マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

伊賀特有の馬型しめ縄を探して名張市を彷徨う

2024年06月17日 07時36分25秒 | もっと遠くへ(三重編)
思い立って行動した伊賀特有の馬型しめ縄調査。

正月二日に出かけて、訪れる地域の正月風情も伺えれば、と思っている。

お昼は、道中にあった餃子の王将天理インター。

ジャストサイズ餃子の王将ラーメンプラス鶏の唐揚げを食べて
、再出発。

行先は三重県の名張。

地区ごとに行われていたイノコモチ行事を取材していた地域はごく一部。

そこの地域に見られるしめ縄は、めがねのカタチらしい。

安部田に住む知人が伝えていた形状であった。

前年の令和3年の12月8日にも出かけていた名張。

大屋戸杉谷神社でお会いした宮司さんから伺った近年の熟柿祭

生活圏は広く、民俗行事の一部を紹介いただき走った布生(ふのう)地区。

余裕時間をさいて、場所を知った


その入り口にあたるのか、どうかわからないが大通りを抜けていた。

今日も、その道を走ってきた。

ふと、目に入った大きな鳥居。

正月初詣の様相を見ていこう。

なんとか空いた宮さんの駐車場に留めた。

ここは、名張市の夏見に鎮座する積田(せきた)神社

「全国春日連合会」の記事によれば「人皇48代称徳天皇の神護景雲元年(767)旧6月21日。鹿島大神(武甕槌命/たけみかづちのみこと)が常陸国鹿島より大和国春日社へ御遷幸の途次、留在された霊蹟で、古書に”伊賀の国名張郡夏見郷御成の宮、或は宇成神社”、とあるのはすなわち・・」夏見に鎮座する積田(せきた)神社は、積田(つむた)の宮とも称されている。

奈良の春日大社につながる一本の道は、到底わからないが、県民として参らずにおれない積田神社。

奥へ、奥へと参道をゆく。

正月二日にしては、参拝者は目立っていないようだ。

由緒によれば、「南都春日大社の奥の宮」とされる積田神社に、ありがたく参拝した。

詣でに向かう参道に、春日の神鹿像が迎えてくれる。



その数多く、この画角範囲内でも5頭の神鹿像がわかる。

さらに、奥へ詰めていくと、相当な高さの笠をかぶる石塔がある。

常夜燈にしては、背丈が異様に高い。



灯すに、梯子がいるような高さに妄想。

彫文字も判読できない石塔はなんだろうか。

それにしてもだ。

ここ夏見の積田神社にしめ縄が見られない。



鳥居にもかかっていないしめ縄。

正月二日であってもしめ縄をかけない神社もあるんだと、知った。

確認しておきたいしめ縄の件の件である。

それを見た12月8日は、大屋戸から布生の民俗調査していたときだ。

トイレも借用したザ・ビッグエクスプレス夏見橋店。

偶然、目に入った特徴あるしめ縄


まぎれもない足がある馬型しめ縄。

売り場を担当されている店員さんなら、そのしめ縄についてご存じであるかもしれない。

ちょっとしたヒントでも伺えればと、思って声をかけたレジ打ちしていた若い女店員のNさんに、問い合わせた。

結果は、当然ながらの売り切れ。

もし、どのような方が、買われていたのか覚えておられたら、と思って尋ねた結果は、「購入する人が多く、レジ打ちしていたので覚えているのですが、お名前も聞いておりませんし、どこの地区の人なのかもわからない。

質問に答えられなくてごめんなさい、と返してくれたNさん。

おそらくではあるが、今年の年末商戦に、しめ縄をつくっておられた方や買われた方に、今日の問い合わせ話を伝えてくれるのでは、と期待したいものだ。

さて、馬型しめ縄は、ザ・ビッグエクスプレス夏見橋店に再訪する機会があれば、是非ともまた探してみるか。

見本は、手元に残した写真がある。

その馬型しめ縄を旧村集落に求めてみよう。

行先、目的地は手がかりなく、アテもなく流離う走行。

前方、左右に見える範囲内に、これはっと思われるしめ飾りがあるお家を散策調査。

名張市・百々(どど)集落をぐるりと、見て回るがなに一つもなく、であった。

奈良県内においてもそうだが、ここ近年において正月のしめ縄飾りを見てきたが、その数は減っているのでは、と思っている。

昨今は、大手スーパーから中小スーパー売りが目立っている時代。

かつては商店街に売っていた正月用品。

今や、コンビニエンスストアでも見られる民俗用品。

都会の動きは、拝見する機会がないが、激変ではなく、元から年神さんを迎える思考が少なくなっているのが要因であろう。

さて、昨年の令和3年12月8日に伺った名張市・布生(ふのう)地区を目指し、名張川(一ノ瀬川)を遡上する。

布生(ふのう)に百々(どど)、庵、吉原など含めた国津地区を散策する。

百地姓が多いといわれている百々(どど)集落はどうであったか、といえばそもそもしめ縄をかける風習は1軒だけだった。

たまたまお会いできた、鈴鹿ナンバー車の男性親子さんに、聞き取りした馬型しめ縄。

この歳になるまで、まったく見たことがない、と話してくれた。

ただ、その父親が知る限りの話であるが、三重県の鈴鹿地方は、めがね型のしめ縄が多く見られるそうだ。

やや、高地的集落では、と思えた神屋集落は、そもそもしめ縄を飾っていないようだ。

尤も、門扉辺りの周辺散策。見える範囲は限られる。

一軒、一軒を訪ねるには、不審がられる。

ここでも、たまたまお会いできた車体洗車中の男性。

「青蓮寺川を遡った比奈知(ひなち)集落にあるかも・・」と、教えてくれた。

布生集落も、そもそもしめ縄はしないらいようで、国津地区を離れて、ハンドルは比奈知に向けた。

比奈知(ひなち)集落は、街道沿いに並ぶ家並び。

車窓越しに見えたしめ縄は玄関とか・・



一般的なしめ縄をかける門扉や、玄関屋根柱などにめがね型しめ縄をしていたお家が数軒見つかった。

そこから若干離れた家にもあったし、ある農家さんは反り返り型のしめ縄飾りが見つかったが、馬型しめ縄は見つからなかった。



また道歩きの若い母親子にも尋ねた。

その結果は、「馬ではなかったですが、嫁入り先の愛知県のしめ縄は、今まで見たことない形に驚いた」、と話してくれた。

また、大阪から名張へ、そして10年前に比奈知に転居した男性はこれまでしめ縄を飾ったことがない、という。



場を変えて見つかった8の字型に結ったしめ縄。



いわゆるめがね型のしめ縄と呼ばれている形であるが、そうともいえないカタチのしめ縄も見つかった。

しめ縄探訪に全国をくまなく調査された森須磨子氏。

執筆された著書『新年を願う結ぶかたち しめかざり』
にも搭載されていないのでは、と思たったしめ縄がある。

また、FB知人のMさんが教えてくれた青森県の事例。

尤も取材、報道されたのは弘前経済新聞社であるが
・・・

青森津軽に知られる七ツ八幡宮。

鳥居に飾ったしめ縄の名が”じゃんばらしめ縄」


いわゆる縄のれんの一例であるが、独特の文様で編まれているようだ。

なお、”じゃんばら”は”邪祓い(じゃばらい)”が語源だという。

芸術性のあるのれん縄もいいが、牛の角のようにも見える装飾的しめ縄を調える滋賀県犬上郡多賀町川相赤渕神社の事例も侮れない。

是非とも実物を拝見したい希少なしめ縄事例Gネットに見つかった。

さらにネットをぐぐっていけば、なんと写真家Kさんも取材、京都新聞にも紹介していたとは・・・

(R4. 1. 2 SB805SH/EOS7D 撮影)

名張市布生・国津神社の民俗調査

2024年05月07日 07時21分54秒 | もっと遠くへ(三重編)
熟柿祭行事を終えていた名張・大屋戸杉谷神社。

出逢った宮司のご厚意で拝見した御供さげの熟した柿を収めていた竹籠状態。

初めて見た里の稔りの形態に感動を覚えた。

そのときに伺った立ち話に話してくださった宮司の生活拠点でもある三重県名張市布生(ふのう)地区。

その地に鎮座する国津神社の位置だけでも、と思って足を伸ばした現地踏査。

はじめて入る地区だけに、カーナビゲーションは必須道具。

広域マップでおおよその位置をみれば、名勝の青蓮寺川・湖に香落渓。

さらに南下すれば奈良県内の曽爾村の小太郎岩・曽爾高原に繋がる。

そうか、そういえば、これらは昔に走ったことがある。

紅葉真っ只中の走行路に家族も喜んでいた。

布生(ふのう)地区は、青蓮寺湖の上流であった。

折戸支流の渓流に沿って遡上していけば、たぶんに着くはず。

車を停めて拝見した布生(ふのう)の道路マップ。

しかも国津地区の道路マップとあるから、自然と見つかるだろう、と思ったが、いかんせん目的地の国津神社が・・・。



番号が①番の位置。

鳥居の印地は奈垣。

たぶんに小字であろう。

ただ、国津神社は①の奈垣だけでなく、②の布生下出にもあるし③の長瀬、④の上長瀬の4地区それぞれに鎮座する国津神社。

いやはや、これではカーナビゲーションがきちんと誘導してくれるだろうか。

区域名から推定した布生の中心地。

その地区名がある布生上出・布生下出が考えられる。

現在地から尤も近い地区。

道は、急激に変化した急な坂道。

なるほど、川から離れた瞬間に、ここら一帯が山なんだ。

道なりに走った布生。

なんとなく民家でなく公共的使用目的の会所のような建物が見つかった。



停車してわかった、その建物は「布生上出区集会所」であったが、人影のない公共の建物。

で、あればお近く、近隣の民家を探す。

屋外にたまたまおられたご婦人に声をかけた。

生まれも育ちも名張市布生(ふのう)旧家住まい、という女性に地域行事などを尋ねたが、詳しくは存じていないようだ。

ただ、下出に鎮座する国津神社の所在地を教えてくださった。

宮司がいわれた国津神社であるのか、それは行ってみなきゃわからない。

聴き取りにひとつ尋ねたいお盆のトビウオ。

今は、食べることもないトビウオ。

そのトビウオは、両親が健在であれば食べられるが、片親の場合は、食べないといってくれた。

これまで聴き取りしてきた人たちそろって一様にいわれる、片親なら食べられない習俗。

話してくれた中年女性は、そうそうテレビか、なんかで聞いた奈良・葛城にある當麻寺

近年までは、寺でなく當麻神社で覚えていたわ・・と。

當麻の地にある神社といえば、當麻山口神社であろう。

そんな会話を済ませて、近辺をめぐってみる。



ここ高台から見下ろしたそこに柿の実に黄色い柑橘の実。

12月の8日は、まだ寒くないが、そぼろ降ってきた小雨に濡れたら身体も冷たくなる。

高台下まで動いたが、それ以上には民俗はなくUターン。



聴き取りさせていただいた民家まで戻ってきたその正面に見つけた石組みの常夜燈に石仏(※推定)のような構造物。

可能性として考えられるのが、庚申石塔。

たしかであれば、庚申講が建てた、と推定するのだが・・・



ここから道なりに下って見つかった布生の国津神社

で、あれば、最初にみた国津地区の道路マップからいえば、ここが布生下出に鎮座する国津神社であろう。

由緒によれば、平安朝時代末期のころ、すでにこの地に国津祠を建てていた、と東大寺文書に記録があるらしく「この地は、旧くより六箇山(むこやま」に属し、伊勢神宮領にあり、布を献上したことから“布乃布”と記し、“ふのう”と、呼ばれるようになった」そうだ。

