マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

切幡の田の虫送り

2014年12月31日 07時55分43秒 | 山添村へ
3年ぶりに訪れた山添村切幡の田の虫送り。

昼過ぎに住民のNさんから「今夕は田の虫送りをする」と電話があった。

訪問して欲しいという願いの電話だ。

これまで切幡では田の虫送りの他、多数の村行事を取材してきた。

正月行事の山の神、オコナイとんど弓始め

二月は初午のオイナリサン

四月は桃の節句子洗いのお大師さん参り

八月の一万度ワーイ

十月の宵宮座入り秋大祭

十二月の神還りがある。

村行事の他に僅かであるが、お家の風習も。

クワ初めナルカナランカ節分の魔除け社日のミトマツリ、田植えのウエゾメお月八日刈り仕舞いフクマルの風習も取材させていただいている。

先月に撮らせていただいた田植えの様相

写真ができあがったので始まる前に立ち寄った。

訪ねた家は隣家のH家だった。

ご主人も奥さんの顔も行事の際に拝見している。

間違って伺ったにも拘わらずアイスコーヒーをいただいた。

積もる話題は切幡の行事。

初めて訪れたのは神明神社境内で行われる一万度ワーイだ。

それなら本を買ったことがあると奥から出してこられた。

なんと、淡交社から発刊した著書の『奈良大和路の年中行事』だったのだ。

大人たちに混ざって子供が手を揚げている。

それは孫だと云う。

なんという奇遇であろうか。

厚く御礼を申して隣家に寄った。

できあがった田植えの写真をさしあげたH夫妻。

喜んでもらえたのが嬉しい。

こうした出合いはいつどこでもあるわけでない。

度々、立ち寄る切幡の人たちに感謝する次第だ。

さて、田の虫送りは極楽寺から出発する。

本堂に灯したローソクの火。

そのオヒカリを自作した松明にめいめいが火を移していく。

その様子は以前に伺ったときに撮らせてもらった。

この日は寺を出発した直後の情景を撮りたかったのだ。

待つ場は1カ月前に田植えをされた水田辺り。

稲はすくすくと育っている。

日が暮れる時間帯ともなれば婦人や小さな子供たちが集まってきた。

浴衣を着ている女児もいる。

極楽寺に仄かな明かりが点いた。

松明に火を移したのである。



下った民家の間から数本の松明火が現れた。

この日はいつ雨が降るやもしれない日。

空は曇天で夕陽は見られなかった。



先頭を行くのはⅠさんだ。

平成23年に訪れたときも先導していた。

切幡の松明は枯れた竹を束ねて杉葉をつける。

燃えやすいようにしている松明の火は大きい。

田んぼ周りを巡って田の虫を送っていく。

後方についた太鼓打ち。

ドン、ドン、ドンと太鼓を打つ音色が聞こえてくる。

かつては先頭の人がホラ貝を吹いていた。

ずいぶん前にホラ貝の口が壊れてしまったことからそれは登場しなくなった。

平たい太鼓も破けてしまい革を打ち直した。

それを軽トラックに積んで後方についていく。



松明は20本程度だが、子供たちも参加している。

クラブを終えた学童は野球のユニホーム姿だ。



いつもであれば、子供の姿はみることはないが、この日は大勢だ。

松明を持つのは男の子。

女の子は松明の行列を見送る。



神明神社下の四叉路を東に折れて車が往来する新道を練り歩く。

そうして街道を抜けて1km先の隣村の三ケ谷辺りまで行く。



松明を翳して上機嫌のNさん。

写真一枚撮ってと願われてシャッターを押す。

トンド場に着けばめいめいが一本ずつ火が点いたまま放り投げる。



積み重なった松明が炎を揚げる。

付いてきた太鼓打ちの年如さんは解散したあともこの場で松明が燃え尽きるまで見届ける。

およそ15分間の田の虫送りはこうして終えた。

川面にはヘイケボタルの群れが光を放っていた。

上空を飛ぶホタルもいるが、生息数は僅かである。

昨年は雨天で翌日に順延した切幡の田の虫送り。

帰路は20時過ぎになった西名阪国道は小雨が降ってきた。

家路に着いた21時には本降りになった。

戻った自宅周りではスズムシが鳴いていた。

(H26. 6.21 EOS40D撮影)

室生小原の田の虫送り

2014年12月30日 07時54分20秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
我が家ではキリギリスが鳴き始めたこの日。

例年通り村の人たちは松明を持ってやってきた宇陀市室生小原。

集まる場は推定300年余りのエドヒガンの枝垂れ桜で名高い極楽寺だ。

明治32年に焼失した極楽寺は、のちに再建されたが無住寺。

それまでは住職(融通念仏宗派であろう)もおられて虫送りの祈祷もされていたと聞いている。

田の虫送りが始まる前に打つ太鼓。

「ドン、ドン、ドンドドドン」の太鼓の音色は小原の里に広がる。

鉦の音も聞こえることから境内で行われる数珠繰りも始まったのであろう。

「なんまいだ」念仏の虫祈祷を終えて松明に火を点ける。

先頭を行くのは村の役員が勤める鉦叩きと太鼓打ち。

オーコに担がれた太鼓は相当な重さ。

他所では軽トラで運ぶようになったが、小原では今でもオーコ担ぎ。

肩が食い込みながらも田の虫送りに巡行する。

「キン、キン、キンキキキン」と打つ鉦の音に合わせて太鼓は「ドン、ドン、ドンドドドン」。



寺を出発した一行は南に下って東に向かう。

かつては「おーい おーい たのむしおくり おーくった」と囃しながら行列を組んでいた。

「おーい おーい」は呼びかけの「おーい」でなく、虫を「追う」である。

その田の虫送りの唄を知る人は多くない。

松明は遠目で見ても判るように大きくはならない。

枯れた竹一本がほとんどである。

稀に大きな火が燃える松明もある。

それは枯れた竹を割って束ねた手作りだが、おそらく2本だけであったろう。

村の子供たちも虫送りに参加する。

安全性を考えて竹一本の松明にしたと聞いている。

それらは燃えやすいように脂を染み込ませている。

田んぼの方に向けてではなく、上に燈す子が多い。

まるでトーチのように見える。

かつての松明は松のジンがつきものだった。

それゆえ「松明だというのだ」と話していたことを思い出す。

割木、シバなどで松明を作っていたと話していた松明は水平に抱えて田の虫を送っていた。



こうして送った松明はトンド場で燃やされる。

ポンと一回鳴ったその場は村の行事を終えて直会に移る。

いつものようにスルメとジャコでお酒をいただく。

解散後の20時過ぎともなれば笠間川のホタルが飛び交う。

(H26. 6.20 EOS40D撮影)

奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-発刊

2014年12月29日 07時23分37秒 | 民俗の掲載・著作
奈良県および大和郡山市教育委員会より委嘱された緊急調査員。

足かけ3年間に亘って県内の伝統芸能を調査してきた。

この度、刊行される運びとなった『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』は文化庁が進める民俗文化財調査に関する国庫補助事業として実施されたものだ。

分厚い調査報告書は2分冊。総頁は846頁にもおよぶ大作。

私の担当は4調査。

「大和郡山市白土町・白土の子供の念仏と大人の念仏」、「桜井市萱森・萱森の六斎念仏」、「大和郡山市田中町・田中甲斐神社の御湯焚き」、「田原本町/天理市・法貴寺郷・池神社の神楽と御湯」を執筆した。

