マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

榛原萩原・小鹿野の大とんど

2019年06月30日 09時40分07秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
西名阪国道を行く。

針ICから抜けるコースもあるが、この日は雪景色をみながらのドライブウエイに福住ICから旧都祁村の吐山経由で宇陀市榛原に向かうことにした。

平地走行ではまったく気にならない外気温。

車内のヒーターが身体を、足元を温めてくれる。

冷たい風が車の窓ガラスを通して、その寒さを敏感に感じる。

吐山まで来れば辺り一面が真っ白になっていた。

ここへ来るまでの街道沿いの野原も積雪で白いが風景。

普段見る光景とはまったく違っていた。

全面真っ白というような感覚である。

榛原へ抜ける国道369号線の香酔(こうずい)峠道。

道路に設置してある外気温は-2度。

ヒーターで温めていた車内でも冷気を感じるわけだ。

香酔峠を抜けた下り道。

玉立(とうだち)の信号を折れた榛原・玉立に着いた途端に雪の白さは見られない。

雪はなくとも、車から降りたと同時に感じる冷気に身体がぶるっと震える。

冷たい風にあたった耳がすぐさま感じる痺れる冷気。

手で覆いたくなる冷たさに村の人たちは云った。

気温が-4度であっても積雪量とは関係がない。

そんな寒い日に取材する宇陀市榛原萩原・小鹿野(おがの)地区のとんど焼きである。

帰宅してから寒さ便りが届いた山添村の神野山は、なんと-8度である。

北海道函館よりも寒い気温になったと伝えてくれた。

昔は小正月。

1月14日の夕刻にしていたという小鹿野の大とんど。



集まった村の人たちは34人。

大半が高齢の男性、女性である。

自宅付近に生えていた竹を伐りだしてここまでずるずると運んだという人も多い。

その声は男性も女性もみな一様だ。

6日前は村の初集会だった。

そのときにお会いした方たちも、これまで取材させてもらった苗代のあり方や、閏年のトアゲの庚申さん行事に作法を見せてくださった馴染みある中組中組東の人たち、よう来てくれたと笑顔で応えてくれる。

土台の櫓を組んで周りをかためる伐りだし竹。



太めの竹を担いで運ぶ男性、女性の動きは手慣れた動き。

役目がわかっているから動きは敏捷。

初集会の場で見せていただいた小鹿野の消防団。

男性以上に女性に機敏さ。解散してからすいぶん経つらしいが、訓練などで備わった動きは大とんど組みにも発揮しているようだ、と思った。

ある程度の竹の量を重ねたら、番線で締めて倒れないように、強固なつくりにする。

実は櫓つくりの際は藁縄。

ロープ締めであるが、大きくしたとんど組みは番線が有効的である。

しっかりできた大とんど。

ローソク立てに利用するのは竹材。

細めの竹を土に刺して小枝を少し加工する。



小枝を燭台に使うのである。

ローソク、お神酒、御供を点火する位置に据えた。



写真ではわかりにくい画像であるが・・。

火点けは区長が行う。

点火する位置は今年の恵方になる南南東。

アキの方角に向かって総勢34人の村の人が並んでまずは火点け。

当初、予定していた位置では風の通りで消えてしまう。

少しでも風に当たらないように地面からすぐ上に火点けの位置を替えた風の状態である。



火が点いたところでみな揃って二礼二拍一礼。

大急ぎで火点けに集まる男たち。



用意していた藁束に火を移して大とんどのすそ野に火点け。

前夜に降った雪の加減で湿っているとんどの竹。



藁束をもっと増やして埋め込んだ場所にも火移しして、ようやく燃え上がった大とんどである。

燃えるにつれて竹が弾ける音が村内に響き渡る。



ポン、ポンと大きく鳴る大とんど。

燃える大とんどの風の当たりがどうも良くない。



南から吹き抜ける冷たい風が強いのか、燃える火が満遍なく広がらない。



風に負けるわけにはいかないと燃えているとんどに竹のつぎ足し。

このときもだれかれとなくみなが動き出す。

湿り気のある竹に火移りの動きが悪い。

燃えた竹を取り出して、燃えていないところに移動する。

雨も雪も降らない日が続いた場合は逆に竹はカラカラに乾いているから燃え方が早い。

強固に作った櫓もやがて倒れた。



火点けから倒れるまでにかかった時間はおよそ50分。

湿気が邪魔したようだ。

倒れた竹のほとんどが燃え尽きるまであともう少し。

その間に設えた餅を焼く場つくりはそれから30分後。



ようやく落ち着いた火ダネを囲むようにセッテイングする。

枝付きの竹を短く伐って穴埋め。

トンカチで叩いて地面に打ち込む。



火点けの場が前にいかんように竹を置いて柵をつくる。

その後ろに設営した一人一人の椅子。

座って火に差し出す道具もまた竹。



その先に針金をかました網。

餅を乗せて焼く。

餅は赤い色もあれば黒色も。

緑色は青のりでなく蓬を混ぜて搗いた蓬餅。

赤いのは小エビ入りの餅。

さて、黒い餅は・・黒豆だった。



あんたも食べや、と言われて焼きたての餅に食らいつく。

これがなと、むちゃ美味い。

饅頭屋さんが作ってもこんなに美味いもんはできないやろ、と思ったくらいに味のある大粒いっぱい詰めた黒豆餅に堪能していた。

うちの餅も食べてや、と馴染みの人たちからたくさんの手作り餅で胸いっぱいになった。

映像にはとらえていないが、弁天さんに供えていた角切り御供餅も下げて焼いていた。

餅焼きを愉しんでいた村の人たち。

かつてはとんどに書初めを燃やしていた、という。

いわゆる天筆(てんぴつ)の習俗。

燃えた書初めが天まで届また、あるくくらいに燃えたら習字の腕が上手になると・・。

また、昔は「ブトノクチ ハミノクチ」を云いながら、ちぎった餅をとんどにくべていた、という。

「アブの眼や」と言って餅をちぎって火中に投げ入れた。

Tさん夫妻が、昔の情景を思い出して話してくれるとんど焼きの民俗である。

火が落ち着いたところでタネ火を持ち帰っていた。

タネ火は炭火。

消えないように火が点いたまま持ち帰ってくどさん(※おくどさんと称した竈)の焚き木に火を移していた。

夕飯はその火で炊いた。

お風呂の焚き木にもに移した。

翌朝はその火で小豆粥を炊いて食べていたが、カヤススキを立てることはなかったという。

さらに、である。

翌朝にくどさんから取り出した燃え尽きた灰は畑に撒いた。

畑が病気にならんように願ってそうしていた。

当時の畑作は二毛作。

麦作りもしていたし、宇陀の黒豆も作っていたという。

12月28日は家で餅を搗く。

夫婦二人で搗いた杵つき餅。

ドヤモチをアラレと呼んでいた。

おくどさんは今でも現役で活躍してくれていると話してくれた昭和16年生まれのMさん夫妻。



O区長さん他、Nさん、Oさん、Dさん夫妻、Oさん夫妻にM夫妻。

みなさんほんまにありがとうございました。

小鹿野のとんどが燃えている時間帯。遠くの方から煙が立ち登った。

その地は下井足。

今から車を走らせても間に合わないだろう。

(H30. 1.13 EOS40D撮影)

