9月に大久保垣内で行われた
薬っさんのボタモチイセキに参拝された長老が大字桐山の戸隠神社で湯釜祓いをすると云っていた。
長老は大正13年生まれの90歳。
大字の最長老は渡り衆をお祓いする役目にあたっているという。
本人や息子さんからは「生存している元気な間に撮っておいてほしい」と願われて伺った。
また、平成23年からはトーヤ家を桐山公民館に移したときから始めた子供が搗く千本杵もあると云うのだ。
これまで山添村桐山で行われる数々の行事を取材してきた。
始めて訪れたのは平成17年10月16日に行われたマツリである。
5人の渡り衆が戸隠神社に参拝されて社殿に向かい
ウタヨミをされる行事である。
呼ぶ蒸し米で調製した
神饌のシラゴクも拝見したが、オドリコミに気がつかず失念した。
桐山の神社行事はその他に、
新嘗祭、
祈年祭。
寺行事では
観音講、
大君の十九夜講。
その他に
ハゲッショの寄り合いなどであった。
早朝に集まった神社関係者はオトナと呼ばれる長老衆(一老より4人)、区の組頭や手伝いのドーゲ(堂下)さんらだ。
境内を清掃されて神事の準備を調える。
拝殿横に設えたのが古い湯釜である。
釜縁に「切山庄九頭大明神御宮小谷弥七願勧進弥 永正十一年甲戌(1514)六月吉日七月」の刻印記銘が見られる。
500年間も現役で御湯に使われている。
県内で残される湯釜のうち、二番目に古いものと考えられ山添村の有形文化財に指定されている。
奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調書』によれば、桐山の戸隠神社(当時九頭大明神社)の往古は桐山および隣村の室津、北野山の三カ村の共社郷宮であった。
文亀年間(1501~)から永正五年間(1508)にかけて三村氏子間に感情の行き違いにより軋轢が生じた。
その結果、各村が分離したとある。
紛争の根源は湯釜にあったそうだ。
湯釜は大橋川(布目川)に投げ込まれた。
その処はたちまち「釜ぶち」と呼ばれる淵になり、淵から取り出したと伝わる。
和田、大君、大久保の3垣内からなる大字桐山の戸数は20戸。
ダム湖に沈む以前は48戸もあった桐山。
うち石屋を営む家が5、6軒あった。
石切り場もあったことから桐山は「切山」と呼ばれていた。
湯釜の刻印が当時の村名を伝えている。
足かけ24年間の工事を経てダム本体が完成。
平成1年より灌水が開始され、布目ダム湖ができた。
昭和54年12月に撮影された空撮写真が公民館に掲示されている。
ダム湖ができる前の村の状況である。
湖水に沈んだのは和田垣内。
水車は二カ所。粉挽水車もあった。
墓地もあれば湯釜を投げ入れたことから名がついた釜淵の所在も示されている。
集落に布目川が流れていた。その付近には「中島」があったと指さすK婦人。
旦那さんは、生前にお世話になった前区長だったが平成25年1月に亡くなられた。
婦人が住んでいた地の情景を話してくださった時代は嫁入りのとき。
流れる川の音はザワザワしていた。
水量が多く流れはきつかった。
そんな音を聞きながら弓張り提灯を持つ仲人さんについていった。
Kさんも弓張り提灯を持っていたようだ。
座敷に上がって座る。
「どうぞ見たってください」と障子を開けられた。
障子の向こうにはどっと村の人が集まっていた。
嫁入りした姿を見せるのは5分間。
お菓子を村人にあげたことを思い出す時代は昭和30年。
辺りにはゴンボやクリがあって採っていたと話す。
水没した元の家が建っていた方角を見ていた布目ダム湖には多くの釣り人が訪れる。
和装姿になった渡り衆は当家を含めた5人。
戸隠神社に参拝される。
神社の造営は20年に一度。
平成27年4月に行うと話す。
前回の造営に神社後方に植生する大杉を伐り倒して売った。
それをもって資金調達したそうだ。
大杉の一部は再利用されて参籠所の建てなおしの材に充てたという。
拝殿の脇に設営したのは永正十一年に製作された湯釜だ。
500年間に亘って祓いの湯に使われている村の貴重な文化財。
神社辺りに植生している雑木に火を点けて湯を沸かす。
八足に置いたサカキと数個のドロイモ。
個数は特に決まっていない。
かつては湯釜の羽根に置いていたが錆びると困ることからそうしたと長老は話す。
渡り衆が並んで始まった長老の湯祓い。
オトナ衆の最長老である一老が勤める。
サカキを手にして湯に浸ける。
左右に振って礼をする。
3秒もかからないささやかな作法である。
「おめでとうございます」と祝いの詞をかけて終えた。
湯祓いは翌日のマツリの際にも行われる。
両日とも作法をされる渡り衆の身を清める意味があるのだろう。
この日の公民館はトウヤ(当家)家である。
平成22年までは当たりになったトウヤ(当家)家で行われていた。
畳は張り替えて新しくし、渡り衆が入浴するお風呂も入れ替えた。
宵宮の晩には家で泊りもしていた。
気遣いもしなければならないし、家を修善するなどの費用負担もある。
戦後間もないころにこれらの慣習は廃止された。
さらに負担を軽減する措置を講じて公民館へ転じたのである。
その公民館前には注連縄を張った二本の斎竹を立てている。
下に敷いているのは十二束の稲藁だ。
小豆と洗い米を盛った盆もあるが、これは翌日のマツリにウタヨミを奉納された渡り衆が戻った際に作法されるオドリコミに使われる。
マツリのトウヤ(当家)家になった公民館では千本杵で餅を搗く。
公民館に移ったことがきっかけに始められた餅搗きに子供が集まってきた。
普段では子供の姿がほとんど見られない桐山。
マツリともなれば人数が膨れあがる。
祝い事に紅白のテープを張った千本杵。
千本の名で呼ばれているが5本だ。
トウヤ家がふるまう餅は蒸すことから始まる。