この場を借りて、ご協力いただいた神職ならびに地元のかたがたに感謝申し上げる次第だ。

長文になるが、私の備忘録として書き残しておこう。

県文化財課担当官から調査員の打診をうけたのは平成22年1月4日だった。

31日にも再度の要請があった。

平成23年度から25年度にかけて調査される大項目は能・田楽・相撲の神事芸能に風流・太鼓踊り・念仏踊りや盆踊り、六斎念仏、神楽・獅子舞、田遊びの御田植祭におかげ踊り・万歳である。

これまで県内各地で行われている伝統行事を取材してきた。

その活動ぶりを知っている担当官は奈良女子大学の先生が私を推薦したと云うのである。

伝統行事の撮影・取材はしているものの、民俗学はこれっぽちも学習したことはない無学の私を推薦してくださったのだ。

ありがたいことである。

当時は大和郡山市の市施設に勤務していたが、同年の3月末には60歳定年となり継続雇用はされない。

フリーな身となることからありがたく承諾したのである。

正式な委嘱は未だであったが、担当官とともに調査対象となる伝統行事の絞り込みをする。

これまで取材してきた情報はエクセル表に整備している。

当時の行事取材数は900件であった。

県文化財課にはこれまで収集した民俗芸能・祭礼行事データベースがある。

今では中断或いは廃絶や記録だけというような行事もあるが、総数は980件余り。

私が所有する情報とすり合せ・照合して絞り込む。

県データベースには収録されていない行事がある。

これまでの取材で新発見した行事も付加して新たに一覧表を製作したのは平成23年の7月だった。

そのころは再就職先で週三日間の送迎ドライバーに転じていた。

情報の整備をするとともにお願いされた件も纏めなければならない。

取り急ぎ抽出した情報は菅生のおかげ踊り

画像や歌詞を整備した。

歌いを伴う行事にオンダ祭がある。

所作をする際にお田植え歌などの詞章である。

謡われる地域に野依のオンダ平尾のオンダ手向山八幡宮御前原石立命神社(千秋万歳楽)、畝火山口神社(田植え歌)、吉野水分神社小山戸山口神社(鍬入れ儀で太鼓、鉦叩きの田植え歌)、吐山下部神社の御田子(鉦叩き田植え歌)がある。

また、特徴をもつオンダ祭も抽出した。

砂かけをされる広瀬神社小泉神社

子供が田植えの所作をする新泉素盞鳴神社の一本木のオンダ

子出来オンダの六縣神社もあるが、子牛が誕生するさまを所作する葛城倭文坐天羽雷命神社(倭文神社)もある。

記録すべき民俗行事に神事相撲がある。

山添菅生十二社神社の子供泣き相撲、山添大塩のフンドシ姿刀相撲、山添切幡神明神社の当屋の相撲

奈良市倭文神社の角力、奈良市下狭川九頭神社のスモウ、奈良市柳生八坂神社のスモウ、奈良市丹生神社のスモウ、奈良市大柳生夜支布山口神社のスモウ、奈良市邑地水越神社のスモウ、奈良市阪原長尾神社のスモウ奈良豆比古神社の神事相撲、奈良市誓多林町八柱神社の刀担ぎ神事相撲

天理市上仁興四社神社のヨミヤの子供のスモウ下仁興九頭神社の子供スモウ

小泉神社境内社九頭神社の宵宮スモウ

御所市川合八幡神社のスモウ

大淀町岩壺葛上神社の子供神事相撲などだ。

同時併行の作業は神社行事だけでなく地域で行われている六斎念仏や鉦講もあれば太鼓踊りや盆踊り、獅子舞も、である。

8月ともなれば正式な緊急調査員の委嘱通知が届いた。

奈良県教育委員会経由の大和郡山市教育委員会からである。

挨拶に伺いお会いしたのは教育委員会の文化財担当者。

私が担当するのは大和郡山市内の伝統行事の悉皆調査だ。

念仏系、神楽系、神事相撲に御田植祭がある大和郡山市。

事前調査していた範囲内では45行事。

当時はまだ半分程度しか取材できていない。

一年をかけて悉皆調査の基礎調査もあれば、詳細報告をしなければならない白土町の念仏講もある。

講中組織や営みに鉦などの所有物も調べなければならない。

平成23年9月、詳細調査員への説明会が橿原考古学研究所で実施された。

ほとんどの人は存知しない著名な方ばかり。

うち、何人かは行事取材にお会いする方もおられる。

施設で学芸員を勤められている方も居る会場で自己紹介が始まった。

文化財担当官から私が発刊した著書『奈良大和路の年中行事』を紹介してくださる。

ありがたいことである。

これまで活動してきたことを述べて自己紹介をさせていただいたが、カメラマンで調査員になるのは私一人だった。

10月、県文化財課から神事芸能系の先行詳細調査計画表が各調査員に送られてきた。

直接の調査担当ではないが、一部の地域では調査補助の支援もあるし、直接調査される調査員への情報および写真の提供もしなければならない。

12月、整備された民俗芸能データベースが県文化財課から送られてきた。

神前神楽、湯立神楽、御田植祭、太鼓踊、六歳念仏、双盤念仏、念仏踊、十九夜講、風流踊、田楽系神事芸能、能・狂言、祭囃子、獅子神楽、盆踊などを網羅したデータベースである。