海神への供物Ⅰ~住吉大社と天王寺楽所~in中之島フェスティバルタワーホール

2019年06月29日 08時41分05秒 | 民俗を観る
FB上で知り合えたMさんが招待状を届けてくれた。

MさんとFBで交流するようになったのは平成26年10月28日。

ご本人からリクエストを頂戴してからである。

キッカケはそれであったが、その後のコメントやりとりでMさんは各地の行事ごとに詳しいとわかった。

大阪・玉出の生根神社の勝間南瓜祭から始まって、話題沸騰したのが夏祭りに奉納されるダイガクであった。

その後もコメントいただくこと多数の日々。

驚いたのは平成29年11月23日だった。

この日に拝観した施設は大阪府吹田市にある吹田市立博物館である。

拝観したい特別展示は吹田市立博物館開館25周年記念秋季特別展。

題して「北大阪のまつり―まもりつたえる心―」であった。

期間中いつでも行けると思っていたが、そのうちすっかり失念していた。

思い出したのはほぼ直前。気がついたら残り日数が一週間しかない。

しかも、11月23日は今なら間に合う大阪府教育庁文化財保護課専門員の森成元氏の講演日。

秋季特別展に展示されている北大阪のさまざまな行事を解説してくださった。

講演を終えてご挨拶をさせてもらおうと名刺交換。

その際に森成元氏が伝えた言葉に、えっ、である。

奥さまは私が公開しているSNSをよく拝見している、というのである。

それも、「家内が云っていました・・奈良の田中さんがすごい・・」って、といわれて、ははぁん、私が公開しているブログを見てくれている一読者が、身近なところにおられるんやな、と思ったまで。