秋の祭りに奉納される本格的な獅子の神楽舞や子ども相撲がある。



ここ布生下出に鎮座する国津神社の奥。

山の斜面に並べた十体の山ノ神。

その真上に勧請縄らしき綱や、樹木に架けているウツギの木のカギヒキ様相を伝えているブログ「愛しきものたち」がある。

本日の臨時調査では、裏側にまでは行き届かず、そこまで知ることができなかった山ノ神民俗は、再び足を運びたい。

また、その際には、隣接する長瀬地区にも同等のカギヒキや藁づとつくりも。

現在も、尚されているのか見ておきたい貴重な民俗史料である。

なお、長瀬は木場ごとに行われているらしく、場はそれぞれのあり方。

距離も離れていそうなだけに、調査は多くの村の人たちに聴き取りが欠かせない。

平成14年1月から3月にかけて、民俗儀礼調査員の3人が遺した調査史・14頁によれば、ほぼ名張市全域にわたって山ノ神信仰されていることから、その存在は百を超えるかな、と推定したが実際に調査した山ノ神碑は78カ所。

カギヒキの場だけでも65カ所。

一日では、到底調査しきれない、圧倒的に多い山ノ神である。

国津神社の下見に見た橋。



こちら側は折戸川。

反対側をみれば上流側に標した宮前橋プレート。



つまりは、この橋は国津神社前に架けた宮前橋。

折戸川に架けた宮前橋であった。

この場を離れて再び走った道にあった「国津の杜 くにつふるさと館」。



布生・国津の史料があれば、観たいと思って入館したが・・・

調査はここまで。

帰り道に撮っていた布生・国津の景観に一時停車。



小雨降る村の景色、特に落柿の風情に見惚れていた。



白い景色に包まれた時季にも訪れたい布生の景観であるが、中間山間地。

急激な坂道に急な曲がり道に苦戦するだろう。

おそらくスタッドレスタイヤでも困難な坂道。

1月7日(※地区によっては11月7日の場合もあるらしい)の山ノ神行事にも出かけてみたいが・・・

(R3.12. 8 EOS7D/SB805SH 撮影)

名張・大屋戸杉谷神社・熟柿祭の御供さげ

2024年05月06日 08時00分02秒 | もっと遠くへ(三重編)
滋賀県の伝統行事を主に取材してきた写真家のKさんが、奈良・大淀町大岩の地に写真展をされた。

会場は、平日だけが営業の喫茶きまぐれや。

大岩の神社行事撮影に応援してくれた写真家のKさん。

当時、身体がどうにもこうにもの状態に、大いに助けてもらった。

そのことがあって、Kさんも私同様、平日だけが営業の喫茶きまぐれや会場をお借りして写真展をされた。

そのときの作品展示を拝見し、いくつかの行事を拝見したくなった。

その一つが、「熟柿祭」と呼ばれる地域行事。

祭事の場は、三重県名張市大屋戸(おやど)に鎮座する杉谷神社である。

「熟柿祭」の読み名は、「ずくし祭」。

つまり、熟した柿である。

聴くところによれば、菅原道真公が中傷により筑紫の国に左遷された故事に因んだ杉谷神社に伝わる伝統の特殊神事。

主斎は、天神講が務め。

関係地区から世話人が参加し、執行している祭事。

古例に倣って、杉谷神社に参詣される天神講の講員に熟した富士柿に造花の梅花を添えた竹で編んだ籠ごと授与される。

併せて、小丸餅に小魚も授与されるそうだ。

「ずぐし祭」の名称の由来について、「ずぐし」は本来「筑紫」であり、筑紫に流された菅原道真をまつる「筑紫祭」がズグシに転訛したと説く人もいるらしい。

ただ、一般的に柿が熟した状態をズクシと呼ぶ地域は広範囲に亘り、奈良や京都。

広範囲に亘る、一般的に呼ばれているズクシの呼称例であるが、一度は尋ねてみたい民俗行事。

祭事される時間は不明。

特に、コロナ禍の現状では、おそらく中断されている可能性もあるが、祭事の地だけでも、覚えておくといいだろう、と思って家を出た。

カーナビゲーションに鎮座地を登録し、出発。

ここを左に曲がれば鎮座地。

その角地にあったコンビニエンスストア。

かすかな記憶に見つかったコンビニエンスストアに間違いない。

平成31年の2月7日に訪れた三重県名張・松原店のファミリーマート

その日の取材は、名張市内にある蛭子神社で行われる名張八日市。

いわゆるえべっさん行事の取材。

お昼を摂るために駐車した名張・松原店のファミリーマートから、すぐ近く。

ここからでもわかる蛭子神社の鎮座地。

なるほどの位置だったとは・・

コンビニエンスストアにご縁あり。

いうまでもなく本日もまた、お昼に摂ったテイクアウト総菜弁当の美味しさに舌鼓を打っていた。

神社に到着した時間は午前11時10分過ぎ。

人が数人おられるが、もの静かな境内の動向を伺っていた。

村の人たちであろうか。

境内に動く人の動き。

遠目でみていても、何をされているのか、さっぱりわからぬ。

可能性として考えられるのは、氏子たち。

これから行事をはじめようと、しているのか、それとも終わった状態なのか・・

すると、境内におられる人たちと違う服装の方が、停めた神社の駐車場に移動してきたその白衣姿の行事関係者と思われる男性に、「熟柿祭」のことを尋ねてみた。

その方は、杉谷神社の宮司を勤めるN氏だった。

手にしているのは、まさかの祭具。



なるほど、と思えた竹籠の中に収めていた熟した柿。

見てわかるとろとろ状態の熟し柿。

籠の柄の部分であろう、そこに5枚の紅白の梅の花をかたどった細工もの。

許可を得て撮らせてもらった造りものの梅花を添えていた。

「熟柿祭」は、午前10時にはじめたそうだ。

高齢化により、天神講は解散した。

それまで天神講がつくって、奉っていた梅花飾りの熟し柿竹籠は、神社側が引き継ぎ、形式を整えて現在に繋いでいる。

宮司が手にしていた供物の熟し柿は、神さんに奉り、神事を終えて下げた御供であった。

本数は、何本であったのか、お聞きできていないが、供物は他にもあるらしい。

それは生鰯に丸餅。

丸餅はともかく、生鰯の御供は、珍しい形式。

あらためて再訪し、大屋戸(おやど)・杉谷神社行事の「熟柿祭」を拝見したいものだ。

宮司は、他にもいろいろお話してくださる。

生まれも育ちも名張市布生(ふのう)。

旧家にあたる民家に暮らしているそうだ。

塩漬けした鯛を干してつくった干しダイがある。

2尾の干しダイは腹合わせ。

それはお家にあるえべっさんに供える。

供えた干しダイは、農耕はじめまで保存しておき、田植作業をはじめる前に供えるようだ。

その干しダイから、話題はどこで買ってきたか、だ。

なんと、購入先は、サシサバ調査に伺った名張市・中町で営業しているいしかわ魚店。

今年の令和3年8月10日に伺ったお盆の習俗に関係するホントビ(※本飛び魚)の調査させてもらったいしかわ魚店
に干しダイを売っていたのである。

お盆の習俗だけでなく、えべっさんに供える干しダイも・・

話の内容から、奈良の宇陀市室生・下笠間の民家に見たお家のえべっさんに供えるカケダイと同じ。

たしか、民家に住む高齢女性は、名張の魚屋さんで買っている
、といっていたから、一致したわけだ。

お盆のトビウオ調査をしてきたが、干しダイ(※カケダイ)も含めて、売り場から仕入れ。

カケダイつくりから流通も含めて、再調査しなければならない。

宮司のN氏は、さらに話してくれた干しダイ売りの魚屋さんは、国道16号沿いに営業している山本仕出し屋も売っているようだ。

時季が時期なので、田植えをはじめる日が決まれば、電話をしてあげる、といってくれた。

その布生に国津神社あり。

同神社にも斎主を勤めているN氏。

旧暦の八朔行事に奉納する神事相撲がある。

およそ100年前の大正時代からはじめた神事相撲は、当時の宮司が発案した奉納相撲。

相撲の取りくみは子どもたち。

対象の子どもは小学6年生まで。

氏子や外氏子に参加してもらう奉納相撲。

旧暦の八朔がいつであるのか、調べなきゃならないが、現在はコロナの禍中。

コロナ禍が収束した年に伺いたい行事である。

また、布生(ふのう)のトーヤは3人制。

椀に穴を開けたふりあげ神事をしているそうだ。

今回は、開けた穴が大きかったのか、一気に三つも飛び出した。

一瞬で判断した1番、2番、3番は、神意によって決まった、と話していた。

宮司と別れて、あらためて参拝した大屋戸(おやど)の杉谷神社。

石造りの手水鉢に刻印があった。



一部は判読できなかったが、「貞享元年(1684) 奉寄進 杉谷天神宮 □□□□□ 四月吉日」である。

手水鉢でさえ、江戸時代前期である貞享元年。

ネット情報によれば、「本殿は天正時代、伊賀の乱、兵火によって焼失後の慶長十七年(1612)に再建。

そのときの棟札から、桃山時代に建立した社殿を宝永元年(1704)に改修された
」そうだ。

中世名張郡の黒田荘。

最大勢力(悪党)であった大江氏の氏神社。



天穂日命、菅原道真公ほか十柱を祀り、国・県指定の有形文化財である北野天神縁起を所有、また、本殿なども県指定文化財を所蔵する杉谷神社

手水鉢の刻印に「杉谷天神宮」とあるから、後年の年代に菅原道真公を奉り、変遷している。

ネット情報によれば「鳥羽天皇の御代に至り、勅により菅原道真公の霊を勧請し、“椙谷(すぎたに)天満宮”と尊称された」という。



昭和57年(1982)の3月28日に行われた杉谷神社の式年遷宮造営事業。

銘板で知る式年遷宮。

それからおよそ39年。

式年遷宮は、伊勢神宮と同じ20年周期。

おそらく近々行われるものと考える


あらためて拝見、拝礼に見た牛の銅像。

各地の菅原神社や天満宮に天神社に奉納されている、

ほぼ同型の牛の像。



天神さまには、臥牛(がぎゅう)の像が数多く奉納されている。

天神さまにとって牛は神のお使いだけに、境内に牛を鎮座させて参拝者を迎えている。

現在の時刻は、午後12時20分。

正午時間にお昼をコンビニエンスストアに摂って、それから足を運びたい布生(ふのう)の里。

ご縁つなぎに、立ち寄りたい布生の国津神社。

下見を兼ねて出発した。

(R3.12. 8 EOS7D/SB805SH 撮影)