廃絶或いは記録のみとなる行事も入れておよそ340もある貴重な情報だ。

現在もなお実施されている行事数は170。

うち重要とされる行事数はおよそ60だ。

平成24年6月、市教育委員会小学学習課並びに県文化財課へ担当する大和郡山市の悉皆調査・基礎調査報告書を作成し提出した。

翌7月には白土町・念仏講の詳細調査報告書も作成し提出したが、重大な誤りが判明した。

大慌てで訂正した報告書は9月に再送付した。

同月20日は県文化会館で中間報告会が開催され、各調査員が出席していた。

一部先行して作成された事例をもとに報告をされる。

指摘されるのは調査委員である。

その会合が行われる数週間前。

文化財担当官から追加の調査願いがあった。

天理市海知町のシンカン祭である。

記録はビデオ収録

大慌てでオトヤ(大当屋)を探しあてて収録させていただいた。

狙いは神前神楽の御湯であるが、これは後日、さらに願われて法貴寺郷・池坐朝霧黄幡比賣神社における神楽・御湯を纏めることになった。

10月に調査した唐古八田も加えた御湯の詳細調査に発展したのである。

当初の詳細調査担当は大和郡山市白土町の念仏講だけであったが、1件増えたのである。

池坐朝霧黄幡比賣神社宮司の聞取りに基づいて法貴寺郷中における調査報告書を作成することになった。

再整備した白土町・念仏講とともに提出した法貴寺郷・神楽と御湯は新たに判明した史料を元に執筆した詳細報告書は平成25年2月に提出した。

前月には御所市でみられるトンドの在り方も調査してほしいと願われたが日程的に重なっており無理。

とうてい取材できる状況でもなく、やむなく断った。

同月に県文化財担当官からまたもや調査依頼があった。

神楽の延長線に浪速神楽がある。

その関係性を調査してほしいということだ。

気になっていたのは三輪恵比須神社で行われている八つ湯釜

この年は日程を確保できず翌年持ち越しとなった。

5月、またもや追加の詳細報告書。

今度は萱森の六斎念仏である。

執筆担当だった人は都合が悪くなったことから当方にオハチが廻ってきたのである。

萱森の六斎念仏は平成23年3月に彼岸の念仏を取材したことがある。

報告書に纏められるだけの情報は得ていた。

念仏詞章も翻刻していた。

再調査も要するが受けた。

同月に話しがあった村屋神社のオンダ祭。

調査員は知人である。

提出された報告の調査日には私も同行していた。

当地のオンダ祭は森講の行事であることを再認識した次第だ。

田原本町図書館蔵の史料も確認していたので明確になった。

新たに発見した史料もあった。

それは宮司がお田植え所作のときに謡われる籾蒔き唄だ。

検証画像を送り意見交換をした。

県内で行われている巫女神楽がある。

神社祭祀を勤める巫女ではなく里の巫女だ。

県内には三郷町の坂本家と大和郡山市の加奥家が代表的だが、同市小泉町の璒美川家もある。

所作が異なることもあって主に御湯を作法されている田中町・甲斐神社の年中行事の詳細報告もお願いされた。

詳細調査報告書は4件も執筆することになったのである。

これまでいくつかの御湯作法を取材していたので受けた。

宮司の聞取り内容など加味して執筆。

6月に送付した。

文化財担当官とさまざまなやり取りがある。

話しの展開上であがった念仏鉦の刻印。寄進された年代や鉦の製作者が新たに判ったものが増えつつあった。

データを整備して提供することになった。

鉦は主に六斎鉦と双盤鉦である。

数年前に記録していた苣原大念寺白石興善寺の鉦打方帳も整備して送付した。

さて、萱森の六斎念仏である。

田中町もそうだが地域の人が書き残した私家版史料がある。

これらの検証をしなくてはならない。

桜井市図書館蔵の史料も検証したが、寺跡の発掘調査まで調べる必要が生じた。

享受してもらいたく訪ねた元興寺文化財研究所。

突然のアポなしであったが快く応対してくださった研究部長狭川真一氏に感謝する。

こうしたウラドリに奔走した7月。

平成25年8月に訪れて萱森の六斎念仏を再確認した。

同月には桜井市で行われているオンダ祭の基礎調査報告もしてほしいと願われた。

報告は大神神社、小夫、萱森の3行事だ。

萱森のオンダはこれまでどこにも報告されていないので、できるだけ詳しく書いた。

一方、田楽系の神事芸能調査がある。

峰寺松尾的野の三カ大字で奉納される六所神社のジンパイがある。

県文化財担当官と話していた当該行事の在り方は複雑だ。

村に残されていた史料。それまで撮影記録していた「松尾の祭礼栞」が役にたった。

史料はもう一つある。

室津の奥中宮司が整備した大正4年調の『東山村神社調書(写し)』である。

これらは多いに役だった。県文化財担当官並びに執筆する知人の調査員にも送って参考にしてもらった。

8月は新たに発見した大江町の六斎念仏や里の巫女の装束も調べていた。

そのころには随時併行しながら詳細報告書の校正に入っていた。

緊急伝統芸能の詳細報告は「御田」の項で10行事。

「翁舞・田楽・相撲」の項で20行事。

「風流・盆踊り」では23行事。

「念仏芸能」は7行事。

「神楽」は6行事。

「獅子舞」が9行事に、「その他」のだんじり・練り供養は4行事。

合せて79行事もある。

報告書は総論、各論、特論も寄せられる。

各執筆担当者が挙げる詳細報告を鑑みた論である。

校正は全体構成を俯瞰しながらされたことと思う。

報告書の頁数の関係もあることから文字数も制限される。

何度も何度も繰り返す校正のやり取り。

9月ともなればようやく落ち着く。

が、しばらくすれば基礎調査報告の追加も願われた。

場合によっては詳細報告書の写真の提供もある。

奈良市北村のスモウ所作はすべてが私がかつて収録した写真である。

翌年の平成26年2月。

校正刷りができあがった。

この段階になっても大きな誤りが発覚する。

キャプションと写真が合致していなかったのだ。汗、汗である。

2月末からは所有する行事写真の依頼だ。

執筆者が撮れていなかった映像の補完する写真を埋めてほしいと云うのである。

御田系、田楽系に舞いや風流踊、獅子舞もある。その数多しである。

2月、3月は始めて出かけた地域の御田祭を取材した。

埋もれていた行事が見つかったのである。

急遽のことだが県内で行われているオンダ行事に追加することになった。

再校正刷りができあがり執筆者に最終の確認を伝えたのは3月23日だ。

同時併行する作業があった。

掲載写真の追加依頼であるが、私以上の腕を持つカメラマンがいる。

描写が奇麗な美しい写真を撮っておられる。

推薦させていただいて文化財担当官に繋いだ。

当初の予定では平成26年3月に発刊する計画であったが、再々の校正で遅れていた。

作業はまだある。表紙・裏表紙レイアウトに口絵写真の色校正もあった。

口絵写真はカラーの原版フイルムで起こす。

一部はデジタル映像になったが、発色の違いが判るだろうか。

担当した詳細報告を含めて本報告書に写真を提供した枚数は45枚にもなった。

5月末から6月にかけては取材先でお世話になった方へ発送する手配も完了した。

執筆者に届いたのは6月中旬だった。

それより10日過ぎには取材地に送り届けられた。

喜びの声も届いた『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の総頁数は裏表紙も入れて862頁。

ボリュームたっぷりの報告書であるが非売品。

県内各地の図書館へ送られて蔵書になった。

また、関係教育委員会にも送られている。

是非とも拝読していただきたいと思っている。

(H26. 6.18 SB932SH撮影)

