マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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2週間後のエコー検査結果も前立腺肥大症

2018年10月31日 10時19分52秒 | むびょうそくさい
2週間前に検査・診察した結果は前立腺肥大症だった。

5日分の抗生剤に毎日の「タムスロシン塩酸塩OD錠0.2mg(サワイ)」を服用してきた。

効果はてき面。

傷みはなくなり排尿もスムーズ。

毎回の苦労さ度合いは一挙に消えた。

この日は経過を観察する診察日。

特に前回に診察後に採尿した尿検査の結果もある。

今回は予約扱いだから、診察カードを器械に挿入して受け付ける。

診察受付の泌尿器科の42番で待つ。

その間に測っていた血圧と脈拍。

血圧は117-65。

心拍数は40拍。

安静状態の現状である。

そのうち看護師が名前を呼んで待合室に出てきた。

今から尿検査をするという採尿カップを渡される。

検査結果は30分も経たないと結果は出ない。

それまでは待機状態だ。

名前を呼ばれたから診察かと思えば違った。

膀胱に溜まっている尿を最後の最後まで絞り出してほしいという。

採尿してから25分。

溜まっていないだろうと普通はそう思う。

私の場合は利尿剤を服用しているから、溜まりは早い。

とはいってももよおしはない。

トイレに入って便器の前に立てば自ずと尿管が刺激されるのか、ちょびちょびと音をだして便器に落ちる。

やはり溜まりは早かった。

すっきりしたところであらためての呼び出し。診察室は検査室でもある。

下腹部の衣服を降ろして全面というか、前面を開放する。

そこに登場した医師は前回同様のM医師だ。

エコー検査を終えたら別室の診察室へ移動する。

先ほど検査したプリント結果映像をもって説明される。

特に問題はないという。

尿検査の結果も血は混ざっていない。

薬の効き目があったということだ。

前回の5日、診察後に採尿された結果も伝えられる。

そのときの所見は「好中球の出現が顕著」、「背景に出血を多く認める」、「malignancyを示唆する所見は認められない」ということだ。

5日当日のありのままの症状が記載されていた。

医師曰く、原因は腸球菌が影響したものである。

採尿の結果認められた腸球菌。

どのような人であっても、動物であっても存在する、善玉、悪玉問わない腸内菌である。

それが何故に尿道に移動するのか、である。

原因は前立腺肥大症になるそうだ。

つまりは前立腺肥大症によって尿路感染に陥ったということだ。

腸球菌が尿道から膀胱内に侵入して炎症を起こす。

感染したことで発熱するわ、頻尿、排尿痛を起こす。

特に残尿量が多くなればなるほど尿路感染症になる確率が高くなるのが高齢者である。

完治はまだ認められるものではない。

前立腺癌の検査もしておくのがいいと判断された医師は2、3カ月経過後の再診を伝える。

それまでは服用してきた「タムスロシン塩酸塩OD錠0.2mg(サワイ)」の継続服用。

今でも綺麗になったが、引き続き経過観察をするとともに抑制し、次回は10月20日の前立腺癌検査を予定することになった。

ちなみに本日の採尿検査の結果である。

赤血球、白血球とも結果値は1未満Fであったことを付記しておく。

(H29. 8.18 SCAN)

故郷・住之江北島の子安地蔵尊

2018年10月30日 10時37分55秒 | 望郷
毎年、盆踊りがあると話すおふくろ。

居住地の掲示板に貼ってあった敷津浦地区の盆踊り案内。

子どもだったころ記憶に盆踊りはまったくない。

覚えているのは地蔵盆である。

ここでも盆踊りをしていると話すおふくろ。

私の記憶にあるのは北島地蔵尊。



毎年の8月23日が地蔵盆だったと覚えていたが、そうではなかった。

24日もあったのだ。

ご詠歌も法要もまったく覚えてないが、お菓子をもらったことだけは記憶にある。

その北島地蔵尊は子守地蔵さんだった。



団地化したときに児童公園に移された地蔵さん。



そのときに建てられた地蔵堂建立は昭和56年3月29日。

私が30歳のときである。

北側にお風呂屋さんがあったが、廃業されて、今では新興住宅地。



団地化前の住居は一階建て木造住宅。

戦時中罹災した人たちのために建築された市営住宅の様相は、この「シリーズ望郷」の「生まれも育ちも―1―」で紹介した。

(H29. 8.17 SB932SH撮影)

