マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

藺生町葛神社の夏祭

2011年07月31日 08時04分23秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
九頭神社とも書かれる奈良市藺生町の葛神社。

江戸時代の調書文によれば文明四年(1472)以来の形式によって祭礼を執行されたそうだ。

六月朔日には曽我尾池の畔で「泊瀬のたけを祭」が営まれていたとされ、のちに夏祭りになったと伝えられる。

それが継承されたかどうか判らないが、毎年の7月第一日曜日の夏祭には夏神楽が行われている。

村の人が奏でる雅樂の音色とともに神事が行われる。

村の神主が執り行う祓の儀、祝詞奏上を経て玉串を奉奠される。

太鼓と三管楽器のひちりき篳篥(ひちりき)、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)で構成される樂人の話によればそれぞれ楽曲は異なるらしい。

この日は突然の雨が襲った。

幟が濡れてはならないと立てることができなかったが村の無病息災を祈る祭典だけにやめるわけにはいかない。

そして始まった夏神楽。

神職は拝殿の中央に立った。

奉られたオヒネリを手前に出されて神楽が舞われる。

手で翳して鈴を振る。

「シャン シャン シャン、シャン、シャン」に合わせて村神主は「ドン ドン ドン、ドン、ドン」と太鼓を打つ。



神職は始めに時計回りに舞う。

四方に立つ度に「シャン シャン シャン、シャン、シャン」と鈴を振る。

本殿に向かったあとは反時計回りで戻っていく。

四方へ向かって鈴を翳すのはそれぞれの方角に対して穢れを祓っているのだろうか。

一回の作法をする度にオヒネリはもう一つの器に移される。

オヒネリ一つに対して祓う夏神楽は奉られた氏子たちが健康で夏病みをしないよう祈ったのだ。

このような夏神楽は数か所に亘って都祁の村々で行われている。

小山戸の都祁山口神社、南之庄の国津神社、針の春日神社、甲岡の国津神社と友田都祁水分神社である。

室生の小原でもあるらしいが作法は判らない。

それはともかく神事を終えれば社務所で直会。

神饌のお下がりであるカマボコ、ジャコ、ノリ(海苔)をお神酒などでいただく。

カマボコの大きさに合わせて切った海苔。

その上にジャコとカモボコを乗せて巻く。

これを口にほうばる。



冬だったら火で炙る海苔はパリパリとしてもっと美味くなるのだと話す氏子たち。

それは夏でも美味しいお下がりだった。

一度、家庭で試してみたいものだ。

(H23. 7. 3 EOS40D撮影)

桐山の行事

2011年07月30日 06時42分08秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村東山地区では毎年秋に斎行される奈良県指定無形民俗行事の神事芸能がある。