天理上山田の田の虫送り

2014年12月28日 08時46分20秒 | 天理市へ
この年は一般を受け入れた下山田を避けて標高460mの上山田の田の虫送り行事を拝見した。

天理市山田町で行われる田の虫送りは市の無形民俗文化財に指定されている。

観光化された田の虫送りである。

市が募った観光客は団体バスでやってくる。

山田町の史跡も訪ねるツアーだ。

大勢の人たちの姿はすぐ判る。

なぜに判るかといえば背負ったザッグや肩掛けカバンなのだ。

子供なんぞはみな手袋をしている。

着衣も一般的で、なかにはネームプレートを首から下げている職員もいる。

村人であれば普段着。

一目で違いが判る松明を持つ人たちの姿。

村の在り方でない情景はカメラに納めても利用し難い。

そう思って上山田にしたのだ。

陽が暮れる前にしておきたい村人の聞き取り。

畑でノラ仕事をされていた婦人や村総代、在住の大和高原文化の会員、村の男性らに話を聞く。

上山田の村は西垣内、南垣内、上出(うえで)垣内、中垣内、東垣内(1の組・2の組)の6垣内。

村の戸数は47戸だったが、戸主が亡くなられて廃墟、村を出る家もあると云う。

今では40戸ほどになったと話す。

旦那もいない家では女性が松明を持って参加する婦人もいるようだ。

出発地は上山田の八阪神社でもなく平福寺でもない。

西の墓の下のやや広場である。

その場から下って新道が交差する三差路手前。

新道でなく旧道を下って布目川支流を渡る。

架かる橋を通って「ムカイドウ」と呼ぶ山裾の里道(りどう)に行くと聞いた。

この日のために里道に生えていた草も奇麗に刈りとったと話す。

そこから下って「カンジリバシ」と呼ぶ橋を渡って「カワギワ」と呼ぶ川堤つたいに松明の火で虫を送るというのだ。

終着地はその先。一本松から流れる川が合流する地点である。

10年ほど前は「ムカイドウ」の里道ではなく、新道の国道47号線だった。

車の往来が激しくなった新道。

虫送りをするには危険な状態になる。

そういうことで元の「ムカイドウ」に戻したと話す。

「高台から見下ろす松明の灯りが動く様子は毎年楽しみにしているんや」と話す80歳の婦人はノラ仕事をしながら話してくれた。

松明行列が出発するまではまだ時間がある。

集落内を歩いて散策する。

八阪神社隣りに平福寺が建っているが、上山田公民館として利用されているようだ。

傍らには石仏がある。

地蔵さん、行者さんに如意輪観音もあった。

もしかとすれば十九夜さんの営みがあるかもしれない。

公民館でもある平福寺の廊下には先を尖らした2本の青竹が置いてあった。

虫祈祷のお札を挟むと思われる竹である。

廊下下には数多くの松明があった。

老人会の役員さんたちが手間をかけて作った松明。

これらは一般向け観光客に持ってもらう松明である。

どうせなら松明作りから体験してもらったらどうかと思うのである。

八阪神社にあった石燈籠。

面白いことに「錫杖天王」の刻印があった。

寄進された年代は「安政五年(1858)・・九月吉日辰」である。

慶安年間(1648~)に分村したと伝わる山田の三村。

上山田には八阪神社、中山田は八幡神社、下山田は春日神社。

それぞれの村に三社が鎮座する。

元々は5軒からなる中山田だけの一村であった。

当時の村の氏神さんは一社。

その後、村民は20軒に増えた。

徐々に人口が増加していった。

その後も増え続けて村は上、下へと拡張していった。

その後に三つの大字に分かれた山田の村。

それぞれの大字に神社を祀った。

分社したという。

そのようなことで氏神さんを祀っていた元の社は跡地だけになった。

集落から道路、室生川支流を越えた南側の山の中。

今でもあるという。

下山田の虫送り出発前の様相を見届けて上山田に急行した。

時間は18時半だ。



出発地を目指して歩いていたら、3人の男性が松明を担いでやってきた。

「19時やというのにお互い早いなぁ」としばらく待っていた村の人にも聞取りをする。



村の人が持ちこむ松明はこの場で点けられるが、火を移すオヒカリはどこから持ち込むのであろうか。

その件を尋ねた結果は、これよりもっと上のほうで行うと云う。

予め蔵輪寺で授かったオヒカリの火は役員が一本の松明に火を移すと云う。

その松明は寄せた雑木に一旦、火を移してみんなが火をもらうと云うのだ。

そこへやってきたのは太鼓を乗せた軽トラだ。



下山田と同様に自然木のオーコで縛った太鼓は軽トラに乗せていた。

下山田のオーコは太鼓の胴にぴったり納まっていたが、上山田のオーコはやや隙間が見られる。

上山田では一般客を受け入れる年は当番が担ぐが、そうでない年は軽トラに乗せて後方を伴走すると云う。

さて、虫送りに欠かせない祈祷札がある。

祈祷札は、この日の午前中に中山田の蔵輪寺住職が上・中・下山田の分を纏めて祈祷されたと昨年に聞いていた。

竹に挟んだ祈祷札は先頭を行く村総代が持つ。

もう一枚はと思って探してみるが見つからなかった。



移す松明と祈祷札の前に置いてあった容器がある。



現代的なランタンである。

授かったオヒカリが風に吹かれて消えないように工夫した容器である。

中には煌々と火が灯っていたが、かつては提灯だったと話す。

出発するころともなれば子供たちもやってきた。

太鼓を打つ子供たち。

いわゆる始まり合図の呼出太鼓である。

上山田には太鼓とともに鉦も打つ。

鉦は最近になって村の人が寄進したもの。

真鍮製の金属で、できているからややカン高い音色である。

出発時間は19時であるが、当番にあたる中南垣内の太鼓打ちを勤める「大和高原文化の会」の代表が遅れていた。

太鼓打ちが来なければ出発することもできない。

しばらくすればやってきた代表は4年ぶり。

お会いした場は県立民俗博物館である。

平成22年5月23日に行われた「“大和麗し”の民俗」講演会直後の企画展「モノまんだら」会場だった。

当時職員だった鹿谷勲氏から紹介された「大和高原文化の会」だった。

話題は盛りあがって著書である『奈良大和路の年中行事』を買ってくださったのだ。

ありがたいことに来られていた代表・役員ともども4人も買ってくださったのだ。

その後はお会いする機会もなく4年も経っていた。

代表は数年前に病いを患い身体を崩されていたそうだ。

今ではなんとか散歩ぐらいはできるようになったと云う。

今年は当番を勤めることもあって久しぶりの田の虫送りに参加したと云う。

会話していたときのこと。



突然始まったオヒカリの火移し。

数分前に上のほうでオヒカリの火を松明に移されていたのだ。

シャッターチャンスを逃した。

火点け役は村総代。

雑木を組んだ処に移す。



燃え上がれば、めいめいが持ってきた松明に火を点けて出発する。

平成23年、24年とも雨天であっただけに、「今年はえー天気やから松明もよう燃えるわ」と云いながら下っていく松明の行列。



先頭は祈祷札を持つ村総代だ。

法被は誰も着用していない。

一般客を受け入れる年は法被を着用して太鼓担ぎをして打ち鳴らすと云う。

普段着姿で下っていく松明の火が夕闇の田園を照らし出す。

このころの時間帯は夕暮どきだ。

下り路は左側に寄ったり、右へ寄ったりしていくようだが、特に決まりはない。



左側はガードレールがしばらく続く。

300mぐらい下って右側の田んぼ側に移った。



傍に建つ建物は避けるような感じで行列が行く。

太鼓打ちと子供の鉦叩きは軽トラに乗せて行列の後方につく。

音色は山間に響き渡り、遠くのほうから聞こえてくる。

500mぐらい下った処では松明を持つ住民が待っていた。

おそらく中垣内や東垣内の人たちのようだ。



待っていた人たちはここで火の「ワケアイ」をする。

合流すればおよそ2倍にもなった松明の火。



道路一面に広がってさらに下っていくが、新道だけに車の往来は割合多く、虫送りに熱中して車の存在に気がつかなかったらとんでもないことになってしまう。

気になっていたのは「田の虫送りの唄」だ。

この日の聞き取りでは話題にのぼらなかった。

行列の際にも唄を囃す人もいなかった。

廃れてしまったのだろうか。

ここより新道を外れて旧道へ向かって下る。

新道を挟む三差路を渡って、周りが田んぼの旧道を行く。

ここら辺りで待ち構えていたカメラマンがいた。

山裾の里道(りどう)である「ムカイドウ」を練り歩く松明の火を撮りたかったのであろう。

行列についていくこともせず、新道から眺める。



婦人が話していた高台から見下ろす松明の灯りを眺めたかったが、より近い場に移動してシャッターを押す。

松明の行列は休むことなく先を急いでいた「ムカイドウ」の里道に灯りが点々とする。

新道にはワゴン車が何台か停まっていた。

降ろした乗客が田の虫送りの景観を見ておられた。

どうやら介護施設の患者さんのようである。



「ムカイドウ」を練り歩く松明はおよそ5分間。

長い行列だ。

松明はくるりと向きを替えて「ムカイドウ」を抜ける。

一本松からの街道を南下して布目川のほうに下りてきた。

新道手前にある「カンジリバシ(橋)」からは土手つたいに布目川を下っていく。



この場で合流した太鼓と鉦打ち。

代表はずっと打ち続けていたようだ。

川面に写りこむ松明の火が美しい。



行列の最終到達地は一本松から流れる小野味川と合流する処にある中州だ。

中州に移ることなく、土手堤より燃え盛る松明を放り込む。

バチバチと燃える音が聞こえてくる。

その場に祈祷札を立てて、稲を食い荒らす害虫を送った。

後日に確認した祈祷札の願文は「奉修 虫送り害虫駆除五穀豊饒 龍光山蔵輪寺」だった。

虫送りの祈祷札を立てる地域は寺に関係する。

天理市山田町は蔵輪寺(真言宗高野山派)、奈良市旧都祁村針ケ別所は長力寺(古義派真言宗御室派)、同都祁村小倉では観音寺(長谷寺普山派)、宇陀市室生の染田の十輪寺(日蓮宗)や室生無山の牟山寺(元真言宗豊山派→融通念仏宗)がある。