故郷・住之江の精霊流しに記憶を語る

2018年10月29日 08時59分57秒 | 望郷
モノクロでもなく、過去形でもない、現在形の我が故郷。

「精霊流し」の御供受け、取り扱いについて書いた自治連合会連絡が掲示板に貼ってあった。

その件に至るまでのおふくろの体験談を聞いていた。

おふくろが思い出す地区は大阪・富田林の錦織。

終戦の日であった。

ゴロゴロの地響き音とともに大八車が動いていた。

一台ではなかったのだろう。

母屋に居てもその音が聞こえてきたというから台数は多かったようだ。

その音を聞いてアメリカ兵がやってきたと誰かが云いだした。

大慌てで家財道具いっぱいの荷物を積んで親類が住んでいる加納に逃げようとしたら、日本軍の缶詰を運んでいるとわかった。

残った軍の缶詰を配給することになったらしい。

終戦末期に飛来する米軍大型戦略爆撃機のB29の轟音が怖かった。

次々と低空飛行する艦船機に追いやられた。

B29が飛んでいった後には必ずといっていいほど艦船機が飛んできたという。

二十歳のころのおふくろの体験談は随分前にも聞いていたが、その場は錦織ではなく、加納だった。

畑にいたら機銃掃射。

恐ろしくて立てなかったその両袖にバリバリ音が激しく聞こえた機銃掃射は今でも鮮明に覚えている。

生まれ育った錦織の母屋の中庭には誰が掘ったか聞いていない防空壕があったという。

空襲警報のサイレンが鳴ったらその穴に隠れていた。

終戦の日は8月15日。

母屋のお盆は話題に出なかったが、その後の居住地の住之江の昔は先祖さんを迎えたお盆の御供は大和川に流していた。

堤防が草むらだった時代だから私が子どものころだ。

今は環境面に配慮されて、堤防に何台も待つトラックに捨てるようになった。

(H29. 8.17 SB932SH撮影)

生まれも育ちも―7―

2018年10月28日 09時24分19秒 | 望郷
正面は私だ。

右横のぼっちゃんは1番目の実弟。

2歳違い。

父方の祖母の膝に抱かれている。

左端は祖母の母親。

兄弟は大祖母をおおばあちゃんと呼んでいた。

このときに撮られた写真はなんだろう。

何の日だったのか、絞り出すようにして思いだす。

両祖母の姿、年齢から考えて、おおばあちゃんの米寿祝いだったと思われる。

おおばあちゃんが亡くなったときの年齢は90歳だったか覚えていない。

92歳で大往生した祖母は明治生まれだった。

写真の姿は60歳前半だったように思える。

二人とも今では見ることのない着物姿。

呉服屋の娘で育った二人だけに生涯ずっと着物で暮らしてきた。

(H27. 9.11 SCAN/記)

生まれも育ちも―6―

2018年10月27日 09時29分47秒 | 望郷
近所の兄ちゃんが運転する単車(ホンダスポーツカブC110-1960/10製)の後ろに乗った2番目の実弟。

嬉しそうな顔をして兄ちゃんにしがみついている。

これがきっかけかどうか判らないが、二人の弟は大きくなってホンダに勤めた。

後方に建つ家はバラック小屋と称した戦後間もないころに建てられた市営住宅。

左に立つ円柱木材はおそらく電信柱。

まだコンクリ製ではなかった。

その左横の垣根も木材。

土中に埋める部分は茶色い防腐剤を刷毛で塗っていた。

特有の匂いは鼻が覚えている。

(H27. 9.10 SCAN/記)

