調整である。

今年は9日が第二日曜日。

祭りの日が重なってしまう。

さて、どうするか・・である。

悩ましき課題に意見を求められるが回答は難しい。

(H28. 7.14 EOS40D撮影)

笠・泥棒除けの閏庚申トウゲの塔婆

2017年01月29日 09時12分46秒 | 桜井市へ
一日早く架けた牛頭天王宮のテンノオイシキの注連縄や大草鞋に雌雄の草鞋を拝見して立ち寄ったA家にお邪魔した。

玄関を入ろうとしたときに気がついた軒下の木の棒。

見た瞬間にわかった旧暦閏年に立てた棒状の塔婆である。

千森に旧暦閏年の庚申さん行事があることはわかっていた。

平成27年2月15日に訪れた牛頭天王社が鎮座する地である。

社と地蔵堂の間にある祠があった。

左手に先祖供養の石塔。

右は庚申さんの石塔である。

年代等は見えなかったが、調べた人がいる。

津浦和久氏である。書き纏めた史料は『民俗社会の地域的差異について-庚申塔婆の現状とその分布』。

私も旧暦閏年に行われる地域の在り方を調べている。

大いに参考にさせてもらっている史料である。

その稿には若干であるが大字笠の庚申さんも書いてあった。

行事の名は「塔あげ」。

それだけであった記事にあった詠みは「トウアゲ」だが、Aさんは「トアゲ」と呼んでいた。

A家が残していた塔婆に願文がある。

奥の一本は下げてもらうのもご迷惑なので諦めて、手前の塔婆を拝見する。

それには梵字が五文字で「奉修 南無青面金剛天子講内安全子孫長久五穀豊穣祈祷上中組平成十八年三月二十六日」とあった。

塔婆の材は杉の木。

行事のときは葉付きで奉った。

花立てと塔婆作りは上/中組と奥組の垣内が毎回交替して担う。

塔婆はそのときのヤドがもらう。

泥棒除けになるという塔婆はA家に残されていた。

ちなみにその奥にある塔婆は11月にしたとAさんが云っていた。

ちなみに地蔵堂の前に建っている庚申石塔は「安永九庚子(1780)天 西国九月吉日」の刻印があるらしい。

(H28. 7.13 EOS40D撮影)