帰宅してパソコンのFBを開いてみたら、ご主人の森さんが、「ダイガク」で知り合ったのは・・・に、えっ、である。

FBメッセージを読ませてもらって椅子からずり落ちそうに、仰天したものだった。

ご主人の森氏とはまったくの初対面。

未だお会いしたことのないMさんよりも先に旦那さんとご対面である。

ご縁はこういうキカッケがあって繋がる不思議なもの。

そのようなこともあって、Mさんが所属している天王寺楽所(がくそ)(以和貴会)の演奏会鑑賞券を送ってくださった。

演奏会場は中之島フェスティバルタワーホール。

フェスティバルホール時代に一度だけ出かけたことがある。

たしか井上陽水さんのコンサートだったと記憶する。

聴きに行ったのは何時だったっけ。

私がまだ20代前半のころ。

デビューのころから陽水さんに浸っていた。

当時、友人が住んでいた大阪南部の日根野。

村の青年団はギターライブ。

私は生ギターで舞台に座って演奏した楽曲は「傘がない」だった。

そのころに知り合った樽井の青年。

気心相まって井上陽水さんのコンサートを見に行こうということになってでかけた中之島フェスティバルホール。

はっきりとは覚えていないが、人生は二度あれば、夢の中へに心もようだったと思う。

幕があがって舞台にいたのは忌野清志郎率いるバンド。

それがRCサクセションだった。

陽水さんの唄を聞きに来たのに、早く終わってーという観客クレーム、つまりはブーイングの嵐だった。

そう、当時は爆発的に売れていた陽水コンサトツアーの前座を務めていたのである。

当時も無名でもなかったが、コンサート客は陽水しか念頭になかったのである。

そんなことを思い出しながらやってきた最寄りの駅は地下鉄四つ橋線の肥後橋駅

そこへ行くまでの行程にあるJR大和路線から地下鉄天王寺駅への乗り換えは難儀した。

会社を離れてからすっかり忘れてしまった都会の町。

かつては天王寺駅から地下鉄に何度も乗り換えていたのに、向かう方法が思い出せない。

駅員さんに尋ねたら反対方向にあるという。

そこの改札口を出たらすぐ近くと云われたが、その真ん前は国道。

その向かい側は近鉄阿部野橋。

外に地下鉄行きのゲートがあるかと見渡せば、そこにあった。

地下鉄は大国町で四つ橋線に乗り換える。

駅を降りてまたまた彷徨うフェスティバルホール行き。

案内に沿って行くのだが、どうも妙なところに着いてしまう迷子状態。

地下はわかり難いから地上にでる。

そこにあったどでかいビルがフェスティバルタワーホールだった。

着いた時間は午後5時45分。



開演まで45分間もある。

会場は2階。

登る階段はさすがにフェスティバルホールだなと思った。

ただ、2階に上ったら、ここはどこがどうなっているのかわからないほど人がいっぱい。

向こうが見えない状態なので、ホール職員さんらしき人に聞いて、そこが受付と案内された。

その場に手渡すMさんが届けてくれた贈り物の鑑賞券

そうすれば全席指定席券が渡される。

本来なら4千円もする指定席券に座る位置が記されている。



2階・5列・12番とあるが、そこはどこにあるのだ。

老眼鏡をしてなければ見えない小さな文字。

とにかく2階へあがってまたもやホール職員に尋ねたら、またもや案内される。

ようやく席に着いてほっとする間もなくトイレ行き。

またもや場所を教えてもらうホール職員。

慣れない場ではうろうろする始末だ。

そういえば、ここまでくるときに見た楽屋見舞いの受付。

そこにあった棚にどっさり並んだ菓子折り包みを想定される大袋。

どなたに見舞いするのか記帳するシ-トを備え付けていた。

開演までに案内されるアナウンスがある。

携帯電話はマナーモ-ドに。

客席内における動画や録音、並びに撮影を禁ずるというアナウンスだ。

これは演奏時における注意事項。



緞帳が下がっているときは問題ないと考えて、1/4程度埋まった1階観客席の状況をメモしておいた開演30分前。

直前ともなれば1階どころか2階も満席。

見事な状態である。

本日の曲目は第一部と第二部の2部構成。

第一部は大阪・住吉大社で行われている神事ごと。

卯之葉神事である。

はじめに神職、巫女らが参進する。

そして献饌。

そのときの付楽は「五常楽急」。

神事の場を醸し出す背景は影向の松の映像である。

神に坐います榊を立てて献饌される。

普段の取材であれば現地で拝観する神事。

この日は楽曲の披露であるゆえ2階から俯瞰するように拝見させてもらう。

実際と比するのが申しわけないが、なんとなくおかしな雰囲気で、迫力に欠けると思われた神事である。

次は舞楽の「振鉾(えんぶ)」、特に三節目を「合鉾(あわせぼこ)」と呼ぶそうだ。

その次も舞楽で「春庭花(しゅんていか)」。

2曲を拝見してなんとなく違和感をもった演舞の向きである。

本来なら神さんに向かって奉納されるのだが、なんとなく観客席に向けているように見えるのだ。

舞台上り下りは影向の松側からである。

舞い始めは観客席に向けてであった子供が舞楽の「胡蝶(こちょう)」も同じ。

ただ、舞台から降りるときは舞人、一人ずつが影向の松に向かって頭を少し上方に傾けて見上げているように見えた。

不思議な感覚に陥る作法である。

その次は祭式行事作法。

付楽は「胡酒酒破」。

その次は舞楽の「散手(さんじゅ)」。

あれぇ、と思ったのは、先に舞台前で鉾を従者から受けとる姿である。

まるで観客に向かって披露しているように見えた。

受け取った舞人は、それから移動する影向の松。

そして舞台に登って演じる。

上がった赤ら顔の散手もやはり観客席に、向けてだった。

そして、途中に鉾を観客席に向けて舞台置き。

素手で舞う散手。

舞い終わったら舞台から下りて鉾を従者に渡す。

そして、登場してきた舞台袖に下がった。

次は撤饌。再び登場する神職の手によって行われる。

付額は「長慶子(ちょうげいし)」。

その間ずっと、神職横に座っていた四人の巫女は、献饌から撤饌の間、まったく微動だにしなかった。

幕が下りて休憩する時間帯は午後8時10分。

第一部は長丁場の2時間。

再びトイレに駆け込む。

しばらくして第二部の観月祭が始まった。

舞台背景は太鼓橋こと反り橋に転じ、丸い大きな黄色い月を観月する。

舞台袖から登場する童女たちが披露するのは「住吉踊」。

「はぃ、すみよぅし、さぁまのぅ」の指導師が発声する囃子詞で始まった。

懐かしいフレーズに思わず口ずさむ「住吉踊」。

何十年も経っているのに思い出してしまうわかりやすさ、である。

私は生まれも育ちも大阪・住之江。

住吉公園は中学校のツレと帰宅するときの遊び場だった。

すみよっさんと呼んでしまう住吉大社は家から遠いが南海本線では一駅向こう。

小さいときからチンチン電車、若しくは我孫子電車と呼んでいた阪堺軌道鉄道も通る住吉公園駅。

まさに地元である。

夏祭りは大勢の人でごったがえす境内にあったお化け屋敷。

覗き窓から見るカラクリもあったように思える。

神馬は白馬だった。

おやつに売っていたニンジンをあげた記憶もある。

住吉踊りを見たのはたしか御田植神事だった。

若い頃だったので写真にはまったく興味のなかった少年時代である。

現在は6月14日に行われているようだ。

第二部の舞楽は「採桑老(さいそうろう」。

その次は「甘州(かんしゅう)」。

演奏する人たちの衣装は第一部と大きく違った。

多彩な色合いで身を固める楽人装束。

それぞれに個性があるようにも思えた。

2階からでは肉眼で見えない演奏者。

その中にかならずおられると思えって探してみるが、双眼鏡でもなければ無理がある。

そう思ったときである。私が座る席より右二人目の女性はオペラグラスで観ていた。

どうやらお目当ての人を見つけたようだ。

ところで、「採桑老(さいそうろう」である。

老人と思しき「採桑老」は迎えの者の肩に左手を添えて舞台を下りた。

目が見えなかったのかもしれない。

舞台は太鼓橋を見立てているので四方の欄干朱塗りに擬宝珠もある、また舞台そのものは緑色であるから芝、つまり芝舞台ではないだろうか。

余韻に浸って帰路につきたいが・・なかなかホールから脱出できない。

第二部が終わった時間帯は午後9時10分。

大勢の観客が一斉に席を立って移動するものだから、まるでラッシュ。

先に進むのも難しい。

ホールを抜けても駅まで遠く感じる。

結局、自宅に戻ったのは午後11時をとうに過ぎていた。

(H30. 3. 6 SB932SH撮影)

トップバリューの担々麺

2019年06月28日 09時08分15秒 | あれこれインスタント
この日に出かける時間は午後4時。

それぐらいで十分間に合う開場時間。

開演は午後7時半だからもっとゆっくり家におればいいのにと思ってしまう昼どき。

さて、何を食べるか。買い置きカップ麺は残り二つ。

どっちにするかは気分次第。

で、選んだのはトップバリューの担々麺。

イオンモール大和郡山店で買ったのか、ザ・ビッグ・エクストラ店でかったのか記憶にございません。

もしかとすればイオングループにある酒販売の㈱やまやかもしれないが、なんせずいぶん前から籠にあった。

トップバリューはイオンのプライベートブランド商品

これまでいくつかの商品を買っては試し喰い。

特に我が家で評判なのはスパゲッテイソース。

それもミートソースが抜群に美味しくてソースの量もとにかく多い。

味はお子さま向きのようにも思えるが、大の大人が食べても十分に満足できる味。

そんなこともあってプライベートブランド商品も力がついてきたことを知ったなら、これも、と思って手にしたカップ麺である。

選んだ最大の理由は塩分含有量。

驚くなかれ、たったの3.3gである。

麺にかやくが1.1g。

スープが驚く2.2g。

これまでこんなに少ない含有量ってあっただろうか。

味はどうであれお試しとするが、決め手は心臓病に優しい低塩分含有量に惚れた、である。

さて、開封した担々麺。

添えつけの後入れ調味油を外してお湯入れ3分間。

蓋をとって真っ赤な液体の調味油を注ぐ。

できるなら流れやすくするために蓋のせした方がいいだろう。



浮いていたかやくは肉の色がほとんど。

坦々胡麻味噌も肉の色。

若干混ざった緑色は緑黄野菜のチンゲン菜。

これらを混ぜて箸ですくう。

上がってきた麺を口の中に放り込む。

香ばしいというか、胡麻風味が漂う担々麺がむちゃ美味い。

はっきりいって無茶苦茶美味い。

早いスピードで次の麺を食べる。

旨いから箸が止まらない。

こんなに旨いとは想像もしていなかった。

買いだめしておきたいぐらいの高評価の担々麺に辛目は少ない。

胡麻風味も強烈さがない。

その味が私の口に合っている。

食べ終わってから底面に印字してあった賞味期限を見た。

なんと、期限切れであった。

賞味期限日は2017.12.15。

3カ月も過ぎていないのに美味しくいただけた。

味に弱さを感じたというのは、もしかとしたら期限切れ。

再度、買いに行かねばならなくなった。

(H30. 3. 6 SB932SH撮影)

再見、福田屋のみぶな入り赤かぶ漬け

2019年06月27日 09時36分14秒 | あれこれテイクアウト
おふくろが架けてくる電話。

その事実関係は、実際に見てみないと判断ができない。

一つは掃除機の蓋が開けることも、閉めることもできなくなったという状態。

二つ目は置いてある電話が暗くて見えない。

高さがないからどこにあるのかわからないという苦情である。

先日の金曜、土曜に止まり込んだ従妹のきみちゃんの要望は炊事場つぐ近くに調理したものを置く棚がほしい、であった。

もう四つ目は据え付けた介護用支柱型手すりポールである。

手で掴める部分を下げたらラクに立ち上がれるということもあれば、ベランダに出入りするところにも手で掴める手すりがほしい・・。

我が家にあったピアノ用の椅子に角型盆などを載せて車を走らせた。

風雨がきつくなると予報もあるが、とにかく走った。

大阪住之江に着いておふくろが住まいする住居に行く前に見ておきたいスーパーがある。

同地区にあるスーパーサンコー店にあれば嬉しい商品の有無確認である。

一目散に目指す商品棚は漬物売り場。

あった!。

久しぶりに見る福田屋が製造販売する壬生菜入りの「赤かぶスライス塩漬け」である。

お値段は税抜き価格の148円。

嬉しさがこみ上げて書意期限が翌日6日の商品を3袋も買った。

2袋は我が家で食べる。

残る1袋はおふくろ行き。

福田屋の赤かぶら漬けはとにかく美味い。

美味すぎてついつい2袋、3袋も買ってしまう。

スーパーサンコーで見るのは久しぶり。

初めて見たのは昨年の平成29年11年24日

所用に立ち寄った際に買って食べたら、なんと美味しいことか。

そのから病みつきになった。

その後は私が住まいする奈良大和郡山市にもあるとわかった。

スーパーは卸値市場ハッスル5大和郡山店。

昨年の平成29年12月30日に立ち寄った際に買った商品は北海道産の柚子かぶら。

税抜き100円で売っていた。

その後の平成30年1月26日にも売っていた柚子皮入りの「赤かぶ甘酢漬け」。

価格は税抜き100円。

あれから毎回、商品棚を覗きに行っては落胆していた。

12月末に店員さんに頼んだが商品入荷は福田屋さん次第だった。

材料の赤蕪が入手できなかったのかずっとなかったが、住之江でやっとこさ見つかった。

次回はどうなるのか、とても心配である。

ところで、住之江で再発見した福田屋の赤かぶの漬物。

なんと2日後の3月7日は地元大和郡山で。

しかも再発見した売り場は卸値市場ハッスル5大和郡山店。

符丁したというのか、それとも同期、つまりシンクロしたのかわからないが赤かぶらは柚子漬けとして商品棚にあった。

値段は税抜きの128円。

これも買いたいが、まだあるやんと声が聞こえてきそうだから、買いは次回に回した。

(H30. 3. 5 SB932SH撮影)

