マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

城戸で聞きとる陰地の山の神

2016年07月29日 08時44分31秒 | 五條市へ
大字津越(つごし)より下って大字川岸外れ。

そこではなかった大字の陰地(おんじ)。

いったいどこに集落があるのだろうか。

川岸から走行路を下って南下する。

ここら辺りははっきり覚えている。

数回泊まった宿泊所がある。

村営の「にしよしの荘」である。

季節はいつだったか覚えてないが家族旅行で泊まった。

食事も美味しかったし格安料金だったように覚えている。

鮮明に記憶に残るアクシデントがあったことも一つの思い出。

あんまり思いだしたくないが、アクシデントは車のトラブルだ。

到着して荷物を下ろした。

家族は宿に向かって歩いていた。

私は、といえばキーを使わずにドアノブ操作でドアロックだ。

家族を追いかけて歩いていたときに気がついた。

キーは車の中に置いたままだ。

キーがなければドアは開かない。

トラブルは20数年前のことだ。

電子キーなんぞなかった時代である。

困った顔で「にしよしの荘」の職員さんに事情を伝えたら、なにやら奥から取り出してきた。

長いモノサシである。

ドアの窓ガラスの隙間に突っ込んでグニュグニュ。

音がしたかどうかは覚えていないが、ドアが開いた。

職員さん曰く、宿泊者で度々こういうトラブルがあるので対応してきたという。

タネをバラシたくはないが、云十年も前のこと。

現在の車はセキュリテイでがんじがらめ。

モノサシでは不可能だと思う。

感慨にふける余裕はない。

本題の話しに戻そう。

私が知りたいのは在所陰地の山の神だ。

たまたま玄関に居た人を発見した。

おそるおそる尋ねてみた山の神。

奥さんが云うにはそこにあったかどうか・・、である。

あったとしても集落よりもまだ山の上

「円光寺(平等山桧川御坊)」がある。

それより上にあるのが八幡さん。

神社の当番かどうか判らないが何がしかを供えているようだと云う。

もしかとすればしていないかも知れない。

旧吉野村の大字城戸(じょうど)などここら辺りは山の仕事が主たる産業だった。

今は廃れて伐りだした木材をトラックで運んでいたと云う。

業態は木材ではなくなったが、培った技術で運送業を営んでいる。

津越に向かう道で木材を伐りだしていた人たちが居た。

その人らは地元民ではなく他村から来た同業者。

山の神のことは知るわけがない。

訪ねた運送屋さんの前を登る道がある。

その道を行けば陰地になるが、たぶんに迷う。

現地をよく知る森林組合の人の案内であればいいのだが・・、という。

城戸に森林組合がある。

ここも地元民ではなく他村の人。

ほとんどの人に聞いても判らない山の神だが、唯一一人だけが地元民。

この日の森林組合は休日。

平日の場合なら居られる可能性がある。

山の神の存在を知りたければその人に聞け、と云われた。

気になっていた城戸の行事も尋ねた。

平成17年7月24日に取材した川合地蔵尊のお祭りだ。

地蔵尊の前で組んだススキ提灯。

台車に載せたススキ提灯は引っ張って曳行していた。

このときに訪れたときに神社行事の様相を聞いた。

が、何年か前に中断されていた。

もしかとすればと思って奥さんに尋ねた。

結果はススキ提灯も中断であったということだ。

(H27.11. 7 SB932SH撮影)

旧西吉野村川岸の八幡神社

2016年07月28日 09時06分56秒 | 五條市へ
集落地図によれば大字陰地(おんじ)は当地より下り道にあるらしい。

が、危険を感じて来た道を戻った。

たしか神社の鳥居があったのでは、と思って停車した。

後に判るのであるがここは大字川岸(かわぎし)。

今では五條市に統合された旧西吉野村にある一大字だ。

ところがカーナビゲーションで示した陰地一番地はここを示す。

どういうことだろか。

それはともかく3軒ほどの集落。

いずれも不在で神社や山の神を尋ねることはできなかった。

(H27.11. 7 EOS40D撮影)

旧西吉野村津越の残り柿に四季桜

2016年07月27日 08時14分42秒 | 五條市へ
陰地(おんじ)の山の神はどこにある。

たしか自生する福寿草を観に出かけた旧西吉野村の大字津越(つごし)のすぐすぐ傍にある村だったと思う。

津越を初めて訪れたのは平成15年3月14日だった。

今から13年も前。

廃れた記憶を戻しながら川沿いの山道を駆け上がる。

三叉路に数軒の津越集落地図があった。

急カーブに急な坂道を登る。

訪れた時期には福寿草は見られないが、着いた場で思いだした。

たしか収穫した梅の実を干していたはずだ。

作業場はあったが扉は閉まっていた。

時期的にどうなのだろうか。

それはともかく小雨が若干降る日だった。



対岸の山々は紅葉が染まりつつある。

集落には残り柿がある。



ここもそうだが下市から南下して大字川岸(かわぎし)辺りに来れば四季桜がいっぱい咲いていた。

ここ津越も同じように四季桜は可憐に咲いていた。



四季桜は冬に咲くから冬桜とか、十月以降の寒い時期に咲くことから期月をもって十月桜と呼ぶこともある。

雪が舞うとても寒い日に咲くから寒桜の名前もある。

実に多様な名をもつ四季桜である。

(H27.11. 7 SB932SH撮影)
(H27.11. 7 EOS40D撮影)