新しく作った臼に入れて杵で潰す。
トウヤ家の手伝いさんはトウヤ家の親戚筋。
山添村など東山中でみられる行事はどこでも同じである。
ほどよい状態になれば搗き者は子供に移った。
真剣な顔つきもあれば、笑顔で搗く子もいる千本搗きに祝いの唄はない。
搗きあがった餅は手で丸めてキナコや小豆餡を塗す。
昔は必ずクルミモチでふるまったそうだ。
クルミモチは蒸した大豆をすり潰した餡でくるんでいた。
そういうことでクルミモチと呼ぶのである。
千本杵の餅搗きは三升で二臼。
搗きたてのモチは搗いた子供たちもよばれる。
甘くて美味しい餅は座っていただく。
小さな子供は母親が手伝ってくれる。
昼に渡り衆をもてなす会食は遠慮して一旦は帰宅の我が家で食事。
その後に再び訪れた桐山では渡り衆が手作りしたアマコダケ(メロダケ)の笛を吹いていた。
紺色の素襖を身につけた渡り衆は紙垂れとつけた烏帽子を被っていた。
二人はピー、ピー、ピーと笛を吹く。
次に太鼓打ちがドン、ドンと打ち鳴らす。
もう一人はガシャガシャ(左右五本ずつのビンザサラ)を振りながらジャラ、ジャラと鳴らす。
ピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラの楽奏であるがトウヤに作法はない。
何度か練習をされて楽奏の調子を合わせる。
次がウタヨミだ。
扇を差し出すように前へ進み出る。
握るような感じで扇を立てて謳うウタヨミは「やっとん とん とん」で始まる。
「おうまへなる おうまへなる」と詞章をあげれば、他の4人は「ハァ」と声を揃えて合いの手で囃す。
以下同様に「鶴は鶴 亀は亀」に「ハァ」。
「鶴こそふれて舞い遊び」に「ハァ」。
「鶴の子のよしやまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の」に「ハァ」。
それぞれ区切りに「ハァ」と囃した最後に「松やにゅうどう」と唱えながら時計回りに一回転する。
拝礼して元の位置に戻る壱番はトウヤが勤める。
二番、三番はトウヤ以外の渡り衆が勤めるが、特に決まりもなく、この年は笛役の二人が勤めることになった。
こうして幾度かの練習を終えた渡り衆はトウヤを上座に年齢順で座った。
餅入りのすまし汁(オチツキモチ或いはオチツキダンゴと呼ぶ)をいただく渡り衆。
しばらくすれば公民館から出発した。
神社に向かう前は一列に並んで遥拝をする。
始めに山の神に向かってだ。
ピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏し拝礼する。
次に弁財天に方角を替えてピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏し拝礼されて神社に参進するのだ。
履きなれない下駄の音がカランコロンと響く。
渡り衆はピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏しながら急な階段を登っていく。
迎えるのはオトナや組頭だ。
拝殿前で楽奏して拝礼する。
三社にも拝礼をされたら藁草履に履き替えて登壇する。
5人は二手に分かれて並ぶが、特に決まりのない並びである。
この年はトウヤ側にジャラジャラ、太鼓が並び、反対側に二人の笛に別れた。
始めにトウヤが進み出て壱番のウタヨミ詞章を唱える。
次は笛役だ。
作法は同じであるが弐番の詞章となる。
「西洋の春のあしたには」に「ハァ」。「かどに小松を立て並べ」に「ハァ」。
「おさむる宮のしるしには」に「ハァ」。
「民のかまどに立つ煙」に「ハァ」。
「松からまつのようごう おうごうの松」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
次の参番も笛役である。
「あかつきおきて空見れば」に「ハァ」。
「こがね交じりのあめふりて」に「ハァ」。
「そのあめやみて空はれて」に「ハァ」。
「皆人ちょうじゃになりにけり」に「ハァ」。
「「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
詞章を唱えた三人はいずれも右足を一歩踏み出し、右手に扇を翳していた。
ウタヨミ詞章は大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「神楽歌」とあった。
トウヤは前年に本殿へ奉られていた大御幣を持って出る。
新しい大御幣は神事の際に神職が奉った。
そのときに供える神饌は御供トウヤ(当屋)が供したものだと聞いた。
二本の古い小幣も持ちだされたて渡り衆は注連縄を張った参籠所にあがり一列に座る。
オトナから「おめでとうございます」と挨拶を受けて差し出された甘酒をいただく。
参拝者も同じように用意された甘酒をいただくことになっている。
こうして宵宮参拝のウタヨミを済ませた渡り衆は列をなして公民館に戻っていった。
桐山の行事は数年前までは14日、15日であった。
現在では14日に近い土曜日が宵宮で、日曜日がマツリである。
私が初めて拝見したマツリは
平成17年。
その年は10月16日であったことから既に変容していたのだった。
桐山の渡り衆が奉納されるウタヨミやオワタリ行事は、元は山添村・桐山を中心に旧東山村の山添村室津、奈良市北野山の三村合同の行事であった。
三村は隣村の山添村峰寺の六所神社に参拝される峰寺、松尾、的野と同様に一年ごとに大字がもち廻りで交替していたように桐山、室津、北野山の大字ごとのもち廻りであった。
言い伝えによれば、永正五年に分離し現在地へ遷した戸隠神社のオワタリ行事は各村で行われるようになったのである。
(H26.10.11 EOS40D撮影)