榛原・危機一髪の救出劇

2019年06月26日 09時31分40秒 | いどう
瀬戸際にのこった、のこった。

映像はシュールではない・・リアルそのもの・・・の崖っぷち、である。

先週の3月3日に発生した崖崩れ。

それを知らずに山登りをする車輪が脱輪。

今にも落ちそうになっている状況写真である。

ひやひやにどきどきしながらもなんとか降りて撮った。

運転手側のドアの下は崩れた崖。

今にも崩れそうな状態に、そろり、そろりと助手席に移動する。

ドアを開けて降りたときもバクバクの心臓。

ここは宇陀市榛原の萩原・小鹿野地区である。

村の行事取材に度々お世話かけている区長に電話して救援要請をする。

区長は田圃におられた村人2人に電話で声をかけて、ワイヤーロープとか「あゆみ」をがけ崩れ手前まで運んできた。

崖っぷち車の助手席に乗って道案内していた村の一人はすぐ近くの家から自前重機のユンボで出動してきた。

もってきた鋼ロープが短い。

家にある、といって取りに帰った区長さん。

そのロープを繋いで長くした。

窓ガラス辺りに養生板をかます。

コンボで持ち上げるときのきしみ音。

いつ崖崩れが再発しれやもしない現場に緊張感が走る。

何度かトライして吊り上げた車体を山陰に寄せて軟着陸。

日暮れぎりぎり時間に間に合ったセーフ感に浸る心の余裕はない。

そもそも、崖崩れ発生は昨年の台風の影響によるもの。

ちょっとやそっとの区費では賄えない工事は先の、先のずっと先になろう。

話せば長くなる経緯は記録に残しておく。

崖崩れしたこの上に不動滝があると教えてもらった小鹿野の村民。

3月末に行われる不動明王の大祭に集まった村の人たちが心経を唱える。

そう、聞いていた。

その場がどんなところであるのか、事前にある程度の地を確かめようと山を登りかけたら、赤いポールでこの先通行禁止立札があった。

この先の山道は通行してはならぬという村が立てた通行禁止の標識である。

とても狭い山道で行うハンドル切り返し。

なんどもなんども切り返してUターン。

下った先に地元の人がいた。

この先はこの先通行禁止立札があったから、不動滝には行けないから帰ります、と伝えたら、「そんなとこ、わしらが昔に砂利混ぜのコンクリート道にしているから大丈夫や」という。