西河内町の祝いコイノボリ

2016年02月17日 08時39分27秒 | 五條市へ
和歌山市民会館で開催された写真展の帰り道。

紀北東道路-橋本道路-五條道路を快適に走っていた。

行き帰りの走行中に目につくコイノボリは少ない。

北は山間部で南は紀ノ川沿いの新町住宅。

コイノボリはあっても支柱は金属ポールばかりだった。

五條市居傳町手前だった。

山麓側に家紋入りのコイノボリの先端が目に入った。

橋脚道路からだったので見間違い?と思ったが、念のためと思って降りてから地道をUターンする。

場所はだいたいであるがなんとなくここら辺と思った民家。

そこに立ててあったコイノボリの支柱は木材だった。



奥で畑作業をしていた老婦人に話を聞く。

「ここはどこですか」と尋ねれば御所市市の西河内町。

NPO法人「うちのの館」が管理する登録有形文化財の藤岡家住居から数百メートルの近さになる。

婦人の話しによれば横浜に住んでいる長男家の初孫男児が生まれたときに立てたという。

その年は杉葉飾りを付けた支柱だった。

2年目からは葉を伐りとって矢車に替える。



孫は6歳になったが今でもこうして立てているという。

気になったのは丸桔梗紋入りの吹き流しだ。

家紋は型をとって京都の染物屋で吹き流しを作ってもらった。

コイノボリもそうだが、奈良の風習どおりに長男のお嫁さんの実家が贈ってくれた。

お嫁さんの出里は栃木県。

そういう風習はないという。

風習がないのになぜに贈られたのか・・。

その後に畑から戻ってきた息子さんに聞けば「私がその話しをしたらお嫁さんの実家がそうしてくれた」という。

家紋入りの吹き流しの絵柄は龍が舞う唐草模様。

じっくり見たことがなかった老夫人の息子さんは「そうやったんや」という。

長男の仕事柄、横浜から里へ帰るのは正月とお盆ぐらい。

製材所に頼んでレッカーで持ち上げ立てたコイノボリの支柱。

青空に泳ぐコイノボリの姿はタブレット端末で撮って孫に送っているという。



同家のコイノボリは雛飾りを仕舞った翌日に立てる。

晴れの日に揚げるが、風の強い日は揚げない。

雨天の日ももちろん揚げないしカミナリが鳴る日も、だ。

同家がコイノボリを仕舞うのは6月5日の節句まで・・と話していた。

(H27. 4.23 EOS40D撮影)

