知人の写真家Kさんを待つ場は、下滝本バス停付近。
所在地は天理市滝本町。
天理ダム側にある桃尾の滝口に近い方が上滝本。
下れば下滝本。
下の豊井町からてくてく歩く道は旧街道。
南側に新道を新設されてからは車の往来は地元住民の利用ぐらいだろうか。
滝本道とも呼ばれる旧街道に、2体の地蔵石仏がある。
並んでいるのではなく、まま距離を置いたところに建っている。
小雨になった時間帯。
到着を待っている間に撮っておきたい濡れた地蔵石仏。
これまで何度も見てはいたが、じっくり拝見するのは初めてだ。
雨が止もうとした状況に、余裕の時間ができた。
その時間の有効活用に撮っていた。
豊井から福住に向かう新街道は奈良交通の定期バスが運行する。
天理駅を出発して豊井、二本松、滝本、長谷口、仁興口、苣原、福住を経由して旧都祁村の針インターへゆく新道を走るバス旅もあれば、旧街道にある地蔵石仏巡り歩きもいいだろう。
支柱を立て、覆屋設えの場に立つ高さ1.5mくらいの地蔵菩薩立像。
蓮華座に立つ上の地蔵菩薩立像は、顔面は削られたのか、それとも風化なのか、目鼻立ちのない地蔵石仏は、室町中期の作と推定されているようだ。
道中の安全を願い、じっくり拝ませてもらった。
真新しい供物台は近年に造られたのだろう。
信仰深い人たちがお花を立てていた。
その地蔵石仏からほんの少し登った場に山の水が流れ落ちていた。
石で組んだ水路に跨げる竿は太い竹。
流れる谷水を流す竹は半割り。
ずいぶん前に据えたと思われる竹の風情に思わず、これも民俗や、と声があがった。
一般的には塩ビパイプを敷設しそうなものだが、当地の心遣いは太い孟宗竹。
自然利用の谷水流しに思わずシャッターを押した。
湧き出る谷水の水流に勢いがある。
当地は、明らかな急こう配地区。
人力で登る急こう配に足があがらない。
一歩、一歩を登るごとに心拍数が急激に上昇する急こう配に、土地に住む人たちは毎日がたいへんだろう、と思うが・・・。
ここより下って、もう一つの地蔵菩薩立像を見に行く。
すぐ下に民家がある。
立ち位置からほとんど見えない民家に石の階段がある。
その階段もまた急こう配。
上にちょっとだけ見える玄関口までが遠い。
伺う気力もないから、その立ち位置から眺める石段横にある大きな岩。
苔むした岩に表札らしきものが隠れているのでは・・と、思ったが・・。
見上げたその大岩の頭上に、いがぐりが三つ、四つ・・。
1週間も経てばポロリと落下するのでは。
栗の実が落下する時期は、地域によって若干の幅はあるが、だいたいが夏の終わり。
かつて9月初めに長距離ロードをしていた。
5年続けた毎年の愉しみに、いつもこの時期に見る美味しい落下物。
走行する車道に落っこちているいがぐりくん。
実成りに手はだせないが、落下物はいただきもの。
裂け目のあるいがぐりを両靴に挟んで割る。
ひょっこり顔出しした栗の実だけをポケットに入れて、再び走っていった。
肝臓の手術。
退院後のリハビリ。
一年後になんとか復帰できた45歳から49歳にかけて走っていた当時を思い出す走行路は、5カ所。
琵琶湖一周、嵯峨・嵐山往復、淡路島一週、しまなみ海道往復、山口県半周。
いい思いでもあれば、突然のごとく近海に発生した台風に難儀したことも・・。
思い出話は、それくらいにしてさらに下った旧街道。
鬱蒼とした場のすぐ傍にあった二体目の下の地蔵菩薩立像。
上の地蔵菩薩立像の面はのっぺらだったが、下の地蔵菩薩立像の表情は、風化摩耗もせずに、端正なお顔。
右手に錫杖をもつ地蔵菩薩の石仏。
高さはおよそ1.3m。
明らかにわかる舟形光背を背負う下の地蔵菩薩立像。
