平成20年12月31日以来、11年ぶりに訪れた大和郡山市観音寺町の八幡宮。
今も同じようにしているのだろうか。
コロナ禍の今年は、どうされているのか。
ちょっと気になりだした運転中の意識。
自宅戻りの道から外し、直行する。
銭司の“オニ”の件の情報を得られず、意気消沈の帰宅。
自宅に戻るつもりが、ふと気になった大和郡山の砂の道である。
平成20年12月31日、人生初めて拝見した砂の道の第1号は観音寺町の八幡宮。
実は、ここに至るまでの経緯がある。
初見する2年前だったか。当時、県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん(※現在は奈良民俗文化研究所代表)。
ふと、私に尋ねた大和郡山の砂の道。
聞き取りのなかで鹿谷さんが知った砂の道。
実際に見たことはないから、探してほしい、というお願いである。
手がかりはまったくなく、途方に暮れていた平成20年の12月30日。
観音寺町八幡宮で行われた宵宮。
太鼓と鉦を子どもが打つ珍しい形態。
撮らしてもらった写真を、Hトヤに差し上げようとやってきた日だ。
町内に住む当時、大和郡山観光ボランテイアガイドクラブの副会長をされていた故Hさんと、道端にばったり出会った。
尋ねてみた砂の道。
それが、な、な、なーんと、観音寺町八幡宮でしている、という。
2年間も探していた砂の道が、お世話になっていた副会長が在住の地域だったとは・・・
世間は、とても狭いんだ、と思った。
賢一さんが、話してくれた未公開メモが残っていた。
今回の執筆に、偶然見つかった10年前のメモ書き。
「観音寺町で“正月の道”を作るでぇ、と言っていた。大晦日に近くなるころ、そろそろ“”正月の砂撒き“をせんなんといかんなぁ、と・・・。編んだ竹籠を装備しているモッコを持って佐保川の川に砂を採取に出かける。綺麗な川砂を掬って竹籠に入れる。川砂は水分を含んでいるので、それを竹籠に入れてしばらくおくと、水がきれて軽くなる。それからモッコを担いで地区に持ち帰る。川砂は、氏神社の観音寺八幡宮」
「箕を用いて本殿前から敷いていく“砂の道”。末社も同じように砂を一本道のように敷いていく。手水の処も敷く。観音堂の前も敷く。それは一本の繋がった“砂の道”を描き、鳥居まで続く。かつて神社のトヤが敷いた道に、各家はそれから繋げて砂を敷いていた。集落全域に亘っていた“正月の道”作りは家の玄関、蔵、納屋の手前まで敷いていた。家屋の外にあるご不浄の便所までも敷いていた。正月の道は人が通る全ての道に渡って敷いていた」
「正月さんを迎える道は、現実的にいえば家から神社へ参拝する道になっていた。子どものとき、盛り上がっている正月の道を踏んでいくのが楽しかった」
「この風習は30年ほど前から、“砂の道“つくりをしていたお家が、徐々にやめていくようになっていた。集落の道が舗装され、雨が降ったら側溝に流れていって始末せなあかんようになった。集落の道が土だったときは雨が降っても砂が自然にとけ込んでいった。それが舗装され、道路に砂が残る。側溝に溜まった砂は掃除せなあかん。面倒さがでてきたんで止めた」
「昭和58年(1983年)に、本殿を建て直した。そのときは既に集落の正月の道はしてなかった」と、話してくれた。
メモを読み返して驚き。
な、な、なんと、である。
2日に取材した田原本町・西代のTさんも同じような体験をしていた。
大和郡山の観音寺町からかなり遠い地区になる田原本町・西代に同様の“砂の道”があった。
トイレまでも繋げる状況も同じ。
地域が離れていても、考え方や撒き方が一緒だったことに、感動した。
出会いが、出会いにさらN繋がった“砂の道”情報を得て、ようやく実態を拝見することになった。
当時、トヤのHさん、一人で撒いていた。
おまけに故Hさんが、伝えてくれた隣村がしている“砂の道”。
観音寺町から、道路隔てた南側にある野垣内町。そこもしていると・・・
一挙に2カ所も知った大和郡山市の“砂の道”。
翌日の大晦日。両地区とも記録させてもらったワケだ。
それから一度も顔出ししていなかった観音寺町・野垣内町の“砂の道”。
口頭で伝えた人もいるが、HPやブログにアップした“砂の道”を知った大勢のカメラマンが、町内に出没するようになった。
あれから干支が一巡した12年後に再訪問した観音寺町。
今も変わらず、トヤさんがしておられた砂の道つくり。