「四駆の軽トラでこの前も登ってきたばかりや、大丈夫、わしが助手席に乗ったるから道案内する」と、まぁ云い出したら、ダメダメ、イヤイヤと断っても無理強いするMさん。

この年の初祈祷行事に来られていた77歳の男性。

村のことは知り尽くしているように云われる。

無理や、と断ったものの助手席に座ったMさん。

行けるとこまで、と思って走らせたものの、狭いうえに急カーブ、急坂のすごい山道。

ところどころに崩れた崖石が道にいっぱい広がって落ちている。

踏んだタイヤがパンクしないかと不安、不安の連続である。

「あそこをぐっと上ったところの急カーブを行ったところのちょっと上は若干平たん。

そこから歩いてすぐや」というので、なんとか行けそうな気配も感じるが・・。

ところが左側の崖ぎりぎりにタイヤを詰めて上がっていったが、タイヤがずるるずると回転滑り。

泥土にそこへもって落葉の杉の葉にずるずる・・・。

この状態では、4駆でない限り、無理な急坂。

そろそろとバックで下りかけた・・・・・数メートル・・・・ガクッ。

一体何が起こったんだ。

運転席側から見た右の状態。

ぞっとするような光景が眼前に迫る。

コンクリート道が大きく割れたところにある右後輪。

いわゆる脱輪であるが・・・車体はやや傾き加減。

心臓がバクバク云いだした。

いつ、この道路が、さらに陥没してもおかしくない状態にぞおぉっとする。

おそるおそる助手席のドアを開けて脱出したものの膝はガクガクに震えている。

助手席に乗っていたMさん・・・「だからもっと左に寄らんとあかんやろ」と、云われるが・・・。

そのことを承知で左いっぱいギリギリに寄せていたのに・・・。

陥没したところ。

登るときはすんなりと通り抜けていたが、バックした際に車体の重さがかかって崩れたもよう。

アップした写真だけでは不思議な感覚になる方は多いだろう。

実は、この年の正月初めに行われた初集会に区長や村民が話していた昨年秋の台風による崖崩れの件である。

村内の何カ所かに被害があったらしく、予算がついて道路改修工事が終わるまで規制をしているという件だった。

昨年秋の台風被害は奈良県内至るところで崖崩れ、道路陥没がみられた、とニュースが報じていた。

村の道路は国費が費やされるわけでなく、もちろん村費も、であろう。

物流運搬の動脈になっている幹線道路であっても工事に半年もかかっているところはザラ。

小さな村では区費で賄うこともできない実態である。

もうひとつは工事業者の取り合いもあり、予算取りも含めて優先順位は下の下の下の後回し。

それはともかく「2輪駆動はあかんかったっな」と、つぶやくMさん。

「そういいましたやん」、と何度も云ったのに、根負けしたのが悔やまれる。

心の中のつぶやきはむにゃ、むにゃ・・・。

無事に脱出できた身体。

地面に立つ足が感じる。

生きてて、ほんまによかった。

これも取材地でお世話になった神さん、仏さんの賜物、だと思っている。

さて、脱出までの工程である。

この場から車を救い出すにはどうしたらいいのだろうか。

もし、単独できたならどうしていただろうか。

まず、思い起こすのは加入している自動車保険会社への救援通報であろう。

しかし、ここへ救援者がどうして来ようか。

狭い山道に稼働する重機は入って来れようか。

連絡してからすぐにここへ来れるわけない。

事故発生時刻は午後3時40分。

到着に1時間以上。救出対応に1時間・・。

Mさんは78歳。

そこらにある木材をかまして二人がかりで持ち上げようとしても・・・無理、無理・・。

「ちょっと待ってや、うちにあるユンボで車ごと持ち上げよう」と、云いだした。

電話で応援を頼みたいが、持ってこなかったというMさん。

私の携帯には区長の番号も登録してある

なぜか、山の中なのに電波アンテナが3本線を立っていた。

これで助かると思って区長に救援要請。

しばらく待っていたら、2人の村の応援者とともにやってきた。

その場にガタガタ、ガタガタと音を立てながら登ってきた小型ユンボ。

一旦、家に戻って運転してきたMさんもそろったところで、救援活動。

車体引き上げ作戦の主力の動力は小型のユンボ。

JAFに頼んでも入っていけそうにもない山中の救助は4人とも存じている村の協力隊。

車体を揚げ、タイヤをかまして車を動かす作戦。

いずれも高齢者のみなさん、実に手慣れた動きに感服する。

鋼入りロープを車体の床下に通してユンボのフオークに引っかけたが、重みで外れる。

対応を替えてフオークにあるフックに鋼入りロープを通して揚げたらなんとかいけそうだが、短い。

3本繋ぎで長くしたロープで車体下部まで届いた。

これでそうだ、とユンボを稼働するが、車体側面が金属フックに力がかかればかかるほど車体に組込、後部窓ガラスが割れそうになる。

座布団に木材杭を挟んで固定。



ユンボで揚げたら車体が浮いたが、ロープが当たる部分の車体は傷だらけ。

傷がついてもどうだっていい。

無事に引き揚げることが一番の目標。

吊り上げた状態で車体を崖側にずらして、安全地帯に移そうとするがユンボだけでは無理がある。

その位置のままなら、ただ揚げているだけ。

位置替えの横移動は4人がかり。

先にセッテイングした崖崩れの場に長い板。

「あゆみ」と呼ぶ農耕道具の板を崩れた穴に渡して万が一の場合に備えておく。

人海戦術の4人がかりで山際になんとか移した。

タイヤさえ地面にのっかれば、エンジン始動。

助手席から乗り込んで運転席に移動。

窓の下を覗き込んだら、そこは崖崩れの状態。

体重が右に加わったとこに、さらに道が崩れる・・・そんな状態が頭に浮かぶ。

ハンドル操作が誤れば再び穴に・・・なんてことならんように。

軽バンの車体幅は1.475mm。

山道のだいたいの幅は2m弱。

崩れた穴で残る幅は1.5mくらいだろうか。

とにかくぎりぎりいっぱいのその箇所をそろそろとバックする。

前輪が動かないように車輪止めしていた岩を外して、みなの誘導でハンドルを切って穴位置すれすれにバック。

また崩れやしないだろうかな、と冷や冷や・・。

前輪も脱出できたときは、ほっとした。

さらに下ったところは若干の幅広。

村の人が乗ってきた軽トラはそこで切り返しUターン。

同じように私もUターンして脱出完。

作業すべてを終えたMさん「すまんことしてなぁ」と、いまさら言われてもなぁ。

それよりも傷はついたが軽バン車も、身体も大丈夫だったことが一番。

午後5時半に救出劇が終わった村に伝説がまたひとつ生まれたような気がする。



帰路にふと目が行ったカーナビゲーションの映像。

事故現場の印しは発生と同時に停止したようであった。

(H30. 3. 3 SB932SH撮影)

つるまる饂飩針テラス店の海鮮鮪丼ぶっかけうどんセット

2019年06月25日 10時04分54秒 | 食事が主な周辺をお散歩
三郷町勢野を出て京都の南山城村を目指す。

行事をしておれば間に合わない。

たとえそうであっても痕跡があればいい。

そう思って走らせた車のカーナビゲーションが示すコースとは別ルート選びになることもある。

西名阪国道の小倉ICから奈良市月ヶ瀬を目指したい。

その途中にあるのが山添村の北野。

そこへ行くにはトンネル越え。

ところがその入り口で通行禁止。

崖崩れでもあったのかと思いきや、そうでもない工事中に迂回ルート。

遠回りした月ケ瀬桃香野からさらに北に向かった。

探した地域は南山城村の高尾

小字三升“さんじょ”にある稲荷社の行事であるが、まったくの不在。

稲荷講の初午籠りをしているや、と思ったが、たぶんに翌日の日曜。

今年の三月初午は3月3日。

節句と重なった。

念のためと現地に来たが、稲荷講の営みである初午は、この日でなくて日曜日にしているように思える・・。

Uターンして食事処を探す。

西名阪国道までまっしぐらに進む道に食事処は見られないが、途中にある村の販売所(末広屋)だけは素通りしたくない。

少し立ち話の情報取材をしてから再出発。

そうこうしているうちに針テラスに着いた。

ここならゆったりと食事ができる。

いろんなお店はあるが、好みはうどん。

いつものお店といえば、つるまる饂飩針テラス店しか考えられない。

さて、今日のメニューはどれにしてみるか。

先月の2月11日に食べたうどんは餅入りあまから巾着肉々うどん。

とても美味しいが期間限定。

たしか2月末までだったと思う。

限定メニューは季節が入れ替わった春メニュー。

それ、なんと驚くなかれの「にんにく玉うどん」。

うどんにニンニクとは味が想像できない。

それよりももっとびっくらこいたのが価格上げである。

私の記憶では平成28年9月17日のぶっかけうどんは税抜き320円だった。

それが、なんとなんとの400円。

度肝を抜かれたのは言うまでもないが、他にも値上げがある。

生醤油うどんも卵うどんもわかめうどんも、である。

気安く食べることができなくなったつるまる饂飩のぶっかけうどんは業界最高値。

どないしたんや、と云いたくなる。

仕方なく選んだメニューは580円の海鮮鮪丼ぶっかけうどんセット。

平成28年12月26日に食べたことがある海鮮丼うどんセットはサーモンを選んだ。

今回は店外看板にあった鮪丼にした。

値段も前回と同様の380円。

セットに選んだうどんは冷たいぶっかけ。

この場合であれば200円になる。

単品売りはないから、お得のように思えるが、ちゃっちゃと食べたいときとか、小腹に入れたいときは、もう注文することのないぶっかけうどん。

よほどのお腹が空いているときにしか再訪しないだろう。

そんなことを念頭に思いつつ支払いを済ませたレジ。



6月末までならうどん注文に「鳥めし(小)」が無料でいただける。

以前も食べたことのあるつるまる饂飩の「鳥めし(小)」は異様に美味かったことを覚えている。

これを食べた日は平成28年8月1日

たしかやや多めの「中」サイズパックだと思う。

それだと190円。

「小」サイズであれば、いくらだったのだろうか・・。

思い出したのはイオンモール大和郡山店のつるまる饂飩。

平成26年1月21日であるが、そのときは120円だった。

あれから4年も経つから値上がってはいると思うが・・。

それはともかく、本日の海鮮鮪丼ぶっかけうどんセット。



添えつけの山葵袋を開いて小皿に盛る。

そこへお店にある醤油を垂らす。

じわっと溶けた山葵を丼に盛った鮪にじゅわと落とす。

箸を入れて鮪一切れにご飯を口のなかに放り込む。

これが旨いんだな。

がっつり、二口目。

三口目と箸が止まらない。

こりゃ美味いわ。

ところがなかなか丼の底が見えない。

箸で混ぜる山葵醤油。

ここに出汁醤油でもあれば食べられるんだが、先になくなったのは鮪。

生憎残った白ご飯。

丼鉢は底が深かった。

上げ底でもしてほしいと思う丼鉢。

それができなければ、次回の注文には「ご飯、半分」と伝えよう。

で、ぶっかけうどんである。

いつ食べても美味しいぶっかけは冷たいのんに限る。

麺はシコシコ。

がっしり歯が受け止めてくれる麺。

噛んでも跳ね返す。

まさにそういう感じの麺食感が嬉しいのだ。

味もサイコー。

特に生生姜を多めにするほど美味さを増す。

麺は他店舗の麺屋さんより若干細い。

そこんところがお気に入りのつるまる饂飩。

また、来たいが、400円じゃ注文しないだろうな。

不満がふつふつ。



店舗に置いてあったアンケートをもって思いを伝えさせていただく。

(H30. 3. 3 SB932SH撮影)

旧都祁村荻の村産直販売所の節句ヒシモチ

2019年06月24日 08時49分37秒 | 民俗あれこれ(売り場の民俗歳時記編)
数人の村の高齢者が寄り合って製造販売している休日販売所にときおり立ち寄る。

下荻共同製茶工場横にある休日販売所は村の販売所。

末広屋大野橋直売所が正式名称である。

主目的は他所であるが通過点にその店がある。

新鮮な野菜がいつも並んでいるからついつい買ってしまう。

この日も覗いてみたら、あった。

本日は桃の節句。

売り子のおばあさんはお家で作っていたのは8年前まで。

年寄りはもうできんようになったけど、共同で製造販売している若い人(とはいってもやはりの高齢者)が作ってくれたから販売しているという。

弱弱しい声で、1袋300円もしますんやけど・・・・・・物珍しさに買った。

ちなみに山添村桐山に住む男性が伝えてきたヒシモチとは・・・。

「菱餅は赤、白、緑の三段重ね。赤は桜海老の粉。緑は蓬。菱餅を造った残りはかき餅やアラレにした。赤は天空。白は人の世。緑は大地で神道の精神を現した物であると、言われています」だった。