頭上に座す如来石仏が印象的だ。
上の地蔵菩薩立像。
室町は中期の作とされるが、この下の地蔵菩薩立像は南北朝時代初期の作らしい。
気になるのは、右端に建つ笠形石灯籠の「観世音」。
寺院があったのか、それとも・・・。
当地より、山行きした地に廃寺龍福寺があったそうな。
かつて桃尾山蓮華王院龍福寺(※本尊は十一面観世音菩薩立像)と呼ばれていた大寺であったが、廃仏毀釈の影響を受けて廃寺となった。
その廃寺に向かう参道道があるようだ。
あるブロガーさんは、急こう配の山道を歩いて探した参道。
道標に今も残っている一部の丁石(※ちょうせき・ちょういし)を手掛かりに歩かれた。
石灯籠の「観世音」が基点の丁石出発地。
・・・三丁・・・五丁、六丁、七丁、八丁、九丁・・・。
それぞれの丁石に十一面観音の“キャ”の梵字が彫られているそうだ。
ちなみに九丁石には、“キャ”の梵字のすぐ横に、阿弥陀立像の石仏もある。
「寛永十六年・・九丁・・十八日・・當山施主・・」の刻印もある石仏に関係性は見つからない。
急こう配の山登りは、まるで沢登りの様相も見せるらしく、私の身体状況では、到底歩けない無理な地であろう。
九丁石からすぐ近くに布留の滝こと、桃尾の滝があり、さらに登った、そこに建つ大観寺(※本尊は釈迦牟尼仏)。
大正時代、龍福寺故地に建てたそうだ。
故地になった桃尾山蓮華王院龍福寺の本尊は、十一面観世音菩薩立像だった。
大観寺境内に天理観光協会が建てた掲示物に、そう書いてあるようだ。
ようやく判明した、下滝本・下の地蔵菩薩立像右横にある笠形石灯籠の「観世音」。
かつての桃尾山蓮華王院龍福寺に向かう参道の基点がここにあった。
真っ赤な曼殊沙華も咲く基点の地。
当時の様相に、思いを馳せるのもよかろう。
(R3. 9.12 SB805SH 撮影)
所在地は天理市滝本町。
天理ダム側にある桃尾の滝口に近い方が上滝本。
下れば下滝本。
下の豊井町からてくてく歩く道は旧街道。
南側に新道を新設されてからは車の往来は地元住民の利用ぐらいだろうか。
滝本道とも呼ばれる旧街道に、2体の地蔵石仏がある。
並んでいるのではなく、まま距離を置いたところに建っている。
小雨になった時間帯。
到着を待っている間に撮っておきたい濡れた地蔵石仏。
これまで何度も見てはいたが、じっくり拝見するのは初めてだ。
雨が止もうとした状況に、余裕の時間ができた。
その時間の有効活用に撮っていた。
豊井から福住に向かう新街道は奈良交通の定期バスが運行する。
天理駅を出発して豊井、二本松、滝本、長谷口、仁興口、苣原、福住を経由して旧都祁村の針インターへゆく新道を走るバス旅もあれば、旧街道にある地蔵石仏巡り歩きもいいだろう。
支柱を立て、覆屋設えの場に立つ高さ1.5mくらいの地蔵菩薩立像。
蓮華座に立つ上の地蔵菩薩立像は、顔面は削られたのか、それとも風化なのか、目鼻立ちのない地蔵石仏は、室町中期の作と推定されているようだ。
道中の安全を願い、じっくり拝ませてもらった。
真新しい供物台は近年に造られたのだろう。
信仰深い人たちがお花を立てていた。
その地蔵石仏からほんの少し登った場に山の水が流れ落ちていた。
石で組んだ水路に跨げる竿は太い竹。
流れる谷水を流す竹は半割り。
ずいぶん前に据えたと思われる竹の風情に思わず、これも民俗や、と声があがった。
一般的には塩ビパイプを敷設しそうなものだが、当地の心遣いは太い孟宗竹。
自然利用の谷水流しに思わずシャッターを押した。
湧き出る谷水の水流に勢いがある。
当地は、明らかな急こう配地区。
人力で登る急こう配に足があがらない。