上之町の八日講

2015年10月22日 08時05分55秒 | 五條市へ
五條市上之町に特定家の公事家(くじや)がある。

かつては公事家9軒と呼ばれていたが今では5軒。

廻り当番家の床の間に3幅の掛軸を掲げる。

中央は特に古いと思われた十一面観音立像。

左は六神を配置した庚申さん。

右は梵字の弘法大師さん。

表装しなおした掛軸の元の年代は判らないと云う。

それぞれの神さんに供える御供はシロゴハン。

庚申さんはタワラ結びのオニギリ。

観音さん、お大師さんは三角形むすびのシロゴハンだ。



掛軸を掲げた前で弓・矢・的を作る上之町公事家(くじや)。

1軒は服忌で欠席されるも、弓は梅ずわえ、矢はシノベ竹で12本作る。



この日の弓の弦材は紐であったが、かつてはシュロ材で編んでいたそうだ。

鬼の的はテニスラケットのような形で、弓と同じく梅ずわえを側に用いる。

「ずわえ」は真っすぐ伸びた若枝の呼び名だ。

半紙を貼って「鬼」文字を墨書する。



上に大きな文字の「鬼」。

下はやや小さな「鬼」が二つ書く。

上は「オヤオニ」で下は「コオニ」と呼んでいる鬼の的。

「鬼」に丸く囲むのは「コオニ」だけである。



3幅の掛軸を掲げた下に作り立ての弓・矢・的を置いた。

ローソクに火を点ける。

にわか導師が前に座る。

一同座って、「ほなら導師よろしくお願いします」と伝えて始まった。



リンをひと打してから般若心経を唱える。

始めに「なむしょうめん こんごうどうじ」を3回唱える。

「おんあるきゃそわか」のご真言も3回唱えて、続いて般若心経に移る。

リンをひと打して般若心経はもう一巻唱える。

いくつかのご真言を唱えて「なむだいし へんじょーこんどう」を7回唱えて終える。

弓打ちの前に祈祷された公事家は何年か前までは真言宗派金光寺の行事を支えてきた。

村のこともしていた特定家であるが事情によって、今では公事家で行われている。



つい数年前までは金光寺で「八日講のオコナイ」もしていた。

「牛王 金光寺 宝印」の文字を彫った版木で刷っていたゴーサン札。

平成26年1月11日に取材した大般若経行事で拝見した。

ゴーサン札はたばってウルシ棒に挟んで5月のモミオトシの際に松葉とともに水口に立てていたそうだ。

松葉を立てるのは虫が寄りつかないためである。

松葉にはマツヤニがある。

それが水田に流れることによって虫を除けているという。

虫除けの方法は行事とは別に石油を入れた竹筒もあるそうだ。

幕が張った竹筒の石油はウンカ除け。

油にまみれたウンカは生きていけずに死ぬ。

これも防虫のやり方だと話す。

初祈祷を終えた公事家(くじや)の人たちは家を出て庭に場を替える。

「カド」に筵を設えて鬼的を立てる。

筵に替わったのはここ数年前。

それまでは束にした稲藁だったと話す。

高さを合わせた藁束は3束を重ねて背中に鬼の的を立てていたそうだ。

一人ずつ弓を構えて矢を射る。

矢は12本。

旧暦閏年の場合は13本になるという。

鬼的はアキの方角。

いわゆる恵方、今年は西南西になる。



矢を射る順番は特に決まっていない。

何人かが矢を射る。



当番家の婦人や母親も矢を射った。

「鬼」を仕留めることができなかった矢はもう一度打つことができる。

当らなければ何度も矢を射るという。



「鬼」をぶち破った矢は家の守り神。

床の間に飾る、或いは玄関外側の上に挿しておく。

魔除けの意味があるという。

一年間、家を守った矢はトンドで燃やしていたが、数年前に中断したから燃やすことができずに残しているそうだ。

上之町に伊勢参りがあった。

公事家が集まって伊勢に代参する人をクジ引きで決めていた。

クジに当たった人は一週間かけて伊勢参りをしていたという。

「オビヤ峠」で見送って伊勢参り。

戻ってきた代参の人は「オビヤ峠」で出迎えた。

酒や肴を持っていった「5万人の森公園」で迎えの宴をしていた。

そこには明神さんを祀っていた祠があったそうだ。

八日講行事を終えた公事家はパック詰め料理で直会をされる。

乾杯をされてこの日の行事を労う。

「鬼」の的打ちはいわば上之町の初祈祷行事。

矢を射って村から悪霊を退治し安穏を祈る行事である。

接待家は廻り当番。

昔は家で作った料理をよばれていた。

「ニイタ」と呼ぶ料理は煮物のことであろう。

脚がある膳に盛っていた。

これを「デン」若しくは「オデン」と呼ぶ。

御膳が訛って「オゼン」から「オデン」に。

そして「デン」になったと思われる。

御膳を「デン」と呼ぶ地域は他所でも聞いたことがある。

御所市鴨神上郷・大西の大師講は「デン」。

明日香村稲渕・堂講のオコナイは「オデン」であった。

直会の会食。

「ぎょうさんあるからワシの分を食べてや」と云われて分けてくれた「デン」をいただく。

ありがたいことである。

その場で話してくれた上之町のトンド。

行事は1月14日だった。

お宮さんに参って神さんのオヒカリを提灯ローソクに移してトンドの火点けにする。

トンドの火は持ち帰って、その晩に小豆粥を炊く。

翌朝になればビワの葉に小豆粥をのせて家の四隅におましたという。

一口、二口はカヤススキの茎を箸代わりにして小豆粥を食べていたと昭和19年生まれのSさんが話してくれた。

平成26年1月19日に訪れたときだ。

田んぼに立ててあったカヤススキを見つけたことがある。

穂付きのカヤススキはS家の家筋だった。

(H27. 1. 8 EOS40D撮影)

旧大塔町簾の盆踊り

2015年03月19日 07時44分39秒 | 五條市へ
前日、Ⅰさんに案内してもらった旧大塔村簾の光圓寺を目指す。

場所は下見をしていたので判っているが、余裕を持って出かけた16時半、御所市の三室・蛇穴辺りで大渋滞に遭遇した。

ノロノロと続く大渋滞は花火見物客の車だ。

五條市の丹原まではおよそ12kmであるが、着いた時間は18時半だった。

喫茶店ミキの駐車場で待ち合わせ・合流した安堵資料館学芸員さんとともに出発する。

ここを出たのは19時過ぎだった。

簾の標高は645m。

天辻を通るころは真っ暗になっていた。

簾の山道は判っているものの恐る恐るの道。

灯りがまったく見られない急カーブ・急坂の山道を登る。

着いた時間は19時45分。

お寺から歌うカラオケのど自慢の音色が聞こえてくる。

まだ盆踊りが始まってなかったのが救いであるが、村人とはお約束をしていない。

代表者の方々に取材主旨を伝えて撮影に臨む。

本堂におられた人のほとんどは里帰りをされた簾の元住民たち。

久しぶりに集う懇親会はカラオケ余興の場で食事をされていた。



料理は手作りのオ-ドブル。

「甘酢漬けのミョウガもあるから食べてや」と云われて席についた、箸をもつ余裕もなく聞取り調査をする。

昭和35年ころの村の戸数は38戸。

「村の昔はこんなんやった」と教えてくださる。

天辻・簾の山尾根は弘法大師が通った道があると云って地図を見せてくださる盆踊り実行委員会の会長・副会長ら。

私たちを待っていたかのように口々に話される。



今年は弘法大師高野山開創1200年。

金峯山寺修厳者・高野山僧侶らは弘法大師が歩んだ道を踏破するプロジェクトがあった。

尾根・乗鞍岳を駆け抜けていたと村自慢のお話しであるが、実際はバス移動であったようだ。

現在の簾在住者は2軒。

「村を代表するのは区長や、挨拶したか」と云われて憩いの場をおろおろする。

挨拶させてもらって平成24年に入った県文化財調査の件を伝える。

私もUさんも勤めていた当時の調査員。

二人とも他所の調査にあたっていただけに天辻・簾とも初取材。

発刊された『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の件を話せば、天辻の区長と同様に簾の区長も県文化財調査の件をたいへん喜んでおられた。

分厚い報告書に村の盆踊りが紹介されたことを誇りに思っておられたのだ。

20時10分より始まった簾の盆踊り。

かつては国王神社の踊り堂で踊っていたそうだが、平成10年の台風7号で損壊したことによって寺境内に移したと話す。

住民が多くおられた時代の簾の盆踊りは青年団が主催であった。

極度に減ったことによって中断の時代が続いていた。

村を盛りあげたいと立ちあがった簾出身者は「一期会」を組織化して平成元年より主催・実施するようになった。

10年間続けてきた「一期会」の役目は一応の区切りをつけた。

2年ほど経過したころである。「盆踊りをして欲しい」という声があがった。

そのような経緯があって現在の簾盆踊り実行委員会に発展したと云う。

実行委員会主催事業は今年で14回目。



「ふるさと おかえり」と書いた看板を立てて里帰りの人たちを迎えていた。

境内周りには多くの提灯を吊るした盆踊りはて里帰り盆踊りなのだ。

桜と思える大樹に吊るした行燈風の提灯。

内部は電灯であるが、行燈は手作りである。

樹の下に太鼓台を設えた。

踊りの場は手作り仕掛けであるが、ミキシングマシンなどもある大掛かりな音響装置を設営していた。

音頭取りは簾出身のHさん。

大阪に住んでいると同級生になる天辻の区長が話していた。



踊り子は浴衣を着た親子の阪本組が2人。

普段着姿の村人は8人ほどで踊る簾の盆踊り。

踊り初めの「開き」はなく、「祭文」を2曲、「さっさよいこえ」、「なんちき」、「大文字屋」などなどだ。

踊り始めのときには子供も踊っていたが、踊りが覚えられないのか、それとも飽きたのか堂内に戻っていった。



そんなこともあって5人になった踊りの輪は途切れた格好。

空間ばかりが広がる。

美的な情景でもないが、村の盆踊り風情も記録である。



踊り演目は天辻地区と同じ。

「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があるが、音頭取り、踊り子の希望リクエストもあって実際踊る曲目は数曲だった。

演目に「天誅踊」があるが、踊りを伝える天誅踊保存会は10年以上も前から活動を休止している。

現在はされていないが、刀を使って踊る。

敵味方に別れて2人で踊るので偶数人を要する。

殺陣(たて)のような振り付けがあるようだ。

かつて簾の盆踊りは旧暦8月18日。その日を大踊りと呼んでいた。

周辺地区から青年らがお互いに呼びかけて天辻、阪本、簾の他、天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)からも行ききしていただけに踊り子たちで踊りの場が広がった。