名張市中町・新町に見る民俗の一篇

2023年09月25日 07時19分30秒 | もっと遠くへ(三重編)
本町のいしかわ魚店は、また再訪することになるだろう。

ここ本町に、ほど近い新町通りにも鮮魚店がある。

「名張八日市の宵宮蛭子祭」取材の折に調べていたお店が新町の矢の惣総合食品。

当時、時間がなく、またの機会にと思っていた。

谷出の永橋商店の女将さんに、これからそちらにも伺いたく、と伝えたら、うん、知っているという。

噂だが、鮮魚店は細々に、業態替えに錦生地区の小学校に食事を提供する委託事業に移った、とか。

仕出し専門になればトビウオはないかも・・。

期待は萎んだが、とにかく訪問してみることにした。

本町から中町へ。

そして、目的地の新町に向けて車を走らせた。

お店が立ち並ぶ商店街のような通り。

本町通りを抜けて新町に入る直角道の角に建っていた民家の軒にあった古き行燈。

蜘蛛の巣に包まれている行燈の三方に文字があった。



三面に書いてあった「山田郡司」、「大友皇子 伊賀皇子」、「伊賀采女宅子娘」をキーにネット調べ。



三重県環境生活部文化振興課県史編さん班が、調査、公開している県史あれこれ。

『歴史の情報蔵』にあった「壬申の乱と古代の伊賀・伊勢」によれば、「飛鳥時代に起こった壬申の乱は、天智天皇の死後、その皇位継承をめぐっての争いでしたが、この三重の地と深い関わりがありました。 天智天皇には、自分とともに政治に参与してきた実弟大海人皇子(おおあまのおうじ)があり、だれもが皇位を継ぐものと思っていました。しかし、天皇には当時21歳になる息子、大友皇子があり、大友皇子を太政大臣に任じ後継者としました。このことが内乱を起こす原因となったのです。なお、この大友皇子の生母は、伊賀妥女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)で伊賀国山田郡の郡司の娘と言われています」とあった。

なーるほど、であるが、この日は、聞き取りする時間もなく、次に訪れる機会に委ねた。

名張市の本町から中町。

お店が立ち並ぶ商店街のような通り。

角に建っていた民家の軒にあった古き行燈を拝見に立ち止まった中町の角地。

そこから西に入る道が新町通り。

目指す取材地は、新町の矢の総総合食料品店。

その手前にも見つかった民俗の一篇。

興味深い行燈に聞き取りの余裕時間はない。

急がねばならない目的地は、どこだ。

カーナビゲーションが指示する場所は、とんでもないところを表示する。

ここら辺りにあるのは間違いない、と思うが・・

お店が見つかる前に目に入った立柱に「江戸川亂(乱)歩先生生誕地」。



昭和30年に建之された生誕の碑。

思い出した。

三重県のある情報番組で取り上げていた生誕地がここだったとは・・・。

明智小五郎に怪人二十面相。

ぼっ、ぼっ、ぼくらは少年探偵団♪・・・(勇気凛々 瑠璃の色)」が、自然に口ずさむ世代は、今や高齢者。

のちに知った江戸川乱歩の命日。

つい数日前の7月28日に地元古書店で行われた”命日に偲ぶ読書会[乱読☆夜話]”が催されたようだ。

平成29年、三重テレビが放送していた番組「ええじゃないか」に出演していたタレントに、風体がまるで中年探偵のような恰好のガイドさんが解説していた「ひやわい」。

名張の訛り、だと伝えていた。

町内を抜ける伊勢から名張、そして大和を結ぶ初瀬街道にちょいと狭い路地を入った所にあるらしいが、この日は散策する時間もなく、生誕の碑の存在を知るところまで・・。

ちなみに、地元民がいう「ひやわい」は、狭い路地のこと。

庇と庇の間が重なり合うほど狭い路地。

伊勢弁に、隙間を「あわいさ(※間)」が語源だ、といわれているようだが、実は、奈良県民も同じく「ひやわい」とか、「あわいさ」を、口にする奈良県宇陀市大宇陀平尾の住民がおられる。

ナワシロジマイを終えたIさんらは、遅い昼めし。

その際に語ってくれた、日常に交わすさまざまな「やまと言葉」の数々。

その中に「あわいさ」、「ひゃわいさ」があった。

「あわいさ」をキーにネット調べ。

なんと、奈良県広陵町社会教育委員会議の「ふるさとの言葉」に載っていた。

また、「まほろば」ブロガーさんは「奈良県方言番付 (※)富山大学人文学部 日本語学研究室 奈良県大和高田出身・方言学・社会言語学専門の中井精一教授調査・番付」に「あわいさ」を前頭として揚げていた。

番付が前頭にランクするくらいの「あわいさ」。

大宇陀、広陵町以外にも、口にする人は多いのでは、と思った。

(R3. 7.30 SB805SH撮影)

名張市・矢川のふるさと想う民俗探訪~矢川のねはん・聞き取り調査から~

2023年03月20日 07時57分44秒 | もっと遠くへ(三重編)
「ねはんのスルメ」行事を取材していた「錦生(にしきお)村」の結馬。

取材後の午後は、国道165線越えた近鉄鉄道大阪線の向こう側にある地。

前年の12月2日に訪れた阿部田・鹿高(かたか)のイノコモチの事前取材。

I区長夫妻が云っていた民俗行事。

宇陀川を跨ぐ橋を渡った南の地域。

矢川もまた三重県名張に属する「錦生(にしきお)村」内。

その矢川に「おしゃかさんをしている」、と話してくれた。

矢川集落は、鹿高からすぐ近くであるが、屋外に出ている人の姿が見つからない。

車を何度か往復する村の道。

たまたまお家から出てきた婦人に聞けば、ごく数年前までしていたようだ。

小学生の子供らが、お菓子をもらいに来ていたとか話してくれた。

ここ矢川からすぐ隣の村は、東大寺との関係が深い一ノ井地区

奈良・東大寺二月堂修二会に用いる松明を寄進する伊賀一ノ井松明講の所在地である。

平成19年3月12日に取材した伊賀一ノ井松明講の松明調進行

オーコに担いで三重県・名張から奈良・東大寺まで運ぶ。

かつては山越えもなにもかもが徒歩であったが、現在は、そのほとんどがトラック搬送。

一部の行程だけに限り、松明担ぎの調進行をされる。

毎年の2月11日に山行き。

東大寺二月堂修二会に用いるだったん松明の原木ヒノキを伐りだし。

翌月の3月10日は、松明の調整作業をされている。

伐りだしは、ともかく、令和3年のコロナ禍に、東大寺からの要請もあり、松明調進は中止の判断

だったん松明は、3月12日に東大寺が迎えて受け取ったら、燃えやすいように1年間保管し、十分に乾燥させてからだったん松明の仕様につくり整える。

そして、美しくできあがっただったん松明は上堂される。

中止を決断した松明調進行であるが、だったん行の松明は、すでに前年届き。

松明材がそろっているから、令和3年の東大寺二月堂の修二会には影響を受けなかったそうだ。

ただ、次年度に用いるヒノキ松明剤は、持ち越し、とされた。

それでは、東大寺さんも困るのでは、と婦人に尋ねたら、期日をずらしてもして寄進する手配をするようだった。

ここで、まさかの二月堂修二会のだったん松明の状況を教えてもらう、とは思ってもみなかった。

そのことは、ともかく矢川に来た目的は、「おしゃかさん」行事である。

たまたま遭遇した、ご婦人が記憶する「おしゃかさん」の体験。

子どもたちが行う「おしゃかさん」。

ずいぶん前のこと。

大人になった子どもたちがどういう具合だったのか、はっきりと言えないくらいの過去のこと。

記憶は曖昧。

子どもが育って「おしゃかさん」に参加しなくなったら、すっかり忘れてしまった、と申しわけなさそうに・・・。

対象の子たちもいなくなり、行事は今や、とふとよぎった。

仕方なく、再び車を動かし、集落をあっちに、こっちを流離う。

現況はともかく、実態が少しでも覚えている人に出会いたく、集落中央を横断する車道をうろうろしていた。

すると、丁度、薬剤散布機を洗っていた男性を発見した。



矢川の「ねはんのおしゃかさん」行事を存じておれば、幸いと思って声をかけた。

その男性はすぐに思いだしてくださった。

それもそのはず。男性は、元区長のKさん。年齢は82歳だ、という。

矢川の「ねはんさん」行事は、区長を務めていたころに中断したそうだ。

5、6年前・・いや10年前だったか・・。

小学生の子供たちは“おしゃかのすずめ”とか、なんたら云っていたそうだ。

なんたら、というのははっきりとした詞章は認識なく、子どもたちが囃すものだから、きっちり資料も残していないから・・・

記憶にないようだ。

お菓子、或いはお金を用意している家を巡って、「おしゃかのすずめ」をしていた、とある程度の実態が見えてきた。

実施日は、固定日でなく、土曜、日曜日をはさむ日。

どうやら学校が休みの日にしていたが、土曜か、日曜日かは、特に決まっていなかったようだ。

2月ですか、それとも3月ですか、と尋ねてみたら、なんと2月でもなく3月でもない、桜の花が咲いていたころである。

桜の花が開花する日は、固定日でもなくその年の時季に応じた開花状況。

元区長の記憶にあったその日は、お釈迦さんが生まれた日、だという。

えっ。

そうであれば、お釈迦さんの誕生仏を祭って甘茶をかける4月8日の花まつりが想定されよう。

涅槃でなく、生誕。

逆の由来のあり方に驚き、である。

矢川の戸数はおよそ100戸足らずの集落。

子どもたちの人数が大勢になるから2組に分かれて集落を巡った。

地区別に分けたA班、B班に属するお家を、それぞれのグループが巡ってお菓子もらいをする「おしゃかのすずめ」。

隣村の結馬のような、家、友だち同士で勝手に巡回する個別単位でなく、組織的に子供会に属する子たちが、それぞれの地区別に分けたA班、B班に属するお家を巡っていたようだ。