一歩、一歩を登るごとに心拍数が急激に上昇する急こう配に、土地に住む人たちは毎日がたいへんだろう、と思うが・・・。
ここより下って、もう一つの地蔵菩薩立像を見に行く。
すぐ下に民家がある。
立ち位置からほとんど見えない民家に石の階段がある。
その階段もまた急こう配。
上にちょっとだけ見える玄関口までが遠い。
伺う気力もないから、その立ち位置から眺める石段横にある大きな岩。
苔むした岩に表札らしきものが隠れているのでは・・と、思ったが・・。
見上げたその大岩の頭上に、いがぐりが三つ、四つ・・。
1週間も経てばポロリと落下するのでは。
栗の実が落下する時期は、地域によって若干の幅はあるが、だいたいが夏の終わり。
かつて9月初めに長距離ロードをしていた。
5年続けた毎年の愉しみに、いつもこの時期に見る美味しい落下物。
走行する車道に落っこちているいがぐりくん。
実成りに手はだせないが、落下物はいただきもの。
裂け目のあるいがぐりを両靴に挟んで割る。
ひょっこり顔出しした栗の実だけをポケットに入れて、再び走っていった。
肝臓の手術。
退院後のリハビリ。
一年後になんとか復帰できた45歳から49歳にかけて走っていた当時を思い出す走行路は、5カ所。
琵琶湖一周、嵯峨・嵐山往復、淡路島一週、しまなみ海道往復、山口県半周。
いい思いでもあれば、突然のごとく近海に発生した台風に難儀したことも・・。
思い出話は、それくらいにしてさらに下った旧街道。
鬱蒼とした場のすぐ傍にあった二体目の下の地蔵菩薩立像。
上の地蔵菩薩立像の面はのっぺらだったが、下の地蔵菩薩立像の表情は、風化摩耗もせずに、端正なお顔。
右手に錫杖をもつ地蔵菩薩の石仏。
高さはおよそ1.3m。
明らかにわかる舟形光背を背負う下の地蔵菩薩立像。
頭上に座す如来石仏が印象的だ。
上の地蔵菩薩立像。
室町は中期の作とされるが、この下の地蔵菩薩立像は南北朝時代初期の作らしい。
気になるのは、右端に建つ笠形石灯籠の「観世音」。
寺院があったのか、それとも・・・。
当地より、山行きした地に廃寺龍福寺があったそうな。
かつて桃尾山蓮華王院龍福寺(※本尊は十一面観世音菩薩立像)と呼ばれていた大寺であったが、廃仏毀釈の影響を受けて廃寺となった。
その廃寺に向かう参道道があるようだ。
あるブロガーさんは、急こう配の山道を歩いて探した参道。
道標に今も残っている一部の丁石(※ちょうせき・ちょういし)を手掛かりに歩かれた。
石灯籠の「観世音」が基点の丁石出発地。
・・・三丁・・・五丁、六丁、七丁、八丁、九丁・・・。
それぞれの丁石に十一面観音の“キャ”の梵字が彫られているそうだ。
ちなみに九丁石には、“キャ”の梵字のすぐ横に、阿弥陀立像の石仏もある。
「寛永十六年・・九丁・・十八日・・當山施主・・」の刻印もある石仏に関係性は見つからない。
急こう配の山登りは、まるで沢登りの様相も見せるらしく、私の身体状況では、到底歩けない無理な地であろう。
九丁石からすぐ近くに布留の滝こと、桃尾の滝があり、さらに登った、そこに建つ大観寺(※本尊は釈迦牟尼仏)。
大正時代、龍福寺故地に建てたそうだ。
故地になった桃尾山蓮華王院龍福寺の本尊は、十一面観世音菩薩立像だった。
大観寺境内に天理観光協会が建てた掲示物に、そう書いてあるようだ。
ようやく判明した、下滝本・下の地蔵菩薩立像右横にある笠形石灯籠の「観世音」。
かつての桃尾山蓮華王院龍福寺に向かう参道の基点がここにあった。
真っ赤な曼殊沙華も咲く基点の地。
当時の様相に、思いを馳せるのもよかろう。
(R3. 9.12 SB805SH 撮影)