牟山寺は融通念仏宗であるがかつては真言宗豊山派だった。

染田の十輪寺は日蓮宗であるが、祈祷札は融通念仏宗派・白石興善寺の僧侶によって願文を書いていただく。

いつの時代か判らないが、宗派替えをされたと考えられる。

いずれにしてもすべてが真言宗派である。

かつては松明があったとされる奈良市旧都祁村の南之庄・歓楽寺(真言宗高野山派)では祈祷札を村の境界に立てる。

祈祷札は見られないが、山添村切幡・極楽寺では松明火による虫送りがある。

ここも今では融通念仏宗であるがかつては真言宗だった。

それぞれのお寺は真言宗でもあり、正月初めの初祈祷のオコナイ行事が今尚行われている。

かつて虫送り行事があったと聞いている奈良市旧都祁村上深川の元薬寺(古義真言宗)や下深川の帝釈寺(古義真言宗豊山派)もオコナイ行事がある。

オコナイ行事が行われている地域の寺すべてではないが、今でも田の虫送りをされている地域と合致するのである。

宗派は異なるもののいずれも真言宗派である。

虫送りは前述したように五穀豊穣を願う行事であり松明の火で追いやる虫供養でもある。

供養に理由つけをして始められたのではないだろうか。

そう思うのである。

上山田の行程は歩数にして約1500歩。

距離は1.25kmぐらいだった。

虫送りを終えて解散した村人たち。

辺りはすっかり暗闇になっていた。

婦人がノラ仕事をされていた場所に戻った。

そこでは村の人ら数人がなにやら話している。

そこではホタルがちらほら飛んでいた。

丁度20時である。

明かりぐあいからヘイケボタルのようであるが、川面や田んぼでは光っていない。

「ここだけや」と云うのだ。

そんな話しをしていた長老が思わず口にした田の虫送りの唄。

「たーのむーしおくりー- ドンドン」であった。

「鉦はカンやった」とも云う。

調べてみた音色は「カン、カン、ドンドン、カン、ドンドン」であった。

ここでもう一つの疑問が湧いた「カンジリバシ」の名。もしかとすれば「カンジリ」は「カンジョ」が訛ったのではないだろうか。

川を跨いで掛けるカンジョウナワカケの地の字名が「カンジリ」として継承されたと思うのである。

(H26. 6.16 EOS40D撮影)

天理下山田の虫送りの日

2014年12月27日 08時46分56秒 | 天理市へ
市の無形民俗文化財に指定されている天理市山田町の田の虫送り。

大字の下山田と上山田が毎年交互に一般観光客を受け入れている。

団体観光バスに乗って来るぐらいだから相当な人数になる。

虫送りの松明の火を入れて撮るカメラマンも多い。

この年の受け入れ村は下山田だ。

受付記帳を済ませて長老らにご挨拶をする。

なにかとお世話になっている大字の役員たちと立ち話。

本堂に立て掛けているのは一般観光客用の松明だ。

村の人は火点けの枯れた杉葉を括りつけているから違いがある。



境内にはとんど用の竹組も設えていた。

17時半ころともなれば村人らがやってきた。



下山田に初めて訪れたのは平成15年だ。

11年も経っているが雰囲気はまったく変わっていないように思える。

そういえば太鼓もあんばい見てなかったと思って拝見した。



特徴的な形に作られたオーコである。

自然木を細工して作ったオーコ。

太鼓がぴったり納まる形に独特の風情を感じた。

おそらく何年か前に大阪浪速区の太鼓正で張り替えた太鼓よりも古いのではないだろうか。

特殊なオーコで担ぐ太鼓。

この日に意見がでた。

軽トラで運びたいと当番が言いだしたそうだが、区長や役員は一蹴された。

村の総意が計れていない意見は受け入れることはできない。

結局のところの本番は担いでいったそうだ。

この日はNHK奈良放送局が夕方に放送する「ならナビ」の取材陣が来ていた。

本堂で中山田の蔵輪寺住職のお話しを収録していた。

前年の住職は下山田も上山田もでかけず、中山田での田の虫送りに法要をされオヒカリもあげていた。

テレビ取材の関係であるためか、この年は下山田で法要もされたようだ。

「ようだ」というのは拝見していないからだ。

急がなくてはならない上山田に急行する。

下山田の取材はここまでである。

後日の7月1日に放送されたNHK奈良放送局の「ならナビ」番組内の「古都祭時記」。

ほぼ毎週の火曜日に放映されている番組だ。

法要をされていた住職の姿や害虫駆除・供養の意味がある虫送りのことも伝えていた。

オヒカリの火を松明に移すところから行列の様相まできっちり取材されていた。

太鼓とともに打ち鳴らす平鉦があるのでは、と思っていたが放映を見る限り、下山田にはそれがなかった。

それにしても村の子どもたちは5人ぐらいであるが、参加した小学校の団体観光客もあって行列は溢れかえっていた。

これは本来の村の様相でないことを書き記しておく。

(H26. 6.16 EOS40D撮影)

一週間後の菩提山町周辺

2014年12月26日 07時19分44秒 | 自然観察会
ツチアケビとササユリのその後の様子を知りたくて再たたびやってきた正暦寺周辺。

本来の目的は「無風庵」におられるボランティアガイドのNさんを訪ねることだ。

N婦人は正暦寺の僧侶でもある。

4月に行われた薬師会式でお勤め、午後は修験者の身となりホラ貝を吹いていたと話す。

預かっていた正暦寺で行われる正月修正会の史料は行事取材に役立つ。

そう思ってお借りしていた。

史料を返却して山へ向かう道を辿る二人。

ツチアケビは見事に咲いていた。

開いていた花は3輪。

この日の15日に開花したもようである。

寺世話の人が誤って雑草刈りでもしてしまわないように咲いていたツチアケビ周りに印の棒を立てていた。



8日の観察会のときには咲いていなかったクチナシグサ。

わずかであるが咲いていた。

雑草刈りはしていなかったから助かった。



イチヤクソウも全開に咲いていた。

そこには糸を垂らしたムシがいたが、クモではないように思える。



もう少し歩けばいつもの場にもあったツチアケビ。

まだまだツボミの状態である。

水田を越えて林にあったササユリを探してみたが、見つからない。

背丈があったササユリは葉っぱも見つからない。

たぶんに盗られたのでは、と思った。



林内はヤマトテンナンショウがあちこちに見られる。

丁度、開花時期のようだ。



付近には花後のムロウテンナンショウもあった。

N婦人の話しによればムロウテンナンショウ→ヤマトテンナンショウの順で咲くと云っていた。



後ろ向きのテンナンショウはどっちだろうか。



下見の際には気がつかなかった小さなササユリ。

たぶんそうだと思うササユリには蕾もない。

復路で見つけたササユリの花は2輪。



林の中で育っていた。

前にある笹が遮っているので見つからず、盗られなかったようだ。

そっとしてほしいササユリ。

ここなら盗られることはないと思うこの場は平成23年6月13日の観察会でも拝見した処だ。

ほぼ同じ期日に咲くのであろう。



高木にあった巣穴。

コゲラかアオゲラか。

正体を待っていたが現れなかった。

(H26. 6.15 SB932SH撮影)