生まれも育ちも―5―

2018年10月26日 10時30分45秒 | 望郷
シリーズ―2―で紹介したバラック小屋。

5歳違いの2番目の実弟が立つ写真。

木板の壁の寸法幅が不揃いだったことに気付く。

樹木の葉が多くなっている状況から考えて、成長した2年後ぐらいかもしれない。

実弟も成長、顔つきはお兄さんになっていた。

玄関口に立てているのは庭箒、ではなくて捕虫網のように見える。

夏休みだろうか、宿題の虫捕りをしていたかもしれない。

この記事をFBに挙げたら、1番目の実弟の友人からメッセージが届いた。

20代半ばまで暮らした懐かしい家を知っている、と伝えてくれたⅠさんのコメントが嬉しい。

「東日本大震災で被害を受けた康っちゃんは元気。定年後の再就職先でがんばっています」と伝えた。

(H27. 9. 9 SCAN/記)

生まれも育ちも―4―

2018年10月25日 09時40分12秒 | 望郷
この写真は同一日に撮られたのであろう。

赤ちゃんを見ているのは2歳の私だ。

三輪車でここまで来たようだが記憶にない。

向こうに見える橋脚は大和川大橋。

車は多くなかった時代だ。

堤防のかさ上げ前のころだと思う。

この堤防から大阪天王寺の新世界のシンボルタワーが見えた。

シンボルタワーは通天閣。

今でもそうだが「日立」の文字も判別できた。

それほど空気が汚れていない時代だった。

座っている周りの植物はヨモギ。

とにかく多かった。

摘み取ったヨモギを持ち帰り、ヨモギモチにしてもらって食べたことを覚えている。

ここはクローバーも多かった。

四つ葉のクローバーなんてざらにあった。

探しているうちに五つ葉、六つ葉までもと思いきや、七つ葉、八つ葉も見つかった。

突然変異であるが、今思い起こせば何がしかの刺激物があったかも知れない。

それで思いだす酸素ボンベ中毒騒ぎ。

土手に放置された酸素を吸入した私たち子供は一時的に呼吸困難に陥った。

捨てた業者を探して怒りをぶちまけたおふくろら。

なんら返答もなかったと先日も話していた。

(H27. 9. 8 SCAN/記)

生まれも育ちも―3―

2018年10月24日 09時58分20秒 | 望郷
おふくろが抱いている赤ちゃんは1番目の実弟。

2歳違いである。

1953年に撮られた写真であろう。

我が家はカメラを持ち合わせていない。

この時代はカメラを首からぶら下げた自称写真撮りがおった。

撮ったプリントを見せて、買わせていた。

そんな時代だった。

撮影地は護岸工事の進んでいない当時の大和川。

土手下は草ぼうぼうだった。

小学生のときはここが遊び場だった。

草を結んでひっかけのいたずらをしたこともあるし、砂地だった川堤に穴を掘って遊んだ。

砂地だったので崩れやすく危険と判って中断したこともある。

川はシジミもあれば、ウナギの稚魚も泳いでいた。

とにかく多かったのはゴリハゼだ。

網で掬って捕っていた。

小・中学生が集まって川の砂場で三角野球をして遊んだ。

どこからか探してきた畳を何枚か合わせて筏にして動かした。

割合、浅瀬だったので危険性は感じなかった。

とにかく遊びに熱中していた。

川の向こう側は堺市。

堤防向こう側に工場の煙突が見える。

(H27. 9. 7 SCAN/記)