ただ、全戸を巡るのではなく、区入りした85軒のお家だけを巡った。

区入りする費用は、一律2万円。

その昔の、大昔は米だったとか・・。

涅槃さんは、いつしか少子化の道を辿り、区として図書券を配るようにしたが、それもやめた、という。

5年から10年も前のころ、矢川に子供がいなくなり、やむなく中断された「おしゃかのすずめ」情報は、ここで断ち切れた。

区長は、話題を替え、矢川の寺院や神社行事などを話してくれた。

区長家からすぐ近くにある寺は、真言宗派の宝積寺(ほうしゃくじ)。

氏神さんは、春日神社。

秋のまつりに獅子舞保存会があり、村廻りをしていたが、現在は中断中である。

ちなみに、勝手神社がある黒田の地区は、今もなお村を廻っているそうだ。



そういえば、音楽カフェおうるの森オーナーのAさんが、以前動画で伝えてくれた鹿高神社の獅子舞も村廻り。

おうるの森の庭にきて村廻しをしてくれた、とFBに伝えていた。



場所だけでも知っておこう、と思って宝積寺、春日神社を参拝する。



伊賀四国八十八ケ所写し霊場の一場。

第80番札所の真言宗室生寺派だが、拝観は、先ほどお会いした区長さんが鍵をもっているようだ。



納経料のお軸代は理解できるが、「おいずる」ってなんだろか。

ネットで調べた結果、わかったことは巡礼に着る白衣。

四国八十八カ所とか西国三十三カ所巡礼に見る白衣だった。

充てる漢字は「笈摺」。

難しい漢字である。

四国八十八カ所の写し霊場であるから、「お砂ふみ習俗」があるような気もするが・・・



次の目的地は、まあまあの距離があった春日神社。



白梅が迎えてくれた。

神社に年中行事板があった。



ただし、日程がはっきりしているのは山の神行事だけ・・・



先に拝見した山の神の場。

右手の大石に山神とある。



左手に建之した石碑に刻印が見られる。
「宝永三戌天(1706) 二世?」、「奉 供養月待三(※夜)<※三夜講若しくは二十三夜講でしょうか?>」、「三月十四日 祈攸(※きゆう)」。

奈良ではいくつかの日待ち講を伺ったことはあるが、月待ちの石碑を観るのは初めてだ。



ところで、春日神社に、「史蹟 錦生村春日神社境内の石燈籠 三重縣」の案内があるように、古くから伝わる石灯籠があった。

刻印は崩れているので判読は難しいですが、史蹟案内によれば「正平八年(1353) 癸巳 十月廿二日 大願主 藤原康 □□沙弥得円□」。

ほぼ670年前の南北朝時代の石燈籠

また、「錦生(にしきお)村」は、阿部田鹿高、井出、結馬、黒田の他、近隣地区の坂ノ下、小屋出、谷出、矢川、上三谷、竜口。

参道を下った社務所前のお庭にあった金属製(※鋳物?)の造物。



2体とも矢を銜えた鹿の姿。



金属の違いはあるが、いずれも昭和58年11月吉日に行われた春日神社御造営記念に寄進、奉納されたように思える金属造りの鹿の像である。

本社の春日大社に鹿像に、参拝者を迎えるにあたり、身を清める手水舎の鹿がある。

その場は「臥せ鹿の手水舎」。

“鹿”をモチーフにした珍しい鹿像の姿。

巻物を銜えた鹿の口の部分から清い水が流れ出るようになっている。

柄杓で掬った水を受け、両手を清めていただく祓いの形である。



集落に戻って、じっくり拝見したかった建物がある。

先に話して下さったご婦人によれば、かつては保育園利用していた建物。



現在は、矢川の集会所として利用されているそうだ。

池面に写りこみそうな古き校舎のように見えた壁一面の板張り建物が、とてもすてきに見えて・・。

色合いに風合い。



懐かしさを感じる近代洋風、板張り建物。



矢川集落の景観にとけこむように佇んでいる。

ぐるっと半周して巡った旧保育園の建物を見て廻り。

時間の許す限り佇んでいたいが、帰りの時間が気になる。

天気予報はどうなんだろうか。



できるなら夕陽にあたる姿の近代洋風、板張り建物見ていたいが・・・

集落から下った東にある田園地。

遠くに見える黄色い地は、たぶんに菜の花畑。

帰宅してわかった矢川の菜の花畑。

近鉄鉄道大阪線沿い南側に矢川環境保全会が景観形成の一環として、2019年から始めた取り組み

4月には、全面がシバザクラに転じるようだ。

刻々と時間が過ぎていく。

ここもまたずっと見ていたい明媚な景色。

是非、撮り鉄のみなさん、よってらっしゃい。



近鉄電車の特別列車に、菜の花畑が映えるょ。

ぎりぎりまで滞在していた結馬に矢川をさよならして県境の道の駅に向かう。

奈良県・室生三本松にある宇陀路室生の道の駅だが、その手前に地産地消の店、こもれび市場が目的地。

往路に見つけていた葉たまねぎ。

売場に並んでいたので是非とも買いたくて入店したワケだ。

冬場期間(10月~4月19日)の営業時間は、午前8時から午後4時まで。

ぎりぎり間に合った売り場にあった地産栽培の葉たまねぎ。



真っ白な新玉は新鮮の印。

葉玉ねぎは、柔らかい葉の部分も甘くて美味しい。

すき焼きに入れて食べるのが一番だが、卵とじ煮物は、すき焼きよりも旨い。

季節になればお近くの道の駅の棚に並ぶ。

棚に並ぶ時期は、それほど長くない。

売り切れることも多し。だから、目についたら即買いしている甘くて旨い野菜。

今月末には消えているだろうな。

(R3. 3.14 SB805SH/EOS7D撮影)

ねはん取材の合間に観ていた結馬の集落景観とヒイラギイワシ

2023年03月17日 08時32分43秒 | もっと遠くへ(三重編)
ねはん行事の取材の合間に見ていた三重県名張市・結馬の集落景観。

古民家とも思える歴史を感じる建物。



農を営む田園地に建つ農小屋も風景の一部に溶け込んでいる。

長閑な風景に、のんびり寛げる空間もまた癒しの情景。



中でも、ときおり目に入った節分の印し。

玄関口に刺しているヒイラギイワシ。

トゲトゲに葉っぱでわかるヒイラギの枝。



奈良県川上村・高原の地にもあるが、その棘のあるヒイラギの葉から「メツキバ(※目突き葉)」と、呼んでいた

玄関を入ろうとする鬼が目を突く。

そんな謂れがあるメツキバ(※目突き葉)に、焼いたイワシの頭もある。

また、ある地域では「オニのメツキ(※鬼の目突き)」

焼いたイワシの頭は焦げ嗅い。

そのにおいが嫌いな鬼を追い出す。

つまり、お家を守る魔除けの道具である。



ヒイラギにイワシがそろった名称が「ヒイラギイワシ(※柊鰯)」。



いつまでも続けてほしい民間習俗である。

(R3. 3.14 EOS7D/SB805SH撮影)

名張市・結馬のねはんのスルメ

2023年03月16日 08時02分44秒 | もっと遠くへ(三重編)
2月に行われる三重県名張市・井出(いで)の「おしゃかさん」は、コロナ禍での影響を受けて中止の判断をとった。

だが、東隣の名張市・結馬(※行政読みはけちば、一部住民はけちま呼び)は、イノコモチと同じく、コロナ禍であっても実施するようだ、と区長が話していた。

地区首長のとらえ方の違いなのか、それとも対象家のすべてが合意形成されなければ中断を決断するのか。

決断の意図はわからないが・・・

井出も結馬もかつては、錦生村(にしきおむら)に属していた。

錦生村は、その2地区以外に、安部田、黒田、矢川、上三谷、竜口の各地区があり、いずれも初瀬街道沿いに集落がある地域である。

野崎清孝氏の論文、『伊賀における小地域集団としての小場』によれば、各地区は、大字内区分けの小場(※奈良県は小字)として、呼ばれている地区単位の呼称。

論文に、伊賀隣村の木場呼称の地区、「・・中世末、近世初頭以前に伊賀国であった、奈良県御杖村、曽爾村、山添村(※波多野地区)、月ケ瀬村、京都府南山城村、三重県美杉村を含め、当時の伊賀国領域の中に、藤堂藩成立以前に発生したと考えられる」とあった。

そういえば、正月7日の山の神行事取材地に奈良県山添村・菅生(すごう)がある。

古くから山仕事をしてきた地区分けの名称は”木場(こば)”だった。

もしか、とすればだが、”小場”から”木場”に移ったのでは、と思われる呼称である。

い歴史・文化に古き街道を訪ねて歩くのも佳し、であるが、忘れてならないのが地域で行われてきた伝統的な民俗行事である。

結馬区長のYさんから、聞いていた“ねはん”行事の日程は、3月15日に近い第二日曜日。

元々は3月15日に行われていたが、休日に移行されたもよう。

井出は2月。

3月に行われる結馬(けちば)との日程の月差は、新暦か、旧暦かの違いであろう。

お釈迦さまが完全なる悟りを得、入滅された日が旧暦の2月15日。

お釈迦さまの徳を偲ぶ日が涅槃の日であったが、明治維新を境に新暦に調整された寺院や地域は新暦の3月15日に移った。

結馬区長の話によれば、「全員が揃って一軒一軒を巡るのではなく、個々の小グループ単位で動く。ですが、同じコースを辿ることなく、各グループが、それぞれにくりだして、お菓子もらいにイノコモチ行事と同様に集落全戸(※40戸)を巡る。もらったお菓子は数多く、大きな袋が3袋以上にもなることもあった。お菓子は、夏休みまでぼちぼち食べる子もおれば、早めに食べきってしまう子もいた。涅槃の掛図を掲げる公民館は、巡回の途中か、それとも最後にするのかは、各グループの行程によって替わるようだ。」と、話していた。

前年の令和2年11月21日に結馬入り、初の行事取材が「亥の日の亥の子」だった。

子どもたちとともに同行していた親御さんのIさんが話してくれた「ねはんのスルメ」。

えっ、もう一度お願いします、と伝えて再確認した「ねはんのスルメ」。

子どもたちも同じように呼ぶ「ねはんのスルメ」行事。

「ねはんのスルメ」は、「ねはんのすすめ」が訛った語である。



今では、廃れて中断した地域も多くなった奈良県内に少なくとも十数例の事例がある。

子どもが集落を巡り、一軒、一軒訪ねては、「ねはんをすすめ」を唱え、お米をもらい受ける。

奈良県山添村・勝原の子供涅槃の「ねはんをすすめ」の詞章は「ネハン キャハン オシャカノスズメ」。

「ネハン キャハン オシャカノスズメ」は、「涅槃 脚絆(※脚絆布) お釈迦の雀」であるが、実は「薦め」が、いつしか訛って「雀」に移った事例である。

子どもから、子どもへ。

地区の子たちは、地区の後輩の子たちに繋いでいった地域の伝統行事である。

奈良市日笠町に子どもの涅槃がある。

お米集めの詞章は「ねはんのすずめ」。

今では廃れたが、奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」で、あった。

奈良市荻町の事例に、お米集めの際に「ねはんこんじ 米なら一升 銭なら百(※千円)」を囃しながら集落を巡るお金集めがある。

「ねはんこんじ」の詞章に思いだした奈良県山添村・桐山の事例

当村では「ねはんこ」と呼ぶ行事名。

桐山村全戸すべての27戸は涅槃講だったことから、短く呼ぶ「ねはんこ」だ。

桐山の涅槃講の歴史は古く、始まりは宝永七年(1710)二月十五日であった、と藤堂藩藩士の日記に書いてあるようだ。

子供たちが「ネハンコンジ(※献じ、或は顕示か) アズキナナショウ」を囃し、各戸を巡ってお米貰いをすると聞いていたが、本来の唱文は「ねはんコンジ コンジ ねはんコンジ コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(※または豆なら一荷)」であった。