安価な扇風機

2014年12月25日 08時37分35秒 | ぽつりと
高級品でなくていい、近未来的な奇抜なものでなくていい。

とにかく安い扇風機であったらいい。

3台あるうちの1台が壊れてしまった古い扇風機。

風が無ければ眠れないと云うかーさんの要望にこたえた価格の扇風機がチラシに出ていた。

帰り道に立ち寄ったジョーシン郡山インター店。

昨今は大和郡山のイオンモールのジョーシンで買うことが多くなったが、店で売っているのは同じ価格。

そこまで行く必要もない途中の帰り路。

お目当ての扇風機が棚にあった。

製品はユアサプライムス株式会社。

会社案内によれば創業は寛文六年(1666)のユアサ商事が本社である。

寛文年間の屋号は「炭屋」。

徳川4代将軍の家綱時代である。

京都で開いた木炭商は江戸に出店した。

文明開化を経て釘鉄銅物を主に扱い金物・鉄鋼の御三家に数えられるまで飛躍した歴史がある会社。

そりゃ知らなんだ、である。

買った扇風機はYT-3205RR-WH。

税込みでなんと2462円であるにも拘わらず、リモコンが付いている。



静かな音に5段階レベルの風量調節。

寝苦しい夜も身体を休ませてくれる。

溜まっていたジョーシンポイントを利用して実際に払った2062円で購入した。

(H26. 6.14 SB932SH撮影)

