この年の当家は朝からモチツキをした。
祝いのモチはアンツケモチ。
シモケシの儀式もされたようだと聞いた。
15日の昼膳は柚子釜盛り、コンニャクの白和え、生湯葉、ジャガイモ饅頭、別甲餡、焼油揚げ、キノコおろし和え、貝割、食パンオランダ煮、オクラ、ニンジン、汁物、占地、ミツバ、香物、果物だった。
当家がもてなす昼の膳の料理は決まっているという峰寺の当家。
前日と同様に接待を受けた渡り衆は装束に着替えて身支度を調えた。
当家における稽古の座る位置が宵宮と違った。
宵宮では対面だったが祭りの日は横一列に並ぶのである。
ヒワヒワの一老と二老、グワシャグワシャの三老と四老、笛の五老、太鼓の六老、笛の七老、鼓の八老の順である。
この順はお渡りやジンパイ(神舞転じて神拝と呼ぶ)も替ることなく体制は崩さず披露される。
始めに登場するのは宵宮と同様にヒワヒワを演じる二老。
中央に出て正座する。
ピィ、ピィ、ピィー、ホーホヘと吹く笛の音色に合わしてトンートントン、ポンーーポンポンと打つ太鼓と鼓。
ヒワヒワを右の脇に挟んで右回りの時計回り。
右手に持った扇を左右に振る。
その間の楽奏はピィ、ピィ、ピィとトン、トン、トン、にポン、ポン、ポンと連打する鳴り物。
円の中心部を扇で煽ぐようして回る。
扇の煽ぎ方は風を起こすような「アフリ」の作法。
漢字を充てればおそらく「煽り」。
風を起こしているのである。
三周して元の位置に戻る。
三周目の際には太鼓をポンーーポンポンと強く打って舞人に知らせる。
再び正座して、ピィピィピィーホーホヘ、トンートントン、ポンーーポンポンの三音に合わせてヒワヒワを弓なりに曲げる。
宵宮の稽古もそうであったが、正座した先は神さんが坐ます方角である。
座る位置は異なっても神さんの御前に向かって奉納される豊田楽である。
豊田楽の名は『東山村神社調書(写し)』に書かれてあった名称だが今日現在はホーデンガク(奉殿楽)と称されている。
続けて四老が演じるグワシャグワシャと八老の鼓が舞われた。
こうして最後の稽古を終えた8人の渡り衆。
記念に一枚をと写真館に頼んでシャッターを切る。
当家の当主も入って撮影された。
3年に一度の三カ村の回り当家。
大正4年は95戸だった峰寺、的野、松尾の戸数はそれほどかわりない。
豊田楽人は8人。
回りは何回も担うことがある。
現にヒワヒワを勤める一老やグワシャグワシャの四老、鼓の八老は6年前の舞人もこなしていた。
年齢順であるだけに一番若い八老はこの日も鼓である。
当家はそういうわけにはいかない。
一生に一度の回りは家にとっても一大行事である。
こうして当家を出発した渡り衆は宵宮と同じ道を歩いていく。
先頭を勤めるのは一老。
宵宮のお渡りはヒワヒワであったが大御幣を持っている。
ヒワヒワはどこに所持しているのかと思えば扇と同じ場所の背なかに挿し込んでいる。
他の渡り衆もそういう恰好でお渡りをするのだ。
道中は急な坂道。
鬱蒼とした林の中を行く道は旧道。
笛や太鼓の音が山間に鳴り響く。
ひと目見ようと車を駆り出してきた村人もおられる。
神さんが通っていくように頭を下げる。
25分の行程は前日同様。
長い距離に亘って鳴り物をしてきた。
六所神社に到着すれば始めに当家の親戚筋がオーコで担ぐ八寸の重箱モチを拝殿に供える。
わずかばかりの時間を待って下げたモチは長屋の宮総代に渡される。
そんな様子を拝見している村人たち。
前日の宵宮よりも大幅に増えているが子供の顔は見られない。
前日は日曜日。
学校が休みだったから来ることができた。
その日は男の子がカメラで舞人を捉えていた。
八老の息子さんだったのである。
この日は平日で学校行き。
かつては祭りのときは半ドンだったから見ることもできたと話す村人。
いつしか教育行政もかわって見ることができるのは休日だけとなった。
相当な子供が見にきていた昔が懐かしいと話していたのは20年以上も前のこと。
こうした事例は県内各地で聞くことがある。
いつからそうなったのだろうかと話している間も祭祀は続けられる。
待っていた村人へは当屋からの心配り。
モチやお菓子が配られる。
配っていた人は行事の手伝い。
ドウゲ(堂下)と呼ぶ人たちだ。
また、祭りの後で催される抽選会のクジも渡される。
これも村行事の楽しみだと笑顔で応える当たりは嘘かまことかハワイ旅行に生活用具などなど。
自治会費用で賄われているそうだ。
舞人たちは長屋に登って「お渡りでお参りしました」と挨拶、口上を述べる。
宵宮と同様に宮方総代の歓迎を受けて宵宮と同じ5品盛りの肴とお酒の場。
酒を注いで回る。
それを終えて氏子参拝者に向けてジンパイを披露される。
そうして一旦は鳥居下で隊列を組む。
手水で清めて石段を上がる。
奉納する前には村人で次に神さんへの奉納舞となるのである。
石段を登ってきた一行は本殿左側に入った。
そこには小さな石がある。
サザレ石はと呼ばれる石は百度石とも。
そこを中心に時計回りにぐるぐる回る舞人たち。
大御幣を上下に振りながら右回りの時計回りに三周しながらジンパイをする。
そして一同は拝殿に登っていく。
宵宮と違って本殿と拝殿の間の玉砂利に菰を敷いた場で揃って横一列体制である。
笛や太鼓、鼓の吹奏に合わせて大御幣を上下に3回振る一老は本殿間下。
史料によれば本来は7回とある。
奉田楽を奏した大御幣は本殿に置いて神さんに奉納した。
ちなみに奉納された大御幣はしばらくそのままだ。
月初めに祭祀されている「さへ」で降ろされて参籠所で保管するという。
その後の一年後。
次の当家で御幣を作る際の見本にしているという。
奉納は終えたが祭典はまだ続く。
再び長屋に参進するのである。
宵宮で見られなかったヒワヒワ、グワシャグワシャ、鼓を勤める三役のジンパイ披露である。
神さんに奉納されたあとは宮方総代にもそれがなされるのだ。
こうしてすべてのジンパイの奉納を終えると渡り衆一同は並んで鳥居下辺りに立つ。
整列を見届けた一老が手にするヒワヒワと呼ばれる弓を曲げて放つ。
ぐんにゃりと曲げて放つ先は東の方角の前方の山に向けてだ。
一瞬の作法であるヒワヒワ放ちは弓を引くという。
放った先は次の当家になるというが毎年同じ方角。峰寺、的野、松尾の三カ村で毎年交替するという当家の方角とは一致しない。
史料によれば弓打ちは鳥居に向けてであった。
いつしかこのような作法に替ったのであろうか。
弓打ちを終えた一老はいち早く長屋に赴いた。
8人の渡り衆が被っていた烏帽子。
それには赤紙が取り付けられている。
それを揃えて宮方総代に手渡される。
奉納儀式を終えた証しに渡すのであるが外すことが困難であることから実際は予め用意したものを差し出している。
(H24.10.15 EOS40D撮影)