また、昭和10年ころまで実施していた奈良県大和郡山市・椎木町に伝わる子供の涅槃講行事である。

平成3年10月に発刊した『椎木の歴史と民俗』によれば、子供たちが囃す「ねはんさんのすすめ」詞章に「ねはんさんのすすめ ぜになっと かねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」であった。

三辺繰り返しながら集落を巡って、お供えのお金を集めていたそうだ。

こうした事例から、考察した結馬の「ねはんのスルメ」は、自ずとわかってくる。

そう、「スルメ」でもなく、「すずめ」でもない、「勧め」である。

断片的だが、福井県鯖江市尾花に伝わる民話に「脇之谷 長禅寺 涅槃の勧め」の詞章が見つかった

さて、各地区の事例でなく、結馬の涅槃こと「ねはんのスルメ」は、いつ、どこへ、どなたが動かれるのだろうか。

結馬区長、Iさん、二人の話を総合したら、午前9時ころに家族、友達などそれぞれのグループは、特定できないご自宅或いは公民館から出発するのだろう。

集落一軒ずつ巡る順は、特に決まりはない。

集落の子どもたち、全員が集団になり、揃って行くものではなく、個々の小グループ単位に設定される巡回ルートである。

バラバラに動きまわるし、他の組も同じコースを巡回することもない。

統率者不在の小グループ単位の動きは、離れ離れだけに、あっちこちに出没するグループに巡り合う運任せの取材になるだろう。

また、11月の亥の子行事の「イノコモチ」は6~7人だったが、涅槃の日は、大勢になる、と話していた。

見守る親とともに、兄弟姉妹も一緒に参加し、巡回するのであろう。

とにかく集落を一巡し、もらってくるお菓子。

大きな袋が3袋以上にもなる子供たち。

その量多く、夏休みがくるまでぼちぼち食べる子もおれば、早めに食べきってしまう子もいるようだ。

こうして一巡したら、最後に公民館へ。

コースから考えて、最後に公民館、という具合にならない子どもたちもいる。

その場合は、コース途中の公民館にあがって涅槃のおしゃかさんに手を合わすようだ。

40戸の結馬集落を巡って終える時間帯は、だいたいが昼ごろ。

午後になるグループもあるようだ。

その間の区長は、子どもたちが巡る早い時間帯に、公民館の扉を開けて、涅槃の掛図を掲げておく。

以上、だいたいの段取りはわかったが、さて何時ごろに結馬に行っておけばいいのだろうか。

動きはじめたばかりの時間帯なら、お菓子を詰める袋は少ないだろう。

お昼前に終わりそうなら、それより2時間ちょっと前に到着しておけばいいだろう、と判断し自宅を出発した。

亥の子行事に、何度か立ち寄ったコンビニエンスストア・ファミリーマート名張あかめ店。

到着した時間帯は、午前9時40分。

駐車場から集落に人が動いているかどうか、眺めていたが様相に変化なく、公民館に行けば遭遇する可能性もあるだろう、と車を動かした。



田園地を走っていたそのときだ。

たぶんに涅槃のお菓子もらい行きの人たちでは?

数は少ないが、少人数グループの姿がちらほら見える。

近くまで寄っていけば、数組のグループが、あっちの方角、こっちの方角に分かれる別行動。

さてさて車を停めなきゃと、亥の子行事の「イノコモチ」取材に許可をもらった広地に・・・・

停めたすぐ横のお家から出てくる2人の子どもを発見した。

カメラ機材を手に、慌てて飛び出した。

姿を見失った子どもたち。

お菓子をもらって、次の家に向かったようだ。

そのお家が用意していたお菓子配りの箱に「お釈迦様 一ケずつお持ち帰りください」、とある。



優しい言葉で書かれたお釈迦さまからの涅槃の日のお菓子。

中を覗いてみたらびっしり詰めている。

今日の涅槃の日に来てくれる子どもたちへの届け物。

足らないように用意している。

じっくり撮っている時間の余裕はない。

隣家では、と思って急ぐが、思うように足は動かない坂道。

声が聞こえてきたお家の前。



その家に出会った2人の子どもたち。

うち一人は、イノコモチ行事の際に出会った女子だった。

そのときと同じユニフォームの体操服を着た女子にほっとした。

もう一人の子どもさんは、保育園児。

年長の男の子だと母親はいう。

二組の親子に撮影許諾をいただいて、同行取材にあたる。

子どもたちだけでは不安になる。

母親が見守るなかでの行動する子どもたち。

生まれも育ちも、ここ結馬でなく、県外から地域内転居された新興住宅住まいの子たち。

今日の涅槃も、前年のイノコモチも、新参の人たちにも参加できるようにされている結馬の民俗。

都市部では見ることもない、歴史ある民俗行事に参加できるのはありがたい。

地区に感謝している、と話してくれたM家とI家の母と子たち。

イノコモチのときは、子供だけを行かせたけど、今日は見守りしている、という母親に「そのとき、中学2年生です、と云ってくれた娘さんからイノモコチの台詞を教えてもらったんです。

”イノモコチ ついて いわわんもんは おおうめ こうめ ひげのはえた オヤジ むこさん(むすこさん)もいおう よめはんもいおて ついでに デッチも いおてあれ”でした。

その台詞に次いで”それぇ”と声をかけて、イノコの石槌をうちます」と、説明してくれた中学2年性の娘さんでした、と伝えた。

転入・転校されて何年になるのか、聞いてないが、民俗詞章をきちっと記憶している娘さんの聡明さに感謝。

「ほんとうにお世話になりました」、と謝意を伝えて同行させてもらった。

ここら辺りから勾配は強くなる。



先に行きたい気持ちはあっても、心の臓の病を抱えている私の足は動かない。

石垣がある正面に見えるお家。



玄関を開けて待ってくださっていた。

坂道をくだったり、上ったりする結馬の里に、広地が現れた。

元々はお家があったのでは、と思える広地にお地蔵さんがあった。



7体のお地蔵さんは横一列。

丈夫そうな屋根をもつ横長の地蔵祠。

たぶんにあちこちにあった地蔵さんを寄せたに違いない。

お地蔵さんを通り抜けようとしたとき、中学2年生の母親Iさんが振り返り、参っていきましょう、と提案された。

上級生の娘さん、指示されたわけでなく、自身が思う心から手を合わせていた。



その行為を真似た男の子も手を合わせた。

付き添いの母は、ただ見守るだけに徹していた里の地蔵さんも、目を細めていただろう。

次の家に向かって行った二組の母子。

追っかけも難しい身体に、長閑な結馬の里山景観に見入っていた。

ふと目を下ろしたそこに春の目覚め・・

土筆があっちこちに出没。



向こうの黄色い花はタンポポ。

うきうきするくらいの陽気な景観も見惚れていた。

しばらくして合流した母と子。



男の子の目線に入った玄関先の土筆。

それからも歩き続けてきた集落巡り。

午前10時過ぎ。

母と子に遭遇してから15分も満たない。

ほどなくたどり着いた結馬の公民館。



涅槃に行き交う子供たちのために、扉は開けていた。

正面扉は開いてなかったので、イノコモチのときと同じように勝手口から入室。

長椅子を据えた広間。

床の間でなく、柱に涅槃図を掲げていた。



お釈迦さんが入滅したお姿に、一対のシキビたてにお盆を2枚、置いていた。

二人の子たちは、共にもらってきたお菓子を供えて手を合わせて拝んでいた。



同行してきた母親は付き添い。

あくまでも主役は子供の結馬の「ねはんのスルメ」。

手を合わせるのは子供だけである。

前述したように、公民館は、途中に立ち寄る場合もあるし、最後にしている組もある。

それは出発地点で決まるような気がする。

涅槃図に拝む姿を撮らせてもらったから、およそ時間に余裕ができた。

その時間に地域調査。

掛図の裏面を拝見する。



裏にあった墨書文字は「伊賀名張郡結馬村 恵明山宮坊 宝暦十四年(1764)申二月十一日 観音講講中 観音講施主付」。

表地は表装しなおしているが、なんと、258年前に観音講が寄進した涅槃図であった。

もしか、であるが、子どもたちと一緒に探してみた「猫」の姿・・・・らしき動物が見つかった。



仮に、間違いないなく猫であれば、全国に数少ない事例の一つに数えてもいいだろう。

こうした記録は、地域の文化遺産。

貴重な遺産は、後々に活用されるよう記録しておく。

公民館から去るとき、忘れてはならない、いっとき供えたお菓子は持ち帰りである。

公民館を出て、再出発した後半の集落巡り。



長閑な里山を巡る家々。



高台にあるお家に、途中下車したくなる、足の動きも止まりそうな急坂もあれば下り坂もある。

予め買ってきたお菓子を並べて迎え準備はしていたが、急な用事ができたのか、不在を知らせる張り紙に「おはようございます 申し訳ないですが、人数分 自由にお持ち帰りください。宜しくお願いいたします」のメッセージを添えた留守宅のお家にも立ち寄り、ありがたく受け取っていた。