初出原典はどこであろうか。

明示はしていないのでわからない。

何事も神道に繋げて語る人は少なからずおられる。

どうも気になるのでネットをぐぐってみた。

暮らしの歳時記を伝えるブログがあった。

それによれば上段から赤、白、緑。それはともに同じだ。

これをひっくり返す人はいないだろう。

ただ、意味合いはまったく違っており、「雪の下に新芽の蓬が芽吹く。そして桃の木には花が咲いている」であった。

このブログでは並べ方が、上段から白、緑、赤の順であれば「雪の中から新芽の蓬を芽吹いて、桃の花が咲いている」だった。

また、華やかさや求める黄色も加える5段、あるいは7段のヒシモチもあるようだ。

その後に発行された産経新聞の夕刊に「栫山(かこいやま)一希の季の一品」が執筆された記事にこうあった。

「雛祭りの縁起物。緑、白、紅(あか)、3色の菱餅は雪が溶けて大地に草が芽吹き、桃が咲く様子を見立てています」とあった。

執筆者の栫山(かこいやま)一希さんは、日本料理「かこみ」店主。

食に詳しい。

氏はさらに、こう書いていた。

「下の緑は芽吹く若草を表現し、身を清める“厄除け”。真ん中の白は清純・純白を表現して、“子孫繁栄”や“長寿”。上にのる紅は桃の花で“魔除け”を意味しています」とあった。

さらにのさらに「3色の餅は、心臓を見立てたひし形に切り、母と子が健やかでありますようにと願いました」とあるが、これにはまいった。

だが、ネットをぐぐってみればあるブログにも、そう書いてあった。

「三段菱餅の色」をキーにいろいろぐぐってみたが、「緑は大地で神道の精神」はとうとう見つからなかった。

三段菱餅の色のことよりも私がここへ立ち寄った目的がある。

時季は先月のことである。

前回に訪れた際にこの日お会いした高齢者とは別の高齢者が話してくれた村行事である。

それは2月に行われている涅槃講である。

この日の高齢婦人もしていた、という。

実施した日は2月のかかり。

「かかり」といえば、現在はその月の初旬。

年老いたひとほど、今でも使っている「月のかかり」は、月初め。

尤も月の朔日に限定している地域もあるようだが・・・。

売店におられた婦人はさらに話してくれた在所荻の涅槃講。

前回に訪れた際に話してくれた婦人は「かつて中学2年生以下の子どもの涅槃講があった、“ねはんこんじ 米なら一升、 銭なら百”を囃して、集落の各戸巡って、お米集めしていた。会所に涅槃図を掲げてもらって拝んでいたが、今はは掛図を掲げるだけになった」ということだった。

掛図だけでも拝見したいと思って区長の住まいを尋ねてみたが・・・。

今回、お会いした婦人は朝の早ように、何人かの子どもたちが集まって、集落20戸を巡っているという。

その行為をしているのは、おそらく下荻だけのように聞こえた。

その米集めをしている間に親は区長さんに伝えて、お寺に涅槃図を掲げてもらう。

涅槃図は萩在所の真言宗豊山派安穏寺が預かっているそうだ。

その涅槃図を一時借用して村の集会所に掲げる。

荻町は上の上流から上荻、中荻、下荻と下ってくる。

話してくださったのは下荻に住む高齢婦人。

他所でされていても、見てもいないので詳しいことはわからないが、ある程度が判明してきた。

さらに話してくれる婦人。

今ではお米集めでなく、お金集めになったという。

時間は何時になるのかあやふやであるが、上荻、中荻、下荻それぞれの子どもたちが、それぞれの地区の各戸を巡るお金集め。

すべて廻り終えたら村の集会所に集まると話したが、よく調べてみれば上荻、中荻、下荻のそれぞれに集会所がある。

どこなんだろうか。それまでに立ち寄る機会があれば尋ねてみよう。

(H30. 3. 3 SB932SH撮影)

車町蛭子神社の十日えびすの宵宮

2019年06月23日 10時03分47秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の城下町。

正月を迎えて新年を祝う元旦行事。

次いで行われる行事がえべっさんの祭り。

賑わいを見せるのは子どもも世話になった辻村医院すぐ近くにある塩町恵美須神社の十日戎

一方、塩町より南寄りにある車町にもある十日えびすを知る人は多くない。

8年ぶりに立ち寄った車町蛭子神社の十日えびすの宵宮。

久しぶりにお会いしたTさんが務める車町自治会。

正月明けてすぐに通知をされた案内によれば、6日が掃除に祭り準備。

9日は宵宮、10日が本えびすの祭典案内。

準備の日は動くようだが宵宮、本祭は固定日。

塩町恵美須神社も同じ日に祭典する両町の年中行事である。



昭和24年から37年まで発刊された『再録 週刊サンデー郡山』の記事によれば、昭和27年の塩町恵美須神社の十日戎には久しぶりに別嬪美妓が乗る宝恵駕籠が五台も出て大賑わいだったとあった。

このころの十日戎につきものの宝恵駕籠。

今や見ることはできないが、同誌によれば、別嬪美妓は花柳界との深い関係があった、と。

記事の見出しに「大賑わい塩町十日戎 宝恵籠に人の波 近村からも福貰い」。

文中に「・・中田組の協賛・・塩町青年団員が担ぐ戎さんを先頭に、選り抜きの美妓を乗せた宝恵籠5台が中川町会議長等に導かれて恵美須神社に到着。一同祝詞を奏して恭しく参拝。中川議長の“三人上戸”の寸劇をはじめ芸妓、幇間の踊りなどが行われ・・・神社を出発。同社講元の東野村宅を皮切りに、車町の戎さん(※蛭子神社)、草可博文堂、警察署、役場、地方事務所、町長宅、中田組等を・」。

午後9時まで巡行していた一行は、町内に福を撒きつつ、練り歩いていた。

また、「抽選番号付「恵比寿だより」の発行、福引券、吉兆授与等もあって近村からの参拝者もかなり・・」と、賑わいぶりを書いている。

記事は「なお、車町、薬園宮の戎さんも十日戎のお祭りを行い、多数の参拝客で賑わった」と〆ている。

車町は本日訪れた蛭子神社

薬園宮の戎さんは、郡山城築城の際に塩町から遷された現材木町に鎮座する薬園宮の戎さん。

摂社の蛭子社になるようだ。

昭和31年の十日戎も賑わいをみせたとある塩町、車町、柳町の三社である。

塩町は恵美須神社、車町は蛭子神社であるが、さて柳町に戎社はあるのだろうか。

探してみればわかった柳町の戎社は柳町200の地に鎮座する蛭子社のようだ。

この年の宝恵籠は塩町の子ども会が担ぐ宝恵籠。

2年後の昭和33年は、芸能協会協賛。

百名近い一行が「宝恵籠 ホーイホイ」の掛け声をかけて練り歩いた宝恵籠はその後に廃れたそうだ。

宝恵籠のことを知る手掛かりはポスターにあった。

8年前の平成23年1月9日に訪れた際にも見せていただいたポスター。



開催年を示す表記はないが、「郡山町役場」から推定する。

生駒郡郡山町を改称し、市制施行し大和郡山市になったのは昭和29年1月1日。

郡山町役場から大和郡山市市役所に移った年。

前述した『再録 週刊サンデー郡山』の記事内容から判断するに、このポスターは昭和27年か28年辺りであろう。

仮に昭和27年に想定したら67年前の「一月十日 郡山の十日戎」ポスターである。



なお、このポスター左下に「奈良城戸吉田印刷」の文字がある。

奈良市の東城戸町若しくは西城戸町、或いは南城戸町のいずれかにある印刷屋さんだ、と思えるが・・。

「岡町藝妓總出 寶恵籠(ほえかご)行列 正午より全町ねりあるく 當日全町商店 薬園神社境内にて芸妓總出演奉納舞いあり 一せい特價大賣出し」 主催郡山寶業會 後援郡山町役場」。