桐山では氏神さんの戸隠神社でそれが行われている。

烏帽子を被った素襖姿の渡り衆は5人がウタヨミやオドリコミと呼ばれる田楽の舞を演じている。

その神社を守っているのは氏子たち。

村の神主ともされる4人のオトナ衆と呼ばれる長老と3人の総代たちが存在している。

オトナ衆のうちの一人は年預(ねんにょ)と呼ばれる人で神社で供えられる一年間のモチを作る。

秋祭りのモッソも作っている。

モッソは一年の月数を表す12本のハチマキを締める。

モッソは三つ作りそれぞれにハチマキをする。

ワラでできたハチマキは止めた個所に上へピンと跳ねているように見えることからウサギ(の耳)とも呼ばれる。

モッソはできたての蒸しゴメだけに熱いうちに形を整えなければならない。

盛り上げるように整えるのだが手を当てなければ形が崩れてしまうそうだ。

同神社では毎月の1日に集まって朔参りをされている。

そこではドウゲ(胴下)と呼ばれる接待役がつく。

その人は境内の掃除や直会の配膳など下働きをする役目で一年間のお勤めに従事する。

引退などでオトナ衆が欠員となった場合は総代の一人がその役につく。

隣村の室津では総代を勤めて75歳になればオトナ衆になる。

昨今はオトナ衆の人数が増えているようでそれも健康長寿社会となった現代の状況であろうと話される。

2月23日には朝からオンダが斎行される。

サカキの木にタネ籾を数粒入れた半紙を丸めてそれに括りつける。

また、梵字が刻印された版木で刷った奉書を作る。

公民館横に佇む観音寺のモノであったかも知れない版木だそうだ。

それは20枚余りで各戸に配られるお札である。

神社の斎行だがもともとは寺行事だったのだろう。

それは正月行事のオコナイであったかも知れない。

その観音寺では明治時代に製作された太鼓がある。

それは使っていない太鼓であって、昔は陣太鼓があったそうだ。

トン、トン、トン、ドーン、ドーンと叩く陣太鼓の音色は人寄せに使ったという。

泥棒が来たぞ、火事が発生したぞとそれぞれに叩き方は違っていた。

村に危険を知らせる合図は部外者には判らない合図だった。

そのお堂に集まってくる観音講の人たち。

鉦を叩いて般若心経を唱えるお念仏。

草刈りをしてからお堂に上がってお勤めをする人は6、7人で男性は一人だという。

毎月のお勤めだが5月だけは休む。

「その月はお茶の収穫で一番忙しい時期だけに拝んで」られへんのやと話す。

そのお堂では3月に数珠繰りがされている。

朝早くから集まってくる和田、大君、大久保の3垣内の子供たち。

「コンジン コンジン」と囃して各戸を巡る。

今ではお金集めになったが、かつてはお米集めだったそうだ。

それを終えて涅槃の掛け図を掲げた観音寺で大人と一緒に数珠繰りをする。

それから会食になるのだが場所は公民館に移る。

今では子供が好きなカレーライスになったが、昔はアズキガユに巻き寿司だった。

以前は16歳の年長の子供が要る家がヤドとなって接待をしていたが現在は公民館がヤドである。

子供の涅槃講だと思える行事は春休み中の3月末か4月初旬に行われている。

地区には徳竜寺の名称が伝わっているが所在は未だに判っていない。

子供が主役になる行事は年末にもある。

「シダトリ」と呼ばれるその行事は中学生の男の子。

12月の冬休みに入ったころの早朝、山へ行ってシダを採ってくる。

それは正月のオソナエに使われる植物で、採ってきたシダは各戸を巡って売りに行くそうだ。

正月前のこずかい稼ぎである。

また、正月明けの成人の日にはとんどが行われる。

早朝、3地区の組み頭がしきるとんどはモチを焼かずにダイダイを焼く。

それは竹を二つに割った先に挟むそうだ。

(H23. 7. 2 EOS40D撮影)