集落の東側。5年間もお世話になった公共施設のハローワーク。
そこの駐車場は、再就職活動される人たちのための駐車場。
停めるわかにもいかないから集落の広地に停めている。
一歩、一歩、足を運んだ東入口に見た砂の道。
今年もしていた直の道。
今でこそ短くなったが、アスファルト舗装のない時代までは集落民家、一軒ごとに砂の道を繋いでいた。
この日は、正月三日。
大晦日に撒いた砂の道の一部が薄くなっていた。
痕跡があるからそこまで撒いていたとわかる。
さらに数歩。辻に出てわかる神社へ向かう参道になる。
民家と民家の間が参道道。
遥か遠くに見える鳥居の姿でわかる神社に行く道。
一直線に、まっすぐ伸ばした砂の道。
南に向かって歩けば、右に繋ぐ砂の道がある。
そこのお家は、平成20年12月31日訪問にお世話になったHトヤ家の裏の勝手口。
家の正門前は、一般の人たちも歩かれるので、遠慮して撒かれない。
尤もアスファルト道でなく、地道の時代は、すっとずっと伸ばしていたが・・・
さて、神社に向かう参道。
またもや右手に繋ぐ砂の道がある。
右手の建物は、町内に散在していた石仏地蔵を集めたのだろう。
市内にも県内にも多くみられる石仏地蔵を集めた地蔵祠。
お花を立てたそこに供えていた正月の御供は2品。
二段重ねの鏡餅。
深い大皿に盛った小豆御供。
洗い米を敷き、ラップかけ。
その上に撒いた小豆である。
10数年前にも同じ御供があったはずだ、と記憶を取り戻す。
そこから数歩もいかないうちに左手にも砂の道を繋げている。
砂の道を辿ったそこに建つお堂は観音堂。
夏の観音さんや、正月9日の初観音行事を撮らせてもらった観音寺町の観音堂である。
次の一歩にも建物がある。
奥に見える像は、牛の像。
あるブロガーさんが、観音寺町八幡宮を訪れ牛の像の背中にあった刻字から奉納年が”昭和十二年”が判別できたようだ。
年代がわかったところで、拝見する二日正月の小豆御供。
数歩行ったところで左折れの参道、砂の道。
手水鉢にも砂の道。
神さんが通る砂の道に、参拝者同様、手水をされていたとは・・・
ちなみに正面は、割り拝殿に向かっている。
扉は閉まっておらず、本社殿ならびに末社にも繋げた砂の道があった。
(R3. 1. 3 SB805SH撮影)
今も同じようにしているのだろうか。
コロナ禍の今年は、どうされているのか。
ちょっと気になりだした運転中の意識。
自宅戻りの道から外し、直行する。
銭司の“オニ”の件の情報を得られず、意気消沈の帰宅。
自宅に戻るつもりが、ふと気になった大和郡山の砂の道である。
平成20年12月31日、人生初めて拝見した砂の道の第1号は観音寺町の八幡宮。
実は、ここに至るまでの経緯がある。
初見する2年前だったか。当時、県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん(※現在は奈良民俗文化研究所代表)。
ふと、私に尋ねた大和郡山の砂の道。
聞き取りのなかで鹿谷さんが知った砂の道。
実際に見たことはないから、探してほしい、というお願いである。
手がかりはまったくなく、途方に暮れていた平成20年の12月30日。
観音寺町八幡宮で行われた宵宮。
太鼓と鉦を子どもが打つ珍しい形態。
撮らしてもらった写真を、Hトヤに差し上げようとやってきた日だ。
町内に住む当時、大和郡山観光ボランテイアガイドクラブの副会長をされていた故Hさんと、道端にばったり出会った。
尋ねてみた砂の道。
それが、な、な、なーんと、観音寺町八幡宮でしている、という。
2年間も探していた砂の道が、お世話になっていた副会長が在住の地域だったとは・・・
世間は、とても狭いんだ、と思った。
賢一さんが、話してくれた未公開メモが残っていた。
今回の執筆に、偶然見つかった10年前のメモ書き。
「観音寺町で“正月の道”を作るでぇ、と言っていた。大晦日に近くなるころ、そろそろ“”正月の砂撒き“をせんなんといかんなぁ、と・・・。編んだ竹籠を装備しているモッコを持って佐保川の川に砂を採取に出かける。綺麗な川砂を掬って竹籠に入れる。川砂は水分を含んでいるので、それを竹籠に入れてしばらくおくと、水がきれて軽くなる。それからモッコを担いで地区に持ち帰る。川砂は、氏神社の観音寺八幡宮」