デザイン絵が宝恵籠に乗る芸妓さんの姿である。

67年前のポスター以上に車町の歴史を語るお軸がある。

昭和28年に新調された軸箱に「車町家持定之事 一軸」とある。

町内に住んでいた3人が寄贈した一軸納之。

重要なお軸だけに納箱に触れるのは避けたい。

Tさんにお願いしてお軸を拝見した。



古文書崩し文字は判読できない文字も多々ある。

お軸を翻訳したリストが柳澤文庫にあると、いうから見にいけばよいが、手元にある史料より、下記に翻刻写しを記しておく。

<車町家約定之事>
一、 大納言様 當年 郡山町中 家地子 御赦免
被成下候ニ付、家数合(あわせ)、拾六間、内
壱間ハ年寄分、一間ハ月行司、壱間ハ丁
代(町代)。〆テ三人引、残テ 拾三間。車町役承也。
則、御公儀様 箱本御帳ニ付申し候。就者
今度、御公儀様より、被為仰付候役、車町より
拾三間分 何時にテも、御用ニ立可申と
御公儀様江請合証文仕、差上置申所
実正也。然ハ車町之家持、何方へ成共、若
奉公出申者於有之ハ 車町之家兄弟
成共有之候テ、役仕候者居申候得ハ別儀
無御座候。若、左様も無之借置仕るハ 月
行司代として 壱間役ニ壱ヶ年ニ銀子 弐
拾目宛 町江取可申事。若又 しやうざい
之勝手にて 外之町江出申 車町家借家
仕置候者も右同断也。〆て二口 同断也。
家屋敷売買に付、弐拾分一 町江取可申事。
是上、年寄、町五人組頭、是家之五人組衆
振舞可申事。家買主
町江出申時、かを見せ
銀として、銀子壱枚町江取可申事。〆テ
三口ハ家売買之定也。
右の趣ハ 車町家持、相談上相定置
申候処実正也。為後日如此候。
   天正拾九年 十一月十五日
一、九間    惣九郎      一、五間    新兵衛
一、四間半   与一郎      一、六間    与九郎
一、五間半   長四郎      一、六間半   孫四郎
一、三間    源次郎      一、三間半   茂作
一、拾間半   二郎四郎     一、四間    彦九郎
一、七間    九右衛門     一、四間    久三郎
一、七間半   新五       一、五間半   弥平治
          助八
一、四間    宇兵衛      一、三間    庄五郎
二間    善九郎      一、四間    仁左衛門
一、四間半   甚九郎      一、五間    惣右衛門
一、五間半   治兵衛
車町年寄 次郎四郎  と、ある。

実は、平成23年1月9日に寄せてもらった際に、ケータイ電話で古文書を撮っていた。

『車町家約定之事』画像はやや不鮮明であったが、柳澤古文書学習会に所属していた知人のUさんに特別にお願いして翻刻してもらっていた。

約定の内容から、わかった「天正十九年(1591)十一月十五日(※豊臣秀長の養子の豊臣秀保期)」の銘が記されている車町の家約定書がある。

それより3年前の天正16年(1588)には多武峯大職冠を大和郡山に遷座した年である。

その2年後の天正十八年(1590)には郡山から再度、多武峯に遷座した経緯がある。

その1年後の八月に箱本十三町として大納言豊臣秀長(※天正15年11月30日に倒れ天正19年1月22日死去後に中納言こと秀保が城主になる)が地租を免除した」。

いわゆる箱本制度

箱本十三町・地子免除の一端を示す重要な古文書である。

翻刻してくださったUさんが、驚きの心境をメールで伝えてくださった。

「車町の家約定、有難うございます。420年も前の事を記載した文書ですよ!。“ふるさと大和郡山歴史事典”に記載されている通りの内容です。天正19年は1591年ですが、車町には家が16間あって、3間分を差し引いて、13間で役割分担いたしますとお約束いたしました・・・、とあります。また、車町の家を売買するときは1/20の課金を町内が申し受けるそうですし、町に転入する人は顔見せ代やら、振舞いで、物入りな様子です。ところで、終わりに名を連ねている人々の間数は16間どころではなく、100間ほどもあります。これって、拡大し続ける車町に住んでいた家主さん達が、後々まで、天正年間の利権を認めさせるよう、後世、何度も何度も確認の為に提出した書類の写しでしょうか?名は連ねていますが、印鑑は無いようです」と、・・・。