生まれも育ちも―2―

2018年10月23日 10時16分56秒 | 望郷
玄関口のコンクリ台を飛んで駆けているのは2番目の実弟。

5歳違いである。

家壁に沿った下。

庭とも思えないような場にひ弱な樹木を植えてあった。

牛乳ポストは明治牛乳の名が見える。

バラック小屋と称していた家屋は地上げ前かもしれない。

数十cmも地上げをする理由は大和川の氾濫だ。

すぐ近くにある大和川は大雨にもなれば土手近くまでになる。

上流の奈良県側が大雨のときはいつもそうだった。

万が一の場合、堤防が決壊したらひとたまりもない。

祖母やおふくろが話していた。

何年か前は一部が決壊して住吉公園まで大水になったという。

地上げ工事は家一軒丸ごとジャッキで上げてコンクリ土台を高くする。

玄関先のコンクリ台の高さがまあまああったことを覚えている。

その高さなら、大水になった場合は床下浸水ぐらいで済むだろうと思っていた。

この記事をFBに挙げたら、FB知人のMさんからメッセージが届いた。

坊ちゃん刈りで思い出すのが4コマ漫画の「かりあげクン」。

決して「カラアゲくん」ではない。

それはともかく、坊ちゃん刈りって昔の子供時代に流行ったものだ、と思っていたが、そうでもなさそうである。

今では芸能人・コメンテーターも・・。

ファッションのようである。

(H27. 9. 6 SCAN/記)

生まれも育ちも―1―

2018年10月22日 10時10分16秒 | 望郷
「シリーズ望郷」は心臓病で倒れる以前から考えていた、遺しておきたい生まれ育った昭和30年前後を映し出すモノクロ写真である。

住宅地にやってきたカメラマンが撮った写真。

カメラマンの提示する代金を支払って買った写真は、当時に暮らしていた当時の地域文化がわかる記録でもある。

実家に残っていた写真を選別しておふくろが持ってきてくれた。

その写真を眺めていたら、当時の様相をありありと思いだす。

思い出した記憶を文字にして残しておきたい。

そう思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。

記憶を文字化したとしても、公開する機会があるのか、ないのか。

その時期は突然にやってきた。

手術して退院する。

それがきっかけだった。

当時の私は中学生。

何年生であるのかすらわからない映像はここら辺りに出没してはモノクロ写真を撮っていた男性の写真である。

撮影者はまったくわからないが、撮った写真でお金を貰っていたようだ。

私が撮った写真は村の人に記録のお礼にさしあげる。

その際にこういう人が稀におられる。

言葉は「いくら払ったらいいのでしょうか」である。

年配であればあるほど、その言葉を口にする人は少なくもない。

そのことに遭遇する度に、50年ほど前にあった写真家たちの行動を思い起こすのである。

著作権のこともあるが、もし、その人が今でも生きておれば、のことだ。

子どものころの記憶を辿れば、若くはなかった。

それ相応の年齢だった。

40歳を越えていたような風体だった。

そうとすれば90歳である。

著作権は死後50年までが原則であるが、撮った人を断定することは現実的に不可能である。

それよりも写真を買わされたことの方が問題であるが、当時の生活文化の記録写真は、暮らしそのものが私の生きてきた「民俗」だと判断して記憶を辿りながらの文字起こし。

一枚の写真で何を語るか・・・で、ある。

始めの一枚はこれである。

昭和20年、終戦直前まで数回に亘って大阪大空襲があった。

祖母が住んでいた呉服屋は東区(現中央区)瓦町にあった。

落とされた焼夷弾で焼け野原。

住まいも焼けた。

史料によればたぶんに6月1日午前中の空襲であろう。

焼け出された住民は戦後復興した市営住宅に住むようになったと聞いている。

昭和26年、私が生まれ育った家はバラック小屋(みんなそう言ってた)とも思える木造住宅だった。

いつ建てられ入居した経緯は聞いていないがバラック小屋は大和川堤防下にあった住吉区(現住之江区)市営大和川住宅。

軒数は多かった。

この写真は昭和何年であるのか判っていない。

手前の家ではご飯釜を外に出して雑木に火を点けて炊いていた。

その向こう側左手にあるのが我が家だ。

自宅に槇で焚く風呂があった。

エントツでよく判る。

割烹着を着た婦人は井戸端会議。

おふくろもおれば着物姿の祖母もいる。

4人とも下駄を履いている。

右手に数人の子供がいる。

小学生や幼稚園の子の中に私がいるのか不明だ。

玄関口でベッタンをしているのかも知れない。

(H27. 9. 5 SCAN/記)