桐山のハゲッショ

2011年07月29日 07時57分19秒 | 山添村へ
半夏生と書いてハンゲショウと読む。

その日辺りは田植えが終わって稲苗が分割して苞が芽吹き甘い汁がでるからヨコバイ(ウンカ)が付く時期になる。

そんな頃ゆえ稲に居ついて食害する虫は駆除しなければならない。

それゆえ害虫は田んぼから追い払う虫送りをしていた山添村桐山。

そんな情景は昭和58年に布目ダムに沈む前のことだと話す住民たち。

当時は鉦と太鼓を叩いて先導し、田んぼの周りを練り歩いて翳した松明の火で虫を送っていた。

松明の先は杉の葉をつけていたのでよく燃えたそうだ。

着火はマッチの火だったそうだ。

松明を持つのは男たちで子供も混じっていたという。

終戦直後のことだから当時は子供だったとその記憶を話すKさん65歳。

ダムができて移転した和田地区の公民館に集まってきた地区の男性たち。

その夜はハゲッショと呼んでいる会食寄り合いの日だ。

虫送りをしなくなっても寄り合いだけはされている。

かつての虫送りでは松明を持って虫を送り終えれば戸隠神社の社務所に集まって飲食をともにしていた。

それだけになってしまったハゲッショの虫送り。

当時は家で作ったごちそうを持ってきて食べていたが手間を省くようになって今はパック詰め料理の膳だ。

仕出しの膳は大橋の商店に注文をされている。

桐山は18軒ほどだが13人も集まった。

男ばかりだというから家長の集まりでもある。

上がるやいなや静岡県にある秋葉神社から郵送されたお札を授かる。

それは火災鎮護のありがたいお札だ。

およそ30年前に地区で小屋が燃える火事が発生した。

そのことをきっかけに始まったお札配り。

氏神さんに秋葉さんの末社を祀っているから火防、火伏の神さんである本山の秋葉さんに参るようにしたそうだ。

遠いだけに毎年行くこともできないから郵送してもらっているが、来年は参拝する予定にしていると話す。

会食は区長の挨拶とオトナ衆の一人である長老の発声で乾杯をされて始まった。

今年は軍団でやってくるサルに悩まされている。

栽培したタマネギはごっそり引き抜かれた。

年々増えるいっぽうでカボチャは子ザルも抱えてねぐらへ持って帰って食べているらしい。

サルは賢い。

田んぼを荒らすのは虫でなくサルになってしまったと話しながら会食がすすんでいった。

(H23. 7. 2 EOS40D撮影)

桐山のことで

2011年07月28日 08時00分11秒 | 山添村へ
山添村の桐山はかつて切山と言われていた。

それはダム湖に沈む前のことだ。

そこには48軒の家屋があったが石屋を営む家は5、6軒もあったといい、石切り場もあったからそう呼ばれていたそうだ。

その集落村は昭和58年4月5日に協定が交わされ、翌年の9月から本格的な工事が始まって沈んだ。

足かけ24年間の工事を経てダム本体が完成し平成1年より灌水が開始された。

布目ダム湖ができるからには集落を移転しなければならない。

三日三晩も徹夜で行政と交渉されたと当時の村役員であった6年ぶりにお会いしたKさんが話す。

その集落には岩に刻まれたメオトの仏さんと呼ばれる二体の地蔵さんがあった。

また、阿弥陀さんの摩崖仏もあった。

ダム湖に沈んでしまうのでは申しわけないとその遺物は湖上に引き上げた。

その当時を再現するかのように池の中にあるという。

それを探してみたところたしかにあった鳥ヶ淵阿弥陀地蔵二尊摩崖仏。

車道の傍らにある仏たちの石は視界に入らなければうっかりと通りすぎてしまう。

集落移転の際には村の記録を撮らねばと10万円もする写真機を若者に預けて撮ったが美しくなかったという。

その記録文も残していなかったので今となっては惜しいことをしたと話す。

毎月1日は朔日参りで和田に鎮座する戸隠神社に行かれていたKさんが話すには秋祭りに祭礼されるウタヨミの渡り衆は今年から宵宮、本宮とも公民館から出発するようになるであろうという。

これまではトーヤの家だったから大きな変革を迎えた年になりそうだ。

初めてのことだからどのような様相になるか判らないがこの時点ではまだ決定されていない。

ウタヨミをされる本殿は平成27年には造宮をしなければならない。

それに合わせて5人の渡り衆の衣装も新調したいがたいそうな金額になる。

費用の工面をどうするか、難しい課題が山積みだと話す。

明日は半夏生(ハンゲショウ)の日。

それは毎年2日の日にあたり、夕方には公民館に集まってハゲッショ(ハンゲショウが訛った)の虫祈祷をされるそうだ。

青葉さんのお札を配るだけで会食がメインだそうだ。

村の行事には手作りのごちそうの膳があった。

それはいつしかパック詰め料理に替った。

膳の料理は婦人たちが作る。

それを「オデン」と訛った呼び名でいうKさんの奥さんは大塩の生まれ。

ここに嫁いできたのは昭和30年。

ハゲッショの日は一年に一度の休みの日だったという。

「2日だけは休ましてあげる」と嫁ぎ先の舅に言われた。

この日はどこかへ出かけてもいいと命令口調で言われたそうだ。

その2日のハゲッショの日にはカマボコやチクワの煮物や縁で飼っていたニワトリが産み落としたタマゴをタマゴ焼きにして作った。

その御馳走は重箱に詰めて戸隠の宮さんにもって行った。

3日はご本人の誕生日で、両日の休みはその御馳走の余りをよばれた。

作っているときのことだ。

ご飯の中にタマゴ焼きを入れた。

そのようにしなさいと黙って目で合図する姑さんの行動を話す奥さんの目に涙が溢れた。

何十年も前の優しい対応が走馬灯のように思い出され、自然と涙がほほをつたったのであろう。

実家である同村の大塩の様相も思い出された。

それは正月のことだった。

家には囲炉裏があった。

そこには火を焚いていた。

オツキサンのモチを手にとった父親が「ブトノクチ、ハミノクチ、ムカデノクチ、カノクチとせんぞ言うて「口」のあるやつは焼いてしまえとモチをちぎっては囲炉裏の火に投入してくべた。最後に残ったモチは火で焼いて食べた」と話す。