天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)の三名踊りには江州音頭系の「よいしょ よいやまたどっこいさのさ」の囃しがある「祭文口説(祭文数え歌・祭文踊り)」があった。

平成7年に保存会を立ちあげたものの、高齢化や移住などで過疎になった郷村の踊り。

「祭文口説」は平成7年に立ちあげた保存会によって伝承されていたが、平成24年8月をもって解散されて旧西三名郷の踊りは中断した。

最後の踊りは「はりや」、「祭文踊り」、「やっとんまかせ」などだったそうだ。

阪本の踊り子を迎える簾では提灯を掲げて伊勢音頭で歓迎したと述懐されたのは現区長さん。

戻っていく際にも青年団が伊勢音頭で見送った。

こうした村の盆踊りの在り方は各村とも同じようだったと云う。

今ではそのような様相もなく、村の踊りが始まって50分。



〆に「さっやよいこえ」に「踊ろうや踊ろう」と掛け声がでて7人で踊り明かす。

小雨だった雨もほんぶりになりかけた21時過ぎに終えた。

濡れてはいかんと云って、手際よく太鼓台・行燈を仕舞われる。

踊り終えた簾の会場は本堂に移って抽選会。



子供が籤を引いていく。

引いた子供自身も当たる抽選会にどっと笑いがでる。



こうして里帰りを終えた元住民は帰る人もあれば、滞在する人も。

翌日はあとかたづけをすると云う。

簾の住民たちはこの日だけでなく、新年会など年に3回も集まって盆踊りに興じるそうであるが、冬は積雪で登れない。

仕方なく五條市内のホテルで会合をしていると云う。

取材を終えて落ち着いたひととき。

差し出されたオードブルやミョウガの甘酢漬けをよばれた。

心のこもった料理はあまりにも美味しい。



特に甘酢漬けのミョウガが美味いこと。

絶品である。



「お腹が減っているやろ」とカーレーライスまでいただいた村人のもてなしにまた来たくなる。

五條市の丹原に着いた時間は23時。

またもや大渋滞に巻き込まれて帰宅時間は1時になった。

(H26. 8.15 EOS40D撮影)

旧大塔町天辻の盆踊り

2015年03月18日 07時28分07秒 | 五條市へ
天辻の地蔵堂には二人の男性がおられたが、早めに来たと云う。

村人が集まるのは19時半を過ぎ。

抽選会商品を持ちこんでいた区長に取材の主旨を伝えて取材撮影に臨む。

ストロボ焚いてもいいのかどうか尋ねたところ、「ワシがえーいうたら皆誰も文句は云わんからどうぞ」である。

浴衣を着た子供たち、爺ちゃん婆ちゃんや両親ともどもやってきておよそ50人もなった。

参拝者はそれぞれローソクを灯して地蔵仏に手を合わる。

そして受付に盆踊りの祝儀を納める。



受け付けた祝儀は名前を書いてお堂に貼っていく。

子供たちはお楽しみのアテモンやスーパーボール掬いに熱中する。



盆踊りは20時過ぎころから始まった。

踊り子さんは天辻区以外に阪本からもやってきた。

「踊る」には区長に声を掛けて承諾を得ていたと云う。

踊り始めは「開き」やと云って手舞いの踊り。



ちっちゃな子供はまだ踊ることもできずにアテモンの商品を持って見るだけだ。

太鼓打ち・音頭取りは簾出身のHさん。

母親の出里が天辻。

親戚みたいなものだけに村人同様に接せられる。

踊りはほぼ休むことなく「祭文」、「やっちょんまかせ」、「はりま」、「かわさき踊」など。

「それやっせ それやっせ」、「それどっこい」の囃しについつい身体が動いてしまう。



地蔵堂の周りは村人が座るためのもの。

村の行事に迷惑をかけないように気を配る撮影位置に身体を据えた。



右手に扇をもって踊るのは「大文字屋」。

手にした扇を広げて前に突き出すように踊る。



それを上に揚げる。

文化財調査があった平成24年の踊り子は村の人だけで舞っていた。

普段着姿でたったの4人だったと話す。

「今年は阪本組も来てくれて盛り上がった。えーときに来たな」と区長は喜んでいた。

天辻の盆踊りには特に決まった衣装もない普段着であるが、中断中の天誅踊だけは模擬刀・衣装で踊っていたそうだ。

普段着で舞っていた親子連れは阪本の泉井一族。

たまたまお盆に戻っていた大阪住まいの家族というやに聞く。

「あんた、平成19年に阪本に来てはったでしょ」と声をかけられた。

ずいぶん前のことであるが、よく覚えておられる。

音頭取りのリズム・口調は若干、阪本と違うように聞こえる。

阪本の音頭取りをされているⅠさんは伸びる声。

実に惚れ惚れするお声であったことを覚えている。

Hさんはやや早めだがこれまたえー声である。

Hさんが云うには何年か前に簾、天辻、阪本の音頭取りから習ったそうである。

天辻で披露するのは今年で4年目になるそうだ。



扇を手にした踊りは「なんちき」にも登場した。

「あーなんきち どっこい」の囃しで踊りが判る。

「なんきち」は踊りの途中で向かいあった二人が掛けあいのように踊る。

ときには3人に舞うこともあるが、人数が少ないことから掛けあいは見られなかった。



長丁場の踊りに音頭取りは何度か交替されて進行する。



音頭取りが替って「政吉踊」になった。

「かわさき踊」では扇を広げたままに前へ突き出すようにするが、「政吉踊」は扇をすぼめたままで踊る。

村を救った中村屋政吉は死罪。

弔う踊りの姿である。

「そりゃやっちょんまかせ」の囃しがある「やっちょんまかせ」にぽんぽんと膝を打つ「祭文」やリズムが心地いい「かわさき踊」は一度聴いたら忘れない曲だ。



「なんきち」の掛けあいを娘さんとともに踊る婦人は阪本住民。

親から子へ連綿と受け継いでいる踊りを舞う。

再び音頭取りは本谷さんに替って踊りの〆は「やってきさ」。

「やってきさの踊りはお手々が五つ 五つたたいて尻をふる 恋し恋しと鳴くせみよりも 鳴かぬ蛍が身をこがす 揃たそろたよまわり子がそろた 秋の出穂よりよくそろた 踊り済んで来たにぎりめし出しやれ うまいにしめと冷や酒を 踊り気違い見る奴あほじゃ 音頭取るのはど気違い」の唄が地蔵堂に広がった。