「箕を用いて本殿前から敷いていく“砂の道”。末社も同じように砂を一本道のように敷いていく。手水の処も敷く。観音堂の前も敷く。それは一本の繋がった“砂の道”を描き、鳥居まで続く。かつて神社のトヤが敷いた道に、各家はそれから繋げて砂を敷いていた。集落全域に亘っていた“正月の道”作りは家の玄関、蔵、納屋の手前まで敷いていた。家屋の外にあるご不浄の便所までも敷いていた。正月の道は人が通る全ての道に渡って敷いていた」
「正月さんを迎える道は、現実的にいえば家から神社へ参拝する道になっていた。子どものとき、盛り上がっている正月の道を踏んでいくのが楽しかった」
「この風習は30年ほど前から、“砂の道“つくりをしていたお家が、徐々にやめていくようになっていた。集落の道が舗装され、雨が降ったら側溝に流れていって始末せなあかんようになった。集落の道が土だったときは雨が降っても砂が自然にとけ込んでいった。それが舗装され、道路に砂が残る。側溝に溜まった砂は掃除せなあかん。面倒さがでてきたんで止めた」
「昭和58年(1983年)に、本殿を建て直した。そのときは既に集落の正月の道はしてなかった」と、話してくれた。
メモを読み返して驚き。
な、な、なんと、である。
2日に取材した田原本町・西代のTさんも同じような体験をしていた。
大和郡山の観音寺町からかなり遠い地区になる田原本町・西代に同様の“砂の道”があった。
トイレまでも繋げる状況も同じ。
地域が離れていても、考え方や撒き方が一緒だったことに、感動した。
出会いが、出会いにさらN繋がった“砂の道”情報を得て、ようやく実態を拝見することになった。
当時、トヤのHさん、一人で撒いていた。
おまけに故Hさんが、伝えてくれた隣村がしている“砂の道”。
観音寺町から、道路隔てた南側にある野垣内町。そこもしていると・・・
一挙に2カ所も知った大和郡山市の“砂の道”。
翌日の大晦日。両地区とも記録させてもらったワケだ。
それから一度も顔出ししていなかった観音寺町・野垣内町の“砂の道”。
口頭で伝えた人もいるが、HPやブログにアップした“砂の道”を知った大勢のカメラマンが、町内に出没するようになった。
あれから干支が一巡した12年後に再訪問した観音寺町。
今も変わらず、トヤさんがしておられた砂の道つくり。
集落の東側。5年間もお世話になった公共施設のハローワーク。
そこの駐車場は、再就職活動される人たちのための駐車場。
停めるわかにもいかないから集落の広地に停めている。
一歩、一歩、足を運んだ東入口に見た砂の道。
今年もしていた直の道。
今でこそ短くなったが、アスファルト舗装のない時代までは集落民家、一軒ごとに砂の道を繋いでいた。
この日は、正月三日。
大晦日に撒いた砂の道の一部が薄くなっていた。
痕跡があるからそこまで撒いていたとわかる。
さらに数歩。辻に出てわかる神社へ向かう参道になる。
民家と民家の間が参道道。
遥か遠くに見える鳥居の姿でわかる神社に行く道。
一直線に、まっすぐ伸ばした砂の道。
南に向かって歩けば、右に繋ぐ砂の道がある。
そこのお家は、平成20年12月31日訪問にお世話になったHトヤ家の裏の勝手口。
家の正門前は、一般の人たちも歩かれるので、遠慮して撒かれない。
尤もアスファルト道でなく、地道の時代は、すっとずっと伸ばしていたが・・・
さて、神社に向かう参道。
またもや右手に繋ぐ砂の道がある。
右手の建物は、町内に散在していた石仏地蔵を集めたのだろう。
市内にも県内にも多くみられる石仏地蔵を集めた地蔵祠。
お花を立てたそこに供えていた正月の御供は2品。
二段重ねの鏡餅。
深い大皿に盛った小豆御供。
洗い米を敷き、ラップかけ。
その上に撒いた小豆である。
10数年前にも同じ御供があったはずだ、と記憶を取り戻す。
そこから数歩もいかないうちに左手にも砂の道を繋げている。
砂の道を辿ったそこに建つお堂は観音堂。
夏の観音さんや、正月9日の初観音行事を撮らせてもらった観音寺町の観音堂である。
次の一歩にも建物がある。
奥に見える像は、牛の像。
あるブロガーさんが、観音寺町八幡宮を訪れ牛の像の背中にあった刻字から奉納年が”昭和十二年”が判別できたようだ。
年代がわかったところで、拝見する二日正月の小豆御供。
数歩行ったところで左折れの参道、砂の道。
手水鉢にも砂の道。
神さんが通る砂の道に、参拝者同様、手水をされていたとは・・・
ちなみに正面は、割り拝殿に向かっている。
扉は閉まっておらず、本社殿ならびに末社にも繋げた砂の道があった。
(R3. 1. 3 SB805SH撮影)