撮影カメラを換えたこともあり、7年の歳月を経てようやく公開することにした。

ちなみに『車町家(※本家家持16軒)約定之事』については「大和郡山城ばーずあい ―図説 城郭と城下町― 城下町百話【町 寺社地】上」が詳しいので、参照されたい。

朝早くから伺って撮らせてもらったものに先ほど準備をし終えて並べた御供がある。



古くからある社殿は檜皮葺き。

彫りものが美しい。

左右に吊るした提灯に「蛭子大神宮 宝前」の抜き文字がある。

やや下げた御簾。

まずは拝礼してから撮らせてもらう。

なんとなく御神鏡に私の姿が映っているように思える。

御宝前に2体の狛犬。

神事は午後になるが、先に供えていた数々の御供。

一番に気がつく扇状に広げた神饌の昆布。



稀に県内行事に見られる扇型の昆布。

いわゆる立て御膳は八折り。

この造りが実に難しい。

町内の人で唯一、一人しか作れない形だという。

一つは城町主水山地蔵尊に供える扇型昆布であるが、昨年の平成29年が最後になった。

また、桜井市今井谷の八講祭に供えていた立て御膳。

ここもまた、祭事の場を談山神社に移したころにやめられた。

どちらも貴重なあり方だったが、作り手の難しさもあって継承されることなく映像記録に納まってしまった。

7年前の平成23年と同じように据えた扇型の昆布が見事である。

後方に2枚のスルメイカ。

牛蒡に葉付きの大根と人参もある。

右に二段重ねの紅白鏡餅。

前列に並べた御供は蜜柑、バナナ、焼き蒲鉾、包装の昆布に林檎である。

地元城下町商店街の商店から奉られた御供。

一つは、柳町商店街にある明治時代初めが創業の鶴田昆布店。

もう一つは、矢田町通にある焼き蒲鉾を献上した山根蒲鉾店である。

かつては生鯛などの神饌ものはあったが、猫の見張りをしなくてもいいように、蒲鉾と昆布巻きにしたという。



社殿は古くからあるが、築造年代は不明。

社殿など神さんごとの古文書がないから、未だ、年代不明で通している。



社殿右下に瓦素材で作られた置き物の戎さんもある車町の蛭子大神宮。

月初めの朔日とこの日の十日戎にしか御扉を開けないから、参拝者はこの日に来られるようにお願いする。

かつて町内を巡っていた宝恵籠があるそうだ。



元K観光協会会長の時代に寄贈した宝恵籠は近くの箱本紺屋館の蔵に納めて保管したまま現存している、という。

一時は復活し、人を乗せて十日戎は盛り上がりかけたが実現はしなかった。

宝恵籠はとても重たい。

結局、担ぐ人もいなくて話は消えた。

調整、準備、供えたころに町内の人たちが参拝に来られる。

地域にとっての氏神の戎さんに初詣。



福徳円満、商売繁盛を願って参拝したら神社すぐ傍の窓口からお供物の蜜柑を添えてありがたい蛭子大神の護符をいただく。

狩衣姿の戎さん。



右手に吊り竿をもって、左手で釣り上げた大きな鯛を抱える姿である。

「大和郡山 車町鎮座」の左読み文字列の護符。

少なくとも戦前以前に作られた版木であろう。



商売繁盛のえびす像を描いた護符を受け取ったら社務所正面の受付に廻って商売繁盛の縁起物を購入される。

社務所に並べた吉兆笑福の縁起物は「箕」に詰めたものから「俵」、「熊手」、「笊飾り」、「末広飾り」に一番少額な「福笹」まで。

特大から特、大、中、小まで。

大きさによって金額に幅がある。

神事が始まるまでは一旦遠慮して再訪問した午後2時ころ。

このときも絶え間なく参拝者が来られていた。



なかでも一番大きい特大の「箕」飾りを購入されたのは、町内で営業・商いをされているセンチュリー21の西川住宅販売㈱さん。

お詣りを済ませてからの購入にお店の人たち揃って受け取る姿を撮らせてもらった。

今年も商売繁盛に・・。

さて、前年に購入した縁起物はどうされるのか。



一年間も福を授けてくれた縁起物は役目を終えて捨てる、のではなく纏めて郡山八幡神社境内で神職によってお焚き上げされるのでご安心くだされ。

神事直前もお詣りされる地区の人たち。



神社前の広地にブルーシートを敷いて、その上から赤い絨毯を敷く。

祭場はこうして設営した。

2年前から地元郡山八幡神社から子供の巫女さんが来てくれるようになった。

彼女らは氏子から募集した地元の子どもたち。

はじめた当初は数人であったが、希望者が殺到するようになって今では十数人にもおよぶ。

このは小学6年生、5年生に1年生の4人巫女。

音源はカセットテープであるが、練習に練習を重ねて神社前の広地で神楽を舞う。

これまでは午前中の神事であったが、学校が終わってからの奉納になるので時間を替えた。

3学期始業式の午後に合わせた神事にしたという。

一般参拝はぎりぎり神事がはじまるころも数人がお詣り。

途切れたところで打った太鼓。



神職の子どもたちも手伝いする太鼓打ちである。

ちなみに、施主が平成十年四月吉日に寄進した幕の染め文字が「蛭子神社新築記念」。

社務所と一体形に建てた神社のようにも見える造りである。



祓詞、祓の儀は巫女さんたちにも祓ってくださる。

祝詞奏上の次に神楽舞を奉納する。

この日はときおり強い風が吹く。

その度に捲れあがる絨毯。

四つの角に位置した母親たち。

風が吹いても煽られないように手で抑える日だった。

悪条件の天候であったが、可愛い巫女さんたちは立派に浦安の舞を奉納する。



舞が終わるころには青空が広がる状態に・・。

玉串奉奠、祭主一拝されて、太鼓打ち。

無事に終えてほっとしたことだろう。

なお、神楽舞は翌日の十日戎の日にも、同じ時間帯で奉納されるそうだ。

(H23. 1. 9 SB932SH撮影)
(H30. 1. 9 EOS40D撮影)

シュールな景観

2019年06月22日 08時54分45秒 | 民俗あれこれ
3月に入るまでに済ませておきたいことがある。

向かった先は旧五ケ谷村の米谷(まいたに)。

昨年に行われた稲荷講の初午行事の件である。

今年も同じように初午の日ではなく3月初めの日曜日。

日が迫っている上に、日暮れも迫る夕刻の時間帯。

天理市の岩屋から抜ける旧道を行けば米谷に着く。

そう思って車を走らせた福住に抜ける旧道である。

里道とも思える旧道は狭いうえに、向こうが見えないカーブゾーンの多い道。

あっと思った不思議な景観に思わず急ブレーキを踏む。



安全運転励行に警笛する黄色い小道具で、あった。

これも民俗の一つに揚げておきたい。

(H30. 2.28 SB932SH撮影)

大阪ふくちぁんらーめん南加賀屋店の黒醤油ラーメン

2019年06月21日 09時10分34秒 | 食事が主な周辺をお散歩
おふくろの用事は三つ。

一つは水道蛇口にタオル掛けの付け替え作業。

ついでにする電源コンセント替えにカレンダーの壁吊り。

もう一つは代理申請する確定申告。

もう一つがこれから始まる介護施設の通所サービス。

一日体験コースに立ち会う1時間。

午後12時半にすべてを済ませたら昼飯に移る。

近くにある美味しいラーメン屋さんは昨年の11月24日に初入店した大阪市住之江区にある大阪ふくちぁんらーめん南加賀屋店。

3カ月ぶりである。

らーめん店がある地はおふくろの介護関係でずいぶんと世話してくれた住之江区安立・敷津浦地域包括支援センターから歩いて数分の所にある。

それはともかく11月に利用したときは割引サービス券をくださったが、1カ月前に利用期限が切れた。

本日は実支払い。

そうであっても、また食べたくなるラーメンである。

かーさんはこれしか食べないと言い切る大阪とんこつ味のふくちぁんラーメン

いつも通りに醤油味を選ぶ。

麺もニンニクもフツー。

並みを選んだラーメン。

私はこれまで食べたことのないラーメンを味わいたい。

そう思って選んだラーメンは和だしの麺と銘うったあっさり黒醤油ラーメン。

それだけじゃ物足りないと云い出すかーさん。

選んだ一品は鶏のから揚げ。

5個盛り。3個盛り。たくさんは食べられないから、そこは3個。

一人1個半も食べたら食べ過ぎになるかも・・。

ラーメンができるまでの準備がある。

無料サービスのトッピング。

目玉のキムチが底をついていた。

仕方ないから他のものを選ぶ。

キムチがなければ隣にあったモヤシ。

赤っぽいからそれなりの辛さがあるだろうと小皿に盛る。

他にはいつも食べているダイコンの酢漬けもあるが、今回は紅生姜を少し足した。

注文したラーメンよりもいち早く出来上がったのは唐揚げ。



見るからに美味そうな姿。

がっつり口にしたら柔らか鶏肉。

中からジュワーと味が染み出る。

鶏肉そのものが美味しい上にカリカリ揚げ衣が旨い。

味は濃い上に塩もちょっと。

これがまた美味くなる一塩の味。

かーさんは急いで口に入れてがぶりとしたもんだから口内が火傷。

ベロベロになったわー、という。

そう、揚げたて唐揚げはとても美味しい上にアツアツなのだ。

キャベツに添えたドレッシングの味もお好み。

ラーメンが来るまでにたいらげた。

昼時間も終わりそうだと云うのにテーブル・カウンターは満席。

駐車場も満席な上に、人気の味を求めるお客さん。

近くの人たちであれば自転車利用。

街中ではこういうケースが多く見られる。

そうこうしているうちに配膳されたラーメン。

先に来たのは醤油味のある大阪とんこつ味のふくちぁんラーメン。

続けてやってきた黒醤油ラーメンである。



見た目がすっきりスープ。

和の出汁はあっさり味。

まさにその通りだった。

中央に盛っていたニンニクを出汁に溶かして再度いただくスープの味になぜかニンククを感じない。

すっきりさに負けたのか・・。

指定した麺は硬め。

出汁に絡んだ麺はずるずると音を立てて口に吸い込まれていく。

これが美味いんだな。

なんとなく中華そば風の味なんかな、と思って食べているうちに、味が徐々に濃くなる。

不思議な味である。

ただ、黒醤油と名付けたわりに黒っぽさがない。

もっと真っ黒の出汁のイメージであったが、薄め、というか透明感のある出汁であった。

見た目も味も透明感のあるラーメンは一口、二口、三口を増えるにつれて、旨さに酔いしれる。

かーさんが食べ終わった大阪とんこつ味のふくちぁんラーメン。

残っていたスープを飲んでみた。

まったくといっていいほどインパクトがない。

たよんないのである。

黒醤油ラーメンはあっさり味でありながらパンチ力もある。



もっと強めたいと思ってトッピング皿に盛っていた赤モヤシに紅生姜もラーメンにぶっかけた。

食べて見たら、これが美味いんだ。

パンチ力が増した味に箸が進む。

チャーシューはトロトロ。

枚数は少ないが、代わりではないが、シャキシャキ感を愉しむ青菜が良い。

なんとなく菊菜のように思えたが、どうなんだろうか。

次は白醤油、それとも抜群に美味かった熟成醤油肉醤油ラーメンに戻すか。

それとも奇をてらってちゃんぽんも有りかな。

(H30. 2.28 SB932SH撮影)