三つの「野」講演会in大淀町文化会館

2014年12月24日 07時21分54秒 | 民俗を聴く
大淀町文化会館小ホールで講演があった。

平成26年度事業の「あらかし土曜講座-世界遺産・吉野の自然と文化-」である。

これまで「吉野に残る“海”の伝承」、「吉野-その自然と人-」、「源流から里・街へ」であった。

所用と重なり出かけることはできなかったが、これは是非とも聴講したいと思って出かけた。

講師は大淀町教育委員会の松田度氏だ。

度々、お世話になっている学芸員が話すテーマは「三つの“野”-吉野・熊野・高野を深める-」である。

4話シリーズの土曜講座の〆である。

講演が始まるまでは、これまで講話されたレジメをいただいて拝読していた。

吉野歴史資料館館長の池田淳氏のレジメにある「潮淵の潮」。

大和特有のオナンジ参りの際に持ち帰る川中の小石拾い。

その場は妹山を背に鎮座する大名持神社下に流れる淵である。

「シオブチ」と呼ばれる深い淵から湧き出る水は「口に含めばピリッとしてサイダーのようだ」と古老が話す記事だ。

その味は津風呂川の流域にも存在するらしく同じように泡が湧きでていた。

津風呂は温泉がある地。泉質は炭酸食塩水。

その話しで思い出したのが下市町の新住(あたらすみ)。

オカリヤを立てられたN家の当主が話した件だ。

氏神さんの八幡神社は山の方角だ。

鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。

水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」の名がある。

温めだからその名が付いたようだが、ぷくぷくと泡が浮いていた。

コーヒーに丁度いいまろやかな味だと話していた。

ピリッとした温泉で名高い有馬温泉。

その泉質を利用した有馬サイダーがある。

ピリッした味は潮のように感じた「シオブチ」に興味をもったとは言うまでもない。

三つの世界遺産に共通する“野”を取りあげて話す松田度氏の講演が始まった。

「世界を代表する聖地があるのは吉野山の金峯山寺である」と述べたのは管長だそうだ。

「吉野」と呼ぶのは「吉野山」であろうか。「熊野」は広々とした“野”。

高野山は広い盆地であるが「高野」はどこであるのか。

これらの疑問を解いていく。

“野”は「の」或いは「ぬ」。

「ぬ」は草深くさまざまな食物が生えている地。

クリやアワとか四季折々に草が生えているが、稲作には不向きな地である。

“野”は狩場でもある。

野を駆け巡る動物を狩る場は豊かさの象徴だと話す。

“野”はいつのまにか、“山”にすり替わって聖地になった・・・・。

“野”は一つに絞られる解答を求めることなく、意味を探っていく。

吉野山・奥駆道は世界遺産に指定された「吉野・大峯」。吉野山・大峯山信仰は平安時代からだ。

吉野町で最も古い木造を安置する世尊寺は飛鳥時代には存在していたと云う。

東塔跡がその時代を示すと云ってスライドに映し出す。

平安時代の貞観十六年(875)に京都醍醐寺を開創した聖宝が吉野山の基礎を作った。

金峯山寺の中興の祖でもある。

吉野山に鎮座する吉野水分神社も平安時代の創建。

その時代以前はさっぱり判っていないと云う。

飛鳥時代には吉野山でなく、吉野ノ宮離宮の地である宮滝であろう。

象山(さきやま)の南にそびえる山が吉野山だ。

大淀町の土田(つった)に縄文時代から弥生時代にかけて使われていたとされる土器類が発掘されている。

その後の平成14年の発掘で発見された竃がある堅穴住居や掘立柱建物、庭園などの遺構によって当時の郡役所であったことが判った。

かつて「吉野」と呼んでいたのは大淀町・吉野町の北岸の平野部。

吉野宮も吉野監(よしのげん)=(郡衙;ぐんが)が存在していた。

その地は「えー野原」から「良き野原」となり、「よしの」になったのではと話す。

「みよしのの象山・・」と万葉集に謡われた「みよしの」の地は飛鳥の宮を世話する人たちが住んでいたようだ。

「熊野」の話題提供は熊野の地に所縁のある和歌山の加太(かだ)の浦から始まる。

熊野の岬から常世に渡ったとされる少名彦命。

和歌山沿岸地に熊野の神を祭る白浜。

円月島がある地だ。

奇岩が多い景勝地は三重県尾鷲や盾ケ崎まで延々と続く。

三重県熊野市有馬町に花窟(はなのいわや)がある。

神庫神社のご神体は大きな岩のゴトビキ岩。

蛙がのそっとやってきて綱を掛けられた様相からその名がついたと云う。

「熊野」の“野”はどこであるのか。

古い史料に「クマノオオカミ」の名がある。

熊野本宮大社の祭神は「スサノオノミコト」。

神話によれば「クマノオオカミ」が「スサノオノミコト」になったそうだ。

「スサノオ」は渡来系の神さん。

神話が記すに降りたった地は「クマナリノミネ」。

いつしか「クマナリノミネ」は遷座されて出雲の国に移った。

その「クマナリ」を何度も呼ぶうちに「クマノ」になったと話す。

熊野は常世の海であり、海人たちの伝承がある。

「アマノ」と呼ぶ海人は「クマノ」に伝えた。クマノノクニツクリ(熊野国造)は奈良時代。和歌山南部に作った地が「クマノ」。

「熊野国」の成立であると話す。


世界遺産の一つに「高野山がある。

丹生・高野明神とともに栄えた真言宗のメッカ。

高野山の地の一角にある丹生都比売神社。

空海が高野山内に寺を開く都度、許可を得た神社である。

本家は和歌山かつらぎ町天野の丹生都比売神社。

分霊を何度も勧請して高野山に遷したそうだ。

かつらぎ町天野(あまの)の天野は広々とした“野”である。

三谷薬師堂の女神神像が最近発見された。女神の神像は丹生都比売神像であると云われている鎌倉時代の作。

神像は吉野川から流れ着いて高野山に行ったと云う。

「ニウ(フツヒメ)伝承がある。

「天野」の地はどこから・・・である。

仮説を話す松田講師。

それは有馬野(あまの)では・・と云う。

有間の皇子は天智天皇の皇位争いの策略に巻きこまれて和歌山海南市の藤代(ふじしろ)坂で処刑されたという説がある。

白浜温泉を「牟婁の湯」と呼んでいる和歌山の景勝地。

藤代より170kmを三日間で往復したと史料にあるらしい。

かつらぎ町天野に鎮座する丹生都比売神社は「菅川(つつがわ)の藤代峯」と推定されるそうだ。

鎮魂の地に祀った「スサノオノミコト」は高野山に連れていった。

神聖な地は「神山」。「神の峯」は「高野の峯」になったであろうと話す。

「太政官符案併遺告」より高野山の四至(しいし)を続けて話す。

四至とは東西南北の境界を示す語。

天平十二年‘740」の籍文によれば、東は丹生の川上で、南は有田川の南の長峯。西が星川の神勾(かみまがり)の谷で、北は吉野川に囲まれた地であるそうだ。

1時間半に亘って講義をされた松田節。

知ることが多く、興味深く拝聴させてもらった。

「野」のテーマを詰めるにさまざまな地を訪ねてこられた。

教わること多しの三つの「野」。

それぞれの「・・野」の文字(漢字)が初出される文献にはどんなものがあるのか。

「高野」は「こうの」でなくて、何故に「こうや」と呼ぶのか。

「聖地」と呼ばれるようになったのはいつかなど、謎は深まるばかりだ。

松田氏は「クマナリ」の語源を用いて論を展開されたが、「クマソ」はどうなのか。

また、紀伊半島を海から眺めた場合はどうであるのか、10年後に纏められると云う10年後を「待つ」ことはできない年齢に達する。

奈良県内旧村名に「・・野」のつく村がいくつかある。

「春日野」、「桃香野」、「大野」、「的野」、「北野」、「井戸野」、「鹿野園」、「深野」、「都介野」、「御経野」、「青野」、「萱野」、「勢野」、「立野」、「巻野内」、「猪木野」、「長野」、「上芳野」、「下芳野」、「平野」、「冬野」、「五条野」、「樋野」、「磯野」、「染野」、「宇野」、「上野」、「表野」、「久留野」、「西久留野」、「島野」、「牧野」、「上野地」、「内野」、「新野」、「塩野」、「栗野」、「御吉野」、「南芳野」、「殿野」、「滝野」、「老野」、「神野」、「宗川野」、「西野」、「入野」、「南大野」・・・・がある。

三つの「野」の考えた方と一致するのか、それとも物理的・地域的な違いはどこにあるのか。

現地調査に何年かかるやら・・と思った。

帰路について地元に戻ってきた。

大和中央道に咲いていた野の花を撮っておいた。



大和郡山市にある地名で“野”がつく旧村は井戸野がただ一つ。

松田氏が話したキーで答えを探るが見えてこない。

(H26. 6.14 記)