長閑な景観に傾斜のある道の向こう側に白い花が咲いていた。

右手の高台に建つ民家の屋根はトタン葺き。



で、あれば、元々は茅葺民家。

雨戸が締まっているお家に暮らしの様相は見られない。

咲いていた白い花に近くまで寄ってわかった匂い。



春に薫る梅の花だ、とわかった。

母親らとともに、愉しんだ梅の花。

風下に立っていると、ほんわかする。

午前10時40分の時間帯。

40戸の集落のうち、まだ半分も満たない涅槃の巡回。



2組の母と子について廻って1時間。

お菓子袋もいっぱいになりつつあるが、私の身体は悲鳴をあげはじめた。



下りの道は、足の負担なく歩きやすいが、平坦な道でも疲労こんばいの足に動きは怠い。



どこかでいっぷくし、小休止したい施設は・・・コンビニエンスストアしかない。

そこまでなんとしてでも頑張りたい。



土筆の咲く道に、母と子は先を急ぐ。

ここら辺りに建つ民家の風情がなんともいえない。



広い庭に建つ情景を見ているだけでも落ち着く地に、もう一軒も好みの建物。

「亥の日の亥の子」の取材にも訪れた民家の玄関。



鍾馗さんが迎えるお家である。

なんでも建ててから150年にもなるという。おそらく新築時に奉った鍾馗さん。

新しき家に住む人たちの暮らしをずっと見守ってきたそうだ。



それにしても、この鍾馗さんの姿・形。

どこかで見たことがあるような・・・

奈良県高取町・土佐街道沿いに建つ町家

比較したら容態はまったく違っていたが、瓦製だけに風合いはよく似ている。

ネットをぐぐった瓦製の鍾馗像の事例

とにかく、やたら多く見つかる。

家の守り神、魔よけの鍾馗さんは民俗の一例。

そのお家から下った水路近くのお家も瓦製の守り神がいろいろ見つかる

ちなみに屋根瓦に鍾馗像を飾る事例は、京都に多く見られるそうだ

奈良県内にもよく見られる鳩ぽっぽ。

やや崩れが見られる年季の入った鳩の塀屋根飾り。



鳩瓦は、鬼瓦と同じ。

建物や家族を守る鬼瓦。

豊穣や子孫繁栄を願うのが鳩瓦。

そのような謂れから、男の象徴が鬼に対し、鳩は女の象徴とされる東広島市の説があるようだ。

天を仰ぐ像は七福神の布袋さん。



お家によっては大黒さんの事例もあれば、七福神が勢ぞろいする宝船瓦もあるようだ。

また、鬼瓦を専門に製作する職人を“鬼師”と呼ぶそうだ。

飛鳥時代に伝わった鬼瓦。

中国、古来の思想から生まれた鬼瓦。

大寺院から、長い年月を経て民間建築に持ち込んだ思想が、習俗化したのであろう。

鬼瓦のごく一部を見せていただいたi家。



少し離れた位置から見た十三重の塔に家紋入りのi家を祝う扇までもある。

玄関前にもあった目出度い鶴の姿。



時間と体力に余裕があれば、是非ともお伺いしたい鬼瓦の民俗であった。

体力の限界を感じた私は、母と子の二組の涅槃巡回に取材のお礼を伝えて場を離れた。

この先は、二組の親子が住む新興住宅地。

さらに、道路を渡った南に散在するお家にも巡回されることだろう。

見送った私は急いで入店したファミマのあかめ店。



何度かお世話になったトイレに急行。

疲労した身体を休めていた密室。

扉を開けた向こう。

そこに見た子供たち。

なんと別れてから数軒を巡ってここファミマあかめ店にも涅槃のお菓子もらい。



入店するなり、「涅槃にきました」と、伝えたら、店員さんは用意していたお菓子を子供たちの前に差し出していた。

まさかの再遭遇に、ピント合わせをする間もなく、夢中に押したシャッター。

なんとか記録できた地域の年中行事に参加していたファミマあかめ店の対応である。

コンビニエンスストアなどなかった時代は、例えば魚屋、生活用品に総菜などを売るよろづ屋さんがあった地区。

そのときからも、子供たちが巡るお菓子もらいの「ねはんのスルメ」。

こうして時代は代わっても継承してきた結馬の民俗の存在が嬉しい。

再会した子どもたちに聞けば、お家を出てすぐに、ファミマあかね店の前の国道165号線から南向こうの地区を先に行ったそうだ。

そこから田園を抜けて、最初の家で、バッタリ出会ったのだった。

午前11時ジャスト。

およそ1時間半の同行取材。

お世話になったM家とI家の母と子たちに、この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

食事を摂ったファミマのあかめ店を離れて単独行動する。

公民館であれば、どなたかの組と遭遇するかもしれない。

そう思って、再び歩いて向かった結馬の公民館。



坂道登り切ろうとした、そのところに出会った軽トラ。

運転はY区長の奥さん。

軽トラに、お孫さんを乗せて巡回していたそうだ。

ときおり公民館を覗いて、涅槃の掛図があることを確認している、という。

早いグループは、朝9時の開始時間から動きだす。

午前11時過ぎには、集落巡りを終えて、若しくはお家の距離の関係に、途中立ち寄り。

それぞれの親子組単位で、公民館に立ち寄り、涅槃さんにお供えをしているようだ、と話してくれた。

公民館に待っていても、遭遇することはないだろう、と判断し、そこから道を下ってきた。

気になる行事の呼び名である「ねはんのスルメ」。

尋ねたお家は、今日、初めに拝見した「お釈迦様 一ケずつお持ち帰りください」の札の家である。

当地に事務所をもつT家に尋ねた行事の名称。

44歳の息子さんの時代は、「ねはんのすずめ」でした、という。

母親の時代はどうやったんやろか、と息子さんが疑問に思って、呼んでくださった。

母親も、同じく「ねはんのすずめ」だった。

今の子供たちが、先輩から継いできた、と思われる呼称の「ねはんのスルメ」。

44歳の息子さんから下の、現中学2年生は13歳、14歳。

その間の30年の間に「当時、子供だった誰かが云い出したんでしょうね」、と話す息子さん。

おそらく、誰かが言い間違ったのか、それとも意図的に面白がって「スルメ」と呼んだ。

“雀”を、洒落っぽく“スルメ”に、したらみなが笑ってくれた。

面白いから幼い子たちはキャッキャ、キャッキャと笑い転げた。

インパクトあった“スルメ”を、みなが面白がって囃した。

“雀”を忘れた子供たちは、それから「ねはんのスルメ」と、呼うようになった。

訛り、転化も繋ぐ伝統民俗の詞。実に興味深い行事名称の変遷である。

今にはじまった訛り、転化でなく、もっと昔からもあった名称継承のありかた。



全国津々浦々に限りなくある行事名の変遷事例の一つとして、敢えて名張市・結馬の「ねはんのスルメ」と記しておく。

ファミマあかね店近く、向こうから集団でやってきたIさん家族。

「亥の日の亥の子」取材の際に、「ねはんのスルメ」行事お話してくれた家族さん。

今日はお父さんに兄弟も一緒に「ねはんのスルメ」。

少し時間をずらして出発したそうだ。

しばらくの時間に、ファミリーマート名張あかめ店売りの総菜弁当でお昼を摂っていた。

疲労こんばいだった身体もようやく戻ってきた。

次の取材先に向かおう、として国道165線を走行。

そのときも見かけた結馬の「ねはんのスルメ」の一行。

数組は、お家の都合に合わせて昼間に調整されたようだ。

(R3. 3.14 EOS7D/SB805SH撮影)

名張市安部田の民俗調査③イノコモチ行事の聞き取り

2022年12月09日 08時51分41秒 | もっと遠くへ(三重編)
三重県まで足を伸ばして民俗を取材するのは久しぶり。

平成29年5月11日に訪れた伊賀市下阿波。

田植えに供えたフキダワラ御供は、民家の習俗。

行事の取材であれば、平成31年2月7日に行われた名張八日市の宵宮蛭子祭がある。

ただ、今回の取材地に行われる行事は、地区別の地域行事のいのこ。

所作、詞章などの類似例調査に伺う。

奈良県のいのこ行事は、ほとんどが中断となり、今や大淀町・上比曽と明日香村下平田の2地区にしか残っていない。

また、大阪府の民俗調査では、南河内郡に北摂の能勢郡地域を調査してきた。

京都は、オンゴロドン(※オンゴロとはもぐらのことである)の名称になるが、藁づと打ちが同じ南山城地域を調査した。

いずれも藁ズトを用いる地面打ちである。

民俗事例の研究に類似例がどれほど見つかるか、である。

所作もそうだが、イノコ搗きの道具に詞章も重要な調査項目である。

藁ズトの作法がある地域については、ネットから調査した四日市市とか亀山市などがあるようだが、現地調査が難しく、机上調査した内容は、令和元年の11月14日に記していた。