ジュウクヤサン(十九夜)の日にはニンジン、ダイコン、カマボコなど炊いてお寺(旧観音寺であろう)に参りに行った。

八柱神社の社務所に来た人にはそのごちそうを食べさしていたというが子供のころだけに今ではどうかなと話す。

そのジュウクヤサンは同じ桐山に属する大君(おおきみ)でされているそうだ。

鉄工所の婦人に聞けば判るらしい。

また大久保垣内ではヤクシサンがあるらしい。

トンネルを越えた山の上がその地区。

キナコのニギリメシを供えるそうだ。

これは中谷さんに聞けば判るらしい。

かつての行事になるかどうか判らないが一度訪ねてみたいものだ。

ご主人が話された隣村の的野では正月に寒行(かんぎょう)をしていたそうだ。

川に入って禊をしていたが20年ほど前が最後になったようだ。

(H23. 7. 1 EOS40D撮影)

馬司町の行事

2011年07月27日 06時38分25秒 | 楽しみにしておこうっと
正月を飾る注連縄に簾型のように下へ垂らす形態がある。

大和郡山の数か所で見られる注連縄だ。

馬司(まつかさ)町の杵築神社ではそれが鳥居にあったのを見たことがある。

その神社では夏に巫女による御湯があると聞いていたので訪ねてみたがそれは終わっていた。

役員たちは御湯されたお釜などを方付けている最中だった。

そんなさなかに挨拶を兼ねて同神社の行事などを教えてもらった。

馬司町には新興住宅もあるが旧村でいえば54軒。

町全体では190戸もあるのだから相当広い。

古くは星塚村と呼ばれ額田部の額安寺の東別所だったようだ。

簾型の注連縄はどうやら長老の十人衆が作られたそうだ。

その十人衆は亡くなるまで、或いは引退しない限りその勤めをするといい最長老は87歳にもなる。

毎月は神社境内の清掃奉仕をされている。

同神社の年中行事は12月第一日曜の新嘗祭、大晦日の人形大祓い、1月のお日待ち、2月第二日曜の祈年祭、6月最終日曜の御湯祭、10月第三土曜の宵宮、翌日曜の例大祭だ。

その大祭には自治会長宅より烏帽子を被り素襖着衣姿の長老十人衆のお渡りがあるそうだ。

また、地域の行事では7月に南の地蔵盆、8月で北の地蔵盆がある。

行事のなかで興味をもったのが1月だ。

それは元々1月31日だった。

いつしか15日に移った。

成人の日の祭日だった。

ハッピーマンデーになったことからそれも移動した。

移動したというのは固定日から月曜日に移ったというわけだ。

素戔嗚命と春日さん、それに善裕さんと呼ばれる三社を祀っているという杵築神社。

夕方近くにまず善裕さんへ参る。

善裕さんの墓参りだそうだ。

そして会所の2階で掛け図を掲げてお参りをする。

その後は自治会長の接待で宴を開く。

それは24時ころまで続く宴である。

一旦中断して0時ころから神社で神事が行われる。

アズキ御供を供える深夜の神事だそうだ。

その後も会所で続けられるお日待ちはかつて朝までしていたというが今は26時ぐらいでお開きにしているという。

時間は短くなったがまさにお籠りのお日待ち行為である。

同町ではかつて砂の道を敷いていく砂まきがあった。

その砂は佐保川まで採取しにいったそうだ。

来年の御湯祭は是非とも来てほしいと願われて会所を後にした。

(H23. 1. 3 EOS40D撮影)
(H23. 6.26 記)