浴衣姿の女児も踊り子の舞う姿を真似て輪のなかに入っていった。

踊り納めの「やってきさ」を踊って、場は村の会食に移った。



太鼓縁台を隅に移してお堂に敷きつめるゴザ。

テープルも並べた。



注文したオードブルや柿の葉寿司に巻きずし。

区長の挨拶・ねぎらい・乾杯でいただく場はお堂いっぱい。

このころの時間は22時だ。

天辻は昭和の初めには80戸もあったそうだ。

今では15戸になっているが、家置を残してお盆に戻ってくる家もあるだけに実際はもっと多くあるようだ。

今では会食料理は注文商品。

元区長の発案でそうしたと云う。

中入りのご馳走はにぎりめしや家で作った料理だったようだ。

そのことを言い現わしているのが「やってきさ」の台詞のように思えた。

会食を済ませたら抽選会が始まる。

5等はオーブントースター、4等は扇風機、3等はテーブルコンロ、2等はマッサージ機、1等が掃除機。

賞品はそれだけでなく、特等はなんと地デジテレビである。



当たった人は手を挙げて雄たけび。

周りの人たちから拍手喝さいを浴びて賞品を手に入れた。



こうして天辻の盆踊りが終わった時間は23時半。

かつてはその後も踊り続けていたようだ。

解散後も男性たちは地蔵堂に居残って酒宴で一晩明かしたかどうか、後日に行った際に聞いてみよう。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

旧大塔町盆踊りの場

2015年03月17日 08時57分53秒 | 五條市へ
阪本踊りは平成23年より中断しているが、同様の踊りが旧大塔町阪本の天辻地区や隣地区の簾で行われていることを知ったのは昨年の平成23年8月だった。

運営するブログで阪本便りを伝えるⅠさんが書き込みをされていた。

狐のセンギョなども案内してくださるⅠさんの阪本便りはいつも頼りにしている貴重な情報源である。

それより一年前の平成24年。

県文化財課が緊急伝統芸能調査の関係で天辻地区や簾に調査員が入ると聞いていた。

十津川村をはじめとする大踊りの調査に加わってほしいということであったが、私の調査担当は地元である大和郡山市白土町のチャチャンコの調査で精いっぱいだった。

ダブル調査は身体的・時間的にも余裕がなく、負荷もかかることから断っていた。

緊急伝統芸能調査は平成25年度に終えて平成26年6月に発刊された。

その経緯は6月18日に当方のブログで紹介した。

そのような状況を経てようやく落ち着いた今夏のお盆取材。

初めて訪れる両地区の調査取材に至ったが場所も知らない。

早めに出かけて現地入りしたものの村落がどこにあるのやらさっぱり判らない。

天辻峠は毎年通っている道にあるが、村落に入る道が判らないのだ。

予め連絡してⅠさんに教えてもらっていた天辻会場は天誅組本陣遺地だった。

新天辻トンネルを抜けて星の国手前を左折れ。

国道にある天誅組本陣遺地立て看板を目印に登っていく。

急坂のアスファルト舗装路を登っていけば、天辻の集落が現れる。

集落道は登りやすいが、どこまで行けばいいのやら。

行けども、行けども目印が判らない。

たまたま墓参りをされていた二人の婦人に道を尋ねる。

その二人は村を出た人。

この日はお盆で墓参りをされていたが、盆踊りのことは存知していないようだ。

本陣遺地ならあそこの辻を左折れした先にあると伝えられて指をさした方角に向かって登っていく。

それほど遠くない地にあったのが本陣遺地。

数台停められる[P]マークもあった。

ここは標高750m。

涼しい風が通り抜けていく。



踊り場は昭和60年8月に改築されて延命地蔵尊を安置する地蔵堂だ。

この日の13時には地蔵法要が行われたのであるが、到着時間が16時半。

地蔵法要を終えてあとだけにどなたもおられない。

天辻の地蔵尊は2体ある。



一つは石仏で、もう一つは木造の地蔵尊。

天川村山西に伝わる話しによれば「弘法大師が同村庵住の白井谷で阿弥陀如来、不動尊、地蔵尊の三体を造立した。その三体を近くの三本松へ運んで、どこでも好きな処へ行かれたいと云えば、阿弥陀如来は庵住、不動尊は坪内へ。地蔵尊は望んで天辻に行かれた」と書いあった。

木造の地蔵尊は庵住からやってきて天辻に安置されたのであろうか・・・。

天辻の地蔵祭りは1月24日、7月24日、8月24日の3回であったが、現在はお盆に里帰りされるこの日だけになったようだ。

提灯を吊るした堂内中央に平らな縁台を設えて太鼓やバチが置かれていた。

太鼓もバチも昭和51年7月に新調したものだ。

バチには「天誅踊り保存会」と書いてあった。

『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば盆踊りの演目は天辻・簾地区とも同じで、「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があった。

天辻には独自の踊りとして「天誅踊」が伝わっている。

踊りに天誅踊保存会が組織されていたが現在は休止中だ。

もう10年も前かに活動を休止されているようだ。

この「天誅踊」は刀を使って踊るようだ。

敵味方に別れて2人で踊る。

偶数人を要する殺陣(たて)のような振りがあるらしい。

地蔵堂で待っていても仕方がない。

そう思って阪本に下りて、仕事を終えたばかりのⅠ家を訪れた。

もう一つの地区の簾の地を案内してもらうために立ち寄ったⅠさん。

お会いするのは久しぶりだ。

簾へ行くには阪本より天川村塩谷・塩野に向かう道を走る。

ダム湖に架かる簾橋を渡って急こう配の道を登っていく。

とにかく細い道の連続急カーブ。

30度ぐらいと思えるカーブを登るのはとてもじゃないが、危険な道沿いに数軒の家がある。

カーブを曲がろうとした際、上から下ってくる車と遭遇するが、除けるのがとても困難な狭い道。

そろそろと後退してなんとか回避した。

その車は里帰りであったようで、光圓寺にも数台が停まっていた。



駐車場は停めるわけにもいかず、手前にある広い地は車の転回がしやすいと思ってここに停めた。



左上側に建っているのが簾の光圓寺である。

は寺伝・建保二年(1214)創建である。



踊り場はどうやら桜と思われる樹の下のようである。

かつての踊り場は同寺よりさらに登った国王神社の踊り堂であった。

明治22年8月18、19日、大雨風により十津川筋に未曾有の大被害を起こした山崩。

山腹深層崩壊は1080カ所、50数の土砂ダムが発生した。

そのころの簾は62戸。

その後の昭和35年は38戸。

村を出ていく家は増えて現在は2戸になったそうだ。

国王神社の踊り堂を拝見する時間もなく今回は断念した。

翌日に訪れる簾をあとにして山を下った。

しばらくはⅠ家で休憩させてもらった。

そして再び天辻に向かう。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)