さて、名張市安部田のイノコモチ行事である。

安部田のすぐ近くに一ノ井がある。

そこでは東大寺二月堂との関係がある。

修二会に用いる達陀松明を寄進する松明調進行事である。

その行事は、平成19年3月10日と12日の両日に亘って取材したことがある。

調進は、一ノ井から隣村の安部田を通って峠越え

奈良県の旧室生村深野から越えた上笠間に接待を受け、一路東大寺を目指す。

あれから13年。

その間、まったく立ち寄ることがなかった奈良県と三重県県の県境。

空白の期間が長すぎたのか、道路行程すら、すっかり頭の中から消えていた。

仕方なく、というよりも、年齢的に悲しいかな、である。

とにもかくも、我が家居住地から目的地名を県名から入力して、検索を押す、ヤフー地図のルート検索活用。

経由情報を入力しないと、とんでもないう回路を案内するから、大和郡山市横田町を経由、西名阪国道の針ICを選んだ。

そこから国道369号線を南下。

信号“外の橋“を左折し、国道28号線を道なりにいけば、室生寺入口に着く。

ここからは国道165号線を東に行けば1時間15分で着く三重県境の名張。

尤もその走行時間は信号待ちのない時間。

計算すれば、およそ1時間半で着く安部田の地。

そのコースでも問題はないが、小倉ICからの広域農道“やまなみロード”を利用して室生、そして三本松の方が、信号もなくスムーズに走れる。

大阪から転居し、当地で暮らして10年目になる知人が伝えてくれた安部田のイノコモチ。

土地の者でないから、夕刻過ぎの暗闇から突然のごとく現れた子供たちが、庭に集まってきて・・大騒ぎ。

数人の子どもたちが紐のようなものを持って一斉に振り上げて、そのままドスンと地面に落とす所作に、お囃しもあってびっくりした、と伝えてくれた。

何のことやらさっぱりわからないそのあり方の行事名をイノコモチというから、これは調べに行かなきゃ、と思って代表者を探してもらった。

結果は、隣の家の区長さんが地区の代表者だった。

が、その区長さんも詳しいことはわからない、と・・。

詳しいことはわからない、というイノコモチ行事。

予定では11月3日の月曜日の夕方5時からのようだ。



先に調べよう、とした「名張市郷土資料館」は、なんと本日が休館日だった。

毎週の月曜日と木曜日が休館日。

利用時間は、午前9時半から午後4時半まで、とあった。

行先が閉館。

区長に遭える時間は、まだまだ先。

空白の時間に安部田の地区を見て廻り。

地域の景観や歴史文化は、少しでも目に焼きつけておきたい、と思ってハンドルをにぎった。

行先は、宇陀川。



雰囲気が良さげな宇陀川に見た水路。

たぶんに考えられる農業用水路。

のちに出会えた区長によれば、山に穴を開けて農業水路をつくったそうだ。

遡った上流に隧道もある、という。

架かる高橋から見た上流からの水路に、下流へ流れる用水路。



道路から下りたところの用水路に足場がある。

そこでかつては野菜を洗っていたそうだ。

また、宇陀川にヌートリアも出没したらしい。



“高橋”の橋を渡りきった向こう岸に、大きな岩がある。

近づいてわかった岩は「水神」。

建之は慶応三年(1867)丁卯八月、とあった。



大きな水害に見舞われた証に、再び水害が起こらないよう、村の安全を願って建てたのだろう。

“高橋”の橋近くに拡がる稲田がある。



稲刈りを終えた田んぼにハザカケもある。

山々に霧が漂う日。

雨が降ってきたから中断されたような情景にシャッターを押していた。

再び安部田に戻ってきた。

現在地を示すここが、名張市錦生市民センター。

休館だった名張市郷土資料館から見て、道路向こう側に建つ名張市錦生市民センターの玄関ドアが開いていた。



行事の詳しさはわからないが、とにかく訪ねてみた「錦生市民センター」。

たまたま、その時間帯におられたFセンター長に、当地のイノコモチ行事を伺った。

イノコモチ行事は、ここ安部田の他に、赤目口に近い結馬(けちば)とか井出(いで)もしている、という。

ここ錦生(にしきお)地域は、宇陀川沿いに黒田、結馬(けちば)、井出(いで)、安部田地区がある。

安部田地区はさらに鹿高(かたか)、坂之下、谷出、小屋出(こやで)の小字に分かれている。

また、開発された新興住宅地の四季ケ丘もある。

以前は黒田もしていたが、今は・・、というF代表が話してくれた行事のあり方。

各地区の子供たちは最寄りの公民館に集まる。

石道具などを準備した夕暮れ時間の午後6時半に出発する。

子どもたちが各家を巡って石を突く。

お家の人たちは、子供たちが来るのが楽しみに、祝儀を手渡す。

一軒、一軒ごとに祝儀をもらって、真っ暗な時間帯に行われるイノコモチ行事。

祝儀の今は、千円に統一しているが、F代表らが子供のころは10円、50円だったとか。

集落のすべてを回りきったら公民館に戻って、年長の子供が分け前を分ける。

かつては男の子だけの行事であったが、少子化時代を迎えるようになってからは女児も入れるようになった。

現在は、年長の小学6年生が、公平に分けるが、かつては、小さい子ほど少なくした。

囃す詞章は「イノコノモチついて いのはもの おおうめ こうめ ひげのはえたおやじ ここのかない(※家内) いおたれ(※祝ぉ) もひとつ いえまで どっさんこ ここのかない いおたれ」だった。

イノコモチ行事に用いる道具は石とロープ。

石は、そんじょそこらにある石ではなく、石塔の頭。

くびれがある頭の石。

くぼんだ部分にロープを結わえて括る。

ロープは長く、2mくらいもある長さ。

子どもたちがロープを引っ張り、石(※宝珠の部分石)を持ち上げてドスンと地面に落とす。

石を持ち上げる人数はおよそ8人。

かつては大勢の子どもたちがいたから、途中で交代していたそうだ。

現在はロープになったが、何十年も前は藤の木の蔓(※つる)だった。

蔓を綱のように石を引っ張り上げた、というから強靭な綱代わりにそうしていたのだろう。

イノコモチ行事のあり方が、ほぼほぼイメージできたF代表の話を終えて、鹿高地区に向かう。



その一角に建っていた茅葺民家。

今もなお暮らしている古民家も撮っていた。

先に挨拶したAさん。

なんとほぼ17年ぶりのご対面である。



安部田の地に転居し、おうるの森の雑貨カフェを開業、現在は音楽好きのためのサロン風カフェバーに展開。

早や10年にもなる、という。

そして、再会したAさんが紹介してくださった鹿高地区のI区長に出会えた。

鹿高(かたか)は、東地区の上出”かみで”に16軒。

西地区の下出”しもで”の29軒からなる。

イノコモチ行事を予定していた明日の3日の天候は、雨、雨、雨・・。

雨の予報が確実となったことから、イノコモチ行事は中止の判断。

日延べに2週間遅れの11月16日の午後5時より始める、という。



今、イノコノモチの道具があるから、と見せてもらったソレは・・・

今まで見たことのないような石にロープを括りつけたもの。



真ん中にくびれがあるその石は灯籠の頭の部分(※宝珠の部分石)だ、という。

昭和27年生まれの区長さんも子供のころにしていたイノコモチ行事。

当時もこの石でしていたが、ロープでなく、くびれに藤の木の蔓を括りつけて使っていたそうだ。

行事をはじめる前、子供らが山に出かけて藤の木の蔓を見つけに行く。

見つけた藤の木の蔓を、ナタなどの道具を用いて伐りだす。

蔓はくびれから石全体に巻き付け、がっしり縛る。

その蔓に稲藁で編んだロープのような固めに編んだ荒縄を括っていた。

原型はそんな感じだった、と話す。

ただ、今より20年前は、子どもが伐りだすのではなく、地区のおとなたちが作っていた。

保管していた蔵から運んでくれたイノコモチ行事の道具。

自然に植生していた蔓が、どこにも見当たらない。

役の子どもも少なくなった20年前につくった道具。

ロープを括る金具を直接埋め込んだ。

ロープは頑丈な造りに安心できる形に替えた。

小さな子たちは上級生、先輩に連れられてイノコモチ行事に参加していた。

ロープの前は藤の木の蔓であったが、実はその前の時代は稲藁だった。

固く締めてつくった稲藁は荒縄。

若い人は見たこともない荒縄。

今でこそ荒縄といえば一般的に見る縄製のロープ。

製縄機で結ったかっしりした縄であるが、機械のなかった時代は、手で結う荒縄が主流だった。

きっちりした縄でないから、石を力づくに引っ張った脆くも切れやすい荒縄の時代を体験した人たち。

年齢から考えれば80歳以上の男性が体験してきた時代。

そのころの映像を見たいものだ。

いつからこんなことをしているのか、史料も文書もなく現代まで続けてきたイノコモチ行事。

元々は小学6年生を頭に小学1年生までの男の子でしていたが、少子化になったころから人数が足らんようになり、女子も入れるようにした。

それでも不足ぎみの人数に、最長を中学3年生まで対象年齢を広げたそうだ。

今年の対象者は、男の子が2人に女の子が1人。

たったの3人になった。

翌年以降、遅かれ早かれ2人になる。

今も、数人の大人が参加し、行事を継承してきたが、先は見えている。

対象年齢の子どもがいない場合は、大人の衆だけで継続されうるのだろうか。

イノコモチ行事の実施日を決めるのは年長の子どもであるが、実際は、その子の家族、つまり両親の都合も加味して決めるようだ。

元々は「亥」の日に行っていたが、家の事情など、都合によって「亥」の日から、変動日に替わってきたようだ。

安部田の村は、今回、実施する小字鹿高(かたか)の上出16軒と下出の29軒。

本来は、上出、下出それぞれの地区でしていたらしい。

イノコモチ行事は年長の子供が決めるので、さてさてどうなることやら・・。

なお、安部田は鹿高神社が鎮座する鹿高、坂之下、谷出、小屋出の旧村の他、新町の四季ケ丘もあるが、イノコノモチ行事をしているのは鹿高だけ、という。

また、区長夫妻が話してくれた「おしゃかのすずめ」。

ここ鹿高でなく、宇陀川を挟んだ左岸地。

矢川(やがわ)地区でしていたという「おしゃかのすずめ」。

集落を一軒、一軒ずつ巡る女児たちの行事のようだが、この行事も調査してみたくなった。

時間帯は午後3時半を過ぎていた。小雨だった雨も本降りになりそうな雰囲気。

丁度、学校が終わったばかりの孫さんとともに、台詞(※民俗では詞章)を話してくれた。

石を振り上げて、地面にずとんと落とす所作。

“神さん”を嫌う家には、地面を打つことなく、中空に止めて空降り所作にするそうだ。

また、そのこととは関係なく、土の庭でなく、整地したコンクリート打ちっぱなしの庭の家も、中空止めの空降り所作。庭を傷めないように遠慮しながらも所作を遂げ、祝儀を受けるようだ。

ちなみに4地区で行われた昨年のイノコノモチ行事。動画を収録し、ケーブルテレビで発信したというアドバンスコープに行けば、見せてもらえるそうだから、訪問してはどうか、と伝えられたが・・・

区長さんが話してくれた鹿高のマツリ行事。

10月20日、21日に近い日に行われる鹿高神社の秋祭りがある。

頭屋家(※一番トウヤ、二番トウヤ、三番トウヤ)がつくって奉納する「イノコノクルビモチ(※くるみもちが訛ったもよう)」をしているそうだ。

トーヤの日、つまり座の日に供える「イノコノクルビモチ」は、搗きたての餅に青豆を擦ったクルビをまぶすようだ。

そのクルビモチ。供える際は、柿の葉に載せる。

秋祭りに獅子舞の奉納がある。

宮入りするまでは、集落1軒ごとに巡る獅子がお祓いをするそうだ。

11月22日は、新嘗祭もしている、という。

(R2.11. 2 SB805SH撮影)
※ トップ映像はイメージ <H22.11.22 EOS40D撮影 大阪・南河内郡のゐのこより>

名張市安部田の民俗調査②イノコモチ行事調査~再会・回想~

2022年12月07日 07時41分50秒 | もっと遠くへ(三重編)
前年の平成30年の11月半ばである。

知人のAさんが伝えてくれたイノコノモチ行事。

実際にされている動画も撮っていたAさん。

その映像は、FBメールで報せてくれた。

その動画・所作を拝見し、確信を得た三重県名張市・安部田のイノコモチ行事。

忘れないように、想定する行事日をメモにとっていた。

想定される行事日から、数えて数週間前にお願いしたのは、地区の代表者の確認である。

予め得ておかねばならない行事取材に欠かせない代表者の承諾である。

再会に“回想”も記しておく。

平成14年ころからはじめたホームページ(HP)である。

全盛のころにネット友達になってくださったAさん。

主宰されていたHP【A misty rose】と、相互リンクさせてもらったのがきっかけだ。

当時、私が主宰するHP【ならグルグル散歩】のリンクコーナーで紹介した文がある。

「P-SAPHIREさんご自身が撮影された大阪・神戸の都会の温もりを素材に、短歌、ポエムの“歌詠み”はとてもステきです。イメージソングは登載されているMIDIを選んでください。また、お料理のレシピは必見です。いずれもオリジナル作品で美味しそう。厳選された器とお料理が醸し出すハーモニー。とても食欲をそそりますので是非作り方を参考にチャレンジ。他にもフラワーアレンジあり、ご推薦のお店紹介あり、情報満載です。(H14. 8.23掲載)」