笠千森垣内・牛頭天王宮のテンノオイシキの藁草鞋

2017年01月28日 08時45分28秒 | 桜井市へ
笠の山は笠山。

鷲峯山とも称される三笠山の古い名前はミユキ山だった。

ミユキは「御幸」。

御幸山と書いてミユキヤマと呼ぶ。

幸山でもある。

さまざまな名前で呼ばれた神々しい山に鎮座する牛頭天王社。

左手にある社は幸天神宮。

幸山にある天神宮というわけだ。

両社殿に架けた注連縄はコジメ。

いわゆる小注連縄である。

一方、朱塗りの鳥居は太目の注連縄である。

三つの房を垂らした注連縄は今回が初めて見る。

今年の6月12日に訪れたときに見た注連縄はコジメだった。

その形は初めて千森を訪れた平成27年2月15日に拝見したときと同じ状態であった。

それが、である。

見事な房を垂らした注連縄に変身していた。

縄を結ったAさんの話しによれば右が頭。

左は尾。

これが正式な架け方だと話す。

その右手の水平柱に架けてあったのが牛の草鞋。

数は一足半と決まっている。

天王しか着ることのできなかったキヨウカタビラ。

一生に一度しか着ることのない着物の柄に三本足の鳳凰の姿があるという。

絵本にそういうことが書いてあった。

牛頭さんが神のお使いとして出仕するときに着用するとか・・・。

一足半は三本足の鳳凰の姿からきているらしい。

かつての縄結いは垣内の人がしていた。

藁打ちをしてから縄結いをする。

作った注連縄や供える草鞋は一時保管しておく。

架けるのは14日のテンノオイシキの日であった。

綱打保存会を立ち上げて2年目。

途絶えていたイシキの注連縄と草鞋作りを復活させてが、作る日も行事の日も一定しない。

時間もそうだが、都合によって日程を繰り上げる場合もある。

今朝の7時がそうだったいう縄架けに草鞋吊り。

翌日の14日は大雨になりそうだった。

それを避けるために一日早めたというテンノウイシキは会式らしくもなく一人で行っていたそうだ。

神饌御供を供えて拝礼する。



そして祝詞を奏上していたと云う。

昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった。

牛頭天王社に注連縄架け。

庚申堂に大草鞋を吊っていた会式は地蔵会式でもなく、7月14日にされていることから県内各地で行われている牛頭さんを祭る行事と同じ日である。

それゆえに「テンノオイシキ」と呼んでいる千森の行事は「牛頭天王の会式」であったに違いない。

10日に縄結いをしていたときにイシキの日を聞いていたが、曖昧な答えだった。

もしかとしてと思って再訪した千森の地。

ご主人に声をかけたら昨日にしたという。

10日に作っていたときは一言もなかった大草鞋が吊ってあった。

長さは50cmで幅は22cmの大草鞋に感動する。

昔の大草鞋の大きさはもっと大きかったと云う。

長さは庚申祠の下につかえるくらいの80cmだったそうだ。

鳥居に架けてあった牛の草鞋は一足半。

前回に拝見したときよりも多少は長さも伸びたような気がする。

牛の草鞋は御所市鴨神大西の申講が行く山の神行事で拝見したことがある。

形はどちらかと云えばまん丸い。

ここ千森で拝見した前回の牛の草鞋も同じように丸型だった。

それと比べてもわかるように大草鞋は実に大きく見える。

庚申さんの祠の左側に吊るしたのは大草鞋だけでなくそれぞれが片足ずつの草鞋もある。



それぞれがわかりやすいように解いてくれた。

手前にあるのが子供の草鞋。

長さが10cmほどだ。

その奥が男の草鞋。

それには男根がある。

突き出た男根は長さが20cm。

草鞋の長さは20cmの男のシンボルがあったのだ。

これにはご丁寧に陰毛も模している。

材料はシュロ。

チリチリにはなっていないが、それらしく見える。

前回に拝見したときは、まったくと云っていいほど、そういう状態であったことに気がついていなかった。

解いてみて始めて判る相手先は女の草鞋。

ご丁寧に草鞋のど真ん中は穴が開いている。

きちんとした姿で穴を開けたそこに男根が突き刺さっていたのだ。

その女の草鞋も長さが20cm。

子孫繁栄を願う雌雄合体した草鞋であった。

その証拠に子どもの草鞋がある。

よく見れば子どもの草鞋大小は2枚。

兄弟なのか姉妹なのか、聞きそびれた。

前述した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、5月の田植え前に青年たちが作って豊作を祈願していたとある。

テンノオイシキの日でもなく豊作を願う農の風習であったようだ。



ちなみにこれまで吊るしていた古い注連縄や草鞋は境内で焼却したそうだ。

(H28. 7.13 EOS40D撮影)

元興寺・夏の花盛り

2017年01月27日 09時48分47秒 | 奈良市へ
中院町の薬師如来縁日の御供上げ取材を終えて境内にでる。

御供上げを終えたKさんと落ち合う場は元興寺境内にある浮図田(ふとでん)。

国宝建物の禅室南側にたくさんの石仏が並ぶ。

毎年の8月23日、24日は大勢の観光客やカメラマンが訪れる地蔵会がある。

石仏の前に燈明をすることになったのは浮図田を整備した昭和63年からである。

浮図田は石塔・石仏(浮図)類を田圃(田んぼ)のごとく並べた中世の供養形態にあるそうだ。

素焼きカワラケに火を点けたトーシミに荘厳を感じるが、カメラマンは浴衣を着た女性がお好きなようだ。

尤も私もそのたぐいであるが、真正面からの撮影は遠慮した。

その浮図田にキキョウとハルシャギクが咲いているから撮っておいた方がいいと受付の男性に云われた。

夏日を浴びたお花が美しく咲いておればそうしたいと願っていた。

今が見ごろなのかどうかわからないが、何人かのカメラマンに混じって撮っていた。

大きな三脚を抱えたKさんも撮る。



陰になった縁で寛いだ。

しばしの休息に汗が流れた。

そよぐ風が顔にあたる。

極楽な時間を過ごさせていただいた。

感謝、感謝、である。

(H28. 7.11 EOS40D撮影)