龍田神社夏越の祓

2011年07月26日 07時56分10秒 | 斑鳩町へ
水無月と呼ばれる6月。

その末日になる晦日の30日は各地で夏越の祓が行われている。

一年を折り返す日はちょうど半年目で、その間の罪や穢れを祓って後半の半年を無病息災に願う祈りの神事。

茅で設えた茅輪くぐりがある神社もある。

斑鳩町龍田に鎮座する龍田神社ではそれは見られないが、その半年間の祓と健康を祈る人たちが人形(ひとがた)を奉納されている。

神社拝殿に置かれていた人形に家族の名前や年齢を予めに書いて折敷(おしき)に納めておく。

その際には紙片に象られた人形を手で撫でるか、息を吹きかけるのが作法だと話す。

折敷は三方の台となる「胴」の部分がない形態だ。

神饌とともにそれを奉った祭壇。

その向こうは本殿だ。

神事を斎行される宮司はただ一人。

参列される人もなく黙々と夏越の祓の儀式が執り行われた。

同神社の祓は6月と年末大晦日の大祓がある。

年末は年を越すから「年越し(としこし)」で6月は夏を越すから「夏越し(なごし)」とされている。

その夏越し祓の神事には訪れる人は少ない。

しかし年末の大祓は年を越す時間帯になるころには長い行列ができると宮司は話す。

神社前に住むKさんの話によれば、この日は水無月のモチを買ってきて夜が明けるまでに食べるという。

その風習は出身だった京都でこと。

それを嫁ぎ先の斑鳩でもされてきて、近くにある並松の商店街のお店で頼んだ和菓子の水無月のモチ買って食べていたと話す。

この年は河合町まで出かけて和菓子専門店の天平庵で買っきた水無月のモチ。

前もって聞いていた味はウイロウ(外郎)のようだと聞いていた三角形の水無月のモチ。

口にするとまさしくウイロウ(外郎)である。



それは米粉で作られたものである。

その三角形の水無月のモチは上に小豆を散らした餡が乗っている。

並松のそれはもう少し大きかったようで味はといえばさすがに天平庵となった水無月。

下部の三角ウイロウは氷を表し小豆は悪魔祓いを意味する和菓子だそうだが京都のものと同じなんだろうか。

和菓子屋さんを調べてみれば奈良 菓匠 千壽庵吉宗もあるではないか。

餅飯殿通りの優月というお店も売っていると。

なんと大和郡山の本家菊屋でも売っているらしい。

新大宮に本店を持つ大和風詠菓 萬春堂さんまでも。

奈良ではいたるところで和菓子屋さんが販売を・・・・奈良でも浸透しているのだろうか。

(H23. 6.30 EOS40D撮影)