「トロイの木馬攻撃を受けましたが、元気に復活されました。(H15. 2.14記載)」を再掲した。

直接、お会いしたのは、平成15年9月21日。

Aさんらがグループしていたネット関係者の両槻会(ふたつきかい)が主宰する“大和三山飛鳥のオフ会”の初参加だった。

その初参加に、初始動したばかりのカメラ付き携帯電話で撮っていた。

季節は9月半ば過ぎ。

明日香村に一番の景観地にイベントをしていたかかし祭り。



棚田を歩いて何かを得ようと、していたが、仲間内に入れない独特の雰囲気があった。

尤も、初参加にカチコチ緊張していたのかもしれない。

お声をよくかけてくださったのが、PちゃんことAさんだった。それが嬉しかった。

棚田とか公園などに目がいく植物



赤い曼殊沙華に白色の彼岸花も咲いていた。



ススキに隠れてこっそり首を垂れて咲いていたナンバンキセル。



萩の花に貴重な絶滅危惧種のミズアオイも咲く地に黒米も栽培していた。



当時は、大阪・平野の市街地に暮らしておられたが、平成18年に新築・転居。

暮らしの場を三重県名張・安部田に移された。

移転後すぐにはじめられたお庭で作物つくりにお花も。

その進展を伝えるサブテーマタイトルが「風菫(かざすみれ)の里にて」。

平成23年ころまでの状況を伝えていた。

活動ぶりを伝えるブログは、その後、FBに移し、現在に至る。

1年前から、スケジューリングしていた重要な民俗行事の取材。

失念してしまっては、どうもこうもない。

安部田のイノコモチ。この年の1月の“亥”の日は、11月4日の水曜と16日の月曜。

それに最終亥の28日土曜もある。

月はじめの“亥”の日であれば、早めに確認をお願いしたい、と思ってメールを送った。

前月の10月26日に送ったメール文は「メールで失礼します。音楽祭、好評ですね。いつもFBで拝見・拝聴。美しい声に流れるメロデイ。直に聞いてみたい気もあるのですが・・。それは、ともかく、昨年に亥の子がお家にやってきたと伝えていましたよね。是非とも拝見したく、日時がわかればいいな、と思っているのですが、今年は新型コロナウイルス対策に中止の考えもある可能性も拭えないし・・・」だった。

その晩に早くも届いた返信は「こんばんは、いつもあんな感じでコンサートさせてもらっています。いのこ餅、まだ何も言ってこないんですよ。中止なのかな。いつも突然来るので驚きます。もしわかれば連絡させて頂きますね。」。

突然来るとは、予めの通知がない、ということだ。

ならば、直接現地に出向いて聞き取りを、と思って送ったコメント。

「ありがとうございます。私の予想日は11月4日。この月の最初の「亥」の日である。
これまでの経験上、区長さんあるいは子供会。代表の人、あるいは関係者の方を探しに、当日の午後に足を運ぼうかな、と思っています。」と、伝えた。

すぐさまの返信コメントは、「担当の人って知らないんですけど、子供会と言うものがないので、区長さんかな?お隣が区長さんですから聞いてみますね」。

藁にもすがる思いに、助かります、とコメントした。

それからしばらく経ってから実施日が決まった、と連絡をいただいた。

実施日は、11月2日。

夕方の午後5時より始めるそうだ。

この年に参加する子供は3人。

翌年には2人になるという安部田のイノコモチ。

取材するならと、現住所と電話番号を知らせてくれた。

イノコモチ行事に集落を巡回するコースが考えられる。

出発地の場所とか、巡る戸数も前もって知っておきたいから、当日は、できる限り早めに着いて、概要を頭に描いておきたい、と伝えた。

ただ、予定された11月2日の天気予報が気になる。

予報によれば午後の時間帯は雨である。

雨天でも決行されるのか、それとも・・。

心配していたというか、予報通りの雨天日になった。

11月2日、朝に通知。
「おはようございます。雨になりましたね…。夕方まで降り続く雨なら2週間遅らせた16日に変更にするそうです。」だった。

返答コメントに、「予報覆らず、ですね。今朝の予報の雲の動きによれば、午後3時辺りが小康状態になるも再び雨、雨のようで、深夜に止む予報。実施、中止問わず、本日お伺いします。イノコのコースの下見に、囃す詞の詞章、道具など、いろいろお聞きしたいし、時間的に余裕もあれば、お近くにある名張市郷土資料館や鹿高(かたか)神社も見学したい・・・。」と発信。

返信は「わかりました、バンドの練習がありますので私は、取材のお付き合いは出来ませんが、区長さんをご紹介しますが、区長さんは、いのこもち行事の詳しいことがわからないので、資料館に聞いてほしいそうです。」

そうであっても、そちらへ行けば何か手がかりが見つかるかも、と思って車を走らせた。

我が家から安部田までの走行時間は1時間半。



遠くのように思っていたが、そうでもなかった。

(H15. 9.21 J-SH53撮影)
 (R2.11. 2 SB805SH撮影)

名張市安部田の民俗調査①三重県のいのこ行事

2022年12月05日 07時42分11秒 | もっと遠くへ(三重編)
平成28年11月14日のことだ。

知人のAさんが住まいする地域でしている、と報せてくれたイノコモチ行事である。

10年ほど前、大阪の都会の街から転居してきたAさん。

当時、氏神さんの秋祭りに獅子舞が奉納される形態にも驚かれた。

さらに、伝えてくれたコメントに、驚いた。

「こちらの亥の子餅は、お餅とか無くて、子供達が灯籠の天辺みたいな石に紐を結んで家々を回り、庭で餅つきのように石で土をつく感じです。歌を歌いながらやりますが、内容はよく聞き取れないのでわからないです。半紙にお金を包んで渡してあげるのですが、子供達の良いお小遣いになるようです」とあった。

所作は、これまで見たこともない特有の形態に、腰を抜かすほどの衝撃を受けた。
紛れもないイノコ行事であるが、これまで私が取材してきた地域のすべてが、新米藁で作った藁ヅトで地面を叩く作法であった。

Aさんが住む地域は、藁ヅトでなく、イノコの石である。

灯籠のてっぺんにある形といえば、おそらくイノコの石の形は、宝珠であろう。

その2年後の令和元年11月13日にも報せてくれた三重県名張市・安部田のイノコノモチ。

このときの報せは、家の庭に現れた子供たちをとらえた動画である。

時間帯は、夜。

真っ暗な景色に揺れ動く人の陰。

槌を打つ音は、聞こえないが、その動きのある映像を見てわかった。

紐で括った石をもって地面を突く石槌搗きであろう。

動画に子どもたちが発する囃し詞がある。

民俗でいえば、詞章であるが、それは「いのこもちついて きのうもろう おおうめ こうめ ひげのはえたおやじ こっからかんのいおたれ もひとついわのどっさこ もひとついわのどっさこ こっからかんのいおたれ」のように聞こえる。

子供たちの発声がわかりにくく、おそらく正解ではないと思うが・・。

是非とも来年のイノコモチは拝見したく、よろしくお願いしますと伝えていた。

その動画から調べた三重県のネット情報に、近似するイノコ行事の情報が見つかった。

三重県鈴鹿市・亀山市に跨る野登山(のぼりやま)山頂にある野登寺(やとうじ)山麓下

亀山市安坂山町坂本にイノコさん(※イノコ祭り)があるようだ。

ご神体の石に巻き付け、子どもたちが引っ張る手綱は、皮を剥いで水に晒して柔らかくした藤蔓(ふじつる)。

暗くなってから出かける集落の祝事の家へ廻っていく。

祝いは婚礼、新築、出産、病気全快、表彰などなど。

祝いのイノコモチ詞章は「イノコさん イノコさん イノコ餅 搗こか この家のモチはどんなモチになるか このモチは〇〇さんのキンタマ(※ドッシンと土を打つ)」。

亀山市両備町の野登地区(旧野登村)の事例である。

野登地区まちづくり協議会がアップしている映像では地面を藁ヅトで叩く所作。

前述した地区とどれほどの距離があるのかわからないが、石槌打ちでなく藁ヅトの2例である。

亀山市は、この他に石打ちの羽若(はわか)町事例もある。

記事によれば、旧暦の10月15日。

辺法寺地区の事例も紹介している。

同県の亀山市両尾町にあるデイサービス施設がアップしていたブログ記事によれば、実施日は旧暦の10月の十五夜。

時間帯は午後5時半である。

「地区の子どもたち(小学生、中学生)が、“新藁 亥の子で 祝おかな~~~♪」と囃し、集落を巡る。所作の詞章は” 亥~の子 亥の子 亥の子の晩に 重~箱 拾て あ~けてみれば ほかほか まんじゅが はいっとった ひとつ ふたつ みっつ よっつ いつつ むっつ ななつ やっつ ここのつ とお もひとつおまけにどっこいしょ“」である。

当地もまた、”重箱“に”饅頭“詞章がある。

大阪・南河内郡の南加納や奈良県・天理市楢町に遺っていた詞章と同じであったとは、驚くべき事項である。

三重県北牟婁郡紀北町(旧赤羽村)にもイノコ行事があった。

三重県が大正時代から昭和10年代にかけて、当時の尋常高等小学校(国民学校)を単位に作成された『郷土教育資料』史に、「亥の子行事では、ボタ餅を作って神に供え、男の子は朝からイノコ槌(※建築の石槌打ちに使った槌を小さく切ったもの)に菊を挿し、その周りに何本かの縄を付けたものをこしらえ、これで地面を突き、亥の子歌を歌いながら各家を回り、その後でボタ餅をもらった。」と、いう記事があるようだ。

三重県事例のイノコは石槌打ち作法だけでなく、藁ズトを用いて祝う地域もある。

三重県四日市市富田地区の亥の子は、藁ズトを用いる地面打ち。

同じく四日市市の高角町も藁ズトである。

ブログに紹介している詞章は「亥の子の餅は ついても ついてもおれません もうひとつ ついたらようおれた…」のようだ。

また、四日市市の曽井町でも藁ズトであるが、子どもたちの先頭に藁縄で飾った上に花を飾る花車もあるから驚きである。詞章は「いのこのもちは ついても ついても おれません もひとつついたら おれすぎた おまけにこまけに どっこいしょ」だった。

ウィキペディアによれば、四日市市の神前地区も藁ヅト。

詞章は曽井町とまったく同じの「そーれ、そーれ、そーれ 亥の子の餅は ついても ついても 折れません もうひとつ ついたら折れすぎた おまけに こまけに どっこいしょ」だった。

また、前述した南河内郡南加納に寄り近い大阪・堺市南区上神谷(こうちだに)のイノコ事例もまた藁ズト(※藁製のいのこ槌)であるが、興味深いのは、詞章である。

「い~のこ~の晩に 重箱拾て~ な~か開けて見~れば 今~年の新米はいたっ~た そ~れもう一つつ~いて 帰りましょ」。まさに南加納とほぼほぼの同文事例である。

詞章はともかく、先の事例のように同地区内に藁ヅトと石槌打ちの二つの作法が混在しているのはどういう具合でそうなったのだろうか。

ちなみに、両作法とも紹介している卒業論文抄に纏められた『亥の子行事について~主として丹波地方の場合~(※昭和53年太田氏執筆時)』が、とても参考になる。

なお、抄文では藁イノコ、石イノコに区別するが、地域別区分はできない、とある。

(R1.11.14 記)
※ 映像はイメージ
  <H22.11.22 SB982SH撮影 大阪・南河内郡のゐのこより>