上之町金光寺大般若経

2014年06月20日 08時13分52秒 | 五條市へ
上之町は五條市。

五條博物館より少し南側にある旧村である。

昨年1月にセンギョの下見に立ち寄った地に建つ金光寺(きんこうじ)。

お寺傍にある家にご主人がおられた。

その人は金光寺の檀家総代。

正月初めに大般若経が行われるその直前に集まった村の評議員が版木でお札を刷ると話していた。

その様相を拝見したくこの日に訪問した上之町。

到着したときには版木刷りが始まっていた。

墨汁を版木に塗って、一枚、一枚刷っていく。

版木の文字は「□□□大般若経諸願成就祈祷」。

□□□は判読し難いが「懺悔」のようにも見えるし、「奉転讀」にも・・。

次に大般若経とあるだけに、おそらく「奉転讀」であろう。

刷る枚数は村の戸数の33枚。

大般若経の営みを終えれば、役員たちが村に配る。

版木刷りの祈祷札はもう一枚余分に刷っておく、祈祷法要をされる大澤寺(だいたくじ)の分である。

昔はごーさんのお札も刷っていたが、行事がなくなったことから出番はない。

版木はここに納めていると云いながら箱から取り出してくれた版木は「牛玉 金光寺 宝印」の文字がある。



この版木で刷ったお札は朱印も押していた。

炎のような形をした宝印中央には一文字の梵字もある。

下部は蓮の図をあしらっている。

T字型に割いたウルシの木に挟んで本尊前に立てた。

その様子から営みは初祈祷のオコナイであろう。

春ともなれば苗代に立てるというので間違いない。

苗代に「カヤンボ」と呼ぶカヤススキを立てた。

ごーさんと呼ぶ「牛玉宝印」のお札もオマツリして立てていたという。

今ではお札を刷ることもなく、配ることもない。

それゆえ苗代に立てる水口祭りを見ることはないだろう。

オコナイの行事はしなくなった貴重な版木。

「あんたに一枚あげよう」と特別に刷ってくれた。



いただいたお札は宝印まで押してくださった。

ありがたいことである。

この版木を納めていた箱には墨書文字があったが、判読はできなかった。

版木はもう一枚ある。

「金光寺什物」と墨書した箱に納めていたのは「奉修薬師如来護摩供如意満是所」の文字がある版木だ。

その文字から推定するにかつては護摩供も行われていたようだ。

これら3枚のお札は村の戸数を刷っていたと話す役員たち。

大澤寺住職が来られるまでの待ち時間に話してくださったかつてあった数々の上之町の行事。

5月8日はウヅキヨウカだった。

ウヅキヨウカを充てる漢字は卯月八日のことである。

40年も前のことだと話したその様相。

長い竹竿を高く揚げた。

上部は横に一本。

十字のような感じであった。

そこにはヨモギ、ショウブ、ウツギ、ツツジなどの花を括りつけていた。

40年前は子供だったMさんが話すに、そのころはなかったというからそれ以前であろう。

5月8日にウヅキヨウカをしていた時代は5月5日の子供の日に移っていたそうだ。

正月明けに伐り初めをしていたという上之町。

伐るのはカシの木とクリの木。

シバも刈ってきた。

オーコを一本通して両端にシバを括る。

それで一荷(いっか)分。

子供の頃の家の手伝いである。

正月のモチを搗く前のことだ。

雑煮におますときに、一番始めに切ったモチをキリゾメ(伐り初め)と呼んでいた。

年始めの1月7日だったというから山の神の日。

「オオヤマヅミが見にくる7日は山の仕事はしてはあかん」と云われていた。

「オオヤマヅミ」と云っていたのは「大山祇(おおやまつみ)」の神、「大いなる山の神」の意である。

上之町の山の神は八坂神社を登った処にあるそうだ。

手水舎の鉢には「牛頭天王」の刻印があるそうだ。

小字天王山に鎮座する八坂神社は江戸時代まで牛頭天王社であったろう。

4月3日には「ジンムサン」の日で弁当を持っていって花見をしていたというから、「神武レンゾ」のことである。

上之町には5軒の公事家で営まれる八日講がある。

大般若経のお札を刷る役員の一人は公事家(くじや)。

小字水沢(みなも)などの特定家も加えれば上之町の公事家は9軒。

毎年交替する廻り当番のトーヤ家のニワで弓打ちをしているという。

弓は梅ずわい。

矢はしのべ竹と呼ぶ若い竹。

例年なら12本を恵方に向けて矢を放つが、旧暦閏年の場合は13本になる。

昨今では旧暦閏年では判り難いということで新暦になったそうだ。

新暦といえば4年に一度のオリンピックの年である。

ちなみに八日講を話してくださった男性はこの年が当番だったという。

こうした上之町の行事を聞いていた時間帯。

大澤寺のご住職がやって来られたら、ご本尊にお供えをする。



仏飯(ぶっぱん)、各2枚のコーヤドーフとアゲの椀の膳にはブロッコリーやシメジも盛った。

お供えは膳だけでなくミカンやリンゴ、バナナ盛りもある。

村の戸数を搗いたモチもある。

さきほど刷った「奉転讀大般若経諸願成就祈祷」のお札も並べて始まった金光寺の大般若経。



はじめに表白を唱えて、大般若経を転読する。

第一巻目は住職が転読の作法をされる。

次に続くは参集した評議員、区長、檀家総代がされる大般若経の転読作法。

パラパラと経典を広げながら「第何巻 だーいはんにゃきょー」と詠みあげる。



「わしらはにわか僧侶、上手くはできないが・・・」と、云いながら転読をされる。

これまで数々の転読法要を拝見してきたが、村人がされるのは初見だ。

一人が百巻の転読は笑顔もなく作法されていく。



村人は「虫干しや」と云って、「バンバンすれば虫を干したことになる」と云う。

できるだけ大きな声で「だーいはんにゃきょー」と出して転読してくださいと始めに住職から伝えられたとおりに作法をする。

第六百巻を〆に住職が転読されて、最後は全員揃って手を合わせながら般若心経を唱えた。



この日唱えた心経は般若心経を要約したという節もあるようだと住職が話す。

十六善、薬師さんの名も詠みあげたご祈祷はおよそ1時間で終えた。

「大般若理趣分経 初末品」は上之金光寺の什物。

一巻と六百巻目の「大般若沙羅密多経」の経典はその箱に納められる。

祈祷を終えれば作業がある。