地デジ化でにぎり長次郎

2011年07月25日 06時33分59秒 | 食事が主な周辺をお散歩
我が家の地デジ化はちゃくちゃくと進んでいる。

さあて、おふくろの家はどうなんだろう。

住んでいるのは市営住宅だ。

30年ほど前に建てられたときから共同アンテナだった。

おふくろの話によれば地デジ化が進められていて数カ月前に工事が行われたそうだ。

その工事の人がいうには「これで地デジ放送が見られますよ」と言っていた。

その言葉を聞いたおふくろは7月24日以降もテレビが見られると喜んでいた。

ほんまにそうなのか。気にかかる。

共同アンテナの工事とともに住居内のアンテナ口も替えたそうだ。

何の気もせずそれにアナログテレビをつけて見ていた。

「奇麗に映っている」と言っていた。

そうか地デジチューナーも付けてもらったんだと思える?。そんなことないでしょ。

総務省でさえ無償地デジチューナー支援は非課税所得者に限っている。

それを越えて市役所がそんなことをするわけがない。

我が家にはアナログテレビがある。

その右上には「アナログ」の表示がある。

下段には総務省のチデジ化支援のテロップが流れている。

おふくろに聞いてもそんなもんは表示していないという。

そんなことないでしょと思って電話をかけた。

同時に同じ放送を見て確認した結果は「アナログ」だった。

そう、コマーシャルのときには出ないのだ。

それを見ていたおふくろは地デジされたと思っていたのだ。

おふくろのアナログテレビは6年ほど前に買ったものだ。

今度は地デジテレビを買ってやろうと数日前に購入しておいた。

それはアメリカ製のDYNEX26V型で価格は特価の29800円。

ナチュラルな画像はとても奇麗でフルハイビジョン。

この製品に外付けデイスクが取り付けられるのなら私もほしいくらいだが、テレビを見るだけのおふくろはこれでいい。

失礼だけどおふくろは85歳を過ぎている。

ビデオもつけてやりたいが操作はできない。

それを持って大阪までやってきた。

第二阪奈道路と阪神高速を利用すれば往復で3000円もかかる。

特に急ぐこともないので地道で行くことにした。

が、それは渋滞暑さとの戦いだった。

ラクラク走っているときはそれほど感じなかったカークーラーは信号で止まるたびに暑苦しさを感じるようになった。

外環状道路の石切を過ぎたあたりから混みだした。

六万寺辺りに到着するのに信号、信号、信号・・・。

これだから大阪は嫌いになる。

息子もそうだ。

若江からは中央環状道路へ入ったが久宝寺・・長吉も最悪な状態。

これじゃ阪神高速を利用したほうが良かったと思ってもそれはもう遅い。

喜連からは長居公園通りへ。

気温は34度を超えているのだろう。

車内の3人は熱中症になってしまうのではないかと思った。

それもそのはず、当日の大阪は真夏日が連日続く初の猛暑日だったという。

市営住宅は予想通りの地デジ化されたアンテナ口だった。

取り急ぎDYNEX26V型を組み立てて接続してみた。

チャネルスキャンを始めたテレビ。

こころがどっこい画像はでない。

受信状況を確認してみれば10ぐらいだ。

後ろのパネルを見れば接続端子を間違っていた。

BS用の端子に繋げていたのだ。

それじゃあ映らない。

接続し直してみればバッチリ映像が出てきた。

リモコンの使い方をおふくろに教えたころは昼をとうに過ぎていた。

それならばと新北島店のにぎり長次郎へ出かけた。



今まではくら寿司だったくるくる寿司。

三重の実弟家族はときおり行っているらしい。

お品書きを拝見して注文したのはくるくるではなくてお昼の日替わり定食だ。

それには780円から1480円まで多彩な定食がある。

780円の「梅」でもよかったのだが、久しぶりにと奮発して「竹」を注文した。

それはにぎり7貫に細巻きが三つ。

小鉢はヒジキの和えもので茶碗蒸しまである。

さらにはうどん(赤だしまたはうどん)まで付いてくる。

夏場のうどんは冷たいのに限るだろうと3人はそれを息子は熱いのをだ。

冷やしはぶっかけだった。

小さいがアゲさんは2枚。

うどんはコシがあるし、出しも濃い目。

ショウガを入れたらもっと美味くなるのだけど・・・まぁ、なくとも美味いぶっかけうどん。

その定食にはデザートのミニケーキまであった。

にごりはどれを食べても美味い寿司なのだが、家人の口ではネタが薄べったいと不評だった。

本格的なにぎり寿司にパクツク。

これで980円とは驚きだがメニューを見て思わず120円皿の生ゲソまで注文してしまった。

これまた美味い。

コリコリ、シコシコ、歯ごたえがあって、そんじょそこらのゲソではない・・・と思う。

ちなみに「竹」と「梅」の差は茶碗蒸しとデザートがあるか、ないかだけだ。

それはともかく美味い寿司にはビールはつきもの。

帰りは息子に運転してもらって帰宅した。

帰り・・・行きしなは地道を走ってたまらんかったので阪神高速に乗ったのはいうまでもないが、費用の点で水走(みずはい)からは阪奈道路一筋で走って帰った。

(H23. 6.24 SB932SH撮影)
(H23. 6.28 SB932SH撮影)

長谷日吉神社虫の祈祷とチョウナハジメ

2011年07月24日 07時45分49秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
奈良市長谷(ながたに)町に鎮座する日吉神社の鳥居から眺めた南東の方角には山々が重なって見える。