小林町の童の絵馬

2014年12月23日 08時24分53秒 | 大和郡山市へ
椎木町や西町を目指して走っていた大和中央道。

小林町の交差点を通りがかったときのことだ。

水を張った田んぼでマンガ掻きをしていた婦人がいた。

もしかとすればと思って停車すればSさんだった。

マツリで世話になった右座のMさんのお許しをいただいて車を停めて立ち話。

翌日は田植えをすると話していた。

話題は転じて小林町の古い絵馬の保存に移った。

小林町の氏神さんは杵築神社。

平成24年の10月にマツリを終えた翌年1月に造営に際して撤去の神事でお祓いをすると聞いていた。

その日は所用で訪れることはできなかった。

3月には上棟祭を斎行された。

それより数週間前には拝殿等を撤去された場で祈年祭が行われた。

遡って1月7日のことだ。

カメラのキタムラ奈良南店で出合った住民は右座のSさんだった。

Sさんはマツリで撮らせてもらった写真を持っていた。

それを持ちこんで店員さんと相談されていたのだ。

小林町に差しあげたマツリの記録写真は大量にある。

それを納める額縁を探していたというのだ。

そのときに伝えておいた絵馬の件。

建て替えるにあたって古い絵馬は捨てることなく公民館に残しておいたと話す。

ほっと撫でおろした絵馬の所在である。

杵築神社に掲げていた絵馬のなかには村の男の子たちが奉納した絵馬がある。

そのことを知ったのは平成23年12月28日のことだった。

神社に掲げる簾型の注連縄。

当日は仕事の都合で間に合わなかったが、馴染みの住民らと神社へ出かけた。

そのときに拝見した絵馬に「童頭」とか「童首」の墨書があったのだ。

その当時はお元気だった左座一老のMさんが話した絵馬のこと。

小学六年生たちが童頭(或いは童首)となって奉納された絵馬であるという。

童頭が小学校を卒業する記念に奉納された絵馬であると話していた。

三枚の絵馬に昭和6年、昭和13年、昭和23年の年代記銘が見られた。

下の方には六年生以下の子供たちの名前がたくさん記されていた。

女児の名も多くある絵馬であった。

その子らは小学五年生から一年生までだそうで、童頭を祝って名を連記していたのである。

このような在り方の絵馬は私が知る範囲では見たことも聞いたこともない。

葛城市などでは子供が誕生した際に奉納する絵馬があるが、連名でもなく単独である。

小学生が纏まって絵馬を奉納されることはない。

小林町では誕生絵馬を奉納する習慣はなかったが、旧村地域にあった貴重な民俗事例は後世に残しておきたいと思って「大切に保存してください」と伝えたのである。

S婦人の話しに戻そう。

撤去した絵馬には天保四年(1833)や安政四年(1857)もあった。

こうした絵馬は、市にお願いして近々の6月5日に鑑定士によって鑑定されると云うのである。

民俗を知らない鑑定士であれば、重要性に気がつくことはない。

その場に立会いたいと思ってお願いした。

これまで何度も小林町の行事取材をしてきた。

座の長老たちとは顔なじみである。

是非ともと逆にお願いされた。

帰宅してからS婦人から電話があった。

鑑定士はこの年の3月まで県立民俗博物館に勤務されていた鹿谷勲氏であった。

退職されてからは「奈良民俗文化研究所」を設立されて代表になっている。

指名されたのは市長である。

鹿谷勲氏は大和郡山市の文化財保護審議会委員も担っている。

指名にほっとしたのは云うまでもない。

それというのも鹿谷氏は新福寺で行われるオコナイや杵築神社のマツリにも同行されており、子供が奉納した絵馬も拝見している。

これらは前もって鹿谷氏に所在を伝え、実見もしていたのである。



定食屋で昼食を済ませて急行した小林町の旧公民館。

保管しておいた絵馬の前で座の人たちとともに聞取りをしていた。

小林町に奉納された絵馬のうち、いちばん新しいものは平成三年十月吉日だが、子供ではないようだ。

絵は天の岩戸開き神話。

アマテラスオオミカミがお隠れになった岩戸が開かれアメノウズメが鈴をもって踊っている様相である。

岩戸を開いたアメノタヂカラヲの姿もある。

描いた絵師(大和高田の松場)の名もあった。

池之内町に住む植島宮司の父親の紹介で、西田中、或いは岡町に住む人に書いてもらったと云う人もおられたが、鹿谷氏の判定では絵師は違うようだ。

かつて小林町の杵築神社の祭祀は植島宮司の父親が勤めていた。

何らかの事情があって現宮司は継ぐことはなかった。

しばらく途絶えていた宮司は筒井町の二宮宮司に頼んで来てもらったのは八条町の牧野宮司だ。

池之内町の現植島宮司は絵心がある。

兼社である小南神社には自ら描かれた絵馬を奉納されていることは存じている。

年代記銘が見られない大きな絵馬も天の岩戸開き神話である。

座中とともに拝見する絵馬の額にはたくさんのクギがあった。

時期は不明だが、どうやら額を張り替え補修されたようである。

元々あった額に年代記銘があったのであろう。

子供が奉納された絵馬は4枚ある。



いちばん古いものは槍で虎を退治する武者絵で「明治二拾一年九月拾四日 童首 2名」で男の子が20名の他数えきれないほどの女の子の名があった。

剥離があったのか、名が記された辺りは紙を充てているようだ。



二枚目は砂浜を駆ける騎馬武者を描いた絵馬。

「昭和六年拾月拾四日 童首 5名」で、額下に5名の男の子他、男女の名が連名してあった。

三枚目は縦型の絵馬。

虎が描かれていたが左半分は欠損している。

年代記銘は「昭和二十三年十月十五日 頭首 2名」。

男女十数名の名が記されている。

四枚目は乗馬ごと海に浸かって弓を射る那須与一であろう。

年代記銘は「昭和三十年十月十四日 童頭」であるが、男名が5名で、女名は1名であった。

数名は村を出たが、数名は今でもご健在だと云う。

少子化の波が被ってきたのか、その後は奉納されることはなかった。

小学六年生は12歳。

かつては15歳が元服で会った。

成人になる何歩も前の年代の男の子たちが村を巡って集めたお金で絵馬を奉納する風習はいつから始まったのかは判らない。

その年までは子供たちが大とんどを組んでいた。

神社南を出た処である。

Sさんがオヤを勤めたときである。

廃れた大とんどは何年もの期間であった。

近年になって復活したが、神社境内で行う小とんどになったと話す。

奉納した小学六年生は「ドウ」とも呼ばれていた。

「ドウガシラ(堂頭)」は「オヤ」とも呼ばれていたと話す。

オヤ家ではイロゴハンを炊いて集まった子供たちを摂待していた。

「オヤの家で食べさせてもらっていた」と話すイロゴハンの具材はアゲゴハンとも呼ぶショウユゴハンというからアゲだけであった。

器に盛られた漬けものとともに食べていたと云うその日を「ニアンサン」と呼んでいた。

二月か、三月か判らないが、村の子供からお金を集めていたそうだ。

昭和14年生まれのSさんは自らイロゴハンを炊いていたと云う。

「ニアンサン」はもしかとすれば、「ネハンサン」。

涅槃の勧めにお金集めをしていたものと思われる。

現在の小林町の涅槃さんは、2月14日に集会所に集まった尼講の営みだ。

大きな涅槃図を掲げて般若心経を一巻唱える。

そのあとは、ナンマイダを繰り返す数珠繰りである。

このようなことから「ニアンサン」こと「ねはんのすすめ」の風習が小林町にも存在していたのである。

15歳になった男の子は村が認める座入りがあると左座のHさんが話していたことを覚えている。

この日、座中が口にした「十五酒(じゅうござけ)。

数え15歳になった男の子は村の行事に参加することができる。

一人前として村が認めるのだ。「十五酒」の名がある山添村岩屋の彼岸の中日の行事がある。

15歳になった村の男の子は道造りなど、村の行事に参加することができる岩屋の決まりだ。

一人前になったことを祝う村入りは15歳で認めることから「十五酒(じゅうござけ)」と呼んでいた。

小林町と同じ考え方である。

川掘りは水利組合の仕事であるが、5月には「イワイガオリ」と呼ぶ村行事があった。

集まるのは小林町の真言宗豊山派の新福寺の本堂だった。

自前の弁当を持ちこんで食べていたと云う。

料理はカマスゴなどのご馳走だったと話す。

そう云えば「ショウジセンベイ」を食べていたと口々に話す。

長方形のセンベイにはサイの目のように焼きが入っていた。

その姿はまるで障子の桟のように見えることから名があった「ショウジセンベイ」。

落花生入りもあれば、入っていないものもあった。

筒井町の「へんこつや」で売っていたそうだ。

今でもスーパーで売っていると云うのも落花生入りのようだ。

公民館にはさまざまな道具が残されている。



押入れから取り出した古い提灯と旗。

いずれも「片桐村大字小林」の文字があった。

他にもあるがと云われるが、長時間に亘った絵馬の鑑定。

歴代の村人の名がある絵馬は後世に伝える村の伝統の証し。

できることならすべてを残しておくことが大切だと話す。

保存をしても後世の人たちが重要性に気がつかず捨ててしまうかもしれない。

改築された拝殿には何枚かを掲げておきたいが、どれにするか判断に悩まれる。

保存をするならそのままの形態ではなく、納める箱を作って、外には年号、奉納者の名などを記してはどうか。

さまざまな意見が飛び出したこの日の鑑定。

この月の末には村の総意で決めたいと話して解散した。

数時間に亘った鑑定。

ひとまずゆっくりしてと、もてなすいつもの人たち。



小泉町の富味寿司で頼んだにぎり寿司をよばれた。

旧公民館は長谷寺の所有地。新福寺本堂はおよそ370年前に建てられたという。

今にも倒壊しそうだと佐々木住職や座中も話していた。

杵築神社は造営されて新しくなった。

相応しいように本堂も建てなおすことになった。

その一環で絵馬も整理したいと云うのである。

その後、鑑定をされた鹿谷勲氏の話しによれば、修復することに決定したと云う。

村の貯金をはたいて契約した修復費用は120万円。

村の子供たちが奉納した貴重な財産を残す。

将来を見据えた結論である。

その後の9月新聞各社が取りあげた絵馬の修復。

青年の仲間入り儀礼である「童あがり」事例として紹介された。

(H26. 6.13 EOS40D撮影)
(H26. 6.13 SB932SH撮影)

池沢町うどん天国のうどん定食

2014年12月22日 07時18分38秒 | 食事が主な周辺をお散歩
送迎の仕事を終えて小林町に向かわねばならないが、昼飯はどうするかだ。

思いついたのは池沢町にある食堂である。

3年前から勤務に就いた送迎ドライバー。

患者さんが住まいする地に車を走らせる。

目についた食堂に看板があった。

お昼の日替り定食にうどん定食だ。

ここら辺りは昭和工業団地。

従業員や搬送される運転手が利用されていると聞いていた。

いつかは入ってみたいと思っていた定食屋は食事処「うどん天国」とある。

掲げた暖簾には「麺類一式・丼物一式」とある。

「うどん天国」の店であればうどん定食で決まり。

入店するやいなや注文した。

ちなみにこの日の日替り定食は豚生姜焼・コロッケ・冷奴で600円。

うどん定食は500円だ。

ワンコインで済ませたい昼食である。

店内ではお二人の男性が食べていた。

何のメニューかは存知しない。

ふと見上げれば黒板にメニューが書いてあった。

定食は650円のとんかつ、550円のきつねうどん、500円のコロッケでうどん定食も500円だ。

丼物は650円のかつ丼とミニうどん、みそ汁付きかつ丼であれば550円である。

他に500円の玉子丼とミニうどん、400円のみそ汁付き玉子丼もある。

麺類は450円の天ぷらうどん、350円のきつねうどんがある。

玉子とじうどんも同じく350円で、かけうどんなら300円だ。

お手軽メニューを拝見して次は何にしておくか早くも決めにかかった。



しばらくすれば注文したうどん定食を配膳された。

ワカメにトロロがあるうどんにおにぎりが二つ。

コウコの漬けものもある。

定食だけにおかずも盛った皿。

刻んだキャベツにコロッケだ。

うどんは昆布出汁。

透き通るような出汁である。

おにぎりはやや大き目。

一つは胡麻を振り掛けている。

中身は昆布だった。

もう一つは海苔で巻いたおにぎり。

梅干しが入っていた。

コロッケはホクホクの揚げたて。

自家製ではなくお店で買ったものを揚げているそうだ。

量が多かったうどん定食でお腹は満腹になった。

次回は同額の玉子丼とミニうどんにしてみるか。

そう思って月日が経過する。

平成27年4月に入ってからは毎週月、金曜日に通る自動車道。

患者さんの送迎である。

4月13日のことだ。シャッターが降ろされ「賃貸物件」の看板があった。

店終いになったのだ。

前週の6日は暖簾も出ていて店員さんもいた。

食べ損ねた丼はどんな味だったのだろうか。

(H26. 6.13 SB932SH撮影)