供えたモチは祈祷したお札で包みこむように巻き付ける。

汚れないようにと気配りしてビニール袋に入れる御供モチ。

雨にも耐えられるようにそうしたというモチは中垣内、上出、西と下に分かれる下ノ垣内からなる村の各戸に評議員が配る。

(H26. 1.11 EOS40D撮影)

旧大塔村阪本の狐の施行

2013年05月06日 07時46分32秒 | 五條市へ
かつては晩に巡っていた阪本の狐の施行。

子供会が主催する村の行事は灯りが要る。

提灯で足元を照らして歩いていく。

提灯は長年に亘って使ってきた。

風合いを偲ばせる色具合である。

当時に集まっていた子供の人数分がある。

それには「いちごう」の文字がある。

「いちごう」は十津川郷の北端を示す「一郷」だ。

阪本は現在の行政区域でいえば五條市大塔阪本町。

平成17年の市町村合併によって旧大塔村と旧西吉野村は五條市に編入された。

五條市内から旧西吉野村を経て新天辻トンネルを下れば旧大塔村の阪本に入る。

その途中の天辻下辺りから阪本、簾、中原、小代は一郷組と呼ばれている。

現在は旧大塔村より南は十津川村を指すが、平安・鎌倉年代では十津川上流の地域を遠津川郷と呼んでいた。

遠津川郷はのちに十津川十八郷。

さらに最上流になる十二村荘と舟ノ川荘が加わった。

現在の野迫川村領域を含む区域である。

十二村荘は今西(北今西)、平、弓手原、桧股(檜股)、北俣(北股)、立利(立里)、池津川、紫園、中津川、上、中、柞原、今井、平川、天ノ川辻、中原、猿谷、簾、阪本、小代、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、清水、引土、宇井、閉君、唐笠である。

十二村荘はさらに区分けされて旧大塔村の天ノ川辻、阪本、簾、中原、小代、猿谷が一郷組、さらに南下した唐笠、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、閉君、引土、宇井、清水は野長瀬(のながせ)組となった。

東側に位置する中峯、中井傍示、惣谷、篠原は舟ノ川荘の括りであった。

荘村は今でも一郷、野長瀬郷、舟ノ郷と呼んでいると阪本住民のⅠ氏が話す。



運航する送迎バスの経路は今でも郷名で表示し、阪本の消防団建物には「一郷地区」で表記されている。

十津川村からみれば「一郷」は十津川上流の天ノ川へと遡る最奥の地であった。

「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ いちばのせんぎょ」と囃しながら公民館を出発した子供たちは中学2年生の男の子を先頭に歩きだした。

この年に集まった子供たちは6人。

かつては阪本の市場、索道(さくどう)、向井(むかい)阪本の3地区ごとの子供たちが行っていた。

当時は大勢の子供がそれぞれの地区で行っていたと云う阪本の狐の施行である。

その昔は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)の合同地区もしていた。

「施行」はそのまま読めば「せぎょう」であるが囃し詞は訛って「せんぎょ」である。

「せんぎょ」はキツネなどの山の獣に施す習わし。

地区を周回して施す御供を置いて巡る。

獣が食べる食物が少なくなる季節。

大寒のころに行われる寒施行は県内各地であったようだ。

寒施行は「かんせぎょう」或いは「かんせんぎょ」と呼ばれることが多かった。

いつしか廃れていった地域は少なくない。

平成19年に実施されたときは夜間の施行であった。

ローソクを灯して集落を巡っていたが、その後は昼間になった。

かつてはそれぞれの地区の子供たち。

村の子供が少なくなってからは子供会主催で一同が揃っての村行事。

この年は中学2年生の男の子に小学4年生、2年生に幼稚園の子たち6人。

宇井の崩落で住まいを仮設住宅に移した子供は参加したが、五條市内に移住を余儀なくされて今年が最後。

中学2年生の男の子も役目を終えて同様に今年が最後。

僅か3人になってしまう阪本の施行は今年が最後になるかも知れないと子供会の会長は話す。

これまで何度も危機感が迫っていた阪本の行事は毎年のように中止になるかもといいながら続けてきた。

そうした状況下にある施行をご自身のブログで案内されたⅠ氏も同行する緊急取材である。



「せーんぎょ せんぎょ 狐のせんぎょ せーんぎょ せんぎょ お稲荷さんも置いてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」の音頭をとるのは中学生だ。

路面は積もった雪も除雪されて走行可能だが両サイドは三日前に降った雪が残っている。

それより数日前に降った雪はドカ雪だった。

Ⅰ家の向いにあるガレージに突っ込んだ車はスリップ。

騒々しい雪の日々が残した積雪の日。



橋の袂とか、辻々にお供えをするアズキのオニギリと2枚のアブラゲ。

狐にせんぎょ(施行)をする御供である。

かつてはセキハンにアブラゲメシだった。

狐の施行は阪本で商売をしているお店にも捧げる市場の施行だ。



猿谷ダム湖に架かる朱色に塗られた大塔橋を渡って向う先は大塔コスモ地下観測所。

宇宙の謎である見えないニュートリノ素粒子や暗黒粒子を検出している実験施設はトンネル内だ。

不審者が侵入しないように鉄柵を設けている。

内側からは生暖かい風が吹きぬける。



和歌山新宮と五條市を結ぶ旧国鉄の五新線(ごしんせん)となるはずだったトンネルの傍らにも施行する。



来た道を戻って市場に向かう。

豆腐屋の辻政商店や旅館昭和館の家人にも捧げて歩く。



ありがたく受け取るご主人の顔は笑顔だ。

市場を通り抜ける国道は168号線。

絶え間なく車が通過する。

通り抜けるまで待つ。



危険を避けてのせんぎょは子供たちを誘導しながら巡行する。

天神社下のトンネルを抜けてぐるりと旋回。



索道(さくどう)に入った。

囃す台詞は「市場」から「索道」に替って「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 索道のせんぎょ」となる。