そこは宇陀の連山などが背景に見える都祁の都介野岳(つげのだけ)。

その眺望は稜線が美しい。

同神社には明治時代に廃寺となった神宮寺の塔尾寺が存在していたそうだ。

その名残であろう神社社務所の壁には弘法大師の板額が掲げられている。

高野真言宗だそうだ。

塔の森参りを済ませた村の人たちは20数人。

氏子総代ら役員が神饌御供を整える間はその縁側に座って待っている。

そこには永年勤められる長老の六人衆もいる。

この日行われる二つ目の祭典である虫の祈祷である。

二つの祭典はもともと別の日に行われていたが、集まることが難しくなってきたことから一挙にするようにしたという。

本殿、末社、灯篭などには火を点けたローソクを灯して始まった虫の祈祷。

畑作に害を及ぼす虫を殺生することからそれを供養する意味がある。

供養といえば一般的には寺行事にあたる。

それを示す寺は村の会所に下りたそうだ。

そういうことになったためでもあるのか、弘法大師の板額にはシキビを供えて始まった。



元々あった神宮寺の行事であったとされる虫の祈祷は本殿階段下にはサカキを供えて祓えの儀、祝詞奏上などの祭典は神職によって厳かに行われた。

このあともお下がりのジャコを肴にお神酒をいただくが供えたセキハンは奉っただけである。

そしてこの年は20数年ぶりに第三場の祭典に移った。

近々には本殿の造宮が始まるという。

その大工作業を始めるにあたって工事の無事や安全を祈るチョウナハジメの儀式だ。

前庭に設えた祭壇にはチョウナ(手斧)、スミツボ(墨壺)、竹製のスミサシ(墨指)、金属製のサシガネ(指金)が並べられた。



その手前にはシートを敷いて本殿棟木となるヒノキの角材を清める儀式でもある。

サカキのヒモロギも整えられて始まった儀式は祓えの儀、神さんを呼ぶ降神の儀、再び天の昇る昇神の儀式など。

玉串奉奠には大工棟梁も捧げられる。



この儀式は大工棟梁が建てる前祝いでもあるのだろう。

材木への墨打ちは見られなかったが、めでたく式典を終えられたあとは村の集会に移った。

(H23. 6.26 EOS40D撮影)

長谷の塔の森参り

2011年07月23日 08時51分49秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市長谷(ながたに)町と天理市福住町の山中境に塔の森の史跡がある。

標高680mの国見山というからそうとう高い。

白砂川の最上流にある水源の森地でもある。

史跡はそれより下った660mに位置する。

塔の森にある県指定史跡の石塔は付近にあった塔尾寺(とうおじ)に関連する経塚的な供養塔ではないかと考えられている。

その史跡近くには長谷の稲荷神社が鎮座する。

かつてあったとされる長谷集落の稲荷講はここでお火焚きや初午祭を行っていたという。

それは十数年前のことだと・・・。

それはともかく6月の半ば辺りに長谷集落の人たちがここにお参りをされている。

一旦は村の神社に集まった人たち。

それぞれに四輪駆動の車に同乗して稲荷神社前の駐車場に向かう。

そこで下りてさらに神社を目指す階段は102段。

ここへ登るのも急坂であったがさらに登りがきつくなる。

車道が開通するまでは鬱蒼とした杉林に囲まれた下の道を歩いて行ったそうだ。

稲荷神社に神饌御供を供えて神事が始まった。

周りの木立からはコツ、コツと木を打つドラミング音が聞こえてくる。

鳴き声が聞こえなかったので鳥の種類は不明だがコゲラか、アオゲラかどうか判らない。

御供を納めた木製の台には朱印が見られる。

そこには瓢箪の形をしたものもあるが朱印の文様は牛玉宝印書に押される形と同じである。



かつてのお寺の存在を示す什物ではないだろうか。

祓の儀、祝詞奏上など賑々しく神事が執り行われたあとはお下がりのジャコをお神酒とともにいただく。

この日の祭典に「塔の森に行く」と言う村の人。

その状況は神事であったことから塔の森祭とも思えるがそういう詞は聞かれない。

塔の森へ参って村の安全を祈ることから「塔の森参り」と呼びたい。

(H23. 6.26 EOS40D撮影)