中院町の薬師如来縁日の御供上げ

2017年01月26日 09時22分27秒 | 奈良市へ
何年も前から聞いていた奈良市中院町の薬師如来さんの縁日。

連絡してくださったのは写真家のKさんだ。

縁日は7月12日。

始めて聞いたのはいつだったろうか。

記憶を辿れば平成22年だったような気がする。

その年はK家が廻りの当番だった。

それから6年後の今年は平成28年。

再びかどうかわからないが御供当番を務めるから取材に来られてはどうかとお願いされた。

が、である。

その日は毎週行かなければならない心臓を元気するリハビリ運動がある。

その日と重なった。

折角のご案内は嬉しかったが病回復の運動は調整できない。

涙を呑んで断念した。

それから数日後に電話があった。

御供は前日の11日にもする。

それで良ければと云われて小躍りする。

ありがたくもある御供を拝見したい。

そう伝えてこの日に伺った。

実をいえば中院町の薬師如来仏は同町にある元興寺極楽坊本堂(別名に極楽堂・曼荼羅堂)にある。

安置はされているが元興寺の行事にはなく、中院町の行事であるが、法要は元興寺の僧侶がお勤めになるようだ。

元興寺の受付に中院町の薬師如来縁日に取材に来たと申し出れば通してくれるように手配してくださった。

身体のことも心配してくださったKさんは車の駐車位置までも手配してくださった。

ありがたい配慮に喜んで出かけた。

説明してくださったのは町代表の自治会長さんだ。

中院町は30戸ほどであるが、薬師如来縁日の廻りをしているのは14、15軒の町屋の人たち。

30か月に一度の廻りになるらしい。

縁日は毎月の12日。

月廻りの当番は毎月の12日に御供をあげる。

毎月の営みは御供あげだけになるが7月12日は元興寺僧侶がお勤めをしてくださる、ということだ。

何故に中院町の薬師如来立像があるのか。

住まいして200年間。

8代目になると過去帳でわかったという自治会長が云うには平成の時代に元興寺に移したそうだ。

それまで安置していた地は今の元興寺の駐車場がある処である。

そこに薬師如来立像を祭る蔵があった。

夏祭り、子供のころはスクリーンを張って映画上映会をしていた場。

道に櫓を立てて祭りをしていた。

道路に面したところが拡幅されることになった。

今もある道路歩道付近に石造りの線香立てがある。

これも移設の対象となって移動した。

そのときに薬師如来立像を元興寺が預かることになったと話す。

後日というか、3か月後の10月11日に訪れて、話されていた石造りの線香立てを拝見する。



それには刻印があった。

施主7人の寄進によって建之された線香立ては明治39年4月建之。

「奉納南無薬師如来御寶」の銘があった。

元興寺の一木造薬師如来立像は平安期の作で国宝。

現在は奈良国立博物館に寄託されている。

中院町の元興寺預かり薬師如来立像の作は江戸時代の前期、元禄時代の作のようだ。

お厨子は同時期であるのかわからないが、厨子内部には月光・日光菩薩に十二神将が並ぶ。

なお、花立や燭台は天保十二年になるそうだ。

元興寺にある仏像などのすべてが撮影禁止になっているが、本来は中院町の仏像。

自治会長らのご厚意もあって撮影・公開の許可を貰って撮らせていただいた。合掌。



御供当番が供えた御供は山や海、土から生み出す幸である。

サツマイモやキュウリ、ナスビ、カンピョウに乾物も盛った。

詳しくみればサツマイモの他にトウモロコシ、ミカン、アゼマメもある。

ヒジキやコーヤドーフ、紅白のカンテン、クルマフ(車麩)、アオノリは乾物。

メロン、ブドウ、バナナにモモは果物盛り。

ご飯を盛った「おぶっぱん(御仏飯)」は三杯。

かつては7杯だった。

毎月の縁日には豪華盛りではなく、洗い米とか炊いたご飯にお家で食べている調理ものである。

高めのローソクに火を点けて撞木(しゅもく)で鉦を打つ。

そして手を合わして拝む。

念仏は唱えることなく手を合わす。



話してくださった自治会長夫妻も静かに手を合わせて拝まれた。

(H28. 7.11 EOS40D撮影)
(H28.10.11 SB932SH撮影)

海知町倭恩智神社の祇園祭の中日

2017年01月25日 10時17分35秒 | 天理市へ
この日の取材はもう1件ある。

度々お世話になっている天理市海知町である。

9月初めに行われるシンカン祭り宵宮も含めて何度も訪れては撮っているカメラマンもいるが、この日の行事はたぶんにご存じないと思う。

元々の祇園祭は7月7日が始まりで14日まで続く行事であった。

過去形になるが、毎日に亘って行事をしている地域はたぶんに田原本町の矢部であろう。

かつてはどこともそうであったが、徐々に変化がみられて初日と千秋楽の7日と14日。

それもしなくなって14日だけになった処は多い。

尤も7日だけに行われている地域もある。

ここ海知町では中日(なかび)がある。

私が知る範囲内であるが、海知町の他に矢部がある。

矢部は尤も毎日であるが、神事ごとは10日の中日だけである。

ここ海知町ではこの夜の中日に大当屋が接待するソーメン喰いがあった。

ソーメン喰いをしている地域はそれほど多くない。

これも私が知る範囲内であるが、天理市の南六条にそれがある。

数少ない事例である。

それを拝見したく海知町を訪れたが今年はない、という。



ソーメンは大量に作られる。

それがどうしても残ってしまう。

作るのも器などを準備するのがたいそうになってきたようだ。

仕方なくソーメン喰いは廃止した。

その代わりではないが、乾麺状態のソーメンを神さんに供えることにしたという。



ローソクに火を点けて始まった三巻の般若心経。

前もそうだったが音源は仏教CDである。

村の人が唱えているものでなく一般的に売られている心経のCDが流れていた。

行事が始まる前から神社の鳥居前。

池の傍は子供たちでにぎわっていた。

何をしているのかすぐわかる花火。

飛んでいくときにピーーーと鳴る打上花火はしていない。

ブルートーンになった時間の境内は真っ暗闇。

時間帯は午後7時40分。

心経の音色とは関係なく子供たちは花火遊び。



何をしているのかといえば、花火が目的ではなく時間つぶしである。

祇園祭の中日が終わればパンを配られる。

それを待っていたのが子どもたち。

手にした子どもたちは自転車に乗って帰っていった。

氏子たちも同じように御供下げのパンが配られる。

それで解散するわけではなくお神酒で直会。

しばらくの時間を拝殿で過ごす。

(H28. 7.10 EOS40D撮影)