索道にもお店があるが不在であった。

その場合はポストに入れておくことになっていると話す。



かつて索道の鉄塔が建ってあった地を通り抜ける。

物資をロープウエイのように運ぶ索道で思い起こしたのが大和高原の索道だ。

奈良市京終から山越えの東金坊、矢田原・南田原(天満駅)の田原の里、天理市の山田を経て旧都祁村の針・小倉間であった。

総延長16.9kmは大正6年からの架設で平坦と高原を結んだ「奈良安全索道」。

木材および、主には高原で生産された凍り豆腐を運んでいた。

戦後は製氷会社によって大量に生産されることや道路の整備とともに自動車による陸送普及が進んで衰退した。

昭和27年にはすべてが廃止された。

旧大塔村阪本にあった索道は天辻峠、阪本、野迫川村を結んでいたと云う。

採掘された鉱物や生活物資を運んでいたようだ。

Ⅰさんが子供の頃に見ていた索道は稼働していたそうだ。

野迫川村は樽の生産地。

「樽材も運んでいたのでは」と話す。

当時の阪本の索道は映画館が2軒もあって賑わいをみせていたと回顧される。

五條市の市史および野迫川村の村史によれば明治45年に五條市二見の川端貨物駅から樫辻(かたつじ)を経由する和歌山県富貴(ふき)間に開通した「大和索道」であった。

その後の大正6年に延長されて富貴辻(天辻西側付近)、阪本間の16kmとなった。

二見からは燃料、食料、大豆、苦塩水、肥料、雑貨などに日用物資が。

逆に木材や凍り豆腐を五條市に運んでいた。

その後においては天辻トンネルの開通とともに陸路のトラック輸送が盛んになって索道の利用は衰退するものの、野迫川村の立里(たてり)鉱山(昭和13年に金屋淵鉱業が創業)から採掘された鉱石を運ぶ必要性が生じたことから昭和19年に野迫川村の紫園まで延長された。

鉱石はトラック輸送に切り替わり、新天辻トンネルも開通されて本格的な陸路輸送の影響も受けて鉱山は昭和37年に閉山され索道も消えた。

阪本の索道は物資の集積地として発展したことからその地を「索道」と名付けたようだ。

映画館があったというだけにかなり栄えた索道であった。

かつてあった索道の地も雪が積もっている。

索道のせんぎょを囃しながら急坂を登っていく。



行程は長い距離。

始めのころは子供たちが揃って提灯を持っていたがいつの間にか親の手に移った子もいる。

今では「いちごう子供会」の提灯であるが、かつては家の紋や名が記された提灯だった。

天神社の前のくさがみさんの祠にもせんぎょをした。

ここからはさらに急坂の向井阪本の地。

車も登れないほどの雪道はアイスバーン。

小さな子供たちだけに危険は避けたいとUターンする。

天神社辺りからは下の市場が見える。

市場の子供たちを発見すれば「ガッソ ガッソ」と云い合った。

索道と市場の子供どうしの言いあいだ。

「ガッソ」の言葉は対抗する言い回し。

「こっちの方が提灯の数が多いぞ」と自慢する言葉だったと話す会長。

地域ごとに子供がしていた時代のせんぎょのガッソは競い合いであったようだ。

集落を抜けて再び国道を行く。

緑色に染まった猿谷ダム湖を見下ろしながら雪が溶けた歩道を行く。

向い側の対岸は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区だ。せんぎょの囃しも「「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 宇井野のせんぎょ」に替った。

古野瀬も索道があったと話す地はかつて阪本の中心地であった。

宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区は高野大峯を結ぶ旧街道の参詣道。

天川広瀬から滝尾、塩野、塩谷、簾を抜けて、一旦は川沿いに下りる阪本、古野瀬、宇井野、小代下へ続く道は高野山へ向かう旧街道。



宿場としても栄えた阪本のせんぎょは最後に吊り橋の阪本橋。

宇井野へ向かう橋は一度に3人までしか渡れない。

かつては最後にダム湖に水没した村のお稲荷社に参って終えた。

阪本橋の袂にアズキメシとアブラゲを供えて市場へ戻っていった。

「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」と元気よく囃しながら戻っていく。

作ったアズキメシは42個。

それぞれ2個ずつ供えたというからお店も含めて21カ所であった。

阪本の狐の施行の行程時間はおよそ1時間半。

およそ5000歩である。



最初に供えた橋の袂の御供は跡かたもなくなっていた。

山のキツネが食べたのであろうか。

公民館に戻れば施行をこなした子供たちにお菓子を配る。

年長者から一人ずつ受け取る子供の顔は一年ごとに逞しさをみせる。

お昼の時間はとうに過ぎた。

お腹も減っていただくパック詰めの弁当。



路の駅吉野路大塔の一角にある食事処の「金剛」の特製弁当である。



私もよばれることになったありがたい会食の席にはアゲサン入りのお味噌汁もある。



プリプリ感の海老フライは子供が好きな食べ物。

バラ肉もカラアゲも美味しい。

ご飯が進むご馳走である。

ほんの少し前まではカレーライスを食べていたが、イロゴハンのときもあった。

ダイコン、アブラゲ、ニンジンなどを醤油で味付けした炊き立てのイロゴハンを食べた。

寒の間に施行する家から食材を貰ってきた子供たち。

お金を貰うこともあったようだ。

ヤドとなる当家の家で親とともに料理をしていたと話す。

会食を済ませばカラオケなどの余興もしていたというだけに子供たちにとっては楽しい一日を過ごしたのであろう。

あくる日も公民館に集まって残り物のカレーライスを食べていた。

施行の次の日も楽しみだったから土曜日にしていたと話す子供の行事である。

(H25. 1.27 EOS40D撮影)