切幡の田の虫送り

2011年07月22日 07時18分43秒 | 山添村へ
田んぼを荒らす虫を松明の火で追い払っていく農耕行事に虫送りがある。

それは東山間部で今でも行われている村の行事である。

天理市では上、中、下山田、旧都祁村は針ケ別所に小倉。

宇陀市室生は無山、染田、小原、下笠間。

多くは16日で、夏至の前日かその辺りの日曜日に行われている。

山深い奥吉野地方の上北山村や十津川でもその存在が確認されている。

いずれも山間にあり、盆地平野部ではその行事は確認できていない。

その山間にある山添村切幡では今でも行われている。

仕事を終えて戻ってきた村の男性は「これから枯れた竹を伐採しに行かなきゃ」と話す。

毎年の恒例行事に欠かせない枯れた竹は事前に確保されている村人もいる。

数日前から虫送りに用いられる松明を作っているのである。

数本の竹を束ねて先端に燃えやすい枯れた枝葉を取り付ける。

もっと燃えるようにと灯油を染み込ませた人もいる。

出発する場所は極樂寺の境内だ。

お寺の扉を開けて祭壇にローソクに火を点けた念如(ねんにょ)さんがいる。

都祁白石の興善寺の檀家役員さんだ。

虫を供養するという念如さんのローロク灯しだそうだ。

お寺といえば1月7日に村の安全を祈る正月行事のオコナイで行われた牛玉宝印書が残されている。

日が暮れるころには松明を持った村人たちが集まりだした。

数人の子供も混じっているが来られたのは男性ばかりである。

この行事を勤めるのは男性と決まっているそうだ。

それはともかく本堂に登った一人の男性。「なむあみだぶつー、なむあみだぶつー」と木魚を叩いて虫の供養を唱えだした。

3年前から始めたようで覚えた般若心経のお念仏を唱えている。

村の安全も祈っているのだろう。



そして始まった虫送りは念如が虫供養をしたローソクを持って境内に下りその火を松明に移した。

一人、二人と出発した田の虫送りの行列は点々とその灯りを田んぼに映していく。

公民館辺りの辻では村の行事の光景を一目見ようとご婦人や子供たちが待ち構えてその様相を見届けている。



かつては先頭の人がホラ貝を吹いていたそうだ。

ずいぶん前にホラ貝の口が壊れてしまったことからそれは登場しなくなったそうだ。

平たい太鼓も破けてしまったから革を打ち直した。

それを軽トラックに積んで後方についていく。

ドン、ドン、ドンと松明行列の後ろから太鼓の音色が聞こえてくる。



松明は20本程度で数人の子供たちも参加している。

そうして街道を抜けて1km先の隣村の三ケ谷辺りまで虫を送っていった。

虫供養の祈祷札は見られないが、素朴な田の虫送りはトンド場で松明を燃やして終えた。



戻っていく時間帯は20時を過ぎていた。

田んぼ付近の川面にはヘイケボタルの群れが光を放っている。

念仏を唱えたご主人が真っ暗ななかで話された個人の風習。

植え初め、植え終い、クワ始めなどなど次から次へとでてくる、でてくる農耕の民俗風習。

「オツキヨウカって知っているか」には腰を抜かすほど驚いたものだ。

それは竹竿の先に紅いベニツツジと黄色い花のヤマブキを十字に括る。

それにはカゴはないそうだがまさしく天道花の様相だ。

県内では絶滅したと思っていた天道花が切幡に存在する。

ご主人はそれを「カザリ」と呼んでいる。

今でも村でそれをしているのはうちだけだという。

オツキヨウカ」は5月8日だが「カザリ」は前日の夕方ぐらいに家の門口に立てるそうだ。

その時間帯に出かける用事があればそれまでに上げるそうだ。

8日はそのままにして9日には下ろして壊すそうで毎年の記録写真を残しているという。

1月11日辺りには畑でクワを三回入れるそうで、それはクワ初めの儀式

カヤを12本挿す田植え初めや植え終いもしていると話す。

田植え後の畑仕事の食事にはホオノハのカシワメシ、それに秋の収穫後のイノコモチも作っていると話す。

(H23. 6.22 EOS40D撮影)